諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「21世紀の時代精神」について。

最近のロシア・ウクライナ戦争によって現代社会は以下の様な制約を備える事を改めて再確認させられる事になりました。

  • いかなる形而上学的概念も法源としない実証主義(Legal Positivism)は「(その有効範囲を保つのに十分なだけの火力と機動力を有する常備軍と警察を中央集権的/文書行政的官僚制による徴税によって養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)の国際協調体制」によって担保される必要がという事。
  • さらに資本主義社会におけるあらゆる諸概念は、いかなる形而上学的概念をもその存在根拠とし得ないが故に経済実証主義(Economical Positivisn)、すなわち「それ自体採算が取れているか、何らかの形でパトロネージュを受けている」必要があるという事。
  • さらにそれら諸概念は科学的ないしは文化的である為に科学実証主義(Scientific Positivism)ないしは文化実証主義(Cultural Positivism)すなわち「何らかの形で固有のパラダイムを共有する人々によって保守運営されている」必要があるという事。

ただしここでいう実証主義(Positivism)は「いかなる形而上学的概念にも寄らず科学的に経験可能な範囲によってのみ構成されている」なる科学主義的俗流でなく「限界効用逓減(Diminishing Marginal Utility)の超克統計学的分散範囲維持による多様性確保絶えず新要素が追加され続ける事に対するパラダイム保守過程などを(建前上)超越した一貫したスタイルで捌き続ける事」なるフランス伝統主義的原義によって定義されるものとします。そしてこうした全体構造こそが「(ヘーゲル流にいう)現代の時代精神」であるという信念によってのみ人類は「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制(土地運用だけでなく資源や交易権の排他的独占によってもこれに類する権威体制は存在し得る)」と文化実証主義や(その部分集合としての)科学実証主義に依らずその正当性を説明しようとするあらゆる陰謀論疑似科学の類をその枠組みの外側に排除出来るのです。

例えばYoutubeという産業形態についてこの概念の適用範囲を探ってみましょう。

①まずはYoutube配信そのものがインフラとしては当然(産業革命段階における鉄道網と航路整備に併設される形で広まった電信網に由来する)実証主義(主権国家体制の国際協調体制が担保してきた国際的インターネット網の発達とこれを構成する各国の取締り範囲)」の制約を乗り越えて成立。

②さらにYoutubeは「一定以上の参照数をキープし続けるアカウントに相応の収益還元を行う経済実証主義の基本インフラの一つでもある(もちろん実際にはこれに依らない収益構造もあり得る)。

③「職業としてのYoutuber」は何らかの文化実証主義(およびその部分集合としての科学実証主義)に立脚しているかしてないかによって大別され「(文化実証主義に基づかない)浅薄な陰謀論」は(これまで述べてきた全体構造外からモチベーションを供給される)後者からのみ現れる。また両者は以下の様な基準でも峻別される。

  • 限界効用逓減の超克…すなわち「どんな人気トレンドもそればっかり騒いでるだけではどんどん視聴者が飽きてくる」。
  • 統計学的分散範囲維持による多様性確保…すなわち「相応の話題幅がなければ、やはりすぐに視聴者に飽きられてしまう」。
  • 絶えず新要素が追加され続ける事に対するパラダイム保守…すなわち「どんどん新しい話題が追加され、かつそれまで話題にしてきた内容と矛盾しない事が求められる」。

まぁこの構造だけでは基礎科学イデオロギー(日常生活を包括的に説明する哲学的根拠)そのものの保守が担保されない(陰謀論の類と同様、外部モチベーションを必要とする)問題はさておき、とりあえずこれが出発点。

ここに乱入。

そう「形而上学の世界」の大源流にはこうした「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」を伝統的に擁護してきた諸概念が存在し、それが封印を破って「流出」してきた事が改めて問題になっているという…どうしてそんな事に? 詳しい内容については以下続報…