諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【社会進化論(Social Darwinism)】④アメリカのカンブリア爆発期(南北戦争~第一次世界大戦)と「ホフスタッターの原罪」?

南北戦争(1861~1865 年)終結から第一次世界大戦(1914年~1918年)の間にかけてのアメリカ歴史はまさにカンブリア爆発状態。

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今回のメモの発端。

アメリカ合衆国革新主義時代(別名進歩主義時代,英: Progressive Era)は、1890年代から1920年にかけて、社会と政治の改革が著しく進んだ時代である。進歩主義運動(革新主義運動)の主たる目的の1つは政府の浄化であり、政治を蝕んでいた政治マシーンとボスの内情を暴露し、その力を弱めることで政府内の腐敗を取り去ろうとした。進歩主義(革新主義者)の全員ではないがその多くは、酒場を基盤とする地方ボスの政治力を殺ぐために禁酒法を支持した。これと同時に「より純粋な」女性の票を政治に取り込むために女性参政権の承認取得を推進した。運動の2つめの目的は、近代化を必要とする古いやり方を特定し、科学的、医学的かつ工学的な解決策を強調することで、あらゆる分野における効率化を成し遂げることだった。

多くの人々が地方政府、公共教育、医療、財政、保険、工業、鉄道、教会など多くの分野で改革の努力を行った。進歩主義者達は、社会科学、特に歴史学、経済学、政治学の分野を変化させ、専門化させ、「科学的に」させた。学術分野ではアマチュア執筆家の時代が終わり、学術雑誌や新聞に記事・論文を掲載した研究の専門家の時代になった。国政の指導者には、共和党員ではセオドア・ルーズベルトロバート・M・ラフォレット・シニアチャールズ・エヴァンズ・ヒューズハーバート・フーヴァー民主党員ではウィリアム・ジェニングス・ブライアンウッドロウ・ウィルソンアル・スミス等がいた。

改革の動きは当初地方レベルで動き、後に州や国のレベルに広がった。進歩主義中産階級から支持を集め、また弁護士、教師、医師、牧師、事業家などの支持を得た。進歩主義者達は、科学的方法を強く支持し、経済、政府、工業、財務、医療、教育、神学、さらには家庭にまでそれを適用した。彼等は西ヨーロッパで当時進行していた進歩を密接に追い、銀行法のような多くの政策を採用した。その1つが1914年連邦準備制度に結実した。彼等は時代遅れのやり方が無駄で非効率と考え、熱心に「最良の1つの仕組み」を追い求めた。

  • 何故か抜かれてるこの人…かなりの名族の出身。

そして実は「(ニューヨークだからこそ現れ得た)アイルランドカソリック初の政治的成功者」ともされるこの人…

英語版の方が少し情報量が多い様です。とりあえずDeepLによる機械翻訳結果。

The Progressive Era (1896–1916) was a period of widespread social activism and political reform across the United States of America that spanned the 1890s to World War I. The main objectives of the Progressive movement were addressing problems caused by industrialization, urbanization, immigration, and political corruption. Social reformers were primarily middle-class citizens who targeted political machines and their bosses. By taking down these corrupt representatives in office, a further means of direct democracy would be established. They also sought regulation of monopolies through methods such as trustbusting and corporations through antitrust laws, which were seen as a way to promote equal competition for the advantage of legitimate competitors. They also advocated for new government roles and regulations, and new agencies to carry out those roles, such as the FDA.

進歩主義時代(1896-1916)とは、1890年代から第一次世界大戦まで、アメリカ全土で社会運動と政治改革が広く行われた時代である。社会改革者は主に中産階級の市民であり、政治機構とそのボスを標的にしていた。このような腐敗した代表者を倒すことで、直接民主主義のさらなる手段が確立されることになった。また、独占企業に対しては、独占禁止法による規制を、企業に対しては、独占禁止法による規制を、正当な競争者の利益のために平等な競争を促進する方法として考えた。さらに、政府の新しい役割と規制、そしてFDAのようなその役割を遂行する新しい機関を提唱した。

Many progressives supported prohibition of alcoholic beverages, ostensibly to destroy the political power of local bosses based in saloons, but others out of religious motivation. Women's suffrage was promoted to bring a "purer" female vote into the arena. A third theme was building an Efficiency Movement in every sector that could identify old ways that needed modernizing and bring to bear scientific, medical, and engineering solutions; a key part of the efficiency movement was scientific management, or "Taylorism". In Michael McGerr's book A Fierce Discontent, Jane Addams stated that she believed in the necessity of "association" of stepping across the social boundaries of industrial America.

