諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】習字と文明開化

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あえて複雑な状況をそのまま(それを完全に記述する)複雑な記法に落とし込もうとする科学的流儀(Scientific Style)に従うなら、中世段階(Medieval Stage)から近世段階(Early-Modern Stage)への移行、すなわち「領主(在地有力者)が領土と領民を全人格的に代表する(私有する)農本主義権威主義体制」の「(「暴力的手段を国家が十分に独占している状態の権威主義体制」を法源とする法実証主義に基づいて国体維持に必要なだけの火力と機動力を十分に備えた常備軍を文書行政に立脚する中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家」への発展的解消は、地域によっては古代段階(Ancient Stage)=「(強力な部族的紐帯を武器とする辺境民族が文弱化した王朝=中央政権を打倒し続ける王朝交代説」なる循環史観を克服せんとする試みとして現れながら、その発祥地においてはことごとく失敗してきたエピソードが存在します。

日本史でいうと以下の歴史的段階に対応する様です。

  • 大陸文明との交流に刺激されて九州北部および日本海側沿岸が部族連合段階(Tribal-Union Stage=イロコイ連邦同様、因習によって人と土地が結びついた伝統的共同体で、全体を超越的に統治する大王どころか在地首長の登場すら許さない段階)から連合王国段階(Federal Stage=部族連合状態を保ちつつ、各部族の支配領域において在地首長が台頭してくる段階。考古学的には相互牽制の結果、各地域に等質の首長墓が築造される状態を指標とする)に移行すると(紀元前1世紀~2世紀)、瀬戸内間沿岸および機内に環濠集落や高地性集落が盛んに築造される様になり、実存不安の高まりから威信財として奉じる銅鐸や銅矛や銅剣を巨大化させつつ(呪術的内戦期)対抗上相互に交易する様になって所謂「弥生都市」が成立する(1世紀~2世紀)。ちなみに九州北部における部族連合形成自体は7300年前鬼界カルデラ噴火に由来すると考えられている。

  • 青銅製祭器の製造流通は九州北部出雲北陸を結ぶ日本海ルートと、同じく九州北部を三遠近江・伊勢・遠江沿岸部)を結ぶ瀬戸内海ルートの対峙を生み、ついには出雲畿内を結ぶ陸路を押さえた吉備の首長達を第三の勢力として台頭させた。ところが同時期大陸では三国時代広義には黄巾の乱の蜂起(184年)から西晋による中国再統一(280年)、狭義には後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年まで、最狭義には三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す)の影響で中国産銅流入が途絶えがちとなり、最後には完全に途絶してしまう。それで日本の在地首長達は自らの威信を保ち続ける為に青銅製祭器を埋設し、地域共同体メンバーを総動員して共通規格の古墳を築造して共通規格の土器を用いて祭祀を遂行する段階に移行する。(在来部族と渡来部族が雑居し、その分だけ部族間の軋轢も激しかった)出雲が先駆的に実践したが(2世紀末~3世紀)、それを全国範囲に広げ「日本初の首都纒向を出現させ、震源地にして大陸との交易途絶によって衰退期に入った九州北部連合王国をも併呑したのは吉備の在地首長達だった(3世紀)。当時の史料によれば、この時起こった重要な画期は古墳築造祭器統一そのものというより、そうした動きを采配する過程で在地有力者が支配下集落への雑居状態を終わらせ、独自居館を拠点に地方行政を司る様になった事だったらしい。要するに村役場の前身が現れた訳である。

    ちなみに前方後円墳の築造様式の推移から(共通仕様土器の使用を特徴とする畿内様式に対し、北九州様式は連合王国首長墓時代から辰砂=水銀の使用や割った銅鏡の埋設を特徴とする)内陸部を支配した九州北部連合王国の在地有力者層が畿内に移住した後、九州北部の経済的中心は宗方氏安曇氏といった海人族の跋扈する沿岸部に推移したと考えられてる。

  • 遺跡に残る土器や古墳の共同規格化の進行は、畿内豪族間の戦略結婚の進行による血族意識の形成に対応すると考えられている。そして4世紀中旬以降は佐紀盾列古墳群に(人の寿命に準拠する)安定した感覚で大王墓が築造される様になり、ひとまずの中央集権体制の安定を見る。一般に日本書紀における四道将軍の記述に対応する歴史展開と考えられている。

  • こうして畿内を中心にヤマト王権がじわじわと形成されていく最中、部族連合状態から脱却出来ない出雲はいつの間にか先進地域から脱落し、最終的には全国統一を目指すまでに成長したヤマト王権に併呑される末路を迎える。

  • 逆を言えばこうした先史を持てなかった事が(いつまでも正常不安が続く)ハイチミャンマー(ビルマ)やアフガニスタンの悲劇であり、とっさに最良の処方箋が思いつけない。逆を言えばこれらの国々の未来を予測するには、こうした歴史的知識が不可欠となるのである。

     

より具体的には神聖ローマ帝国/オーストリア帝国(800年/962年~1806年~1918年)と並んで国際関係の近代化を20世紀初頭まで引き延ばしたとされる中華王朝(紀元前1046年~紀元前221年~1912年)とオスマン帝国(1299年~1922年)。

どちらも欧州文化圏より早々と文書行政段階に入りながら(オスマン帝国に至ってはムガール帝国と並んで欧州より早期に主権国家段階も達成している)近代国家化に失敗した重要な要因の一つが、その独特の「宮流書道」の発達(およびその習得難易度の高い文体と書体を習得可能な官僚供給階層による政務の独占)にあったとされています。要するに彼らは「(人類の文書に接する能力を平等化する)活字文化の導入」を拒絶したのですね。

一方、ちゃっかり独自に(オスマン帝国への輸出商品の過剰が出版革命に結びついた)欧州同様、独自路線で「紙の過剰生産が招くイノベーション(出版革命だけに止まらず子供向け玩具事業が大幅拡大)」にはたどり着いていた日本人…習字の美しさは認めるところですが(不思議と活字は発達せず木版だけでこれをやり遂げた)何処かに「超えてはならない一線」が存在する様です。

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  • そういえば当時構想していた「オイラーの原始量(Eulerien Primitive Sweep)」の概念は、最終的に「微分(Total Derivative)」の概念に到達した。まぁこれでやっと大学二年生レベルくらいらしい…

    観測原点(Observation Origin)0と観測対象(Observation Target)rの関係を球表面(各面の面積が1/∞の∞角形)とその中心の関係に見立てると、各面は中心から下ろした垂線に直交する(f'(x^2+y^2)=-x/yすなわち傾きy/xと直交)。この全体像は以下の式で示せる。
    y=\sum_{n=1}^{∞}\frac{1}{n}=2
    まだ微分でも積分でもないが、大雑把にいうとこの考え方が「オイラーの原子量=全微分」概念の出発点となる?

こうした予備知識があると、以下の様な話がより深刻な響きを帯びてきますね。

そして…

さらにはこんな話と結びつきます。

こうして全体像を俯瞰すると「どうして世界全体に均等に近代化の波が訪れないのか」が朧げながら浮かび上がってくるのでした。それにつけても、やはり最後に登場するのは甘味。甘味は暴力で、暴力は全てを解決する?