諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【歴史ロマン】11世紀東アジア国際協調体制下における平氏政権の在り方について。

今回はこの話。

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発端はこの投稿。

ここに乱入。

×武神政権○武臣政権。

まぁあんまり長く存続した訳でもないのですが、旧門閥体制が打破され、両班官僚制時代に移行していく流れを語る上で欠かせない重要な中間期。

肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、長承2年(1133年)宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした(長秋記』8月13日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国敦賀まで宋船が来航することもあった。忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を指向するようになったと思われる。

保延元年(1135年)、中務大輔に任じられる。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。4月8日、西海の海賊追討について忠盛と源為義のどちらが適当か議論となったが、備前守を務めた経験を買われ、「西海に有勢の聞こえあり」という理由で忠盛が追討使に任じられる(中右記』『長秋記』同日条)。8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという(中右記』『長秋記』8月19日条)。忠盛は降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。

武臣政権時代の対宗貿易についてこれほどまとまった記録はありませんが、こういう話もあったりします。

12世紀は高麗が在った地域の人々の間では高麗青磁の最盛期だとされている。器形や作風に中国・宋で評判の高かった耀州窯、定窯、汝窯などの影響を受けつつ、量産品として日用品の青磁を生産した。また、高級品としては高麗特有の象嵌青磁を施された物が制作され、江南よりも華北で好まれた。器種としては瓶(へい)、梅瓶(メイピン、口が狭く肩の張った形態の瓶)、鉢、水注、香炉、水滴など様々あり、香炉や水滴には人物、動物、器物などの具象的形態を器形とした彫塑的なものもある。宋の徐兢は、1123年宋の使節として高麗に滞在した時の見聞記『宣和奉使高麗図経』を著わしたが、その中で高麗青磁の釉色について青色の事を高麗人は翡色と呼び近年この色を出せるように成ったと記録している。当時の青磁は、官窯で王族や上流階級向けに製作され、大量に生産し流通する製品ではない一品制作であった。

1170年の武臣の乱を契機とする社会状況の変化とともに磁器の作風も変わり、それまでの単色磁に加えて象嵌青磁が盛んに作られるようになる。象嵌とは、元は金属工芸の用語で、素地土に文様の形を彫り、色違いの土を埋め込んで仕上げるものである。それまでの高麗の磁器は、無文のものも多く、透彫、陰刻などの加飾があっても基本的に単色のものであったが、12-13世紀には、土色の違いによって図柄を表す象嵌青磁が盛行し、青磁に銅呈色の赤色系統の文様が加わった銅画(日本語では「辰砂」という)も使用された。

そうまさに当時における「高麗象嵌青磁」の国際的分布範囲こそがその生き証人という次第。それが当時の中国本土や日本の遺跡から出土しているのです。

そんな感じで以下続報…