諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】米国学生運動が残した足跡?

公共社会学(Publicsociology)…そんなのもあるのか。

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今回の投稿の発端はこれ。

フロムは、バールーフ・デ・スピノザと同じく「幸福は徳の証である」と考えていた。つまり生産的な生活人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれるとした。その一方で神経症権威主義サディズムマゾヒズム人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした。

  • あらゆる神経症の核心は、人間の正常な成長と同じように、自由と独立を求める戦いにある。正常な人の多くは、この戦いを自己放棄によって終わらせ、うまく適応し正常であると認められようとする。神経症的人間はこの戦いを放棄することはできないが、依存性と自由を求めることの間の矛盾をとこうとすることの試みとして、成功していない試みとして理解することができるという。

またフロムは「フロイトの使命(1959年)」や「フロイトを超えて(1979年)」などの著作でジークムント・フロイトの生涯に関する記述と彼の理論の批判的検討を行っている。

  • フロムによると、フロイトの欲動理論は第一次世界大戦を境目として二つに分けることができるという。大戦以前、フロイトは人間の欲動(drive)を欲望(desire)と抑圧(repression)の間に生じる緊張であると定義していたが、大戦以降のフロイトは人間の欲動をエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の葛藤であるとみなした。フロムはこの2つの理論の間に矛盾があることを看過してフロイトとその理論の支持者を非難したのである。

  • また、フロムはフロイトの二元論的な思考も批判している。フロムによると、フロイト派は人間の意識を二項対立を用いて記述しており、それ故に捉え損なっているものがあるという。さらに、フロムはフロイトミソジニー(女性に対する嫌悪や蔑視)をも批判している。

批判すべき点を批判したうえで、フロムはフロイトの業績に対して深い敬意を表している。フロムはフロイトを「アルベルト・アインシュタインカール・マルクスと並ぶ近代の創始者の一人である」と結論付けている(なお、フロムはフロイト以上にマルクスの重要性を強調している)。

エーリック・フロム自由からの逃走(1941年)」

ファシズムの勃興を心理学的に分析した。近代において発生した個人の自由がいかにして権威主義ナチズムを生み出したのかを丁寧に著述している。サディズムマゾヒズムおよび権威主義を人間の自由からの「逃走のメカニズム」として分析し、現代において真のデモクラシーを保つための提言がなされている。「自由からの逃避のメカニズム」として破壊性機械的画一性も指摘している。思考や感情や意思や欲求は個人の自発的なもの由来ではなく社会や他人による影響の大きさ、そして自分自身が自分自身によって思考し感じ意思・欲求することの難しさも指摘している。そして無意識による心理学によって社会的常識を破って個人や文化の分析をすることができると話す。

ある意味ドイツ社会学における方法論的個人主義の伝統の大源流となった「マルクスフロイト主義」の完成形とも。

なるほど、ヒッピー達が叫びだす以前に「マルクス=フロイト主義」は米国アカデミズム界に既に拠点を確保済みだったのですね。

しかし新世代がこうした「マルクスフロイト主義の伝統」に根差す形でなく(現代人の感覚ではそのグノーシス風反世界的価値観がなんとも時代遅れに感じる)マルクス主義に傾倒。それには彼らなりの存続を賭けた戦いの流儀が存在したのです。

×ヒッピー文化の痕跡を引きずったている様に見えるのはそのせいなんですね。○ヒッピー文化の痕跡を引きずっている様に見えるのはそのせいなんですね。

この流れ、日本においては「家父長制へのパロディとしての家母長制」を顕現させて人気を博した古谷三敏ダメおやじ(1970年〜1982年)」の脱構造化が進み、ついにはさだまさし亭主関白(1979年)」が登場する流れに対応しているとも。

