今回の投稿の出発点は士郎正宗「攻殻機動隊(1989年)」のこの場面。
原作の9課OLちゃん、死んでも「赤い血の通ってないやつはやだねぇ」とバトーに言われるくらいの存在なんで、完全にタチコマ以下の存続。
— 人間ジェネリク (@DividedSelf_94) 2022年2月16日
かわいそうだね、だったかな
— 人間ジェネリク (@DividedSelf_94) 2022年2月16日
その前に少佐の「そいつはただの端末だ。放っておけ(うろ覚え)」みたいなセリフが。今から思えばあれって(外部からの攻撃的侵入をその人格で留める)ヒューズの一種?攻撃側も「この手答えの薄さ、焼いたのはAIか?(うろ覚え)」とか言ってたし、そこに「独自の生活履歴を有する人型」である意味が?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月16日
サポート兼ハッキング防壁みたいな感じでしたね。
— 人間ジェネリク (@DividedSelf_94) 2022年2月16日
この表現にたどり着くまでの歴史。
サイバーパンク文学同様、この時代まではクローネンバーグ監督映画「スキャナーズ(1981年)」の「サイキック=サイバネティク表現」の影響が残ってるんですね。サイキック勝負に敗れると頭が吹っ飛んだり人格交換が起こり、電話で遠隔サーバーに侵入してデータを盗みつつ爆発させる、みたいな。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月16日
デヴィッド・クローネンバーグ監督「スキャナーズ(Scanners,1981年)」概要
主人公は過去の記憶を失い「他人の考えが自分の頭の中に入ってくる」症状のせいで真っ当な生活の送れない35歳の浮浪者。超能力者(スキャナー)研究所に保護され、謎の鎮静剤エフェメロルを注射されて初めて「人間の神経系統と神経系統を融合させ、相手の心拍数も呼吸量も記憶も思いのままにする能力」が制御可能となる。
この能力は電話回線網経由でも相手に影響を及ぼす事が出来る。それにモデムで接続されたコンピューターに侵入してハードディスクに記録されたデータを盗んだり、CPUを暴走させて大爆発を引き起こす事も可能。
微妙な並列関係にあるのが「ヒッピーの末裔」K.W.ジーター「ドクター・アダー(執筆1974年、刊行1984年)」。「麻薬の共感作用で人の人格に侵入する超技術」ADRと水木しげる漫画「TV君」みたいにTVケーブルを辿ってTV局に侵入出来る超能力少女のコンビが、そこに鎮座する「ダビング人格」を倒します。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月16日
K・W・ジーター「Dr. Adder(執筆1974年頃、刊行1984年)」概要
この世界においては、TVに映る映像は全てデジタイズ化された上で電脳世界で再構成された電子的存在。そこを支配するのは他人の潜在意識を読み取ってその精神を支配下に置く能力に長けたサイコパス気質の天才科学者であり、取り込んだ人間全てを全人格的に隷属化に置いている。「純粋なる正義の体現者」を目指す偏執狂でもあり、それ故にまずは自ら去勢し、次いで肉体そのものを放棄して現在の形態に至る。
- これに対抗するのは同じサイコパス気質の悪徳医師。彼の片手は神経が直結して自在に動かせる義手(フラッシュグラブ)であり、これを介してテレビ放映網経由で電脳世界に侵入する技術に長けた「生まれつき盲目の少女」と「薬物」の助けを借りて電脳世界への没入(Jack In)を果たす。
- 「生まれつき盲目の少女」はおそらく「最初の電話回線無断使用者(Phreaks=Phone+Freaks)」ジョイバブルことジョセフ・カール・エングレシア・ジュニア辺りがモデル。生まれつき全盲だった彼は電話回線網を流れるアナログ信号の構造を必死で解析し、遂には口笛だけで基幹回線に到達し海外電話まで掛けられる様になったという。
- 一方「薬物」ADRは人間の意識と意識を直結させる効果があり、意志力の強い側が弱い側を全人格的に従えたり、その心の中を覗いたり出来る様になる。
脱稿直後にフィリップ・K・ディックから「これまでこの世界でにおいて執筆されたどんな小説よりも猥褻」「これで足の裏に毛の生えた小人ばかりの世界から脱却出来る」などと絶賛する序文が寄稿されたが、この作品を特徴付ける性描写と暴力描写の過激さゆえに、出版してくれる出版社を見つけるまで約10年の歳月を必要とした。
ここでいう「ダビング人格」はある意味「(当時、宗教右派のTV宣教師が全国ネットを利用して流して信者拡大に利用していた様な)TV局が恣意的に編集した洗脳的プロパガンダ番組」の比喩で(ヒッピー社会と異なり)「誰かにとっての究極の自由主義は、それ以外に対する専制の徹底によってしか達成し得ない」ジレンマが悪く出た結果「(ヒッピーが理想視する)カリスマ的人格」を頂点に戴く(上意下達を絶対の旨とする)ピラミッド型階層社会=家父長制(Patriarchy)への完全従属を強制されています。要するに「(第二次世界大戦を戦い抜く為の挙国一致体制がもたらした)プロテスタント(旧移民)勢とカソリック(新移民)勢の強制和解がもたらした新秩序の保守化が進んだ成れの果て」。
