諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】「裁定者」ポアンカレ?

こんな話題を拾いました。

統計学に関する有名な逸話としてポアンカレとパン屋の話があります。

ポアンカレが馴染みのパン屋で、重量1000gのパンをよく買っていたそうですが、どうも重さをごまかされていると感じたポアンカレは買ったパンの重さを毎回計ることにしました。1年間データを蓄積したポアンカレは、これまで買ってきたパンの重さが平均950gの正規分布となっていることを訴えて、不正を見破ったそうです。

この様に統計学区間推定という手法を用いることで何%の確信度でパン屋が不正しているということを定量的に評価することができます。

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 この話と重なってくるんですね。

10年に渡って新たなエビデンス追加もなくダラダラと続けられてきた「フランスのモリカケ事件ドレフェス事件1894年〜1906年)に終止符を打ったのもまた「科学の勝利確率学者ポアンカレが、裁判官が全員ベルトランの教科書でベイズの法則を学んだ軍学校出身者である事を逆手に取ってベイズの法則に従って論破)」でしたが、フランスのインテリ層はこの事実を隠蔽して自分達の手柄にしてしまいます。困ったのは後世の人間。再現を試みても絶対成功しない筈です。だって全部嘘と妄想の産物なんだから。

理論家の非難と実践家の有効利用の裂け目に向かって行進したのが、政治力ある数学者ジョセフ・ルイ・フランソワ・ベルトラン率いるフランス軍だった。ベルトランは、無数の不確定要素に取り組む砲術担当の佐官級将校の為にベイズの法則を仕立て直した。砲兵隊は敵の正確な位置や空気の密度や風の方向、さらには手作りの大砲に生じる誤差や射程や方向や発射物の初速といった不確定要素と向き合わねばならなかった。ベルトランは広く用いられたその教科書の中で、ラプラスが考案した原因の確率は、新しい観測結果にに基づいて仮説を検証する際に有効な唯一の手段だと論じた。ただしラプラスの信者達は道を見失っており、事前原因の確率を見境なく半々にするのはやめるべきだ、というのがベルトランの考え方だった。そしてそれを裏付ける為に近所の岩だらけの海岸で難破が起きる原因を突き止めるのに、海の潮の流れが原因である可能性と、それよりさらに危険な北西の風が原因である可能性が等しいとしたブルターニュの愚かな田舎者の話を引き合いに出した。ベルトランに言わせれば、事前確率を等しくするのは(極めて稀なケースだが)あらゆる仮説が実際に同じ様に起きやすいか、あるいはそれらの仮説が起きる可能性について何も分かっていない場合に限るべきだった。

砲術の将校達はベルトランの厳密な基準に従って、同一の工場、同じ条件の下でほぼ同じ職人が同じ材料を使って同じ手順で鋳造した大砲に限って等しい確率を割り振る様にした。こうしてフランスやロシアの砲術将校達は1880年から第二次世界大戦までの約60年、ベルトランの教科書を頼りに大砲を撃ち続けたのだった。

ドレフェス事件とベイズ推定

ベルトランによるベイズの法則の厳密化は、一八九四年から一九〇六年にかけてフランスを揺るがしたスキャンダル、ドレフュス事件にも影響を及ぼした。ユダヤ系フランス人で軍の将校だったアルフレッド・ドレフュスは、ドイツのスパイであるという不当な嫌疑により終身刑の判決を受けた。ドレフュスに不利な証拠はただひとつ、本人がドイツの大使館づき武官に送って金を得たとされる一通の手紙だけだった。警察に所属する犯罪学者で身体測定に基づく本人確認システムを発明していたアルフォンス・ベルティヨンは、確率の数学によると有罪の証拠とされる手紙をドレフュスが書いた可能性がもっとも高い、と繰り返し証言した。ベルティヨンがいう確率は数学的なたわごとでしかなく、その論旨も珍妙きわまりなかった。保守的な反共和派やローマ・カソリック教会や反ユダヤ主義者たちがドレフュスの有罪判決を支持するなか、ドレフュスの一族や教権に反対する人々やユダヤ人や左翼政治家や知識人によって、小説家エミール・ゾラをリーダーとするドレフュスの身の証しを立てるための運動が組織された。

ドレフュスの弁護士は1899年に開かれた軍事裁判に、フランスのもっとも有名な数学者で物理学者のアンリ・ポアンカレを招聘した。ポアンカレは10年以上にわたってソルボンヌ大学で確率を教えており、頻度に基づく統計を信じていた。ところがベルティヨンが証拠とする文書がドレフュスの手になるものなのかと問われたポアンカレは、ベイズの法則を持ち出した。法廷が新たな証拠に基づいてそれまでの仮説を更新したいのなら、この手法こそが良識ある方法であって、このような文書のねつ造に関する問題は、ベイズの法則に基づく仮説検定の典型的問題だというのである。ポアンカレはドレフュスの弁護士に皮肉の利いた短い手紙を託し、弁護士が法廷でこの手紙を読み上げた。ベルティヨンが「もっともわかりやすい点と述べているものは誤りであって……この途方もないまちがいゆえに、その後のすべてが疑わしくなる……なぜあなたがたが判断に悩むのか、わたしにはわからない。被告が有罪になるかどうかはわたしのあずかり知らぬところであるが、かりに有罪になるとすれば、その根拠はこの手紙とは別の証拠であるはずだ。このような論拠によって、しっかりした科学教育を受けてきた公正な人間を動かすことはできない」弁護士がここまで読み上げたところで──法廷の速記者によると──法廷は「長期にわたり大騒ぎ」になったという。ポアンカレの証言は起訴の根拠を木っ端みじんにした。裁判官は全員軍学校を出ており、ベルトランの教科書でベイズの法則を学んでいたのである。

裁判官たちは妥協案として、ドレフュスはそれでも有罪だが、刑期は五年に短縮されるという評決を下した。ところが一般大衆は怒り狂い、二週間後には共和国大統領が恩赦を発令することになった。ドレフュス自身は昇進してレジヨン・ドヌール勲章を受け、政府の改革によって教会と国は厳密に分けられるようになった。ところがアメリカの法律学者の多くはドレフュスが確率論のおかげで解放されたことに気づかず、この裁判は数学が暴走した例であり、それゆえ刑事事件における確率論の応用は制限すべきだと考えた。

どちらも「統計革命時代」の重要な事績の一つなんですね。

いや、今起こっているのは「第二次統計革命」なのでは?

で、それにはこんな「トンネル」も存在したという話…

そんな感じで以下続報…