「日本の社会学」はどうやって始まったのでしょう?
日本における社会学は、明治維新(1868年)以降、明治中期ごろに現れる。1893年に東京大学に社会学の学科が設立されて以降日本の教育システムに統合されるが、近代化の結果として、大部分が西洋社会学の影響を受けている。
- 1878年、哲学と政治経済の客員教授であったアーネスト・フェノロサが東京大学で初めて社会学を教える。3年後には「日本社会学の創始者」外山正一を日本初の社会学教授の資格で招いている。特にフェノロサと外山はどちらもハーバート・スペンサーの社会学理論の推進者であり、特にミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で(日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介する事になる)エドワード・S・モースを東京大学に招聘した外山の講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始し、学生達より『スペンサーの番人』と揶揄されている。
- 東京大学(後の東京帝国大学)社会学科初代学科長となった建部遯吾(対露強硬論者でもあり、後に貴族院議員となる)がオーギュスト・コントの総合的社会学に立脚して「社会学の一般原則(1905年〜1908年)を提唱。日本における社会学に関する最初の体系的な研究であり、研究の将来の発展に大きな影響を与えた。
- 1900年代初期から1910年代にかけて遠藤隆吉らによりデュルケームとフランクリン・ギディングスが紹介された。
- 建部遯吾が1913年に設立した研究会が1924年に日本社会学会の体裁を整える。
- 太平洋戦争に敗北してGHQ占領下に入った1950年代 、社会学は教育制度改革の一環として正式に日本の高等教育の一般研究の必須科目となる。アメリカ社会学は実証的研究方法に基づく経験的研究を重視するので、これまでの哲学分野の一つとしての扱いが改められた。当時の日本を代表する社会学者は「農村社会学」の福武直と「産業社会学」の尾高邦雄。どちらも多数の研究ベースの調査を実施する経験的社会学者であった。
一方、第二次大戦後の日本における社会学研究はドイツの影響も色濃く受ける。
尾高邦雄が和辻哲郎の女婿なのが興味深いところ。
倫理を「人間共同態の存在根柢すなわち人間存在の理法(『倫理学』上)」と考え、現実人生の実態を解釈学的に理解しようとした和辻倫理学。和辻はカール・マルクス「ドイツ・イデオロギー」に「意識と言葉は社会において同時発生する」という言葉がある点に注目し、さらにガブリエル・タルドの模倣犯罪学を援用して「(ロビンソン・クルーソー的個我から出発する哲学でも、デュルケーム的方法論的集団主義でもない第三の路線として)間(関係性)の思想」に到達します。
ただし具体的解釈対象として(おそらくハイデガーのギリシャ古典解析につられて?)「古事記」や「日本書紀」や国学古典を選んだ事から、その内容が「日本人こそ最も倫理的な民族」と主張するものなったという指摘も。
「丸山真男回顧談」上の「戦中から戦後へ」に「和辻哲郎先生の場合」という項目があり、和辻氏の「アメリカの国民性(44年2月、思想)」という論文が、「あれはひどい、当時の雑誌「思想」の恥ですね。……研究室で読んだのを、今でも覚えています。なんたることかと思って。最後は、強く見えるやつは意外に弱い、みたいなことでしょう。こんなギリギリのときになって、まだそういうことを言っているわけです。」と手厳しく批判されている。
丸山氏は、同じ項目で戦後の東大の憲法研究委員会での和辻氏にふれ、「結局、和辻先生は、既成事実になったものを合理化するという人なのです。その理屈がうまいのだな。……たとえば「(戦後52年刊行の)日本倫理思想史」だって、井上哲次郎「国民道徳論」を、あんなにボロクソに批判しているけれども、戦争中に出た「岩波講座 倫理学」論文には一言半句もそういうのはないのです。でも神がかりではなかった」と論評した。しかし助手時代に南原先生の指示で聴講した和辻の講義=日本倫理思想史については、「ある意味では実によかった。ぜんぶ津田批判だけれど、銅鐸文化圏、銅剣文化圏など古墳時代の歴史を聞き、あれを聞いたら、だれでも天皇制というのは7世紀ごろできたとわかる。天皇制については肯定的なんだけれど歴史を曲げず、神武天皇などはでてこない」と評価した。
「戦前日本へのマルクス主義理論の紹介者」戸坂潤が「個人心理学の代表」としてフロイトの精神分析、「社会心理学の代表」としてル・ボンの群衆心理学やガブリエル・タルドについて触れるに至ったのは、こういう流れも意識しての事だったと思われます。
1901年には『世論と群集』を刊行。ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示した。
