今回はこの話。
発端はこの投稿。
そもそも大方の日本人にとって、韓国が軍事政権だったのどうの、なんてのはとっくの昔に歴史の一部になってる。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月4日
けど韓国人にはそうじゃない。日本統治時代さえ未だにネチネチ言ってる彼らにとって軍事政権時代はまだ、昨日の事なんですよ。
そのギャップが大きいから認識も大きくズレる訳です。
後ですね、韓国においても歴史上何度かクーデター的な事は起きていますが、軍事政権が何代にも渡って継続的に支配を行うと言うのは近代に入って始めて経験する事態であった、と言うのは理解しておいて損はないと思いますね。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月4日
鎌倉幕府以来の伝統がある我が国とはそこが違います。
ここに乱入。
武神政権時代は? ほとんど日本の平家政権全盛期と重なるのは、富をもたらした大陸の公益相手が同じだったからとも。文化的には仏教色の強い青磁器の全盛期。https://t.co/b2afHE6LdF
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
×武神政権○武臣政権。
なるほど、100年足らずですが確かに武臣政権時代は日本の幕府政権に比定し得ますね。ちょっと事実認識が甘かったです。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月4日
まぁあんまり長く存続した訳でもないのですが、旧門閥体制が打破され、両班官僚制時代に移行していく流れを語る上で欠かせない重要な中間期。
「富をもたらした共通の交易相手」…北宋と遼の間に締結された「澶淵の盟(1004年)」、北宋と金の間に締結された「海上の盟(1120年)」に代表される勢力均衡時代の大陸諸国がそれですね。https://t.co/Fk2y30x4Zf
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
なるほど。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月4日
日本では平氏政権(1160年代 - 1185年)そのものというより、平忠盛(清盛の父)の時代における「日宋貿易利権による急伸」、武臣政権(1170年~1270年)の場合はモンゴルに滅ぼされるまでの金との(交易も含む)関係安定が崔氏政権の長期化につながったと考える様です。https://t.co/rqVp322XWK
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、長承2年(1133年)宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした(『長秋記』8月13日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を指向するようになったと思われる。
保延元年(1135年)、中務大輔に任じられる。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。4月8日、西海の海賊追討について忠盛と源為義のどちらが適当か議論となったが、備前守を務めた経験を買われ、「西海に有勢の聞こえあり」という理由で忠盛が追討使に任じられる(『中右記』『長秋記』同日条)。8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという(『中右記』『長秋記』8月19日条)。忠盛は降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。
武臣政権時代の対宗貿易についてこれほどまとまった記録はありませんが、こういう話もあったりします。
12世紀は高麗が在った地域の人々の間では高麗青磁の最盛期だとされている。器形や作風に中国・宋で評判の高かった耀州窯、定窯、汝窯などの影響を受けつつ、量産品として日用品の青磁を生産した。また、高級品としては高麗特有の象嵌青磁を施された物が制作され、江南よりも華北で好まれた。器種としては瓶(へい)、梅瓶(メイピン、口が狭く肩の張った形態の瓶)、鉢、水注、香炉、水滴など様々あり、香炉や水滴には人物、動物、器物などの具象的形態を器形とした彫塑的なものもある。宋の徐兢は、1123年宋の使節として高麗に滞在した時の見聞記『宣和奉使高麗図経』を著わしたが、その中で高麗青磁の釉色について青色の事を高麗人は翡色と呼び近年この色を出せるように成ったと記録している。当時の青磁は、官窯で王族や上流階級向けに製作され、大量に生産し流通する製品ではない一品制作であった。
1170年の武臣の乱を契機とする社会状況の変化とともに磁器の作風も変わり、それまでの単色磁に加えて象嵌青磁が盛んに作られるようになる。象嵌とは、元は金属工芸の用語で、素地土に文様の形を彫り、色違いの土を埋め込んで仕上げるものである。それまでの高麗の磁器は、無文のものも多く、透彫、陰刻などの加飾があっても基本的に単色のものであったが、12-13世紀には、土色の違いによって図柄を表す象嵌青磁が盛行し、青磁に銅呈色の赤色系統の文様が加わった銅画(日本語では「辰砂」という)も使用された。
そうまさに当時における「高麗象嵌青磁」の国際的分布範囲こそがその生き証人という次第。それが当時の中国本土や日本の遺跡から出土しているのです。
中華王朝に近過ぎるのが朝鮮半島の不幸で、大陸の政治的混乱がダイレクトに波及するので中々独自の歴史が歩めないという…その点日本や英国みたいな「大陸文明と微妙な距離感を保つ島国」は有利だったと考える歴史観もありますね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
大陸の武人、東西を問わず「文」を軽んじる傾向があって、それで東アジアでは(最初は武人の庇護で力をつけた)科挙官僚の官僚制に組み敷かれてしまうのですが、日本の武家はそもそも朝廷の文書行政を継承する形で自らが独自の官僚制の運営者に育っていくという…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
英国でも薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)で大貴族連合が内ゲバで自滅して以降「王室の藩屏」として台頭したジェントリー階層は官僚/法曹供給階層を兼ねてた上に(日本の武家同様に)まがりなりにも領主としての我儘が経済成長を邪魔しない制度を構築する分別を備えていたという次第。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
ふむふむ。ありがとうございます。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月5日
まぁどちらも現実の歴史は「上に政策あれば、下に対策あり」の際どい鬩ぎ合いだったりした訳ですが、少なくともフランスみたいに王室が「帯剣貴族」「法服貴族」「(直臣としての)宮廷貴族」の利害関係調整に失敗して革命が勃発してしまう、なんて事態は免れた訳です。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月4日
参考になります。多分に偶然もあるのでしょうが、権力を握った側に程良い緊張感を与える地方政権を担えるライバルが複数存在する辺りがカギなのかな、と考える次第です。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月4日
その英国をも「どうしてこれで革命が起こらない?」と驚かせた版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)の一連の流れ…まぁその後、国民皆兵制によって西南戦争まで続く士族反乱を封殺し切る流れが「革命の代替物」と言えなくもないかも。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月5日
韓国も軍人大統領時代を解消した流れは中々見事で、これが出来てりゃアフリカや南米の政治的不安定はないという。それを達成した盧泰愚大統領の歴史的役割は「大政奉還」を成し遂げた徳川慶喜に匹敵しそうです。旧権力者の引き際、結構大事。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月5日
同感です。あそこまでは見事な流れでした。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月5日
まぁ韓国人も結構「後を託された金泳三がダメだった」とは認めてたりしたりして。そう、韓国は大久保利通にまでは恵まれなかったんですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月5日
それは自分も韓国人から良く聞きますね。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月5日
金泳三が回避出来なかったIMF危機を乗り越えた金大中大統領も大概妖怪ですが(韓国内でも賛否両論)、いずれにせよこの辺りで人材が尽きて、後はシケた展開しか待ってなかったという…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月5日
毀誉褒貶著しい人でしたが、IMF危機に際して国民を団結させた手腕は見事でした。ロウソク革命は一時的なものでしたが、継続して韓国人を団結させられたのはあれが最後だったのかな、と。
— simesaba0141/MJ号 (@simesaba0141) 2022年2月5日
そんな感じで以下続報…