これまでの私の音楽遍歴を過去投稿に従って分析してみると「子供番組の影響を色濃く受けた幼少時代(1960年代後半~1970年代前半)」と「ニューロマやテクノを聞き出した思春期(1970年代末~1980年代初頭)」の間に思わぬギャップが存在してきます。
ではその間に具体的にどんな展開があったかというと…
虫プロ倒産前に完成した劇場作品「哀しみのベラドンナ」は深井国の美しい美術と共に「ここまでやるのか!?」と驚くほど、性的に過激なシーンが続出するが、何故か映倫をフリーパスで通過した。まだアニメがマンガ映画と呼ばれた時代なので、「マンガだから、まあいいか」と判断されたのだろう。 pic.twitter.com/arn1zhwiCW
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2021年8月7日
「哀しみのベラドンナ」のヒロイン・ジャンヌが残虐非道の領主にレイプされるシーンは、映画の冒頭5分後に出てくる。レイプの恐ろしさとおぞましさを、美的に昇華したかたちで描いた映画史上類まれなシーンである。予告編にもその場面は使われている。https://t.co/nWXXy65iKh
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2021年8月7日
深井国は貸本漫画家としてキャリアをスタートさせたが、60年代半ばにイラストに転じ、西欧風の美人画で一斉を風靡した。1973年の「哀しみのベラドンナ」は深井の美術を引き立たせるため、7割が静止画のアニメーションという珍しい演出で、日本では受けなかったが欧米ではカルト・ムービーに。 pic.twitter.com/3dpTKBmWNS
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2021年8月7日
深井国が描いたハヤカワSF文庫の表紙絵。 pic.twitter.com/x7fG3j5OVq
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2021年8月7日
数年前にヤフオクに出てた古雑誌の折り込みポスターですけど、時代を超越してるかんじします。 pic.twitter.com/AF6zgthzMl
— TV番長 (@TVbancyo) 2021年8月7日
— かっぱ (@kappan) 2021年8月7日
「哀しみのベラドンナ」好きでビデオを買って、DVDが出た時、買い直しました。
— Tomoko Adachi (@tom39jp) 2021年8月7日
女性が見ても美しい映像だと思います。 pic.twitter.com/ISCjJXCCVX
アメリカでは4kでリストアされたブルーレイが出ています。
— 竹熊健太郎《地球人》 (@kentaro666) 2021年8月7日
『千夜一夜物語』『クレオパトラ』と続いた虫プロダクション制作の劇場用大人向けアニメシリーズ「アニメラマ」の成功を受けて制作された劇場用映画。
1971年、アニメラマ2部作の配給元である日本ヘラルド映画は前年公開の『クレオパトラ』以降も大人向けアニメの配給を毎年行う予定でいた。しかし、経営が迷走していた虫プロにアニメ映画を例年通り依頼することは難しいと分かり、代替企画として東京テレビ動画から売り込みがあった谷岡ヤスジ原作の劇場用アダルトアニメ『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』の企画・配給を行った。しかし、前2作以上に大衆娯楽路線に徹した同作の興行は大赤字を出して終わってしまう。その後、日本ヘラルド映画は翌1972年公開に向けて再度虫プロに大人向け劇場アニメの製作を依頼する。
- この時点で前2作で監督を務めた山本暎一はすでに虫プロを退社していたが、役員会は総監督を山本に依頼し、山本は独立先のプロダクションからの出向という形でそれを受諾した。
- 本作は娯楽性が強かった先の2作(千夜一夜物語、クレオパトラ)とは一線を画し、「アニメロマネスク」なるキャッチフレーズのもと、文芸色を深めたストーリー、耽美的エロティシズムに満ちた作画が展開されている。 しばしば誤解されているが、手塚治虫は虫プロの社長をすでに退いていた時期であり企画も含めて全くのノータッチである。 直接的な性的描写が用いられた場面もいくつかある。声優陣は中山を除いては新劇の大物で固めている。
- 『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』は、制作進行上の問題から、大量のアニメーターを動員せざるを得ず、絵柄の統一と作画クオリティの保持に難点があった。そこで本作では、長期間を費やして少人数で制作するスタイルが採られ、結果、当初の予定を約10ヵ月オーバーして完成した。