ところで今回の発端はこの投稿…
本邦フェミシャカイガク系のワヤを説明するのに、本邦社会学の、それも援交宮台のツッコミ処だらけの定義wのガバ概念(だか何だか)引っ張り出してこんでもよかろ(´-ω-`)#なんか見た
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月17日
まあ、本邦社会学のそういう手前勝手な定義によるガバ概念的伝統(としか思えん)、福武直あたりのものなんか読みなおしとっても、ああ、こういうのの末裔ってことかもしれん、とおもたりするわな。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月17日
眼前の現実、おのれもまたそこに組み込まれている「社会」を何らかの手段で捕まえようとする以前に、あらかじめ与えられている言葉群を順列組み合わせ的にいじりながら言葉を言葉で定義してゆき屋上屋を架す作業によって、それら「社会」(とされる現実)を「説明」することにだけ収斂させてゆく症状。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月17日
丸山真男も大塚久雄も福武直も、基本OSとしての挙動は基本、そのへん共通しとるような気がせんでもない。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月17日
時論的な論述のほか、日本政治思想史における業績も重要である。第二次世界大戦中に執筆した『日本政治思想史研究』は、ヘーゲルやフランツ・ボルケナウらの研究を日本近世に応用し「自然」-「作為」のカテゴリーを用いて儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。
また、明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し、特に日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価し「福澤惚れ」を自認した。日本学士院ではもっぱら諭吉の研究を行い、日本思想史研究における生涯の大半を福沢の研究に費やした。丸山の福沢諭吉論(『「文明論の概略」を読む』など)はそれ以降の思想史家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。
その一方…
丸山の「超国家主義の論理と心理」が日本の戦前の体制の特徴をよく捉えていることを認めたうえで、そこで展開されている「抑圧移譲」についての理論図式が、必ずしもその後の論文の中で一貫して扱われていないことを、彼は批判している。「抑圧移譲」の体系とはだれも責任を取らない無責任の体系だといっておきながら、第二論文「日本ファシズムの思想と運動」では、日本的な知識人を特別の階級としてとらえ、この特異な階級が日本のファシズムを担ったというような書き方をしているが、そうしたとらえ方は「抑圧移譲」の考え方とは矛盾しているのではないか、と言うわけである。
ところで、このファシズムという言葉の丸山による使い方にもサイデンステッカーは疑問を呈している。丸山はときに、アメリカの民主主義の危機について論じ、アメリカが「ファシズム」化するのを危惧して見せるが、いったいそうした言葉遣いによって丸山は何を意図しているのか。アメリカの「ファシズム」化と言うが、その「ファシズム」なるものが何を意味するのか、丸山ははっきりと規定していない、といってサイデンステッカーは丸山を強く批判する。
「それは何か"全体主義"といったものを意味するらしいが、ソビエトの"社会主義"とは明らかに違い、ソビエト"社会主義"は"進歩的"(これまたはっきりした規定がない)だからよいというのだ」 そういって、サイデンステッカーは丸山の学問的な曖昧さを批判している。
サイデンステッカーがこのように丸山を批判した際の心がまえというのは、今日の読者から見れば納得しがたいかもしれないが、1950年代初頭という当時の時代状況からすれば決して奇異なことではない。
というのも丸山に対してサイデンステッカーがこうした批判をしたのは、米ソ冷戦の真最中のこと。その真最中の時期に、サイデンステッカーはサイデンステッカーなりに、アメリカ流民主主義のソ連共済主義への優位というものを信じていたかった。ところが、そのアメリカが庇護しているひ弱い国である日本の、非常に影響力ある大学人が、反アメリカ的なプロパンガンダに現を抜かしているのはけしからぬ、そうした思いがサイデンステッカーの心の中にあってとしても、決して不思議ではない。
そういえばサイデンステッカーはコロンビア大学出身。この系譜におけるコロンビア大学の関係者多過ぎ問題?