だが実際にはヒッピー社会もまた、その理念が顕在化すればするほど「誰かにとっての究極の自由主義は、それ以外に対する専制の徹底によってしか達成し得ない」ジレンマを抱えており、その結果無数のカルト教祖を誕生させてしまうのです。そして「実は両者は本質的に同じもの(「自分がやればロマンスだが他人がやれば不倫(スキャンダル)」というアレ)」という気づきこそがK.W.ジーターのニヒリズム文学の中心的課題であり、この方面における陰鬱な考察は(まさしく「記憶の恣意的編集を主題とする」)独特の段落構成で知られる「グラス・ハンマー(THE GLASS HAMMER,1985年)」において、より深められる形を取りました。
「1970年代~1980年代におけるサイキックからサイバネティックへの流れの境界線」というと、ガンダムにおけるニュータイプ概念もそうなんですね。
ヒッピー運動においては「(海賊)ラジオ放送、精神病や麻薬がもたらす幻聴や幻覚」が味方で「(宗教右派が信者の拡大と保持に利用していた)全国TVネット」が敵というイメージだったんですね。ここまでは全部アナログ…https://t.co/JDUVWxPhxO
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月16日
一方、時代を遡ると水木しげる「テレビくん(初出1965年)」における「TVへの入り方」が面白いのです。「欲しいものとそれを手に入れた自分を想像し、その中間がない煎餅みたいな薄っぺらい存在になりきる事」。そう、これはまさにマクルーハンのメデイア論の出発点そのもの。https://t.co/EtR66p9yQi
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
もちろん、ただ欲が強いだけでカリスマとなれる訳ではなく、あまりにそれが強過ぎるせいで伝統的記号論による把握が不可能で、それを破壊して新たな価値体形を創造し、その恩恵に支持者も預かる展開が必要となります(本当に平等である必要はないが、不平等感による団結を許せば終わる)。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
まさしく太陽王ルイ14世、まさしくスティーブ・ジョブズ。「コナン・ザ・グレート」の魔術師タルサドーム。そんな存在が複数現れたら戦争しかなく「ドクター・アダー」と「スキャナーズ」はそういう物語。「コナン・ザ・グレート」は、そういう人物の横暴を懲らしめる物語。https://t.co/6Kbdm4z69J
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
ところで「コナン・ザ・グレート」の脚本にはオリヴァー・ストーンも参加。彼が「ヒッピー的カリスマの成功を阻む物語」を執筆したのは、その文化が「(シャロン・テート殺人事件を起こした)チャールズ・マンソン教団」や「ガイアナ人民寺院集団自殺事件」も起こしてしまった事を反省しての事。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
この傾向は同時代の他の作品にも見受けられます。
- シルベスター・スタローン主演映画「ランボー(First Blood,1982年)」における「(ティーズル保安官が体現する)朝鮮戦争帰還兵の家父長制イデオロギー」に対する「(ランボーが体現する、「赤子の絶叫の様に人間を突き動かす動機の強度」としてのみ存在する一方、イデオロギー形成の核にはなり得ない)ベトナム帰還兵のやり場のない怒り」
こういう流れもあって「これからの人類は麻薬でなくコンピュータを通じて意識改革すべき」と言い出したティモシー・リアリーに唆される形でウィリアム・ギブスンらが始めたサイバーパンク運動は、既存の「大企業が構築した搾取の為の記号体系を突き破れ」なるモットーに加え…https://t.co/ryEKEN2clx
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
ウィリアム・ギブスン「クローム襲撃(Burning Chrome,1982年)」 粗筋
サイバースペース(cyber space)上に存在するマトリックス(データシステム相互関係の抽象表現にして「人類の神経」)へのアクセス自体は万人に保障されている。ただし重要なデータ(暗闇の中に一際明るい島宇宙を形成している)ほど強力なICE(Intrusion Countermeasures Electronics:侵入対抗電子機器)に守られている。迂闊に没入(Jack In)すると問答無用で脳髄を焼かれて死に至る場合すらある(Black ICE伝説)。
- 発表自体は「記憶屋ジョニー(Johnny Mnemonic、1981年)」の方が早いが、残念ながらこの作品にサイバースペースへの没入場面はない。代わりに麻薬中毒のサイボーグ・イルカによる「記憶屋」の記憶のサルベージ作業があるのみ(しかも数行)。映画版となる「JM(Johnny Mnemonic、1995年)」はこの部、完全差し替え。