国内興行では赤字に終わり、虫プロの倒産を招いた。
- またベルリン映画祭公式ホームページ内の1973年度上映作品を紹介したページBerlinale Archive Annual Archives 1973 Yearbookには、同映画祭における上映の際、家族向け作品を期待して来た観客に不興を買ったことが記されている。しかしアート映画的な映像表現は、国内外を問わず高い評価を受けている。
2015年に北米で再公開と、米国の映画サイトのIndieWireが報道。傷や破損箇所をCGリストア(修復)し、劇場公開、オンデマンド配信等、リバイバル公開される事が決定。配給はシネリシャス・ピクス社。2016年7月5日に台湾の「2016台北映画祭」で再公開。傷や破損箇所をCGリストア(修復)し、一日で4K限定劇場公開。
物語
教会と領主が支配する中世フランスのある村で、若い2人の男女、ジャンとジャンヌが結婚式を挙げた。しかし、貧しい農夫のジャンは領主に貢ぎ物を捧げられなかった。その代償としてジャンヌは領主に処女を奪われ、さらに家来たちにも次々に陵辱される。身も心も傷ついてジャンのもとに帰ったジャンヌの前に、やがて悪魔(CV:仲代達矢)が現れた。ジャンヌは悪魔に、働き通しで疲れ果てているジャンを助けてくれと懇願する。
ほどなく、ジャンヌが紡いだ糸が高値で売れるようになり、高い税金を納められるようになった。ジャンは村の税取り立て役人に出世するが、貧しい農民たちから戦争のための資金を思うように調達できず、罰として領主に左手首を切り落とされる。するとまたしてもジャンヌの前に悪魔が現れ、力を与えるかわりに魂を渡せと迫りながら、ジャンヌの体を貪っていく。
やがてジャンヌは妖しい魔性を持った金貸しとなり、村の経済を動かすようになったが、彼女の存在を快く思わない領主の奥方や村人たちに、悪魔つきと呼ばれて激しく追い立てられる。酒浸りとなっていたジャンにも見捨てられ、絶望したジャンヌは、逃亡の果てにたどり着いた深い山中で、ついに悪魔と契りを交わして魔女となった。
その後、黒死病が蔓延し、大勢の人々が死んでいった村で、ジャンヌは薬草によってひとりの村人の命を救う。噂が噂を呼んで、村人たちはジャンヌのもとへ集うようになり、夜毎サバトが行なわれた。その影響力が領主の城内にも及ぶに至って、領主はジャンヌを処罰するより味方に引き込んだほうが得策と考え、ジャンを介してジャンヌを城に呼び寄せる。しかしジャンヌは提示されたあらゆる厚遇を拒否したため、領主の怒りを買い、火刑に処されてしまう―。
大枠としてはTV普及の影響で映画業界が劇場に観客を呼べなくなり「革命に敗れた若者達を暴力とセックスで釣る系の若者搾取映画」が量産される様になった1960年代末~1970年代初頭頃の産業構造が出発点となる様です。
- 1960年代までB級カルト映画を数多く早撮りしてきたロジャー・コーマン監督がプロデュース業への専念を宣言。最初に手掛けた「女囚シリーズ(1971年~1974年)」は東映ピンクバイオレンスを代表する「女囚さそりシリーズ(1972年~1973年)」にも影響を与えている。
カラー映画への移行期、ハリウッド映画界は「国内制作リソースを豪華な配役とセットで魅せる歴史スペクタルやミュージカル映画に集中し(大衆人気はあるが低俗な)特撮映画や怪奇映画は日本や英国に任せるシステム」を採用(ただしコーマン監督はカラー怪奇映画に低価格なりの芸術性を持ち込む事で海外作品に対抗しようとした)。
こうした産業構造が日本に先駆けて進んだTV普及によって崩壊し、若者向けの所謂「アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood)」やドライブイン・シアターで上演されるゴア(血糊)映画(後のスプラッタ映画の大源流)に国内市場を食い取られ、この時期に至ってはマイノリティ向けの「黒人搾取映画(Blacxploitation Movie)」や香港で製作されるカンフー映画でしか映画館に人を呼べないという悲観論が支配するまでになっていた。
1960年代にアメリカのハーシェル・ゴードン・ルイス監督が始祖となって作り上げたジャンルとされる。その後1970年代にイタリアのマリオ・バーヴァをはじめ、ジョージ・A・ロメロ、トビー・フーパー、ピート・ウォーカー、デヴィッド・クローネンバーグ、ダリオ・アルジェント、ウェス・クレイヴン、ショーン・S・カニンガム、ジョン・カーペンターなどによって基盤が創られると、1980年代に大ブームとなった。
かかる混乱の影響はこの時期に製作された英国映画「007 死ぬのは奴等だ(Live And Let Die,1973年)」や「ドラゴンVS.7人の吸血鬼(The Legend of the 7 Golden Vampires,1974年)」にまで及ぶ。
