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「大きな物語」の終焉 Fin des “grands récits”(著者: 星野太)
「大きな物語」とは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924年~ 1998年)が『ポストモダンの条件(1979年)』において提唱した言葉であり、科学がみずからの依拠する規則を正当化する際に用いる「物語、語り口(Narrative)」のことを意味する。上記のような含意から、同書のなかでは、同じ意味として「メタ(=上位)物語(métarécit)」という表現が使われることもある。
リオタールによれば、従来人々は科学の正当性を担保するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。ここでいう「哲学」とは、真偽や善悪を問う際の「基礎づけ」を担う知の領域を指し示している。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。つまりポストモダンとは、この基礎づけとしての「哲学」が有効性を失った、言い換えれば「大きな物語」が終焉した時代だというのである。1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。
ならば公式の場でその最初の一歩を踏み出したのは、以下のエピソードを残した数学者ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年~1827年)だったのでは?
「異端の統計学ベイズ(The Theory That Would Not Die: How Bayes' Rule Cracked the Enigma Code, Hunted Down Russian Submarines, and Emerged Triumphant from Two Centuries of Controversy,2011年)」
教皇との和解を考えていたナポレオン皇帝は、1802年にマルメゾンにある皇后ジョセフィーヌのバラ園で開かれた園遊会で、ラプラスに神や天文学や天体を巡る有名な議論を吹っかけた。
「それで、これらすべてを作ったのは誰なのだ?」
と、ナポレオンが尋ねるとラプラスは落ち着いて天体系を構築して維持しているのは一連の自然な原因である、と答えた。
するとナポレオンは不満げに「ニュートンは著書の中で神に言及している。貴殿の著作を熟読してみたが、一度も神の名前が出ないのは何故だ?」
これに対してラプラスは重々しく答えた。
「私にはその様な仮説は必要ございませんので」
ラプラスはかなり前から(牧師でもあったベイズとは異なり)原因の確率と宗教的な考察を切り離していた。「物理科学の真の目的は、第一原因(すなわち神)の探求ではなく、それらの現象が起こる際の法則の探求である」。自然現象を科学的に説明できればそれは文明の勝利といえるが、神学論争は決して答えが出ないという点で不毛なのだ。
一方、第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)の二つの世界大戦による戦禍からの経済的復興を果たした欧州文化は、相応の矜恃を取り戻して再び歩き出す為、また別の形での「大きな物語」を必要としたのでした。
そしてこの過程に最初の重要な燭光を与えたのが以下のアルバムだった様なのです。
Kraftwerk「ヨーロッパ特急(Trans-Europe Express,1977年)」歌詞
<前奏>
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!<間奏>
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!<間奏>
Rendezvous on Champs Elysees
(フランスの)シャンゼリゼ通りで落ち合う。Leave Paris in the morning with T.E.E.
T.E.E.(ヨーロッパ特急)でパリを早朝に立つ。Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!<間奏>
In Vienna we sit in a late-night cafe
(オーストリアの首都)ウィーンのカフェに深夜座ってる。
Straight connection T.E.E.
T.E.E.(ヨーロッパ特急)直行便。
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!<間奏>
From station to station
駅から駅への乗り換えBack to Dusseldorf City
(ドイツの、そしてクラフトワークの本拠地たる)デュッセルドルフへの戻り便でMeet Iggy Pop and David Bowie
(西ベルリン在住の)イギー・ポップやデビッド・ボウイとすれ違う。Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!
