諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【歴史ロマン】「マルクス主義にはじまりがあったという事は終わりもあるという事」?

こういう話があります。

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そして…

そして…

これらは一体何処から始まったのか?

ここで乱入。

通俗小説の世界は封建社会の秩序を揺るがすが故にハッピーエンドを許されぬ近世的ロマン主義の「不義密通(不倫や身分違いの恋)」の世界から、読者がハッピーエンドしか許さぬ(経済格差を超越する手段としての)「玉の輿」あるいは「逆玉」の世界に飛躍。マーガレット・ランドン「王様と私(The King and I、1944年)」に勇気付けられたか、思い切ってシーク(石油成金となったアラブ内陸部の族長)と現代欧米女性のラブストーリーを扱い始めた事が、ハーレクイン・ロマンスに女性向け恋愛小説界の覇者となる道を切り開いたりする展開となりました。

そうした世俗の動きを尻目に芸術家グループは18世紀末から19世紀前半にかけて「たとえ悲壮な最期が待つのみと頭では分かっていも、心の奥底から込み上げるこの衝動に忠実に生き様とする俺って選ばれたエリート」と自惚れる政治的ロマン主義へと傾倒し、王侯貴族と教会の権威を絶対視する欧州型普遍的価値観の残滓と最期の拮抗状態を保ちます。これが文学史上の「ロマン主義運動」という次第。

×カフカカミュ。この辺り、あっけないほどすぐ間違えてしまいます。

カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。

カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「」としての「」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。

カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義マルクス主義と対立した。ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。彼の著作におけるヒューマニズム概念は、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである。

カフカが生涯を送ったプラハチェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の三民族が混在しており、その内の大多数はチェコ語を話すチェコ人であった。少数派のユダヤ人は、その多くがドイツ語を話したが、1900年時点の統計ではプラハの全人口45万人の内、ドイツ人、及びユダヤ人のドイツ語人口は3万4000人に過ぎなかった。そしてドイツ文化に同化していたユダヤ人はドイツ人と共にドイツ文化圏の一員と見なされており、チェコ人の側から見れば両者はほとんど区別されなかった。この様な中でカフカは自分をドイツの文化にもユダヤの文化にも馴染めない「半ドイツ人」と見なし、他所者の様に感じていた。

この様にカフカが生涯を送ったプラハではドイツ語話者は少数派であり、彼らは多数派であるチェコ人達の間に混じって生活していた。その為プラハではドイツ語(プラハ・ドイツ語)は日常言語としては、あまり発展を遂げず、反って標準ドイツ語の純粋さが保たれていた。カフカが日常使っていたドイツ語にはドイツ語圏南部の特徴やプラハ特有の言い回しも多少見られるが、文学作品で使われているのは明瞭で正確な古典的ドイツ語である。

共通するのは、ある種の「異邦人」性という…

これが私の歴史観1858年革命があった」説の出発点。

しかし産業革命導入に伴う社会変化に追随するのにそれだけでは充分でなく、その最前線たるフランスとドイツに社会学が誕生します。

そんな感じで以下続報…