諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】若者に「ソドム120日」を勧めてしまう…

久し振りにこの画像を使う機会が訪れました。

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アイデンティティ政治/ポリティクス(Identity Politics)

ジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティマイノリティーに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。外部の多数派には分からない特定の集団独自のアイデンティティ-の数が増える一方、集団の垣根を超えた見解・感情が共有が急速に失われている。国内外の左派はマルクス主義社会民主主義の限界が明らかになる中で、新たな主義としてアイデンティティ政治を受け入れた。

それ自体は確かに必要な議論だったが、格差是正のやり方を考えることよりもエリート内での議論に関心が向かった。その為に古くからあるマジョリティー抱える問題、アメリカならば白人労働者層の貧困の問題から注意が逸れ、理性的な対話を脅かす方向に向かい始める。

例えばアファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)はアイデンティティ政治がアイデンティティマイノリティーから社会的不公正とされているモノを是正するために推進された法的改正の一つであり、確かに確実に一定の成果は上げるものの、最終的には逆差別やマジョリティの弱視無視・皺寄せを引き起こす。

まさにこの話ですね。

この話を思い出します。

そして…

戦前の無産政党は長く離合集散を繰り返していたが、1931年7月労農党全国大衆党社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成された。これがきっかけとなり、さらに1932年7月24日全国労農大衆党社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された(安部磯雄委員長・麻生久書記長)。こうして、無産政党の統一が実現した。立憲政友会立憲民政党に対する、いわゆる「第3極」であった。しかし、社会大衆党陸軍統制派革新官僚に迎合・接近していく。

親軍路線を主導したのは、麻生久を中心とする日本労農党のグループであった。麻生1934年戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「広義国防論(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)」の観点から支持。1937年に行われた総選挙で第3党に躍進する倍増の38名当選の成果を得たが、同年の日中戦争勃発を受けて「国体の本義」を支持する新綱領を制定。1938年の党大会では新建設大綱が決定され、全体主義を原則とした。

その後も軍部との関係を強化し、1940年3月には、斎藤隆夫反軍演説による懲罰動議に対して反対の姿勢を示し欠席・棄権した党首の安部磯雄西尾末広片山哲水谷長三郎鈴木文治ら8名に対し、麻生主導で除名処分にするなど、より親軍部の立場を鮮明にした。同7月に二大政党よりも早く、先頭切って自発的解散の形をとって消滅、大政翼賛会に合流した。

陸軍新聞班のパンフレット『国防の本義とその強化の提唱』は時ならぬセンセーションを巻き起こし、あるいは軍部の政治干与であるとか国家社会主義を提唱するものであるとか、統制経済の宣言であるとかいわれたが、その内容を見るとほとんど取るに足りないものだといっていいだろう。

都市の数大学の教授達はこのパンフレットを「検討」して、満場一致でこれの支持を決議したが、それはどうかといわれるかも知れないが、しかしその内の一二の教授を私は直接知っているので、この教授会の決議には別に今さら驚かない。とにかくこのパンフレットは軍部自身案外で、問題になるのが不思議だと考えている通り、これほど問題になるのが妙なはずのものなのである。

だが一つ大切な点は、このパンフレットが、現下の日本の社会事情百般を、唯一つ国防という見地をもって貫き、統一的な見解を披瀝しているということだ。

この点については、今日の日本の官僚であろうが政治家であろうが、資本家であろうが地主であろうが、決して根本的な反対は出来ない義理があって、彼等が口を酸っぱくして提唱している思想善導は、つまる処この国防思想の宣伝以外のものには帰着しないはずなのである(1936年)。

なぜ私が社大党支持に決心したかというと、要するにこれが無産勤労大衆の政治的要求を最大公約数的に代表し得る唯一の政党だと信じたからだ。日本の大衆が支配者の各種の政策にもかかわらず根本に於て民主主義への要望を身から離さず、それが反ファシズムの情意ともなって現われるのだが、これを大量的に即ち大衆的に、そして最も実際的に代表する唯一の政治活動形態は、この政党を通じてでしかない、と考えたからだ。

つまり、私の社大党入党の最後の根拠は、それの持つ大衆的地盤(それは現実に形をもった目に見える地盤であることを必要とする)にある。質よりもまず量を、ということも、その際重大な問題なのである。まず民衆の大衆的獲得である、そうすれば日本のその民衆は、おのずから反ファシズム的力を産み出すだろうというのだ。私はイデオロギーやスローガンよりも、現実の地盤と、その地盤の政治的な含有肥料とを問題にするのである。

社大党は何よりも先に、民衆自身の手による最も大衆的な組織を意味する。仮に社大党自身がその幹部のあるものかが、そういう意味づけはこの際危険だから御免蒙る(人民戦線などとにらまれてはつまらぬ)と考えた処で、そういう主観的「ファッショ化」(?)の如何に拘らず、こういう大衆の大量的組織者の意義を、客観条件によって客観的に押しつけられている、だから又、そういうものを意味せざるを得ないのでもある。

して見るとそのイデオロギーを尖鋭化するだけのエネルギーがあるなら、むしろこれを民衆のより大衆的な結合に使う方が、この客観的存在意義によりよく応えるゆえんとなる。とにかく、何はさておいても民衆を結びつけねばならぬ。その結びつきを妨害しない限りそのイデオロギーには屈伸性を与えねばならぬ。