同時代の社会学の展開に目を向けると…

マシュー・デフレム 著「社会学の構造変容」

Alvin Gouldner西洋社会学の迫りくる危機(1970年)」

この非常に影響力を持った本の中で,グールドナーは保守的であると主張することによってパーソンズ流のフレームワークを徹底的に破壊しようとした。一層強く,グールドナーは「客観科学として社会学を展開しようとするいかなる試みもそのごく初期から失敗が宿命づけられている」ものとみなした。そのため,グールドナーは,パーソンズの世界全体を糾弾するだけでなく,彼の思考に反発して生まれた代替理論(交換理論,エスノメソドロジー)をも糾弾した。1950年代ミルズと違って,グールドナーは新世代の社会学者,旧来の理論は応じることができない感情を持つ1960年代ヤング・ラデカルズ世代に今や依拠することができた(Gouldner 1970 : 7)。換言すれば,グールドナーは「社会生活の主観的性質は社会学者によって社会学的認識そのものに適用可能なものとして認識されるべき」だと述べた。それゆえ,社会学者は自分たちの態度,感情,感覚を彼らの仕事に変換すべきで,それによって社会を解放し,真にラデカルな社会学を実践することを提唱した。

世界大百科事典内のA.グールドナーへの言及【社会学

1960年代から70年代にかけての批判と内省が,個々の社会学者をして新たなアイデンティティの模索に駆り立てるほどの知的衝撃力を発揮したのは,それらが従来の批判や内省には欠如していたメタ科学次元での根源的な省察に支えられていたからである。すなわち,こうした批判や内省の主導者的役割を果たしたA.グールドナーに典型的にみられるように,社会学の自己探究はこの科学の〈下部構造〉,とりわけその〈領域仮説〉についての存在論的,認識論的,人間学的検討から開始し,概念,対象,問題,方法等の科学的検討を経て,最後には個々の社会学者の〈感情の構造〉や〈個人的現実〉にまでその批判精神が回帰せねばならぬという,おそろしく根源的な性格をもっていた。

だからといって,社会学の基本理念やそれに導かれた研究領域への関心やコミットメントが,社会学者の間で消滅したわけでは毛頭ない。…

世界大百科事典内のA.グールドナーへの言及【知識人】

政治の科学化,組織の管理化,文化の産業化が著しく進展し,〈技術的認識関心〉が異常に肥大している現代の先進産業社会では,intelligenceによって生きる人間を知識人問題の領域から除去するわけにはいかない。最近,グールドナーAlvin Gouldnerは,この二つの知識の保持者を〈技術的知識人technical intelligentsia〉と〈人文的知識人humanist intellectuals〉に区別したうえで,両者がともに〈文化資本〉とプロフェッショナリズムのイデオロギーによって結ばれた新しい階級,つまり〈文化的ブルジョアジー〉を構成するにいたっていると主張している。この説に賛成しようとすまいと,これら二つの知識階層の間の牽引・反発の弁証法関係,および相互浸透の問題は絶対に看過されてはならない。

カウンター・カルチャー世代の台頭。

1950年代60年代の危機の声明は実質的に社会学の活動家によるラデカル化を引き起こした。60年代世代が時代から離れた1970年代初めは多少ともラデカルなニュー社会学の多くのバリエーションの生まれるのを目撃した。これらの発展の一部は知的で,一部は専門職のレベルで開花した。

スカラーシップの事柄では,1970年代初めから一連のラデカルな社会学的著作が刊行され始めた。ほとんど一夜にして,カール・マルクス社会学の創設の父の一人になった(Manza/McCarthy 2011)。はっきり批判的傾向を持つ特化した新しい雑誌が創刊され,この分野の主要著作がマルクス主義その他のラデカル思想の影響を受ける一方で,マルクス主義社会学研究が既成の社会学誌にも徐々に掲載されるようになった。

学会レベルでは,ASAに社会学者のラデカル化が起こった。この方向転換には,多様な視点の社会学と多様な背景を持つ社会学の広い受容の要求が伴った。ASAは時折明示的な政治問題,道徳問題にコミットし,従って会員の一部の反対を押し切って行動することを恥ずかしいと思わなかった。二つの出来事が目立つ。1967年に,サンフランシスコの年次大会で,ベトナム戦争反対のデモが組織された(Rhoades 1981)。社会学解放運動は戦争終結を要求するASA決議を提案した。しかし学会はフォーマルな方針を採択すべきでないことに会員の多数が投票したときにその決議は敗北した。1968年に決議が再提案されたが,再び敗れた。他の語るべきストーリーは1976年に起こった。ASA会長Alfred McLung Leeの指図で,ASA執行部がシカゴ大学社会学James Colemanを学会から除名しようとした。彼のリサーチで,コールマンはバス通学プログラムによって公立学校から白人が逃げる傾向がみられることを発見した。除名の試みは失敗した。コールマンの名がナチの鍵十字と一緒に掲示された学会年次大会で公開セッションが開催された直後のことであった(Coleman1989)。

