諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】いわゆる「照覧(Look Up)」文化について。

考えてみれば運慶快慶の金剛力士(仁王)を見ても分かる様に、日本に「筋肉を照覧(Look Up)する文化」自体がなかった訳ではないのです。

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ただ当時の(戦国大名の間に流行した不動明王信仰の側面も合わせた)武士的マッチョイズムが筋肉から抽出した幾何学的抽象美の概念がそのまま近代以降に継承された訳でもなかったのです。

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これ間違いである事が分かりました。正確には…

  • 近代黎明期の日本で「美意識の欠片もない、写真をそのままキャンバスに転写した様な粗雑な西洋写実画(あまりに酷過ぎて後世に伝わらず)」が流行すると、これに小泉八雲夏目漱石が反発して「ギリシャ彫刻は現実の肉体そのものではなく、特定の美意識が抽出した幾何学的抽象曲線によって構成されている」論を展開する。
  • その後「近代彫刻の父ロダンが登場し、ここでいう「写実論」と「抽象論」の統合に成功する。

  • 1910年代~1920年には日本の白樺派ロダンと直接交流し、これを広める。

彫刻家ロダンと日本における近代の形成

哲学者三木清(敗戦直前の1945年検挙され釈放を待たずに獄死)は「読書遍歴(昭和16年/1941年)」の中で大正期の日本近代史の流れを透徹したまなざしでとらえ、時代の空気をこう斬っている。「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの『教養』といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向を持つていた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。あの『教養』といふ思想は文学的・哲学的であつた。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいふものは『文化』には属しないで、『文明』に属するものと見られて軽んじられていた。言ひ換へると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによつて代表される――に対する反動として起こつたものである。それが我が国において『教養』といふ言葉のもつている歴史的含蓄であつて、言葉といふものが歴史を脱することのできないものである限り、今日においても注意すべき事実である。」

そういえば私は「古事記」「日本書紀」に中高生時代、家にあったカラー挿絵で一杯の百科事典的物語全集を通じて最初に触れたのですが、今から思えばそこに山ほど掲載されていた絵画の数々こそ「(聖書や神話にかこつけたエロしか許さない)欧州の文化的仮面」の輸入を試みた白樺派の野望の痕跡だったのです。

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同じ話の繰り返し

そう、実際当時の風俗に目を向けると…

そして…

グチャグチャになってしまいました。そのうち整理したいと思います。