- こうした激動期の日本にはまず「野良猫ロック・シリーズ(1970年~1971年)」を代表作とする日活ニューアクション(1968年~1971年)の時代(思わぬ形で突然の終焉を迎え、梶芽衣子の様なスター女優が東映に移籍)が存在した。永井豪原作(1968年~1972年)「ハレンチ学園(TV版1970年~1971年、劇場版1970年~1971年)」の大ヒットも当時のこうした世相を受けたものだったといえよう。
しかしながら日活と大映が共同出資したこの路線自体は大衆向けラインナップが「白土三平の忍者物のTV放映」や「人類滅亡の危機感を煽るジュブナイルSFの児童向け学習誌掲載」から「男はつらいよシリーズ(1969年~1995年)」「サザエさん(原作1946年~1974年、TV放映1969年~)」藤子不二雄「ドラえもん(原作1969年〜1996年)」へと変貌した「世論の保守化」に呼応する形で急速に縮退してしまう。
日活はただ単に「悔い改めた」ばかりではない。その収益を松竹製作の五味川純平原作戦争映画「人間の条件(原作1956年~1958年,1959年~1961年)」に対抗したした同じ五味川純平原作の戦争映画「戦争と人間(原作1965年~1982年,1970年~1973年)」に注ぎ込んだともされているが、残念ながらかかる時世に逆らう試みは竜頭蛇尾に終わってしまう。
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一方かかるトレンド自体は(伝統的大作時代劇や古典的仁侠映画の衰退を受けて海外のトレンドをいち早く受容してきた)東映が継承。海外での女囚物成功にインスパイアされた「女囚さそりシリーズ(1972年~1973年)」をヒットさせ、さらに「ゴッドファーザー(The Godfather, 1972年) 」の海外における大ヒットを受けて実録ヤクザ物深作欣二監督映画「仁義なき戦いシリーズ(1973年~1976年)」を人気シリーズに押し上げた。
1972年6月に当時の岡田茂東映社長が、多角経営を進めるべく映画会社で初めて事業部制を敷き、映像関連の事業や映像とは全く関係のないサラ金、パチンコ屋、進学塾、葬儀屋、ラーメン店などを社員に色々やらせた。岡田自身が新規事業として一番意欲を燃やしたのが出版事業で、1973年2月に創刊した『テレビランド』に次いで同年5月に岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能・コミック&コミック』)であった。岡田と徳間が構想したのが、映画監督と劇画家を組ませた映画作品を映画化するというメディアミックスを先取りした野心的な企画で、創刊号に掲載された主要8作品のうち、3作品が東映の監督原作によるものだった(中島貞夫はフリー)。
東映は1960年代以降、岡田の指揮下でエロと暴力を前面に押し出した"不良性感度路線"を突き進み、特異なエネルギーを放っていたが、当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された『コミック&コミック』は読書にも歓迎され二十数万部を記録。1972年8月より梶芽衣子主演・伊藤俊也監督で篠原とおる作の劇画「女囚さそりシリーズ(1972年~1973年)」が成功したことで、劇画を新しい映画の原作供給源と理解する様になったのである。
こうした展開が躊躇なく遂行された背景には鶴田浩二、高倉健と並ぶ女任侠スター藤純子の人気を不動のものとした「緋牡丹博徒シリーズ(1968年~1972年)」の成功もあったとされる。
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同時期、東宝もハリウッド業界が「大空港(Airport,原作1968年,映画化1970年)」や「ポセイドン・アドベンチャー(The Poseidon Adventure,原作1969年、映画化1972年)」を嚆矢とする「豪華なキャストとセットで魅せる大作映画路線」のグランドホテル形式パニック映画による再建と軸を合わせ小松左京原作映画「日本沈没(1973年)」を成功させ、この頃より日本でも「大作映画一本立て」を基軸とする現在の配給制度が整ったとされる。
春日太一さんはとりわけカラーの違う東宝と東映のあり方を対比的に論じてゆく。東宝は都会的で、サラリーマンものや文芸映画に強い。それに対して東映は子供向きの時代劇「笛吹童子」と「紅孔雀」がヒットして以来、徹底した娯楽映画路線を取った。
この両者の差を、自社の映画館の立地条件に求めているのが面白い。東宝が銀座や渋谷、新宿など山の手に映画館を持っているのに対し、東映は下町や地方に映画館が多い。だから東映の製作責任者、マキノ光雄は立地条件に見合った「ブルーカラー向けの泥臭い映画」を作ることにした。それが成功して東映時代劇は空前の活況を呈する。映画の興行に映画館の立地条件がいかに大事かがわかる。