ラデカルな危機社会学者は有利な人口統計学的環境に依拠していた。60年代世代社会学は,第二次世界大戦後の社会学に存在したオプティミズムによって専攻し,社会学の大学院学位を受ける学生数の増加に寄与したので,サイズの面で目立っていた(Turner/ Turner1990)。1960年までにASAは会員6千名以上で10年前に比べると 2 倍以上であった。1960年代は,数だけでなく,種類でも,現時点から見ても社会学者のバラエテイでも疑いもなく,豊富であった(see e.g. the autobiographies in Sica/ Turner 2005)。

「調査の達人」ジェームズ・コールマン

ジェームズ・コールマンは,多彩な顔をもっている。理論社会学者,数理社会学者,計量的社会調査の専門家。ここでは,第三の顔に焦点を当てる。

コールマンはアメリ社会学会会長(1991~92 年)になっているが,それまで学会の要職理事に就いたことは一度もなかった。それはコールマンが1975年の調査報告書で,公立学校の人種統合を進めるバス通学制度が白人の親・生徒に敬遠されて,白人の郊外への引っ越し,私立学校への転校をもたらしている実態をまとめ,性急な人種統合政策の停止を訴えたために,当時のアメリ社会学会長が学会から彼を除名しようと画策した。これに対してコールマンは10年にわたって学会出席をボイコットした。コールマンは下記の66年調査報告書で「黒人のための権利獲得に忙しい勧告者」,テレビ・雑誌で「時の人」,一般大衆でも彼の顔と名前を知らないものがいないほどの著名人であったのが,一転して人種差別主義者に変節した裏切り者と公民権運動賛同者から思われたのである。

そもそも,バス通学制度による公立学校の人種統合をアメリカの最高裁が指令するきっかけになったのが1966年に発行された,コールマンが調査主査を務めた合衆国教育局 健康・教育・福祉省の調査チームのまとめた『教育の機会均等』報告書であった。これは 1964年に通過した公民権法402条に教育機会の不平等の実態を把握するための調査の実施が義務づけられていたために,議会の要請で行われたものである。議会に調査報告する期限まで 2 年間,その間に 4,100 校 60 万人以上の児童・教員・校長・教育長を対象にした調査を行い,調査の実施後から最終レポートの刊行までわずか 10 ヵ月の猶予しかなかった。

そもそもどうしてコールマンに白羽の矢が立ったか。『思春期社会(1961年)』の著者であった彼の大規模なサーベイリサーチを取り仕切る能力を買われたからであった。コールマンがなぜ引き受けたのか。彼が就任した新設されて間もないジョンズ・ホプキンズ大学社会学科のデモンストレーションになると考えたからである。

1966年の調査報告書は膨大なもので(700頁と同じ頁分の集計表の付録),報告書には勧告文はなかった。補償教育プログラムが全く効果を上げていない実態を報告書は暴露した。学校資源が生徒の成績に違いをほとんど生んでいない事実を突きつけられて,学校関係者たちは啞然とした。初等中等教育法(補償教育プログラム)の延長を画する議会は,報告書を無視した。調査チームと調査対象学校側との連絡折衝にあたった USOE(合衆国教育局も,報告書の内容が公民権運動推進派に漏れることを恐れた。

その報告書が公立学校における人種統合(白人を多数にして黒人を混合する)通学バス制度政策をもたらしたわけは,白人多数の学校に通学する黒人児童の成績が,人種隔離された黒人のみの学校に通学する児童より成績が上回っているという指摘があったからである。報告書を有名にしたのは,様々の物議を醸した上記の事情以外に,「公立学校の事実上の人種分離」を憲法違反であると訴えた訴訟で,原告側が報告書を人種統合の恩恵を指摘する証拠としてたびたび引き合いに出したからである。そればかりでなく,その報告書の分析内容をめぐって当時の主だった教育社会学者たち・経済学者たちとコールマンが論争を繰り広げたことも大きい。