多くの進歩主義者はアルコール飲料の禁止を支持した。表向きは酒場に拠点を置く地元のボスの政治力を破壊するためであったが、宗教的動機からである者もいた。 女性参政権は「純粋な」女性票を戦場にもたらすために推進された。 第三のテーマは、近代化を必要とする古いやり方を特定し科学、医学、工学的解決法を実現する効率運動をあらゆる部門で築くことだった。効率運動の主要部分は「テイラー主義」こと科学管理である。マイケル・マクガーの著書『A Fierce Discontent』において、ジェーン・アダムスは工業国アメリカの社会の境界を越えて踏み出す「連合」の必要性を信じていると述べている。

Many activists joined efforts to reform local government, public education, medicine, finance, insurance, industry, railroads, churches, and many other areas. Progressives transformed, professionalized, and made "scientific" the social sciences, especially history, economics, and political science.In academic fields, the day of the amateur author gave way to the research professor who published in the new scholarly journals and presses. The national political leaders included Republicans Theodore Roosevelt, Robert M. La Follette and Charles Evans Hughes, and Democrats William Jennings Bryan, Woodrow Wilson and Al Smith. Leaders of the movement also existed far from presidential politics: Jane Addams, Grace Abbott, Edith Abbott and Sophonisba Breckinridge were among the most influential non-governmental Progressive Era reformers.

地方自治、公教育、医療、金融、保険、産業、鉄道、教会など、さまざまな分野の改革に、多くの活動家が参加した。進歩主義者は、社会科学、特に歴史、経済、政治学を変革し、専門化し、「科学的」なものにしました。学術分野では、アマチュア作家の時代は終わり、新しい学術雑誌や出版物で発表する研究教授に取って代わられました。政治的には、共和党セオドア・ルーズベルト、ロバート・M・ラ・フォレット、チャールズ・エヴァンス・ヒューズ、民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアン、ウッドロウ・ウィルソン、アル・スミスらがリーダーとして活躍しました。また、この運動の指導者たちは、大統領政治から遠く離れた場所にも存在した。ジェーン・アダムス、グレース・アボット、エディス・アボット、ソフォニスバ・ブレキンリッジは、最も影響力のある進歩的時代の非政府の改革者たちであった。

Initially, the movement operated chiefly at the local level, but later it expanded to the state and national levels. Progressives drew support from the middle class, and supporters included many lawyers, teachers, physicians, ministers, and business people.Some Progressives strongly supported scientific methods as applied to economics, government, industry, finance, medicine, schooling, theology, education, and even the family. They closely followed advances underway at the time in Western Europe and adopted numerous policies, such as a major transformation of the banking system by creating the Federal Reserve System in 1913 and the arrival of cooperative banking in the US with the founding of its first credit union in 1908.Reformers felt that old-fashioned ways meant waste and inefficiency, and eagerly sought out the "one best system".

当初、運動は主に地方レベルで展開されたが、後に州や国のレベルへと拡大した。進歩主義者は中産階級から支持を集め、弁護士、教師、医師、牧師、実業家などが多く含まれた。進歩主義者の中には、経済、行政、産業、金融、医学、学校教育、神学、教育、そして家族などに適用される科学的手法を強く支持する者もいた。彼らは当時西ヨーロッパで進行していた進歩に忠実に従い、1913年連邦準備制度を創設して銀行制度を大きく変え、1908年に最初の信用組合を設立して協同組合金融がアメリカに到来するなど、多くの政策を採用した改革者は旧来の方法が無駄と非効率を意味すると感じ、「唯一最善のシステム」を熱心に探した。

調べる過程で明らかになったのが「効率追求運動はテイラー主義一択ではなかった」事。まさしくカンブリア爆発期…

1ダースなら安くなる」のモデル夫婦、実はとんでもない人だった?Wikipediaのリンクが何故か息子の方につながってるので気付くのが遅れたけど…

まぁ典型的なホイッグ史観記法で記されている事自体は否めません。

よく考えて見ると「最初は旧移民(東海岸在住のプロテスタントの英国系・アイルランド支配階層系)コミュニティに分散して存在していた」とは言えるかも。

テレビ説教師の国、アメリカ

アメリカ合衆国の地に最初に定住したヨーロッパ人はピューリタンの人々でした。 イギリスがイギリス国教会を国の宗教として宗教の統一をはかった時、 一部のピューリタンの人々は弾圧を避けて新天地アメリカへ渡ったのでした。