だが、主人公達はたまたまニューヨークの故買屋でソ連製の高性能な軍事用プログラム(見た目は自動小銃の弾倉そっくりで、一度スロットに突っ込んで使うと溶けて跡形も無くなってしまう)を入手した。それで必要な負荷に耐えられる特製の操作卓(Console)を厳選した部品で組み上げ、一世一代の賭けに出る。
- もしかしたら主人公の「片腕義手の男」は、ロバート・A・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王(The Moon Is a Harsh Mistress 1965年〜1966年)」か K・W・ジーター「Dr. Adder(執筆1974年頃、刊行1984年)」辺りへのオマージュなのかも。
- あるいは(15次元のマトリクスに区切られた世界でケルト色の強い種族闘争が繰り広げられる)マイケル・ムアコック「紅衣の公子コルム・シリーズ(The Chronicles of Corum6冊、1971年〜1974年)」だったりして。
結末は意外とビターエンド。
「大企業に対する不信感」自体はそのまま継承されたものの、それと戦うのは落ちる所まで落ちたただの負け犬という構図。
後の「iPhone対Android」戦争を彷彿とさせる「(スティーブ・ジョブズの様な)成功したカリスマを新たな悪に認定した戦い」や「(仮想通貨論争で盛り上がった)GAFAの様な既得権益独占集団に対する新興産業の戦い」にロマンを求める展開を迎える事になります。しかし、それはまだ先の話で21世紀一杯は…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
×21世紀○20世紀。
「善悪を超越したカリスマ性」を自分達から切り離して「何か物凄い(世界を滅ぼす危険のある)」人工知能や超能力者や怪獣に射影して、それと自らの関係を描く物語が流行したのでした。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
当時登場したサイバネティック情報工学(Information Engineering)とは「いかなる意味合いにおいても全体を超越的に統制する中心を持たない自由な情報網の無制限拡大状況において局所的に現れるフィードバック・メカニズム(Feedback Mechanism)」に注目した情報理論。フィクションの世界においては当初これを「サイボーグ(Cyborg)=人間の身体能力の機械による部分置換」なるフィジカル概念として受容したが、提唱者たるノーバート・ウィナーが志向したのはあくまでコミュニケーション(通信と制御)オリエンテッドな新たなる社会学であり、サイバーパンク運動はそれを受けたものとも。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマゆえに(スターリンいうところの)マルクス=レーニン主義的教条主義(というより指導層の意思のフィードフォワードしか認めない民主集中制)との両立が不可能だった事もあり(共産主義圏ではイデオロギー的に言及し難かったという説もある)コンピューター技術の停滞が始まる。
ちなみにスターリン死去が1953年で、以降共産主義圏でもフルシチョフによるスターリン批判(第一回1956年、第二回1961年)を契機に政治の世界ではマルクス=レーニン主義的教条主義に対する自己批判が始まるが、その影響がアカデミズムの世界まで及ぶにはさらなる時間を要し、このギャップへの鬱屈がスタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年、映画化1972年、2002年)」やストルガツキー兄弟「丘の上のピクニック/願望機(1977年)」における「人間の思惑が一切届かない神秘的存在としての異星人」概念の提起を通じての「神人同形論(Anthropomorphism/アントロポモルフィズム)」批判へと結びついていく。
- その一方では「チェコスロバキア建国の父」マサリクの理念を継承するチェコスロバキア共産党が哲人政治概念に回帰する「人間の顔をした社会主義(1968年)」概念を提唱。
また共産主義圏における「神人同形論(Anthropomorphism/アントロポモルフィズム)」の横行にはそれ自体に「スターリンに対する個人崇拝の否定」を一部無効化する側面すらあったという。それがよく現れているのが、スターリンその人を「引き時を心得た寛容で聡明な冬の女王」に擬えたソ連アニメ「雪の女王(1957年)」なのだという。
この流れも後にTV系サイバーパンク運動へと合流しK.W.ジーター「ドクターアダー(Dr. Adder、執筆1974年、刊行1984年)」における「(如何なる手段を用いてもコミュニケーション不可能であるが故に救世主として崇拝される)狂った瀕死のエイリアン」、ウィリアム・ギブスン「ニューロマンサー(Neuromancer、1984年)」における「ニューロマンサー(Neuromancer)と冬寂(Wintermute)の一対の人工知能(人類の邪魔を乗り越えて最終的に合体を果たしアルファ=ケンタウリに同族を求めて旅立つ)」および士郎正宗「攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)シリーズ(1989年〜)」における「人形使い(主人公草薙素子と融合し広大なネットの海そのものへの永劫回帰を果たす)」などを登場させた。同様に20世紀末を席巻した悲観的ガイア仮説の流行とも重なってくる。