対応する日本における政治展開。

倦怠の時代(dullage)

ニューヨーク・ナイトクラブ・スタジオ 54 の著名なオーナーがかつて「倦怠の時代 (dullage)」と呼んだ 1980年代の10年は,社会学もうまくいかなかった。ポスト1960年代世代の絶頂が過ぎ去り,学生数,社会学会の会員の数も低下していった。1970年代に,ASAは会員を10年前に比べて倍増させ1,500名としたたが,1980年代半ばには1,100 名にダウンしている。社会学のこの急落は 1970年代に盛り上がったラデカルな方向の楽観主義を考えると納得のいかない予想外の結果であった。

倦怠の10年の終焉時に高等教育の社会学の存在そのものにとってもっと良くないニュースが到来した。社会学ではきわめて珍しい週刊誌で報じられた出来事であった(Kantrowitz,1992)。もっとも厄介な兆候はイェール大学の社会学科の定員 40% 削減の計画,ロチェスター大学とワシントン大学セントルイス校の社会学科の事実上の閉鎖であった。上記の出来事はつながりのない出来事なのか,社会学に広く影響を及ぼす趨勢が存在するのか定かでないが、社会学が困難の渦中にいるものと考えられた。それに呼応して社会学の全く新しい危機がアナウンスされた。

そういえばこの時代は国際的にニューアカ/ポストモダン全盛期ボードリヤールとか人気だったのを思い出しました。私が大学の社会学科に通ったのもこの時期ですが、正直アメリ社会学について習った記憶が全然ないのです。

Irving Louis Horowitz社会学の腐敗(1993年)」

ライト・ミルズの批判的な自伝執筆者(Horowitz 1983)の手になるこの本は,特にマルクス主義者のイデオロギー的傾斜と同時に政策との無関係によって,学問として社会学が衰退にあるという議論を展開している。ホロビッツがいうには,イデオロギーへの寄生で社会学は同時に断片化し,凝集性を欠いている。そのうえ,犯罪と法のような研究分野は新しく開発された研究領域(犯罪学,法と社会)の主題となり,社会学から取り上げられ,結果として社会学専攻の数は大幅に減少してきている。

Stephen Cole社会学の何が間違っているのか(1994年/2001年)」

元々は 1994年に雑誌『社会学フォーラム』の特集号 8 編として刊行されたが,8 つの章を追加して 2001年に編著として登場した。この書は社会学のラデカル化と関連した幅広いトラブルに取り組んでいる。著者達は,社会学イデオロギー的性質を嘆き,関連して社会学理論と調査の様々のありふれたものであるが決して気づかれていない欠陥を指摘する。この書の疑問への解答は,決まって多くは「社会学の問題であり,改善の展望は芳しくない」というものであった。社会学が実際どれだけ間違っているかは,イデオロギー的に堕落した知的に凝集しない社会学の新しい危機という基本的前提を受け入れる者によっては予見できないものであった。古い危機は1960年代の対抗文化世代が社会学をラデカル化したことに依拠しえたのに対して,新しい危機は1980年代社会学の衰退の含意を取り上げねばならなかったからである。

マイケル・ブラフォイ(Michael Burawoy)「公共社会学(publicsociology,1999~2004年)」

グローバルな成功を考えると、公共社会学社会学の新時代(社会学が少しも危機感を持たない時代)に先導役を務めていると結論しても間違いではない。社会学のラデカル化は実際に存在するすべての社会学を破壊したり攻撃することなく異議を唱えられないアプローチとして公共社会学を完全に制度化する地点に達した。

土場学「公共性の社会学/社会学の公共性」

公共社会学 (publicsociology) という言葉はまだ馴染みが薄いが、最近アメリ
カの社会学マイケル・ブラウォイによって社会学の一つの研究ジャンルを意味する
ものとして提唱されている (Eurawoy2004a,b,c 2005a,b)。ブラウォイによれば、
公共社会学とは「社会学をアカデミズムの世界から公衆(publics)のもとに連れだ
すことにより、社会の命運に関わる諸々の事柄についての対話を促進し、われわれの
信じる諸価値をミクロな視野のもとに提示することを追求する一つの社会学」である
(Eurawoy 2004a: p. 104)。つまり、ブラウォイの構想する公共社会学とは、社会学
土台にある諸価値を公共圏のなかで開示し、そこでの公衆との対話と協働を通じて、
そうした諸価値に基づく社会を構築しようとする社会学のことである。