その悪に日本で「コロンビア大学紛争(1968年)」への言及が少ない不思議…
マルクス経済学とウェーバー社会学を基礎に「近代」を担うべき人間について考察を深めた。大塚はイギリスを近代と民主主義のモデルケースと考え、独立自営農民ヨーマンがその発展を支えたとした。小熊英二は、大塚の背景には日本の民主主義が、特にその担い手となる自由で自立した市民が未成熟であったことの反省があるし、大塚が「労働者の自発性と目的合理性」を重視したのは、太平洋戦争時の戦時体制が「過剰統制」と「神かがり主義」により、敗戦を招いたことへの批判にある指摘した(小熊 2002, pp. 91–95)。 この大塚の視座は「大塚史学」と呼ばれ一時代を築くが、その後、日本経済が高度経済成長期に入り、逆にイギリス製造業に陰が見える頃になると、戦前への反省やイギリスの理想視という大塚史学の特徴自体が求心力を失っていった。
ああ「ジェントリー史観」に殺された人?
言葉に対する前のめりな依存度と、それら言葉群を自明のものとしてその内側であれこれいじりまわして虚構を構築してゆく手癖、それこそ福本イズム的文体というか。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月17日
大正期の1912年から1915年にかけてはベルクソン哲学が大流行。唯心論の興隆の波に乗って「直観」をしきりに喧伝したが、行き過ぎて「知性」と「他者」を排除する傾向が強くなり、これが流行を終焉に導く結果を生んだ。
- あくまで大衆を侮蔑しつつ相手側に絶対服従を要求し、外敵との戦争より党争における勝利を優先する福本イズムの独善性の源流をここに見る向きもある。
1920年代日本の共産主義運動を主導した福本イズムとは要するに「大衆は政治的エリートの善導によってのみ救済される」「正統性保全の為の党争は外敵との戦争より優先される」といった内容。まさしく歴代中華王朝を滅ぼしてきた儒教観念そのもので、それ故に当時の日本のインテリ層に受容されやすかった。戦後の新左翼運動では中核派がこの立場に立つ。「もはやマルクスの思想と何ら関係ない」という点を除けばさしかる欠陥も見当たらなかったが、そんな代物コミンテルンが認める筈もなく、全面否定され一転して粛清対象に。
ここで乱入。
日本の社会学ってフランス社会学の「方法論的集団主義の伝統」ともドイツ社会学の方法論的個人主義」の伝統とも無関係で、あえていうなら(大日本帝国の内務省や福本イズムの背後にも透けて見えるエリートの大衆蔑視を基底とする)荀子の牧民思想じゃないかって気がしてます。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月18日
ああ、興味深いですね、その視点。戦後にアメリカの実証主義社会学が一気に流入して「社会調査」利権も確立されてゆきますが、その間、学会/界のヘゲモニーは戦前世代の交代がその後しばらくかかったわけで、70年代末~80年代にならないとそれは達成されなかったような印象ではあります。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月18日
その頃というとマルクス主義史観/経済/社会学が停滞し、吉本隆明や栗本慎一郎が急浮上してきた時期というイメージがあります。まぁ吉本隆明は学者じゃないですが。
日本の詩人、評論家。1949年、25歳のとき「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」を『詩文化』に発表。そこでは「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスのいわゆる唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。主著「転向論(1958年)」「共同幻想論(1968年)」。
そして栗本慎一郎…
戦前のフランスorドイツ由来の「社会」学は、哲学や思想と渾然一体なところあって、それで育った世代が戦後の主流になっていたのは、政治学や経済学なども含めて、本邦「社会科学」(こう言いたがった人がたでもありますが)の性格を規定してしまっていたところはあるかと。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月18日
そういう人がたは、いわゆる「大衆社会」に対する視点、殊に戦後の過程でのそれにどうしてもある偏りがあるように感じています。ミルズやリースマンあたりから入った自分などには、そのへんどうしても違和感が拭えないまま幾星霜、という感じで(´-ω-`)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月18日
しかし当時のアメリカ社会学は、水面下で進行してきた黒人公民権運動とヒッピー運動の潮流を完全に見逃してしまうのです。