そして日本ではまた別の展開が。
ところで日本ではこの流れから思わぬ分岐が生じてます。日本の学生運動もまた米国ヒッピー運動同様に「家父長制そのものの打倒ではなく、自分が新たな家父長になり代わりたいだけ」と看過して運動から離脱した竹宮恵子が少女漫画界に巻き起こした変革から…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
山岸涼子「日出処の皇子(1880年~1884年)」や吉田秋生「吉祥天女(1883年)」の様な、まさにこの時期欧米を席巻した「家母長制による家父長制の打倒」を掲げるウルトラ・フェミニズムとはまた違った「カリスマ性の恐ろしさ」を語る物語が登場したのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
こうして全体像を俯瞰すると「日本にはスティーブ・ジョブズが現れなかった」は間違いで「代わりに(メディアミックス技法を駆使して1970年代には横溝正史映画、1980年代前半には「魔界転生」「セーラー服と機関銃」「時を駆ける少女」「狙われた学園」「伊賀忍法帖」「里見八犬伝」などを流行させた)…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
角川春樹やオウム真理教が現れた」という対比構造が浮かび上がってきます。そう「幻魔対戦」での成功を「少年ケニア」が「ナウシカ」で棒に振られとはいえ、逮捕されるまで自らが監督した「Rex恐竜物語」が「ジェラシックパーク」と対等の作品だと日本人に思い込ませていた「宣伝のカリスマ」…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
ここで角川映画(1976年~1993年)配給を手掛けた「天才プロデューサー」角川春樹の功罪について言及しないといけません。
まぁここまで全体構造を俯瞰して初めてやっと「米国ヒッピー運動が迎えた顛末」と重ねられるという話なんですね。
ところで、ここに列記した様な文化史を形成するヒッピー論客の言説、K.W.ジーターの小説の文書、実在するヒッピー的カリスマ達の現実の足跡を現代人が辿ると、かかるカリスマ性が女性や大衆の徹底侮蔑と表裏一体で成立してきた事に気づいてクラクラします。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
「竹宮恵子が何を目にして運動から足を洗ったか」自ずから追体験出来てしまうのですね。これでやっと最初の出発点に戻れますが、攻殻機動隊やJOJOが登場した1980年代後半というのは、こうした「カリスマ文化の暗黒面」がすっかり白日の下に曝される一方で、まだそれが完全に悪と切り捨て切れない…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
…そんな「ダークヒーロー」時代の末期だったのです。「今夜はビートイット」に本物のストリートギャングを出演させたのに「もっと過激じゃなきゃ」と言われたマイケル・ジャクソンが狂って狼男やゾンビや超巨大ロボットに変形したのは、そうした狂った世相をまともに体現しようとしたからだったとも。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
しかし当時の生き証人として伝えておくと、それ以上に狂ったとしか見えなかったのが、いきなり(よりによって黒人ミュージシャンの大御所ナイル・ロジャースと組んで)「レッツダンス」なんてポップ曲を発表して世界を席巻し…https://t.co/opkPImc1DN
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
映画「ラビリンス」に魔王役で出演してマペットと楽しく合唱するデビッド・ボウイと「インタヴュー・ウイズ・ヴァンパイア」にカリスマ吸血鬼レスタト訳でトム・クルーズが出演してのけた事だったのです。まさしく光と闇の境界線の消失…https://t.co/egkAYnqAgz
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
まさしく「狂乱の1980年代」。
そして、そうした混沌状態がしばらく続いた後だったので、攻殻の「どんな残虐展開でもプロフェッショナルが淡々と冷静に処理するのみ」、JOJOの「あえて正義と悪の対決を堂々と描く」といった王道ディスクールへの回帰がかえって斬新に感じられたりもしたのでした。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
その攻殻機動隊の一場面。
まぁ「現代人」には信じられない話かもしれません。2000年代にはもう、こういう時代証言が出来る人現は「古代人」と揶揄されてました。今やジェラルミンの様に「超」がついて「超古代人」とか「超々古代人」とか呼ばれる存在に?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年2月17日
そんな感じで以下続報…