東宝と東映では成り立ちも異なる。東宝は戦前からあった。歴史がある。何よりも大実業家、小林一三率いる阪急グループの傘下にある。阪急といえば関西の高級住宅地、芦屋を走っていることから分かるように社のカラーとして品がいい。
それに対し、東映は戦後、カツドウ屋マキノ光雄とその兄、マキノ雅弘を製作の中心に据えて設立されたが、その際「大陸から引き揚げてくる映画人の救済」を目的にした。いわばアウトサイダーたちが集まってきた。さらに東宝争議で東宝を追われた監督たちや、レッドパージにあった今井正や家城巳代治らも受け入れた。右も左もイデオロギーは関係ない。映画が好きならばいいというカツドウ屋精神だった。
東宝が優等生とすれば東映は不良だった。だから映画産業が斜陽化していったあと、東映は十八番の時代劇に見切りをつけ、任侠映画を作ることが出来たし、さらにそれもあきられると、こんどは実録ものへ変わることも出来た。エログロと呼びたい異常性愛ものまで登場した。上品な東宝ではまず考えられない映画が次々に作られていった。
東宝を代表するプロデューサー、藤本真澄が暴力とエロを嫌ったのに対し、東映の社長となった岡田茂はなんでもありと開き直った。二人の個性の違いが会社のカラーの違いを強めていった。こうして全体像を俯瞰すると、同時期東映がTV雑誌や漫画雑誌とのメディアミックス提携により永井豪およびダイナミックプロを原作者に迎えた「デビルマン(1972年~1973年)」「マジンガーZ(1972年~1973年)」「ドロロンえん魔くん(1973年~1974年)」「キューティーハニー(1973年~1975年)」「グレードマジンガー(1974年~1975年)」「ゲッターロボ(1974年~1975年)」「ゲッターロボG(1975年~1976年)」、石ノ森章太郎を原作者に迎えた「仮面ライダーシリーズ(1971年~)」「がんばれ!!ロボコン(1974年~1977年)」および「東映魔女っ子シリーズ(1966年~1981年)」の同時期の快進撃もまた巨大な全体像の一側面に過ぎなかった全貌が浮かび上がってくる。
ここで興味深いのが石ノ森章太郎原作特撮ドラマ「仮面ライダー(1971年~1973年)」手塚治虫原作漫画「海のトリトン(原作1969年、TVアニメ化1972年)」横山光輝原作漫画「バビル二世(1971年~1973年、TVアニメ化1973年)」「デビルマン(1972年~1973年)」「マジンガーZ(1972年~1973年)」とことごとく挿入歌がマカロニ・ウェスタンを基調にしてきたのに対し、東映プロデューサーはマジンガーZの主題歌に新機軸を求めリテイクを出したというエピソード。
実はこの曲を聞き返して直感的にその伴奏独特の無機質的グルーブ感からChic「Le Freak」を連想した。
当時のソウル・ミュージックを改めて聞き直すと、Chicもまた新機軸を加え様としたというより(「マジンガーZの主題歌」から既存のマカロニ・ウェスタン要素を除去した様に)上物たる既存のソウル・ミュージック部分を除去してみただった気がしてくる。パラダイムシフトとは往々にしてそうやって起こる。そういえば「仁義なき戦いシリーズ」を手掛けた深作欣二監督もそれまでは「二流の西部劇風無国籍アクション作家」に過ぎず、既存の任侠物のフォーマットはおろかそれさえ捨て去った時に初めて、あの「広島弁文学」と称揚されるドキュメンタリーめいた独特のドラマ展開リズムを獲得したとされている。こうした同値ともいうべきパラダイムシフトの背後には、やはり共通したプロデュース判断が存在していたかもしれない…
まぁこのアプローチでも「ガッチャマン主題歌」が何処から来たか分からない。小林亜星の作曲家としての引き出しの広さときたら、もう…
しかしながら「哀しみのベラドンナ(Belladonna Of Sadness, 1973年)」はこうした文化展開からは完全に孤高の立場を保っているのです。
- まず劇伴に目を向けるとジャズを主体としつつ白人系のHard RockやProgressive Rockを思わせるサイケデリックな曲調。さらにアニメーション演出の細部について劇場版アニメ「イエロー・サブマリン(Yellow Submarine, 1968年)」の影響を指摘する向きもある。
さらには当時の作品で一番近い雰囲気(Atmosphere)を備えた例を探すと意外にも「ゴジラVS ヘドラ(1971年)」辺りが検索に引っ掛かってくる?どちらも著名なディズニーの「ピンクの象の行進」や「ズオーとヒイタチ」と比べ「狂気への推進力」に著しく欠けているが、むしろその辺りにこそ当時の日本人が目指した境地を割り出すヒントが隠されている?
