米国における学生運動の展開。
そして、それに呼応する形で日本でも…
「プロ市民の系譜はおおざっぱに言ってベ平連に始まる。ベトナムに平和を!市民連合。六十年代半ばから後半にかけて、当時新進気鋭の評論家だった小田実(当時「戦後派」の代表格として扱われていた)が、年上の世代に属する鶴見俊輔など既存の左翼/リベラル系人士との連携で成立させた組織である。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「それまで政治運動とは正しく組織のものだった。政治に関わることとは好むと好まざるとに関わらず既存の政治組織に身を置くことだったし、まただからこそ選挙や議会、いや、何もそこまでゆかずとも等身大の民主主義を作動させてゆく仕掛けにコミットすることが可能という信心もまだ濃厚に存在し得た」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「学級会や自治会、討論会といった「民主主義」を理解してゆくための仕掛け――多くは「学校」を介して、それ以外では「職場」を媒介に布置されていったが、いずれそれらの仕掛けから組織と政治の関係というものとそこから立ち上がるとされる「民主主義」というやつを、われらニッポン人は学んでいった」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「学校では自治会活動が、職場では労働組合が、それぞれそのような経緯での「民主主義」を広めてゆく場になっていた。話し合いや議論が称揚され、論理による説得交渉が重要だとされた。数は力であり、多数派を形成してゆくためにこそ、それら話し合いや説得は展開された。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「そのような道具立ての上に語られる「民主主義」は、当然のことながら組織とは切っても切り離せないものとして理解されるようになっていた。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「戦後、共産党があれだけ党勢を拡大することができたのも、思想的なバランスシートから説明するやり方と共に、そのような組織への幻想が政治の局面でずっと右肩上がりに伸長していたから、という部分があるように思う。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「だが、六十年安保が一気に顕在化させたそのような「党」組織=共産党への不信感は、別の言い方にパラフレーズすれば、政治と組織や「党」の蜜月に対する亀裂が生じ始めたことでもあった。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「政治もまた個人に還元されることが可能になり始めていた。組織に属してその論理に従い大きな政治的目標を達成するより、個人として政治的になることも可能である、だからそういう個人のあり方を抑圧する組織に対してできる限り抵抗してゆくという立場が少しずつ、だが確実に輪郭を整え始めていた。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「組織と個人、という問いが政治の局面で大きな存在になってゆく。組織はこの場合、「党」と変換されることが多かった。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「ベ平連の出現とその急速な伸長は、そのように政治もまた個人として表現されるべきである、という考え方が広範に支持されるようになってきたことの反映だった。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
「思想信条としては確かにそれまでの左翼の脈絡の上にあったとしても、そこに同時に表現されていた重要な要素は、「党」や組織に縛られない、という部分、言い換えればまさに「個人」として考え行動する、というところだった。政治のブンガク化、と言ってもいいかも知れない。」
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2022年2月27日
しかし惜しむらくはこうした日本の政治シーンにおいてはヒッピー運動の導師(グル)ティモシー・リアリーが「麻薬を捨て、数理モデルの海に乗り出そう」と提唱する様なパラダイムシフトは起こらなかったのです。
従って次第に米国公共社会学同様に「経済的発展や経営理論洗練と無縁な独りよがりのイデオロギー」に堕していく展開を迎えざるを得なかったという…