- まぁ「派手に予想を外した」という点では「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」の中で(南北戦争が南アメリカの奴隷農場主の没落を決定付けた様に)産業革命進行がユンカー階層にトドメを指すと高らかに宣言したものの、社会調査によって「農奴が棄農した穴をポーランドからの出稼ぎ小作人が埋める(従って無問題な)」展開が明らかとなって赤っ恥をかいたマックス・ヴェーバー(1864年~1920年)の先例もあったりする。
- 拘って欲しかったのは「棄農した農奴」は本当に「棄農」したといえるのかについて。というのも、彼らを巡って誘致合戦を繰り広げたライン工業領主達、すなわち「ヘル・イム・ハウゼ(私の家)」理念で知られるクルップ社ら家父長制が武器としたのは「広々とした裏庭を備えた工業団地」であり、そこに移り住んだ世帯はその裏庭で野菜や鶏、山羊、豚などを育てて家計の助けにしていたのである。
コロンビア大学紛争(1968年)については「僕なら学生を説得出来る」と主張してバリケード内に立ち入ったエーリック・フロムが全身に腐った卵を浴びせられた逸話が有名。
しかし対象の選択を間違えていただけで、アメリカ社会学の方法論は堅牢だったので、やがて仏独の社会学も上書きしていきます。その結果誕生したのが構造主義?
このへん「民俗学」の看板掲げながら、同時に南博や石川弘義などにも親しく教わることのできた自分の外道環境ゆえの違和感ではあるのだろうとは思いつつも。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月18日
戦後、アメリカ社会心理学を日本に導入し、国民性から大衆文化まで様々な社会現象の背景にある心理を解き明かし「日本人論」ブームをリードした。また、伝統芸能や映画、テレビ番組においても幅広く活躍した。フラストレーションの訳語に欲求不満という言葉を当てた。
南博の社会心理研究所、コロンビア大学研究員を経て1967年頃から成城大学助教授。2004年定年、名誉教授。ゼミの指導学生に宮島和美元ファンケル社長などがいる。2009年肺炎のため東京都目黒区の病院で死去。享年76。
1961年には尾崎秀樹、武蔵野次郎が創立した「大衆文学研究会」に編集委員として参加。のち、大衆文学研究会会長もつとめた。
また「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。
大衆文化、広告、若者論、性などについて広範な著述と翻訳を行う。
あ、あと神島二郎にも。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月18日
……考えたらそりゃ教育大や筑波、國學院あたりで「民俗学」当時学んどらした人がたと、ハナシ合うわきゃないですわな(おい)
丸山眞男と柳田國男に師事し、両者の業績(丸山政治学と柳田民俗学)を架橋したと言われる。戦争に敗れた衝撃から、近代日本の歩んだ道筋を追究した。神島が提唱した「第二のムラ」「第二のイエ」概念(近代社会に生まれた集団や組織、より具体的には郷党閥や学校閥が前近代的な集団や組織の秩序原理を引き継いでおり、この擬制が天皇制ファシズムの温床となった)は近代日本史を解くキーワードの一つと評価されている。
これ「第二帝政に向かうフランス」と雰囲気が重なりますね。
フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」
人びとは 田舎を讃美し、無学な人間のほうが、そうで ない人たちよりも生まれながらにしてより良識を身につけているとされた。憎しみが世にはびこっていた。小学校教師に、酒屋にたいする憎しみ。哲学の授業に、歴史の講義に、小説に(ロマン主義文学者が好んで着た)赤いチョッキに、(聖職者を連想させる)長いひげにたいする憎しみ。そして、独立不羈をとなえるあらゆるものに、すべての個性の表明にたいする憎しみである。
この反知性主義(あらゆるインテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層に対する不信感)こそが、近代フランス大衆心理の基底を為していく? その大源流には19世紀に始まった民族教育が…
「産業者(les Industriels)」理念を提唱したサン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon,1760年~1825年)は「産業階級の教理問答(catechisme des Industriels,1823年〜1824年)」の中で独特の民族史観を語っている。
- フランスの王侯貴族の先祖はノルマン人である。彼らはある日突然フランスにやってきて現地のゴール人を力ずくで支配下に置いた。とはいえ武力に加え優れた文化や技術も持っていたので、征服は必ずしも悪い側面だけではなかった。