仲代達矢も悪魔のCVとして登場するけど、やはり期待したほど狂ってない。むしろこの作品は最初からそういう風に設計されているとしか思えなくなってくる。
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一方、芸術ポルノ路線というと(ヒロインが「自我を放棄する事により真の自分に到達する」と考える)フランス人のアジア性文化への勝手な思い込みが下敷きになっている「エマニエル夫人(Emmanuelle、1974年)」「続エマニュエル夫人(1975年)」「さよならエマニュエル夫人(1977年)」、日仏合作の「愛のコリーダ (L'Empire des sens, 1976年)」「愛の亡霊 (L'Empire de la passion, 1978年)」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ(1979年)」といった作品が列記されるがこれらの作品が「自分にとっての幸せが何であるかは自分で決める」をモットーとする後世のフェミニスト第三世代の心に響く事はなかったのだった。
むしろ最大のヒントの一つはSFマガジンの挿絵やSF小説の表紙を数多く手掛けた深井国画伯の作風そのものなのかもしれない。
#深井国 さんのイラスト。1935生まれ。永島慎二と親交を持ち、つげ義春と1963年から同居を始める。虫プロ「哀しみのベラドンナ」1973の美術監督。劇場用成人向けアニメに米倉斉加年も出演、林静一も作画に参加している。 pic.twitter.com/ekrwl48jBG
— 川蝉☆奇蹟の月 (@kawasemi_11) 2018年2月10日お休みなさい。皆様にはいつもお世話になっております。今日も色々とサンキューベラマッチョでございます。 #深井国 表紙絵 pic.twitter.com/dkxxeIVScb
— 川蝉☆奇蹟の月 (@kawasemi_11) 2021年5月27日1960年代に国際的に流行したニューウェーブSF小説が取り組んだ重要課題の一つが「性的描写の解放」で、従ってそうした作品の内包するエロティズムを表現可能な絵師が貴重視されたのである。C・L・ムーア「ノースウェスト・スミス(Northwest Smith)シリーズ(1933年~1940年)」の表紙と挿絵を担当した松本零士画伯もそうやって台頭したのだった。
「女性の裸体を描いて女性にも歓迎される男性作家作品」というのは確実に存在し、例えば浅野いにお(玉川大学文学部芸術学科出身)の「おやすみプンプン(2007年~2013年)」「うみべの女の子(2009年~2013年)」、吉富昭仁(「海月姫」作者東村アキコの半自伝漫画「かくかくしかじか」によればと絵画教室の先輩)の「さくらデバイス(2013年~2014年)」などがこれに該当する。
そして2010年代の国際SNS上の関心空間で私にその事実を教えてくれた匿名女子アカウントは伊藤潤二の怪奇漫画やLana Del Reyの「Queen of the Gas Station」や「Lollita」のMVと一緒にこの「悲しみのベラドンナ(1973年)」の画像も盛んに回覧していたのであった。
ついさっき 調べてみたら、度重なる検閲を潜り抜けてまだまだTumbr上に結構画像が残ってますね。おそらくもう当人は残ってないでしょうが…
ビアズレーを混ぜてる人もいましたが…
どちらかというと「物語シリーズ」のエログロ画像の混入率の方が高買った印象があります。ゴダール「中国女」リスペクトとかもちゃんと見抜いてたし、それなりに連続性を感じていたとも?
ちなみに彼女達のこうした作品の読み込み方。
結構本気で「深淵」を覗き込んでますね。米澤穂信「古典部シリーズ」が一番勉強になるという話も聞きました。
それが私も男ながら2010年代には実際に末席に加わり(隙あらば彼女らを支配下に置こうと虎視淡々と狙い続ける)第二世代フェミニストに対抗する共闘を続けたフェミニズム第三世代が守り抜こうとした世界観だったんですね。