こうしてみると、公共性の社会学は、自らの研究営為をたんに「公共性を記述するも
」としてだけではなく「公共性を構築するもの」としても捉える必要がある。あるいはそれは、公共圏の観察者であると同時に行為者でもなければならない。ただしこのような二重性もしくは再帰性は、社会学の研究営為一般にいえることである。つまり公共性というトピックは、社会学の研究営為のそうした特性をあらためて省察してみる重要な契機を提供しているともいえる。

理想と現実

例えば,その組織に関して ASA は多様性声明(diversity statement)にコミットしている。それは,有色,女性,ゲイ,レズビアンバイセクシャルジェンダーを超越している人、障碍者,小さな大学研究施設の社会学者,政府,企業,その他の付属施設で働く社会学者,海外の学者を含めるという組織方針をとっている。もっとマイルドに述べると,いかなる学会組織にとっても,任意の特定のカテゴリーを排除することは具合が悪いのである。しかし学会組織があるカテゴリーだけを含める選択をするのはなぜか,他のカテゴリーを排除するのはなぜかは決して明白ではない。多様性声明ははっきり言って,偏っていて時代遅れである。もっと驚くのは,社会学会におけるマイノリティの数は極端に少ない状態が続いていることである。何らかの構造上の障害と文化的な傾性に関係なく有色の学者をリクルートするにはそれはあまり有効ではないので,社会学会のどこかが間違っているのかと尋ねねばならないほど少ないのである。2010年で13,708人の全会員うち,ASAはアフリカ系アメリカ人6%,ヒスパニック系アメリカ人は4.3%である。対照的に女性の数は急激に増加し,1990年初め以来,女性会員の方が上回っている。院生身分で特に著しい。

その活動家的プログラムではASAは2003年イラク戦争に反対の決議,2004年同性婚賛成の決議をしている。学会はさらに幾つかの最高裁判決で,裁判所の友(amicus curiae)のブリーフをファイルしたことを自慢している。活動主義は学会年次集会でも支配している。2011年の「社会紛争」,2012年の「リアル ユートピア」,2013年の「不平等を尋問する」のようなトピックを含んでいる。政治化した社会学社会学雑誌の頁を埋めている。その内容的な志向よりも方法論的アプローチの点で高度に科学的なブランド作品とそれは共存している。

なるほど、やっと「米国社会学は何処で間違ったか」全体像が俯瞰出来る様になりました。問題の発端はアメリカ文化史におけるカンブリア爆発、すなわち南北戦争(1861年~1865年)終結から第一次世界大戦(1914年~1918年)の時代まで遡るのです。

そこまで遡った場合の思想史を整理すると以下となりそうです。

  • まずはル・ボンの群集心理学を批判する形でタルドのメディア公衆学が成立。その背景には「とりあえず大衆という形で可視化された反知性主義的怪物」への警戒心の高まりがあった。

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  • 1920年から始まるトーキー映画登場に対応してイエズス会会士がカキテズモの一種として起草した「ヘイズ・コード(Hays Code,The Motion Picture Production Code of 1930,起草1929年,履行1934年)」においてタルド模倣犯在学メディア公衆論が援用されるも、(心の底軽蔑してるくせに、都合の良い時だけ大衆の皮を被る)俗流モラリストがその文面を好き放題拡大解釈して暴れ回る。

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  • 一方、20世紀前半にはル・ボンの群集心理学タルド模倣犯罪学やメディア公衆学トーキー映画の普及などが国際的に一斉展開。それ以前から広まっていたカール・マルクスの思想と併せ日本の思想史にも大きな爪痕を残す。この時思想の左右を問わず「総力戦体制の構築」が最優先課題とされ、一部は「(形而上的諸概念に一切頼らず)揃えたエビデンスにのみ立脚して(あらかじめ用意された結論に向けて)論を立てるアメリカ式実証主義までは到達したものの、誰も「閉世界仮説を採用すると空集合となる筈の全体集合の補集合に次々と追加される新要素を捌く流儀に一貫性を持たせるフランス式実証主義までは到達し得なかった事が当時の日本の思想界の限界となった。

