諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】「高校数学」と「大学数学」の超えられない狭間?

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中学高校時代の数学では二次方程式三次方程式を散々解かされました。組み合わせ計算や確率論にも登場するパスカルの三角形がその背後にありますが、実は最先端のコンピューター言語でさえ三次元以上の行列計算の処理には大きな制限が掛かるのです。要するに「難し過ぎて解けない」なんですね。受験問題では平気でその五段目(四次方程式)や六段目(五次方程式)辺りまで出題されるにも関わらず…

当時集合論で習ったベン図も同じ辺り(四集団以上の重なりの描写)で限界に突入します。それで現代数学はこの方面での継戦を諦め、全く異なる発想からのアプローチへと切り替えました。ある意味、その門口となるのが「大学数学」という位置付け。

人類は難度が急激に高まる3次元以上の行列演算を諦め、2次元行列演算を洗練させる事で全ての事象を扱える様にする方向に進化してきた。同様に集合論についても急激に難度が高まる4個以上の集合についての集合についての考察を諦めたので、その機能は最先端のプログラム言語にも実装されていない。

ああ、何という事でしょう。

数学教育の問題点は「児童への性教育」問題と構造が似ています。低学年では適当にお茶を濁して「詳しくは高学年で習ってね」と問題先送り。一方、高学年では「これについては低学年でもう習ったよね」と問題を素通りしてしまうのです。これでは必要な知識が身に付く筈がありません。

こうした着想から始まった「高校数学と大学数学の狭間」についての行き着いた先がこれだったのです。誰も数学史に無謬性なんて求めてないのに何故隠す…というより「だから微積分と組み合わせた連立1次方程式などにリソースが集中される様になった」という展開抜きに現代数学は語れない訳で、要はその入り口が大学数学の筈なのに、何を今更誤魔化してるんだと、一頻り…