諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【歴史ロマン】日本に輸入されたクレープ文化の原風景?

日本に輸入された食文化は魔改造されてしまう」という話がありますが、フランスから伝来したクレープ文化もまた例外ではありません。

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その本国における原風景はこんな感じだったのです。

クレープ(crêpe)はパンケーキの一種で、ウェールズ地方と並ぶアーサー王伝説発祥の地として知られるフランス北西部のブルターニュ地方が発祥の料理。

現在はブルターニュ地域圏全体ロワール=アトランティック県に分割されているブルターニュ公国(ブレイス語:Dukelezh Breizh、ガロ語:Duchë de Bertaèyn、フランス語:Duché de Bretagne)の故地。

ケルトブルトンの言語、風俗が強く残存した地域であり、日本の近畿地方ほどの面積に、茨城県と同程度の人口が集まっている。フランス中央とは風俗習慣が全く異なるため、現在でも相続法など民法の一部については独自の慣習法が認められている。

ブルターニュ公国は、ノルマン人(ヴァイキング)によるブルターニュ占領さなかの936年に生まれた。最後のブルターニュ王アラン1世・ル・グランの孫息子、アラン・バルベトルトが、ノルマン人から祖国を解放しブルターニュ公になった年を起源としている。

  • 10世紀から12世紀のほぼ3世紀間にわたって、ブルターニュの大貴族たち(ナント伯、レンヌ伯、コルヌアイユ伯)が熱心にブルトン人の国内で競い合っていた。
  • 12世紀中旬、公国はヨーロッパの列強である大国フランスとイングランドに挟まれた地政学的に戦略の重要地となった。プランタジネット家とカペー家が、自分たちに都合の良い公爵を据えようとした。2つの大国の影響が絶えず公爵に課せられた。

  • 13世紀初頭から15世紀後半まで親仏派の公爵が続き、百年戦争(1337年/1339年~1453年)最中の1360年から1460年までは公国は独立国家としての力を蓄えた。
  • その一方でフランス王国百年戦争に勝利して「(国体を保つのに十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制による徴税で賄う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)」に推移する上で牽引力を発揮した「リッシモン元帥の常備軍」は、かかるブルターニュ公国で徴募され、編成されている。

    そういえば「三銃士(1841年~1851年)」において新兵ダルタニャンの出身地と設定されるガスコーニュ地方にもまた「百年戦争前夜にイングランド側に残されていた最後の領土」といった複雑な過去があり、係争絶えない地であったが故に常備軍の供給地域となった経緯があったりする。

  • 外交および軍事での60年に渡る抗争のあと、フランス王国が何世紀にもわたり公国の監督を行い公国の利益を貪った。
  • 1532年公国とフランスの連合が宣言され、連合条約が有効に働いている1547年ブルターニュ公であるアンリ2世がフランス王に即位した。しかしながら、新たにフランスの州となったブルターニュは、1789年フランス革命までかなりの自治権と特権を保持することができた。

ブルターニュ地域圏ブルターニュ公国およびブルターニュ80%から作られた。残りの20%ロワール=アトランティック県となってペイ・ド・ラ・ロワール地域圏に含まれている。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏首府ナントはかつてブルターニュ公国の首都だった。現在ブルターニュ公国が二つの地域圏に分けられた理由の一部に、ナントと首府レンヌの競い合いを避けることがあった。

ナントは16世紀からブルターニュ公国の首都であり、一方レンヌには 1560年から1789年の間、高等法院がおかれ、1689年から1789年にはブルターニュ行政首都がおかれ、監察府(intendant)の首都もおかれた。監督府17世紀から18世紀の王政フランスにおいて最も重要な行政単位であった。

ブルターニュ公国になってからは元々二年おきに異なる都市におかれる制度であったが、1730年1758年1760年を除いて1728年から1789年までレンヌにおかれた。にもかかわらず1789年になって州会計部はナントに置かれた。

こうして、1941年にフランスの地域圏が作られた際にはレンヌに首府が置かれ、ナントは隣の地域圏におかれることとなった。ナントの為に作られた地域圏はペイ・ド・ラ・ロワール(Pays-de-la-Loire=ロワール川の地)と名付けられた。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ブルターニュ地方と、アンジューメーヌなど伝統的な県を合わせて作られた。

現在の区画には不満を言う人々もおり、地域圏ロワール=アトランティック県ブルターニュ地域圏に組み入れ、ブルターニュ地方と再統一することを願う声もある。

  • 元になったのは、蕎麦粉で作った薄いパンケーキのガレット(galette)という料理である。ブルターニュ地方は土地がやせていて気候も冷涼であるため、小麦の栽培が困難でそばが常食とされていた。古くはそば粥やそばがきにして食べていたが、そば粥を偶然焼けた石の上に落としたところ薄いパン状に焼きあがることを発見し、そば粉を焼いてパンの代わりに食べるようになったといわれている。石で焼いたことからフランス語で小石を意味するガレ(galet)にちなんでガレットと名づけられたというのが通説である。
  • その後、伝説ではスペイン王フェリペ3世の長女でルイ13世の妻であったアンヌ王妃が、ルイ13世に伴ってブルターニュ地方へ狩りに訪れた際、現地の庶民が食べていたガレットを偶然口にして気に入り、宮廷料理に取り入れたといわれている。生地はそば粉から小麦粉へ変更され、粉と水と塩のみであった生地に牛乳やバター、鶏卵、砂糖などが加えられるように変化していった。名称も焼いた際にできるこげ模様が縮緬(ちりめん)を連想させることからクレープ(「絹のような」という意味)と呼ばれるようになった。
  • 現在ではフランス風の薄焼きパンケーキの総称としてクレープという名称が使われているが、そば粉を利用したクレープについては依然としてガレットという名で区別されて呼ばれる場合が多い。小麦粉のクレープはほとんどの場合生地に甘みがつけられるが、そば粉のガレットは通常塩味である。ブルターニュ地方の伝統的な食事ではガレットシードル(リンゴで作った発泡酒)とともに供する。
  • また2月2日の聖燭祭にはフランス中の家庭がクレープを焼いて食する。この日にローマに詣でた巡礼者が、教皇より聖体パンを与えられる習慣に基づく習わしである。なお、この日にクレープを調理する際、片手にコインを握りながら願い事を唱え、同時にクレープをフライパンでひっくり返せれば願いが叶うという民間伝承がある。
  • なお、フランス系カナダ人の間では「クレープ」はしばしば英語のパンケーキの訳語とされる。
  • かつてフランスの植民地であったインドシナ半島の多くの国でもよく食べられ、屋台などで売られている。

現在、ブルターニュ地方にはたくさんのクレープ屋が軒を並べ、クレープの料理学校もある。パリ全域も同様であり、特にブルターニュ地方への鉄道の発着駅であるモンパルナス駅周辺にクレープ屋が集中している。

蕎麦粉のガレットは伝統的にはシードル(リンゴで作った発泡酒)と一緒に供されてきたという辺りに欧州スープ文化との連続性を感じます。そして日本食文化における小麦食の一形態としての「おやき」との関連性も…