諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「東アジア的原始共産制」について。

司馬遼太郎西郷隆盛空海については「歴史の主人公」として一人称的に扱うのを諦めて「関係者の目に映った断片的証言を淡々と列記する」アプローチを選択。考え方としては数学における多様体(manifold)、すなわちそれ自体を全体像は定義不可能なブラックボックスと置いた上で(ユークリッド幾何で扱える単位の部分集合としての)アトラス(地図帳)の編纂によって漸進的に迫ろうという立場と重なります。

f:id:ochimusha01:20220302032250p:plain

出発点はこの投稿。

ここに乱入。

昔は便利な漢文対訳サイトがあったのですが…

プーチンの7mのテーブル」…

そして韓非子が生きていた時代、既に韓は名目上独立していたに過ぎず、事実上「秦国の郡県」みたいな状況に陥っていたとする説もあったかと。

これですね。

太古の世は、人民は少なく鳥獣の方が多かった。人民は鳥獣や虫、蛇には勝てなかった。
やがて聖人が現れて木に住処を作り、動物による被害を避けた。
人々は聖人の出現を悦び、天下の王とした。これを名づけて有巣氏といった。

人々は草木の実、貝類、生肉、悪臭のするものを食べたので胃腸を壊し、病気になる人が多かった。
そこで聖人が現れて火打石を使って火をおこし、生肉を焼いて食べやすくした。
人々は聖人の出現を悦び、天下の王とした。これを名づけて燧人氏といった。

中古の世になり、天下に洪水があった。
そこで鯀と禹が治水を施した。
近古の世に桀や紂といった暴君が現れて世を乱した。
そこで湯や武といった王が征伐した。

もし夏后氏の時代に木の上に住処を作り、火打石を持ち出す者がいたら、きっと鯀や禹に笑われるだろう。
殷周の時代に治水を言いたてる者がいたら、きっと湯や武に笑われるだろう。
そうであれば、堯、舜、禹、湯、武の事績を今の世の中で讃美する者がいたら、きっと現代の聖人に笑われるだろう。だから聖人は古の道を崇め修めることをせず、古来からの常識にのっとらず、現在の世の重要なことを論じ、これに必要な備えをするのである。

不思議な事に、同様のディスクールフェニキア神話にも見受けられたりします。

ヘレンニオス・ピローン 断片集

(09)彼の主張では、アイオーンとプロートゴノスとの子ゲノスから、さらに死すべき子どもたちが生まれた。彼らの名前は、ポース〔光〕、ピュル〔火〕、プロクス〔炎〕である。これらの者たちは(彼の主張では)樹木をこすりあわせることで火を発明し、その使用法を教えた。そしてこれらの者たちは、大きさと目立つ点で圧倒的な息子たちを産んだ。その〔息子たち〕の名前は、彼らが支配した山々に〔その名前として〕付けられ、その結果、彼らにちなんで、カッシオン、リバノス、アンティリバノス、ブラテュと呼ばれた。この者たちから(彼の主張では)サメームルゥモス — ヒュプスゥラニオス〔至高天〕ともいう — と、ウゥソーオスとが生まれた。しかし(彼の主張では)彼らは母親の名を名乗った。当時の女たちは、出会った相手と気ままに交わったからである」。

(10)続けて彼は謂う。「ヒュプスゥラニオスはテュロスに居住し、アシとイグサとパピュロスから小屋をつくることを思いついた。しかし、兄弟ウゥソーオスと争った。この〔ウゥソーオス〕は、獣 — これを集める力を彼は持っていた — の皮から身体の覆いを初めて発明した者である。猛烈な雷雨や風が起こったときは、テュロスにある樹木をこすりあわせて火を起こし、それらの素材を燃えあがらせた。また、ウゥソーオスは樹をとって、枝を払い、海に乗り出すことを敢行した最初の者である。そこで、「ピュル〔火〕」と「プネウマ〔気息〕」に2つの標柱を捧げ、礼拝し、自分が狩猟した獣の血をこれに潅頂した。そして、彼らが命終したとき、後に残った者たちは、彼の主張では、彼らに笏杖をささげ、くだんの標柱を礼拝し、年々、彼らのために祝祭を執り行った。

(11)さて、久しい時が経て後、ヒュプスゥラニオスの子孫から、釣りと猟の発明者たちであるアグレウスとハリエウスが生まれた。猟師(a)greuth/j)とか漁師(a(lieu~j)と呼ばれたのは、彼らにちなんでである。この者たちから生まれたのが、鉄の発明者と、その〔鉄の〕制作者である2人の兄弟である。このうちのひとりクゥソールの方は、言論と呪文と占いを修行した。この者がヘーパイストスにほかならず、釣り針と餌と釣り糸と筏をも発明し、全人類のなかで初めて航海した者である。だからこそ、死後、彼を神として人びとは崇拝した。また、彼はゼウス・メイリキオスとも呼ばれた。ある人々の主張では、彼の兄弟たちは焼き煉瓦によって城壁をつくることを思いついたという。

(12)その後、彼らの種族から2人の若者が生まれ、そのうちのひとりはテクニテース〔技術者〕と呼ばれた。もうひとりはゲーイノス・アウトクトーン。これらの者たちは、焼く煉瓦の泥に藁屑を混ぜ合わせ、これを太陽で干すことを思いついた。いやそればかりか、屋根をも発明した。この者たちから別の者たちが生まれ、そのうちのひとりはアグロスと呼ばれ、もうひとりは、アグロスの半神あるいはアグロテースと〔呼ばれた〕。この者には、崇拝された大きな像も、軛によって運ばれる神殿もポイニキアにある。とりわけビュブロス人たちの間では、神々のなかの最大の神と名づけられている。