彼らは清教徒と訳されるように清貧を旨とするかなり厳格でかつ心やさしいキリスト教徒でした。 彼らは今のアメリカとカナダの東海岸に入植し、開拓民としての農業生活を送っていました。

その後、毛皮商人や本国を追われた犯罪者などがアメリカへ渡ってきました。 彼らはピューリタンの人々とは正反対の金や酒、女といった欲望に弱く、 自分の利益のためなら弱い者いじめを平気でするような連中でした。

さらにゴールドラッシュの時代になると金の輝きに目のくらんだ彼らの後輩たちは、 金の鉱脈を求めて東海岸から西へ西へと移動し、 アメリカインディアンの土地を侵略していきました。

一方、ヨーロッパ大陸からはピューリタン以外にもプロテスタントカトリックの宗教対立に嫌気のさしたいろいろな宗派の人たちが 新天地アメリカへ渡ってきました。 彼らの中には東海岸に留まらず、 中南部へ行って農場を開いたり、牛の放牧をはじめた人たちもいました。

しかしながら、アフリカからの黒人奴隷を大量に使用した大農場主の多くは彼ら心やさしいキリスト教徒ではなくて、 欲に目がくらんでアメリカにやってきて定住した人たちでした。

このようにアメリカ合衆国には全く宗旨の違う2つの「人種」がヨーロッパからやって来たのです。 一方、アメリカの政治は南北戦争以来、おもに東海岸を地盤として工業化を推進し中央政府の企業への介入をできる限り抑制しようという共和党と、 南部を地盤として農業を保護し中央政府による福祉や基盤整備を充実させようという民主党の2大政党によって展開されてきました。

気をつけなければならないのは先程述べた2つの「人種」が共和党民主党に分かれて争っているわけではないことです。 共和党においても民主党においてもその実権を握っているのは「利益を求める人たち」であって、 「清貧を旨とするキリスト教」ではないのです。 清貧を旨とする人たちはその志のゆえに産業界に重きをなすことはできず、 従って金のかかるアメリカの政治の実権を握ることはできないのです。

これはこれで「価値観分断を煽る」物凄い世界観…

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アメリ共産党(CPUSA=Communist Party of the United States of America,1919年~1950年代後半)

 その母体となったアメリカ社会党(SPA=Socialist Party of America,1901年~1970年代分裂)。

社会労働党 (Socialist Labor Party of America) の一派と、アメリカン鉄道労働組合のプルマン・ストライキのベテランによって1898年に結成されたユージン・V・デブスの率いる社会民主党 (Social Democratic Party of America) が合併して、1901年に結党された。結党初期の著名なメンバーには、ユージン・V・デブスヘレン・ケラージョン・リード、アプトン・シンクレアジャック・ロンドンヴィクター・L・バーガー等がいた。

1910年にはヴィクター・L・バーガー連邦議会下院に送り、1912年の大統領選挙では6%の得票を得た。しかし共和党民主党もこれを既成政党に対する批判と受け止めその政策を取り込んだ事から同党の存在意義が薄れる。

第一次世界大戦(1914年~1918年)に反対したことから、アメリカ国民から非国民呼ばわりされ、党勢が衰える。

ロシア革命(1917年)の余波で1919年には改良主義的な路線に飽き足らない左派が離党しアメリ共産党アメリカ共産労働党(Communist Labor Party of America)を結成(1921年合流)。

1925年の大統領選では進歩党のロバート・ラフォレットを支持し、1928年からは独自候補の擁立に転じ、たびたびノーマン・トーマスを出馬させた。しかしフランクリン・ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策アメリ共産党の存在により独自性が失われ、小規模化し下院の議席も失う。

第二次世界大戦後の1951年にはすでにミニ政党ではあったが、社会主義インターナショナルの創設に加わり、1948年から1960年にかけてフランク・ザイドラーウィスコンシン州ミルウォーキーの市長となった。ミルウォーキーは現在に至るまでアメリカで社会主義者の市長を擁した最大の市である。

1958年にはマックス・シャハトマン率いる反共主義的なトロツキストのグループが加入し、党の執行部を掌握する。1972年から1973年にかけてベトナム戦争とピッグス湾事件への賛成と新左翼への対抗を打ち出した事から分裂。