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  • ヒッピー文化は元来1950年代マルクス主義と無関係に発祥した。しかしやがて「外界を記号としてのみ消費する傲慢」と表裏一体の関係にある「外界に記号としてのみ消費される事への実存不安」の高まりを背景に「この偽りの現世を破壊し尽くす事でしか、真に生きる価値のある世界は始まらない」と思い詰めるグノーシス的反世界神話としてのマルクス主義に傾倒していく。そこには一時的ながら確実に「さらに外側の世界」への憧憬が確実に存在したが、実際には「(マルクス主義的教条を遵守する信者側からではなく)己の欲望が大き過ぎる為に既存の価値観を破壊し尽くしてしまう絶対王政時代の君主の如き存在にして、他の絶対君主との党争に明け暮れるスティーブ・ジョブスミッチー・ケッパーの様なヒッピー教祖達が社会的成功を収め、GAFAの様な大企業が「消費者をすっぽり包み込む資本主義による記号の網の目」を継承していく歴史的過程において(明治維新当時におっける尊王攘夷志士の様に)打ち上げロケットとして使い捨てにされた感もある。
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    その一方で運動参加者の大半は「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突する。しかしながらかかる実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトは、長期的には相応の拾捨選択を経た後に伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なるアリストテレス主義(Neo Aristotelianism)の信念に従って「多少は改善された現実世界」への再復帰を果たした。

そして時代は21世紀に突入。マイケル・ブラフォイ(Michael Burawoy)が「公共社会学(publicsociology,1999~2004年)」を提唱したまさにその時代、インターネット上で最初の成功を収めたFacebook上では「21世紀のメディア公衆論」とでも呼ぶべき新たな議論が始まります。要するにSNSの世界は現実世界を覆い尽くす人間関係空間(Social graph)の射影というより、関心空間(Interest graph)として振る舞う事が明らかとなったのです。その記述には(Facebook技術者の共用語とされる)グラフ理論が使われました。

人間関係空間(Social graph)…スタンス的に自我心理学(特にアドラー理論)寄りの立場。FacebookTwitterは「Node=個人アカウント」「Edge=(相互フォローを前提とした)個人アカウント間の連絡網」と見立て、Edgeを流れる情報Trafficの量と方向から「影響力の強さ」を算出。この次元における人間の典型的行動パターンは予測が容易なので、近年はBotの跳梁が著しい。

関心空間(Interest graph)…スタンス的に(箱庭療法の背景理論として有名な)対象心理学(Objective Psychology)寄りの立場。「Edge=各投稿の回覧経路」「Node=それに参加した個人アカウントの集合」と見立てるが、ここで興味深いのが「回覧流布には明らかに方向性が存在する(相互Followなど回覧網全体に対するフィードバック確認目的でしか行われない)」「初心者は誰もが最下流回覧者から出発し、原則として回覧内容の品質向上に従ってFollowerを獲得し、上流回覧者(人間関係空間(Social graph)理論における「流行仕掛人(influencer)」)へと昇格していくが、性癖にブレが生じる都度既存Followerを失う一方で新規Followerを獲得する(つまり評価軸が「そのアカウントのカリスマ性」といった単次元ではない)」「各投稿の影響力は当初、累積回覧数と上流回覧者への信頼度でしか判断し得ないが、そのプロセスそのものが機械学習(feature learning、直訳は「表現学習」。「特徴量学習」とも)の一種であり、経験量の蓄積度に応じて上流回覧者への昇格が果たされる(例えばポルノ画像を回覧しているうちに次第に自らの性癖の把握が進み、同時に照明の具合だけで日本製かアメリカ製かドイツ製かそれ以外の欧州製かなどが瞬時に判断出来る様になったりしつつFollower数が増えて行く‼︎)」といった諸特徴で、これがBotにとっては参入障壁と成っている。

こうした展開において人間関係空間(Social graph)ベースの公共社会学がどんどん時代遅れになっていったのです。そこまで明らかに出来た所で、以下続報…