- しかしゴール人は慎重に全てを学びながら次第に農場経営や商業や工業の実務を握る様になっていく。遂には法律の制定や運用、所領の出納管理といった支配体制の根幹まで丸投げする様になり、ノルマン人の末裔達は単なる高級遊民となり果ててしまう。
- そして今やゴール人の末裔達は遂にフランスの殆どを掌握する事になった。彼らこそまさに未来のフランスを担うべき産業者達(les Industriels)である。今はバラバラに分断されているが、団結さえすればこの国を手に入れられるのである。
その一方でシャルルマーニュ大帝の末裔を自認する元大貴族(すなわちフランク人)だったサン=シモンは王制の存続については比較的寛容で「産業者間の利害対立を巡る紛争の調停役として有用なら残せばいい」なる立場を表明している。
ああこれ「中国やベトナムが共産主義段階で落ち着いた」理由でもあるという…そういえば話題になった中国のSF小説「三体」でも「欧米型リベラルインテリへの不信感」ならはっきりと打ち出されていました。
どんどん露わになる「欧州的インテリズムの本質」…
「百獣の王(Le Roi Des Animaux)」歌詞
Les tigres tuent les belles panthères
虎は美しい黒豹を餌食とします。Les poules zigouillent les vers de terre
雌鶏の餌食となるのはミミズです。Les lions massacrent les jolies gazelles
ライオンのガゼルの屠り方は残酷です。les chats dépouillent les oiseaux de leurs ailes
しかし小鳥の羽を毟って弄ぶ猫ほどでしょうか?Mais de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?Mais de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !
人間に他ならないんじゃないんでしょうか?
Nous on tue des lions, on tue des loups, et on tue des agneaux
私達はオオカミもライオンも子羊も見境無く殺します。Les poules trop fastoche on les butte par vingt dans leur cageot
檻の中の雌鳥だってまとめて蒸し焼き。On tue des hommes, des femmes, des vieux, des enfants à gogo
女だろうが、幼児だろうが、老人だろうが見境なし。On peut tuer tout ce qui bouge, alors c'est qui les plus costauds ?
視界に入る全てが屠殺対象。それこそ最強の証なの?Les girafes s’empiffrent de feuillage
確かにキリンだって食べられるだけ食べます。les vaches engloutissent des pâturages
放牧中の牛だって食べられるだけ食べます。les lapins se bourrent de carottes et de choux
ニンジン畑やキャベツ畑に放たれたウサギだって同じ。les koalas se goinfrent de bambous
竹林に放たれたコアラも同じ。Mais de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?Mais de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !
人間に他ならないんじゃないんでしょうか?Nous si on veut on peut vider les océans
私達には海を空っぽにする事だって出来るんです。Couper les arbres et brûler tous les champs
森を伐採し尽くす事だって出来るんです。Nous si on veut on peut même faire fondre les glaciers
氷河を溶かし尽くす事だって出来るんです。On peut dégommer la planète qu'ils arrêtent de s'la raconter
地球の外に飛び出して、他の惑星に到着する事だって出来るんです。Oui de tous les animaux, c'est qui les plus forts et de loin ?
それでは百獣の王って何でしょう?Oui de tous les animaux les plus forts c'est nous, c'est les humains !
人間に他ならないんじゃないんでしょうか?
そんな感じで以下続報…