欧州では(マルクスと袂を分かったラッサールが創始した)社会民主主義=国家社会主義陣営が(とりあえずロシア革命(1917年)勃発まで)「マルクス思想の継承者達」を圧倒しましたが、アメリカにはまた異なる展開が待っていた訳です。

木戸美幸「アメリカ社会進化論で読む『お国の慣習』」

アメリカの歴史家リチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter)は、19世紀最後の30年間および20世紀初頭にかけてのアメリカ社会では、進化論の影響力が圧倒的であり、社会進化論を唱えたスペンサーは、アメリカでの評判が本国イギリスにおけるよりはるかに高かったと述べている(Hofstadter, Richard. Social Darwinism in American Thought. 1944)。

この時代のアメリカは、南北戦争(1861~1865 年)終結後で産業文化の拡張期を迎えており、急激な経済発展を遂げつつあった。スペンサーの社会進化論を信奉し、強者必勝を地で行った実業家には、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie1835~1919年)、金融王 J・P・モーガン(J.P.Morgan 1837~1913年)、鉄道王ジェームズ・ヒル(James Jerome Hill1838~1916年)、石油王ジョン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller1839~1937年)といった、アメリカ産業発展の立役者たちがいる。彼らは、最強で効率のよい組織が市場を独占するのは、自然の法則にかなっており、市場独占はアメリカ経済の発展に寄与できる、と自負していた。

革新的なアメリ社会進化論の擁護者たちは、政治上の放任主義を主張する保守主義者でもあった。マルサスの論理と同様、社会的弱者の救済は、生存に適していない人間や組織を増やすことになり、社会的経済的発展を阻害し、ひいては国に不利益をもたらすと考えられた。したがってアメリカ政府による国民への積極的関与は、むしろ最小限に抑えられるべきとの、無政府主義的思想が歓迎されたのである。

しかし、生存競争を勝ちぬき、成功の証として巨万の富を手にした資産家たちは、まさに競争文明の花として社会に君臨した一方、アメリカ社会は、本質的に利己的で攻撃的である彼らが引きおこすさまざまな問題と対峙せざるをえ なかった。社会進化論の行きつく先はここであった。市場経済化と競争激化は 必然的に物質主義、拝金主義をもたらし、道徳規範は低下し、人々の精神は荒廃した。アメリ社会進化論信仰の終焉が近づいていた。ホフスタッターによ れば、「アメリカにおけるスペンサーの流行のピークはおそらく1882年の秋(同上)」であり、彼に関心を持つ者さえ、もうめったにいない、とあ る宗教思想家が1917年に述べた挿話をホフスタッターは引用している(同上)。生存競争に敗れた社会的弱者は、なすすべもなく、アメリカ社会の底辺に沈んだ。倫理観の荒廃は、社会のさまざまな面で問題を引きおこしていた。 19世紀後半アメリカ社会に社会進化論がもたらしたものは、社会の多くを犠牲にした一部の個人だけの物質的豊かさであった。社会全体を豊かにするため には、個人だけではなく、政府も相応の役割を果たさなければならない。1929年大恐慌を経て、1930年代のアメリカが、ニューディール政策のもとで混合 経済と福祉国家への道を歩みはじめたのは、人間主義の社会をつくるために大 きな政府が必要であることを、人々が身をもって学んだ後であった。

なるほど、金鍍金時代を席巻したイデオロギーは、ただの社会進化論ではなく…

遅れてきたマルサス人口論」と悪魔合体した複合形だった様ですね。

絶対王政が最盛期を迎えた18世紀欧州においては、ジャガイモやトウモロコシやインゲン豆といった新世界作物の普及による各国の人口急増にも後押しされて激化した列強間の衝突が(その主軸を為してきた神聖ローマ帝国(オーストリア王国)皇統ハプスブルグ家とフランス王国王統ブルボン家の歴史的和解を中心とする)外交革命1756年前後。背景に新興国プロイセン王国の台頭があり、両者が連合した結果プロイセン王国が打倒されると成長限界に突入=欧州内で領土紛争が起こる余地が消滅)によって鎮まった途端にフランス革命1789年~1799年)やナポレオン戦争(1799年~1815年) が勃発し(第一次世界大戦(1914年~1918年)あの余波としての帝政ロシアオスマン帝国、ハプスブルグ君主国の解体を一つの区切りとする)近世の終焉が始まってしまうが、当時の時代精神の顕現として最も著名なのはマルサス方程式(Malthusian Equation)\frac{dN}{dt}=rN=N_0exp^{rt}を世に知らしめたマルサスThomas Robert Malthus,1766年~1834年)「人口論(An Essay on the Principle of Population,1798年)」における「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが、生活資源は算術級数的にしか増加しないので必ず不足する」なる提言だったとされている。

