諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「ヨーロッパの憲兵」と「インテリゲンツィアの悲劇」?

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まぁこうした思い込み自体は誤解だったっぽい?

アレクサンドル・ゲルツェンとロシアの風景

農奴解放令実現に影響を与え「社会主義の父」として有名な人物の一人とされる帝政ロシアの哲学者アレクサンドル・ゲルツェン(Aleksandr Ivanovich Herzen、1812年〜1870年)は、1812年にモスクワにて、地主の私生児として誕生。彼の母はドイツのシュトゥットガルトからの移民で官僚の娘、姓は「彼の心の子」という意味合いを兼ねて、ドイツ語で心臓を表すherzからとられた。

14歳のとき盟友の詩人オガリョフと共に雀が丘(レーニン)でデカブリストの遺志を継ぎ,農奴解放と専制政治の打倒に生涯を捧げることを誓う。

1829年モスクワ大学物理数学科に入学,オガリョフと革命的サークルを組織。サン・シモンフーリエらフランスの社会主義思想に傾倒した。

卒業した翌年の1834年逮捕され,5年間シベリアに流刑。流刑地から帰還後,西欧派最左翼として哲学論文「科学におけるディレッタンティズム(Diletantizm v nauke、1843年)」 ,長編小説「だれの罪か(Kto vinovat?、1847年)」 などを発表,1840年の思想的,文学的活動の指導者となった。文芸評論家のベリンスキー、歴史家のグラノフスキーアナーキストバクーニンなどと深い友情で結ばれ、モスクワのサークルで切磋琢磨しあう。

このころ モスクワの論壇を支配していたのは ヘーゲル哲学であった。ヘーゲルは その数年前に世を去っていたが、後期のヘーゲルは 功なり名とげて ドイツ哲学界の権威となり、体制内保守派になっていた。ゲルツェンは 彼の哲学に大いに影響を受けるものの、次のようにも書く(『過去と思索』より)。

 "すべての現実的なものは 理性的である" という哲学的命題は、ドイツの保守主義者たちによって、哲学をドイツの現実と和解させるための よりどころとされ、何にもまして有害な影響を与えたのである。

彼は、後にマルクーゼが『理性と革命(舛田啓三郎・中島盛夫・向来道男訳、1961、岩波書店)』で論じたような、"若きヘーゲル" の支持者であり、「現実が まだ理性的でないならば、それを 理性的なものに変革すべきである」という立場だった。

1847年西ヨーロッパへ亡命,1852年ロンドンに「自由ロシア出版所」を設立,新聞「(Kolokol、1857年~1867年)」 などを刊行,国外にいて専制政治と戦い,ロシアの革命運動に大きな影響を与えた。ほかにロシア思想史上の貴重な文献である回想記『過去と思索』を残している。イギリスの ロバート・オーウェン、イタリアのガリバールジマッツィーニ、フランスの ルイ・ブランルドリュー・ロラン、そして アナーキストプルードンなどとの交流が語られる。

ゲルツェンがロンドンに住んでいた時、彼より6歳若いマルクスは 同じロンドンで『資本論』を執筆していた。しかし 両者はお互いに反発しあっていたから、ついに 生涯 会って話をすることはなかったらしいが、マルクスはロシア語を学ぶのに ゲルツェンの『過去と思索』をテキストに用いたという。

ついでに言えば、インド建築史の ジェイムズ・ファーガスンは ゲルツェンより4歳上で、やはり その頃 ロンドンで『世界建築史』を執筆していたのだが、これは全く別世界の話であって、両者には接点がない。

1870年にパリで死亡。その時は人々に忘れ去られたも同然だった。

一方…

原題「A Hard Day's Night(1964年)」はDayの後にNightがくるという、文法上誤った言い回しであるが、これはリンゴ・スターが「It's been a hard day.」と言ったあと、外を見るとすでに暗くなっていたことに気付き「…'s night.」と付け足したというエピソードによる。