もし現在の社大党のイデオロギー現象が、すでにこの民衆結合の妨害になるほど「ファッショ化」したと云うなら、その「ファッショ化」を社大党に向かって(というのは民衆を前にしてだ)非難することは、ますます結合の妨害を助長することでしかない。実際的な大衆的批判は、むしろ社大党の民衆の結合点としての意義をまず第一に強調することでなくてはならぬ。そうした上で初めてその所謂「ファッショ化」の現象の根本的検討に向かわねばならぬ。

ところでその所謂ファッショ化現象であるが、そのかなりの部分が、実は却って社大党の大衆結合の方針を実際化するに際しての、やむを得ない結論であるということに、注目しなければならない。

私は決して所謂「ファッショ化」のすべての内容が真に大衆政治的な正道から出ているなどとは云わない。その相当の部分が、例えば幹部の政治的抱負の小ささや人間的自信の低さや、機会主義的打算から、発していないとは云わない。大衆結合という大衆政治の正道でさえ、単なる選挙地盤の拡大のことや、大衆の「利用」のことと考えている者もいなくはないだろう。

だがそれは後にして、今とにかく民衆を結成するためになし得るこの政党の方針はどういうものでなければならぬか。日本の民衆は官憲的な圧力を最も無条件にうけねばならぬところの民衆だ。そこには絶対的な力が臨むのである。これは今日の民衆の実際勢力を計算してみて、誰でも認めないわけには行かぬ力関係だ。かかる民衆をなおかつ自主的に、民主的に、結合結成するには、どういう実際方針が取られねばならぬか。

民衆の既成常識や卑俗常識に媚びるという手もあるだろう。だがそんなことが大衆政治の正道であり得ないことは、言をまたぬ。単にインチキだとか下等だとかいうのではない。そういうやり方では民衆の自主的政治活動など、決して結果として望むことが出来ない、要するに目的に応ったような形に民衆を結合することは出来ないというのだ。元来日本の民衆の卑俗な常識は、デモクラシーの未発達のために、長いものには巻かれろ主義なのだから、そういう原則の下に結合したものは、何等の自主的民主的な政治主体にもなれない筈だ。

民衆の既成常識や卑俗常識に媚びることによって、ひそかにこれをある目的地に持って行くという手もある。民衆をだます手である。だがこれはもちろん民衆の自主的政治へ行くものではあり得ない。何等民主的なものではないのは当然だ。――だがもし社大党の政治的方針が日本の民衆の世界史的発達の中に根を生やしたものであるなら、そんな色々の手を使う必要はない筈で、民衆はいわばおのずから結成されて行くに相違ない。社大党が何等か単にみずからの存在理由をハッキリと標榜すれば、それだけで大衆はおのずから結成される底の資格がある筈だ。

実際にそんな理想的な力量が今日の社大党にないことは、いうまでもないが、けだし社会大衆党と日本の無産勤労大衆とを隔てたり両者の接近を妨げたりするものは、社大党自身の何等かの欠陥のある特徴ではなくて、根本的には全く、日本における反民衆的な勢力そのものだということを、忘れてはなるまい。

この反民衆的な勢力は、民衆の自意結合を好まないが故に、これを多少とも実力ある大衆政党の手に渡すことを好まず、従って、かえってみずからこの民衆の一種の結合、いわば非民衆的な結合を企てざるを得ない。しかもこの勢力の大きさと強さとは、ごく物理的に考えて、到底社大党やその他当分想像出来る日本の大衆政党の力の比ではないから、民衆牽引力は明らかにこの勢力の勝だ。これが現下の日本の実情である。こういう実情の下に、なおかつ民衆を自主的に結合させねばならぬ社大党の政策は、どうしなければならないか。

ボヤボヤしていると民衆は攫われて行くのである。一旦攫われたら当分帰って来る望みはまずない。かの勢力の強力な牽引力に打ち勝つことの出来ない民衆をして、その牽引力の一応の支配下にもかかわらずなおかつ自主的な結合のプログラムを進め得させるために、社大党は一定のお膳立てをしなければならぬだろう。そうでなければ、民衆は、心ならずも、大衆政党を断念しなければならなくなる。

だから重ねて云うと、今日唯一の可能な実際方針は、一面において民衆牽引勢力によって牽引される民衆に足場を提供することであり、他面において、この足場そのものから民衆結合のプログラムを打ち立てることだ。これを悪意に解釈すれば、一面追随他面対抗という「擬装」だと批評することが出来るが、ただしこの擬装が現代におて大きな真実を持っていることを認めない民衆は、ないだろう。「社大党ファッショ化」の現象は、この根本的なそして客観的な存在意義に基いて、発生する諸徴候だったのである。その真実性のあるものと愚劣極まるものとを含めて(1937年)。

若者よ、そこにあるのが良い意味でも悪い意味でも「まだメッキが剥がれてなくてピカピカに輝いていた頃の戦前日本マルクス主義なのだよ。

実は2010年代までは「右翼と左翼が揃って小津安二郎の小市民映画に反対した」経緯から嫌いな考え方だったのですが、次第に「それが正解とならざるを得ない当時のあまりにも暗過ぎる世相」に思いを馳せる様になっていったのです。

それにつけても…

まさかの一緒くた。

お、確実に英国流の「実証主義」概念が若い世代に定着してますね。眼福、眼福…

ここで白土三平/永井豪系ラインナップを微妙に外す私。

トリトン」を筆頭に石ノ森章太郎仮面ライダー」や永井豪の「デビルマン」「マジンガーZ」と併せて採用運学にマカロニ・ウェスタン色が強いのが特徴。

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そんな感じで以下続報…