後に「ロジスティック方程式(Logistic Equation)」なる概念の登場によって反駁される考え方だが、同時代を生きた「暗黒のロマン主義マルキ・ド・サド(Marquis de Sade,1740年~1814年)は、エドガー・アラン・ポーEdgar Allan Poe、1809年~1849年)と並ぶ(自らの著作を広める為に事前に市場調査を徹底して行う近代的ニュアンスにおける)マーケッティング・リサーチの先駆的実践者の一人であり、理論上ベルヌーイオイラーによる指数関数(Exponential Function)α^x対数関数(Logarithmic function)Log(x,root=α)の発表(1683年以降)以前には遡れない指数関数的発散への懸念自体はそれ以前から有識者の間で囁かれており(だからこそまとまった理論として発表された時に読書階層が飛び付いた)「だから人間社会が存続するには(疫病の流行や災害や戦争や革命による)人口の定期的間引きが欠かせない」なる極論が密かに流行していた事、もしかしたら生涯に渡って戦争に明け暮れ上掲の「欧州列強間の衝突の激化」の台風の目玉となった「太陽王ルイ13世(Louis XIII、1601年~1643年,在位1610年~1643年)もまた経験的に同様の結論に到達していたかもしれない可能性などを指摘している。こうした市場ニーズ把握を踏まえた上で執筆されたのが「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校(Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage,1785年)」や「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え(l'Histoire de Juliette ou les Prospérités du vice,1797年~1801年)」といった後に禁書扱いを受ける問題作品群であり、この人物があれほどフランス王政や革命政府やナポレオンに敵視されて生涯牢獄や精神病院に幽閉され続けたのもまた、その(多くの人が心の中で思い受けべるだけに留めた)恐るべき結論を探り当て、あえて公表し作品の主題に据えた大胆不敵な態度故だったとされる。まさしく水木しげる画伯の様に「自分の好きな事しか書かないが、それを世間に認めさせる為にはどんな手口だって使う実際、水木しげる画伯は自分の妖怪画を市場に売り込む為に第一次怪獣ブームを利用している)」タイプの変態大作家(おそらく米国パルプマガジン黄金期(1920年代~1930年代)に「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」ジャンルを創始したH.P.ラブクラフトや、雑誌「講談倶楽部」への残酷通俗小説掲載によって1930年代日本を風靡し、かつその講談社の少年誌「少年倶楽部」への戦前の掲載を皮切りに光文社の月刊娯楽雑誌「少年」を通じて1950年代に「少年探偵団」シリーズをブレイクさせた江戸川乱歩などもこの範疇に入る)の代表例だった訳である(エドガー・アラン・ポーも同種のエピソードに事欠かないが、特に「炎上マーケティング」を駆使した事で悪名高い)。ちなみに「大転換-市場社会の形成と崩壊(The Great Transformation,1944年)」で著名なカール・ポランニー(Karl Polanyi,1886年~1964年)が創始した経済人類学なるジャンルが、こうした考え方を20世紀後半バタイユの「過剰の蕩尽」論と結び付け、インディアンやエスキモーの間で伝統的に遂行されてきたポトラッチ外交、「奴隷狩り大国ダホメ王国や「人身供儀大国アステカ王国の体制研究と併せて大々的な反近代論として展開し「ポスト・マルクス経済学」と褒めそやされていた歴史を私は決して忘れない。そういえばルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712年~1778年)もリスボン地震(1755年)の衝撃からいかにもスイス人らしく「被害が深刻なものとなったのは、あまりに多くの人々が都市の小さな一角に住んでいるせい」「この地震神罰ではなく文明のおごりが起こした人災。都市への集住など一刻も早く禁止し、人類はより素朴で自然な生活様式に戻るべき」といった結論を引き出す一方、かかる大災害を契機に神の善意を疑問視する様になったヴォルテールに反駁して神の摂理を弁護し「この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきであり「すべては善」ではなくても「全体にとっては善」が為されたとは言える」と自論を展開。かかる理想論を実現する為にフランス革命当時、ジャコバン恐怖政治指導下においてポール・バラスPaul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)がマルセイユトゥーロンにおいて、ジョゼフ・フーシェJoseph Fouché, 1759年〜1820年)がリヨンにおいて、九月虐殺Massacres de Septembre、1792年)にも参加したジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)がボルドーにおいて(絶対王政庇護下、フランスの資本主義的発展に寄与してきた)都市住民の霞弾(大砲の散弾)による大量殲滅を遂行し、同じく王党派の抵抗が根強かったヴァンデに地獄部隊 (Colonnes infernales,1794年1月〜5月, 後背地の集落を片っ端から襲撃して「妊婦の腹を裂き、赤子を竈に放り込む」民族浄化作戦を遂行した虐殺部隊)が投入された事からロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年~1794年)が「ルソーの血塗られた手」の二つ名を頂戴しフランスへの産業革命導入が軽く半世紀は後退して19世紀における大英帝国の単独覇権が準備された事、こうした振る舞いを神聖視したが故の愚行の縮小再生産版がカンボジアで自国民(特に経済的に恵まれていたベトナム系市民)への大量虐殺を遂行したクメール・ルージュ政権だった事なども、そうした歴史の重要な一部だったりする。