Trans-Europe Express
ヨーロッパ特急!!<終奏>
表題曲「ヨーロッパ特急」では、鉄道の走行音を再現している。また歌詞に当時彼らのファンであり、会合もしたデヴィッド・ボウイとイギー・ポップの名が登場する。
「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」なるコンセプトに踏み込んだ1975年、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクイン。1976年には自らの主演映画の内容に影響を受け、長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。
- その結果、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向からのコンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション(Station to Station, 1976年)』を発表。
一方、デビュー期に「ジギー・スターダスト(Ziggy Stardust)」を演じたボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク(Thin White Duke=痩せた蒼白の公爵)」を名乗り、それを演じる様になる。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になり、インタビューではヒトラー擁護発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったとの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、危険人物とみなされる事も多かった。ツアー終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りに着手。
- 1977年~1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』『英雄夢語り』『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれる事になる。ロンドン・パンク/ニュー・ウェイヴ全盛期にあえてプロト・パンク/オールド・ウェイヴを前面に出した。
1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。
- 初ヒット曲の「スペイス・オディティ」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、カルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別。
一転してナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム「レッツ・ダンス(Let's Dance,1983年)」はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げる。
私がリアルタイムの音楽(洋楽)を本気で聴き出すのはこの時代以降となります。
「Owner of a Lonely Heart」でYESを、「Heartbeat 」でKing Crimsonを知った(David BowieとNile Rodgersは「Let's Dance」)世代にとっては「サスペリア」と「幻魔大戦」こそがプログレだった? https://t.co/Y0AgdTOLhk
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年5月7日
本当にこう言うと年上世代に「お前は本物のプログレもグラムロックも知らねぇ」ととっちめられたもんです。 https://t.co/taDLMuJJQV
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2021年5月7日
1995年にヴァージン・レコードより再リリースされたと同時に、ボーナス・トラックとしてクイーンとの共演作「アンダー・プレッシャー」が収録されている。
そう、こういう立ち位置から私はイギー・ポップはあまり意識してこなかったのです。正直、認識的には「ライブで床に割れたガラスを撒いて転げ回る人」 すなわちザ・スターリンの仲間とかそういう感じ…
1970年代中盤、イギーはしばらく疎遠になっていたデビッド・ボウイとの親交を復活させ、ボウイの『ステイション・トゥ・ステイション(Station to Station,1976年)』のレコーディング現場に顔を出すなど、改めて交流が始まった。
ボウイは薬物依存治療中だったイギーの治療施設への訪問やコラボレーションの試行など、ロサンゼルスで散発的にイギーの面倒を見ていたが、やがて自身のツアー(アイソーラー・ツアー)にイギーを同行させることを決めた。イギーは後に、このツアーに同行することでプロフェッショナルなミュージシャンとはどのように周囲と協業していくものなのかを学んだと語っている。
1976年6月、ツアーが終了すると、イギーとボウイはフランスのポントワーズにあるエルヴィル城に滞在してボウイプロデュースの下、本格的なコラボレーションを開始する。このスタジオでのレコーディングにはドラムにミシェル・サンタンゲリ、ベースに元マグマのローラン・ティボーが参加しているが、ボウイが演奏したバックトラックが多く採用されている。その後、ボウイとイギーは西ベルリンに移ってマンションで共同生活を始め、薬物依存の治療を受けつつ、コラボレーションを継続した。
