諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【今は亡きTumbrの思い出】考えてみれば最初からまとめて敵視されていた?

2010年代Tumbr上において第三世代フェミニストの側に与していた私にとってラディカルフェミニストは天敵に近い存在だったりします。

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以下のグラフの話ですね。上の三本が「多過ぎるので適正数まで減少する」グラフ。真ん中の三本が「多過ぎるので適正数まで増加する」グラフです。

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一番下の三本のグラフをそう考えると、上の三本のグラフが「課題ならまだまだ無限にある」と言い張って、なかなか改革に着手しない因循姑息な守旧派の心理に対応している様にも見えてきます。すると真ん中の三本のグラフは差し詰め「ゼロベースから出発し、余裕が出来たら取り組む課題を一つずつ増やしていく」現実的対応に該当するのかもしれません。

何しろ彼らにとっては「無理筋の発見」こそがむしろモチベーションとなる訳で、スペイン戦争とロシア遠征で力を使い果たしたナポレオン皇帝専制下のフランス、独ソ戦で力を使い果たしたヒトラー独裁下のナチス・ドイツベトナム軍の侵攻を招いて一瞬で滅んだクメール・ルージュ政権の様な最後を迎えるまで止まらない訳です。ある意味こうした自殺行為の完遂こそが陰謀論のあるべき末路とも?

さらに実はこれ「無能な働き者」の話だったりする?

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こういう話でもありますね。

数理的に考えるとこういう話になりますね。

  • 平均0を中心とする無次元分散x^nについて考える。1次元上ではそれは±x,二次元ではxを半径とする同心円、三次元上では同じくxを半径とする同心球面を描く極座標系を構成し、かつ半径xの増分は平面上ではか各円弧に内接/外接する正方形を単位とする2^{\frac{x}{2}}、三次元上では各球面に内接/外接する立方体を単位とする3^{\frac{x}{3}}となる。実際には線形代数は原則として2次元配列以上を扱わないので、三次元以上の計算は二次元計算の繰り返し、例えば\sqrt{1^2+1^2}=\sqrt{2},\sqrt{\sqrt{2}^2+1^2}=\sqrt{3}といった形で求める展開を迎える。
  • 無次元分散x^nとは要するにn個の直交基底から構成される評価空間の対角線であり、その最適数と各評価軸の持つ意味は因子分析法主成分分析法によって導出される。ところで因子分析法には乱数を与えられてもそれから次々と基底を導出してしまう特徴があり、これが「適正な評価軸を1個も見つけられない場合の暴走」に対応付けられそうなのである。
  • 実際の適用に当たってはイタリア経済学における国家評価基準、すなわちx軸に(賦役動員も含む)課税の重さを置き、y軸以降に各評価軸からの公的サービスへの満足度を積み重ねて最終的満足度をその対角線として導出する考え方が役立ちそうである。この計算によって一般国民の想定する評価軸と、いわゆるJリベラル層の想定する評価軸がどれだけズレているか明らかにする事で、その暴走の度合いと内容が示される事になる訳である。

2018年末に「自分の考え方には圧倒的に数理が足りてない」と自己反省して再勉強を進めた結果、三年目にして辿り着いたのがこういう考え方でした。いやはや、まだまだ完成には程遠い…

こうして文章にまとめるまで、一番肝心の事を忘れていました。どうして「第三世代フェミニスト」と「Black Establishment」と「LGBTQA層」は同じ場所に集まったのか。それはそれぞれFacebook上のコミュニティにおいて「隣人」となる事を拒絶され、様々な形で嫌がらせを受けて追い出されたからだったんですね(当時はお互いをSNS上の隣人に選んだ間柄でさえ、ちょっとした揉め事が殺人事件に発展したものである)。そう考えると「まとめて焼くのが正義」なる判断が下ったのも仕方がない? そういう考え方が社会通念だったとしたら、間違いなくメタバースでも同じ悲劇が繰り返される事になるでしょう。