ベルギー・ブリュッセル出身の数学者フェルフルスト(Pierre-François Verhulst,1804年~1849年)の研究としては、人口論におけるロジスティック方程式ロジスティック曲線が最も知られている。1838年に、人口予測に関する論文"Notice sur la loi que la population suit dans son accroissement"を発表した。この論文の中で、現在ではロジスティック方程式と呼ばれる人口増減の予測式を提案したがフェルフルストの存命中に反響を得ることはなく、後の1920年アメリカのレイモンド・パールローウェル・J・リードの研究によって再発見されることになる。

近代統計学の父」と呼ばれるアドルフ・ケトレー(Lambert Adolphe Jacques Quételet または Quetelet,1796年~1874年)に数学を教わったことがあり、その後は友人でもあり助言者でもある関係となった。ロジスティック方程式の研究も、ケトレーが原形となるアイディアを持っており、それの更なる研究をケトレーフェルフルストに勧めたことから始まっている。

数学の研究により1819年ゲント大学から博士号を授与され、1828年ブリュッセル天文台を創設し天文学の研究を行った。

  • 当時の新しい研究分野である確率論と統計学最小二乗法などの形で主として天文学に応用されていた。ラプラスは確率論を社会研究にも応用することを考えていたが、ケトレーはこのアイディアに基づき「社会物理学」の名で研究を開始した。
  • 彼の目標は、犯罪率、結婚率、自殺率といったものの統計学的な法則を理解し、他の社会的要因の変数から説明することにあった。このような発想は自由意志の概念に反するということで当時の学者の間に議論を巻き起こした。18世紀以来の「神の秩序を数学的に明らかにする」という思想ではなく「個人の行動に基づいて科学的な法則性を追究した」点で功績がある。

彼の最も有名な著書は「人間とその能力の発展について-社会物理学の試み(Sur l'homme et le développement de se facultés, ou Essai de physique sociale,1835年)」である。ここでは彼の考える社会物理学を概観し「平均人(l'homme moyen=社会で正規分布の中心に位置し平均的測定値を示す)」という概念を提出している。そのほかに「社会物理学(La physique sociale;1869年)」などの著書があり、特に19世紀後半の社会統計学に強い影響を与えた。

  • 人の社会的データのみならず身体的データについても研究を行っている。特に人の身長に対する理想的体重と実際の体重を比較する指数、つまりボディマス指数(ケトレー指数)を提案し、これは公衆医学上も重要な貢献である。

1850年前後にはベルギー政府の統計実務にも関わり、国勢調査を指導。また統計学に関する雑誌と学会を創立し、統計学者間の国際的な協力に熱心であった。

ああ、統計学にはこんな前史があったのですね。

そして…

どうやら「マルクス主義的歴史段階発展説の単なる射影」というより「アメリカにおけるマルクス主義の展開のニューディーラーによる剽窃」と考えた方が正い模様? そして後にそれがホイッグ史観歴史段階発展説悪魔合体を果たして国際的に(大衆の仮面を被った)俗流モラリストが振りかざす「自由主義は必然的に古典的自由主義(個人主義)社会進化論(帝国主義)社会進化論(社会主義)と段階的に発展していく」なる歴史観に到達した?

そんな感じで以下続報…