(13)またこの者たちは、家屋に中庭と垣囲いと穴蔵を取りつけることを思いついた。この者たちから農夫たち(agrotai)と猟師(kynegoi)が生まれた。しかしこの者たちは、アレータイやティタネスとも呼ばれた。この者たちの血を引くのがアミュノスとマゴスで、村落や畜群を発明・教示した。この者たちから生まれたのがミソールとシュデュク、すなわち、「解きやすさ」と「正しさ」である。この者たちが塩の用法を発明した。

(14)ミソールの血を引くのがタアウトスで、これは最初の字母の書き方を発明したのだが、彼のことをアイギュプトス人たちはトーウト、アレクサンドレイア人たちはトート、ヘッラス人たちはヘルメースと呼んだ。他方、シュデュクからは、ディオスクゥロイとかカベイロイとかコリュバンテスとかサモトライケスが〔生まれた〕。この者たちは(彼の主張では)舟を発明した最初の者である。この者たちからは別の者たちも生まれ、これらが野菜や咬み傷の治療法や呪文を発明した。

(15)この者たちの時代に生まれたのが、ヒュプシストス〔至高者〕と呼ばれるヘリウゥンなる者と、ベールゥトと言われる女である。彼らはビュブロスあたりに定住した。彼らから生まれたのがエピゲイオス・アウトクトーンで、これを後に人々はウゥラノスと呼んだ。そうして、わたしたちの上に広がる原素をも、あまりの美しゆえに、彼にちなんでウゥラノス〔天〕と名づけることになった。この〔ウゥラノス〕には、前述の者たちから妹が生まれた。これこそゲーと呼ばれた者である。そして、美しかったので、彼女にちなんで(彼の主張では)人々は大地を同名で呼んだ。ところが、彼らの父親ヒュプシストスは、獣の攻撃に遭って(?)命終したので聖別され、子どもたちはこれのために潅頂と供儀を執り行った。

(16)こうして、ウゥラノスが父親の支配を受け継ぎ、妹のゲーと結婚し、彼女から4人の子どもをもうけた。クロノスとも〔呼ばれた〕ヘーロス、バイテュロス、ダゴーン(これがシトーンである)、アトラスである。またほかの配偶者たちからも、ウゥラノスは多数の子孫をもうけた。そのためゲーが怒り、ウゥラノスに嫉妬し、罵った。その結果、お互いに反目さえするようになった。

(17)そこでウゥラノスは、彼女と離婚し、好きな時に力ずくで襲いかかり、彼女と近づきになって、再び離れていった。さらに、彼女の子どもたちをさえ破滅させようとたくらんだので、ゲーはしばしば撃退し、自分の共闘者を集結させた。そしてクロノスが一人前になった時、トリスメギストス・ヘルメースを相談役兼援助者として — というのは、これは彼の読み書きの先生だったから — 、父親ウゥラノスを撃退し、母親の仇をとった。

(18)クロノスには、ペルセポネーとアテーナという子どもができた。前者は、処女のまま命終した最初の女性にほかならない。アテーナとヘルメースとの知略によって、クロノスは鉄から鎌と槍をこしらえた。次いで、ヘルメースはクロノスの共闘者たちとマギ僧の言葉で対話し、ゲーのために対ウゥラノス戦をたたかう渇望を植えつけた。まさしくこのようにして、クロノスはウゥラノスと戦端を開き、支配権を奪い、王位を引き継いだ。また、この戦闘で、ウゥラノスの愛妾も捕らえられ、彼女は妊娠していたのだが、これをクロノスはダゴーンと結婚させた。そこで彼女は彼のもとで、ウゥラノスによって子宮に孕んでいた子を産んだが、これこそ〔彼女が〕デーマルゥスと呼んだ子にほかならない。

(19)こういった出来事の後、クロノスは自分の館を城壁で囲い、都市としては最初の、ポイニキアのビュブロスを建設した

まぁある種の唯物史観

韓非子は中国の古代の思想家です。この思想家に興味を持ったのは、西郷隆盛が、入水自殺に失敗して、その後沖永良部島に流されたときに、韓非子を持っていき、熟読し、そして幕政復帰してからは、使命感に熱い志士、に加えて、権謀術数家としての側面を大いにそなえた、というところからです。

西郷隆盛陽明学と結びつけて語られる事もあります。

陽明学西郷隆盛始め、大塩平八郎、吉田松蔭、更には、クリスチャンの内村鑑三や政界の指南役と呼ばれた安岡正篤らが学んだほか、幕末の志士たちにも人気があり、2.26事件などの政府転覆の機運が高まる時代には、不思議と陽明学を心の拠り所とする者が増えるなど、日本にも多大な影響を与えました。

陽明学」はあくまで日本における呼称で、大陸のオリジナルは「陸王」と呼ばれます。大陸の人があえて「陽明学」なる語を用いる時は用心しないといけません。何故なら、それはしばしば暴力革命を是とする共産主義と「大塩平八郎の乱」や「西南戦争」を結びつけ、さらには上掲の韓非子の国家理想論を引いて毛沢東大躍進政策を正当化する文脈で語れてきたからです。そんな感じで以下続報…