  • 邦題の「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」は映画評論家・水野晴郎がユナイト映画在籍時に名付けたという話が知られているが、「ビートルズがやって来る」は前年の1963年British-pathe社が製作したニュース映画「The Beatles come to town」(1963年のマンチェスター公演を収めたもの)と本作を取り違えて命名したのではないかという意見がある。
  • また、日本よりも先に英EMI傘下のオデオンレコードから発売されたドイツ盤には「A HARD DAY'S NIGHT YEAH! YEAH! YEAH!」というタイトルが付けられている。ドイツ以外にもオデオンレコード版権の国では「YEAH! YEAH! YEAH!」が付いている版が複数存在する(日本もオデオン系)。

日本語版でこのようなタイトルが選ばれた理由について、当時東芝音楽工業でビートルズ担当であり、本映画のプロモーションにも関わっていた高嶋弘之は「取り違えの可能性は否定できないが、むしろあの時代の状況やファンの気持をうまく取り込んだ結果ではないか」と語っている。

2000年に再上映とDVDがリリースされた際の邦題は、「ハード・デイズ・ナイト」に改められた。

気を取り直して先に進みます。

長綱光男「ゲルツェンの見たチャアダーエフ」

ロシア文学における新しい段階(1864年)」に記されたゲルツェンの時代認識によれば、ニコライ1世の時代は「(ピョートル大帝による近代化政策の結果「余計物」としてロシアに生じながら)政府の庇護を必要としないほど力をつけてきた文明」と「それでも文明を庇護しようとし続ける専制」が衝突し、専制が勝った時代であった。では何故文明は敗北せざるを得なかったのか。それを支えるべきナロード(民衆)が存在しなかったから。

ここでいう「文明」とはまさにインテリゲンツィア(19世紀ロシアにおける青年知識人層)そのものを指すといえましょう。

19世紀ロシアにおいてツァーリズムに対する批判が強まる中、貴族や豊かな階層の出身者の「知識人(インテリゲンツィア)」で、西欧社会の進歩思想や、社会主義思想に共鳴し、ロシアの後進性を克服し、社会改革を行う必要を説く人々が現れた。1830年のゲルツェンやベリンスキーなどが先駆的な人物である。ツルゲーネフの『父と子』などの作品はインテリゲンツィアの苦悩を描いている。

19世紀後半になると、彼らはツァーリ政府の弾圧を受けて政治活動の限界を感じるようになり、アナーキズムの影響も受けて、人民の中にはいって運動を進めるべきであるというナロードニキの主張を持つようになる。しかし、ミールというロシアの伝統的農村共同体は強固な保守思想を持ち、彼らを受容しなかったため、次第に行き詰まる。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などでよく知られるようになるドストエフスキーは一時その運動に加わり、流刑となっている。

フランスで「急進共和派が政治的イニチアシブを握れるのは大衆の支持が得られている間のみ」なる教訓が立し、日本で戊辰戦争(1868年~1869年)に際して全国各地で在地遊力社が領主に対して「倒幕か佐幕か自由に決めておくんなせい。後者だったらふん縛って政府軍に突き出さなきゃなんねぇ」と迫ったのに対し、ロシアの「民衆」はまだ深い中世的眠りの最中にあったのです。まだまだ伝統的共同体の構造の内に民衆的意思が埋没してる段階にあったのです。

ウィーン体制時代、反動勢力の中心となったロシアのこと。

19世紀前半、ロシアは、デカブリストの反乱を鎮圧、ニコライ1世からアレクサンドル二世のツァーリズム体制を強化した。ヨーロッパのウィーン体制と、それを支える神聖同盟の盟主、さらに四国同盟の一角として、保守反動の中心となり自由主義ナショナリズムの運動を抑圧する先兵となり「ヨーロッパの憲兵」と言われた。ロシア支配下ポーランドの反乱を抑圧しただけでなく、ギリシア独立戦争への支援、ハンガリー民族運動の武力鎮圧などの軍事行動を展開した。

その後、対外政策では南下政策を積極化する一方、国内では農奴解放令(1861年)など改革を行ったが、封建的な社会体制の矛盾は進行し、革命運動が起こってくる。

そして(ドゴール政権下で文化相を歴任した)アンドレ・マルローに腐ったトマトが投げつけられた時点では起こらなかった変化が(1968年のコロンビア大学紛争時点で教授だった)エーリック・フロムに腐った卵が投げつけられた時点で起こってしまった?

そんな感じで以下続報…