イギーは当時ボウイが所属していたレコード会社RCAレコードと3枚のレコードリリース契約を結び、1977年3月コラボレーションの成果として初のソロアルバム『イディオット』をリリースした。このアルバムは商業的に成功し、その後に行なった短期間のソロツアーも成功したことでまとまった収入を得たイギーは、西ベルリンでマンションを借りて恋人のエスター・フリードマンとの同棲を開始し、ボウイとの共同生活を終了した。
1977年8月、再びボウイプロデュースの下で『キル・シティ』にも参加していたセイルズ兄弟(トニー・セイルズとハント・セイルズ)をバックバンドに採用した『ラスト・フォー・ライフ』を発表する。このアルバムはイギリスでは『イディオット』を上回るチャートアクションを見せたが、アメリカでは発売のタイミングがエルヴィス・プレスリーの死去と重なっため、エルヴィスのバックカタログを大量に保有するRCAレコードはほどんどが廃盤になっていた旧譜再発に注力することになり、『ラスト・フォー・ライフ』のプロモーションには労力を割かなくなったため、商業的に失敗した。この扱いに対してRCAレコードに不信感を持ったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアーを終えると契約を消化するためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978年4月にリリースし、そのままRCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去ったのである。
ところで…
収録曲「ショールーム・ダミー」は、日本では1980年代に三宅一生が出演したサントリー角瓶のCMで使用されたことにより、シングル・カットされた。
- 私はこの曲を聞くとどうしてもYMOのInsomnia(1979年)を思い出してしまう。でも不思議とそこには原曲が備える「匂い立つ様な欧州臭」はないという…
- Showroom Dummiesのシングルカットとビデオ製作が1982年という事はHerbie Hancock「Future Shock(1983年)」収録の「Rock it」との絡みも生じてくる。
これ何故かYoutubeなどで実物が見つからないんですね。実際に見つかるのは…
- 採用曲はAlan Persons Project「In The Lap Of The Gods(1978年)」。
- YMO「BGM(1980年)」収録のMassを連想させる。ただしここにも不思議なまでに原曲が備える「匂い立つ様な欧州臭」はないという…
シングルカットされたB面には何故かこの曲が…この辺りの選曲のセンスは「ショールーム・ダミー」をシングルカットしてしまうセンスに近いとも。
一方、三宅一生出演の角瓶CMといえばこんな曲もありました。
英国では「ロンドンパンクの視聴層」と「ニューロマの視聴層」が完全に分離していたので(これにレゲエ音楽も加え、演奏者側は意外と被ってる)意外と当時の盛り上がりが次に繋がって行かなかった感があるのですが(そもそもUltoravox自体が一発屋という認識)、日本のミュージシャンが受容した「British Beat」を代表する一曲で、かかる独特の雰囲気(Atmosphere)がJ-Rockに継承されていきます。
一方、当時は「日本の歌謡曲的受容」なる不思議ジャンルも存在。
- アレンジが完全に「泣きのギター編成とスラッピングベース」を中心にまとめられた「当時の日本歌謡曲独特のアレ」に差し替えられてしまった事により原曲が備える音楽的革新性の歌謡曲への浸透は完全にシャットアウトされてしまった。
- J-Rockは継承するArtistic(凝り性が過ぎた繊細さ)な部分が削ぎ落とされる一方で「(当時の一般的日本人が欧州文明に求める)退廃的なエロティックさ」が前面に押し出される。それはジュディ・オング「魅せられて(1979年)」段階ではまだまだ泥臭過ぎて、「愛のコリーダ(Ai No Corrida,1980年)」だと洗練されてお洒落になり過ぎた何かのとある完成型?
そういえばこの時代までのKraftworkはまだまだRomantic路線と無機質路線を往復してまして…
この「Computer Love(1981年)」あたりはまだまだこんな風な甘いアレンジを許すポテンシャルを備えてたりします。まぁYMOの「BGM(1980年)」と「Technodelic(1981年)」の日本における商業的成功以降は覚悟を決めて無機質路線に振り切る訳ですが。
その一方でYMOのErectoric POP路線が開花するのはむしろこれ以降で、しかも同時進行で歌詞内容が(当時の欧州の路線を模倣した)意味をほとんど備えないお洒落な語感重視路線から苦悩に満ちた心象風景に推移していくという…
だから不思議と当時のYMOには逆にそういう形での 時期によるブレはなかったりするんですね。
ところでこうした展開を通じて欧州文明が探し続けた「経済的復興に続く文化的復興の拠り所となる筈だった大きな物語」とは一体何だったんでしょうか? そもそもそれは見つかったのでしょうか?
1982年にボウイの「ジギー・スターダスト(Ziggy Stardust)」とブライアン・イーノの「サード・アンクル(Third Uncle)」のカップリング・カバー・シングルを発表。ニューウェーブ(ポストパンクとも)シーンにバウハウスは70年代の英国グラムロックを継承したバンドであったとも云えると想う。ゴスと云えばバウハウスは欠かせない。そのゴス帝王の先にはさらにゴッドなボウイが存在していた。
ところが映画「Labyrinth(1986年)」ではこんな有様ですだよ!!
一方Bauhaus「Bela Lugosi's Dead(1979年)」って今風にやるとこんな感じになる…
この路線はRob Zombieに継承された感があります。
そう背後から全体を貫いているのはある種の「トランス(Trans)」概念の一択…それが明らかに出来た時点で以下続報?