諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】1930年代と1960年代を繋ぐ架け橋?

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この辺りの昔の投稿、そのうちまとめて更新したくなってきました。

発端はこの話。

アイザック・アシモフ(Isaac Asimov1920年~1992年)

1935年、家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して15歳でコロンビア大学へ入学。

1938年、初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。

1939年、『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家デビュー。同年、コロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。

1942年、ガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務。ここで予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会う。

終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊。

1946年、大学院に復学。

1948年、博士号は取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となる。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。

1950年、ダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』出版。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加。さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。

1953年~1954年、SFミステリ『鋼鉄都市』を発表。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。

1955年、准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。

1979年7月ボストン大学教授に昇任。

そうか「1950年代におけるSF系パルプマガジンの凋落」は「SF小説の社会的認知の高まり」と表裏一体の関係にあったんだ…

そして「夜来たる(Nightfall, 1941年)」…

キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編。Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている。また、1968年アメリカSF作家協会(アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている。当人も短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で「『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる"古典"を書いたことがはっきりした。」と述べている。

そして「最後の質問(The Last Quastion 1959年)」

アデル・アレクサンダーとルポヴ・ベルトラッムは、マルチバック(Multivac)というコンピューターを誠実に保守する技術者二人組だったが、実のところ彼らでさえそのコンピューターが本当は何か知らなかった。まぁ少しくらいなら眼前に広がるバカでかくてカチカチ音を立てて眩しく光る筐体の奥で何が起こってるか当たりがつくものの、長年多くの人々が手掛ける過程で複雑化し、誰もその全貌を把握出来なくなってしまったのだった。この二人でさえ大まかな設計概念以上の事は説明出来なかったのである。
何しろマルチバックは自らを調節したり、修正したりする。その能力は人間の手を借りる必要がないほど十分に早くて正確だった。アデルとルポヴが心を砕いて保守に努めてきたのは、そのハードウェア面に過ぎない。あとはデータ入出力。質問内容を必要な形式に書き直し、出てきた答えを人間に理解可能な表現に翻訳する。同じ様な業務の担い手達がマルチパックの製造会社を支え、栄光を共有し合ってきたのである。

(中略)

マルチバックは人間の言葉を理解しないので、まず演算や表に変換する。この時の質問は人間の言葉で表現するならこんな感じだった:人類はいつか、それより多いエネルギーを使わずに、年老いた、或は死んでしまった太陽に若々しさを取り戻すことができるか? それとも、もっとシンプルに言い換えて:宇宙のエントロピーを劇的に減らす方法はあるか?

 マルチバックは黙ったまま答えなかった。ゆっくりと点滅する電球の灯りが消え、遠くの「カチカチ」と鳴る音も聞こえなくなる。

二人の技師が息を止めて見守るうち、付属のテレタイプが急に動き出した。「INSUFFICIENT DATA FOR MEANINGFUL ANSWER意味ある解答にはデータ不足)」と印刷された5つの文字。

どうやら我々が知ってる「コンピューター」とは別物の何か。

AC=Analog Computer。考え出したら長くなったので、とりあえず以下続報…