本当に世の中、明太子を煮てる場合じゃなくなってきましたね…
今回の投稿の発端はこのTweet.
個人的メモ。「(国家を保つのに十分な火力と機動力を備えた常備軍や警察を中央集権的官僚制による徴税で賄う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)の国際協調体制」が法実証主義(Legal Positivism)を担保する。人類は今回のロシア・ウクライナ戦争で改めてその限界を目撃した。https://t.co/Ck5Jscut04
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
その一方で「主権国家体制の国際協調体制によって担保される法実証主義の世界」は、それによる「流通と通信の自由の保証」から出発しながら「(相応には採算が合ってる)収支構造(Balance Structure)」や「パトロネージュ(Patronage)によって担保される経済実証主義(Economical Positivism)」と…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
…原則としてその自由が成立可能な範囲で無相関でなければならない(そしてその範囲において両評価軸は直行する)。これは原理でなく信念に過ぎないが、同時にイデオロギー(日常生活を包括的に説明する哲学的根拠)概念の出発点でもある。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
ここでいうイデオロギー(日常生活を包括的に説明する哲学的根拠)とは機能面では「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」という場合の「生き残った者には必然的に備わる筈の資格」と想定され…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
一方、構造面では「全体として相応には無矛盾(つまり当座それを論として発展させる過程が必然的自滅を伴わない様に見える)」なパラダイムとして成立している事が求められる。そしてこの場合においてのみ「経済実証主義から十分独立した形で「文化実証主義(Cultural Positivism)」が成立している…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
すなわち全体像として「法規制」と「経済競争」と「文化競争」が、それぞれ独立した(互いに直行する)評価軸を構成していると言えそうなのであった。そしてこの構造のうち一つでも次元が潰れたら「領主が領土と領民を全人格的に支配していた封建時代の悪夢」が蘇る。要するにそう考えれば良いのでは?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
逆をいえば現代社会はこの様に「法支配/経済競争/文化競争の独立性」を確保する事によってやっと「領主が領土と領民を全人格的に支配していた封建時代の悪夢」から脱却し得たに過ぎず、その条件が失われるなら「本来の姿」と数理的に同型の状態への転落を免れ得ないのです。大体こういう考え方でOK?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
だいぶ全体構造が整ってきましたね。しかしもちろん話はそれだけで済まないのです。
そういえば「三角関数や線形代数なんて日常生活じゃ使わないよね」という話もありますが、この考え方を十分に振り回す上では必須。例えばここでいう「次元が潰れる」イメージも「行列式=0」「回転の次元を一つ単純化した二面体」などの数理による概念補強を受けて初めて実用に耐えるのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
それくらい「領主が領土と領民を全人格的に支配していた封建時代の悪夢」と数理的に同型の状態から脱するのは難しいのです。カール=マルクスが「ドイツ・イデオロギー(1846年)」の中で「共産主義は需要と供給の相互依存関係を超越する」なんて妄言を履いてますが、そういう「光速さえ越えたら時間も逆行可能」式の発想はもう科学の解像度が上がった現代では許されなくなってしまった訳で。
最近、海外のフェミニズムの最前線の現場で使われ始めた「Queer球面」概念も、その正体は「リーマン球面(しかも「偶数系」と「奇数系」を往復)」だったりする訳ですし。そう「自分なりの独自尺度の獲得」とはつまり固有値と固有ベクトルを求める事だったのだ…https://t.co/TFr0PcuMlI
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
よく考えてみると「偶数系=(半径1の球面で表される)半径がの円弧/球面」「奇数系=偶数系球面の直径(-1~0~1)に+1した範囲に現れる半径2の球面」なのでリーマン球面そのものともまた違う訳ですね。「円錐座標系と球面座標系の往復」なるアイディア自体はこれから出発している訳ですが(正式名称があるなら是非知りたい)。
20世紀までの人間にはイメージするのが途方もなく難しい思考様式だった訳ですが、現代人にはYoutubeがあるのです。①Youtubeが配信可能な範囲はまずその通信インフラと法規制の規定を受ける。②Youtuberとしての生活が成立するには相応の再生数を獲得し続けねばならない。そして…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
③「タフでなければ生き延びられない、タフなだけでは生き伸びる資格がない」。その「手段」を、何らかの形で「固定ファンが獲得可能な流儀(芸風)」にまで成熟させられないYoutuberはいずれにせよ長続きしない。炎上マーケティングでも無限に続けられるならOK? そう「法規制/経済競争」の次元では。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
「それよりちゃんとした知識や技術に基づく、しっかりした内容を自由に配信し続けるYoutuberが正しく勝つべき」なる信念の遂行からが文化実証主義レベルの次元での競争原理となる(べき)と私は考える訳です。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
「文化次元による競争軸のプライオリティが時代によって(その出現順序が非可換であっても、因子分析や主成分分析によって計算可能な形で強引に)入れ替わっていくプロセス」自体は既に20世紀前半にはもうフッサールの現象学などで指摘されてました。https://t.co/m4YVqEhGBZ
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
皮肉にも、この「実際の文化展開は非可換の展開を可換的に扱う」問題こそが社会科学に自然科学を超越したポテンシャルを与える訳です。その事実をどう生かすべきかはともかくとして。
そのフッサール自身が現象学を駆使して「我々は(あらゆる形而上学的理念を排除しただけの)単なる実証主義だけ地球平面説を脱せない」と証明してしまったから、さぁ大変。「人類の持続的発展には何が必要か?」について我々は改めて再定義を強いられる事に。https://t.co/pmdgRTBsfb
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月7日
そしてふと気付く。
そもそも最初にあったのはジョン・スチュワート・ミル「自由論(1859年)」での古典的自由主義の定義「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなけれねばならず、それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」という考え方。https://t.co/XRBos4wiqD
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月8日
これを誰か(おそらくマルクス主義者やニューディーラー界隈)が「権力は他人に実害を与える自由の一切を妨げる自然権を有する」と言い換えて歴史段階発展説に当て嵌め「古典的自由主義は必然的に社会進化論に腐敗し社会自由主義段階のよって克服される」と言い出したのです。https://t.co/VMtFVnDi4k
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月8日
その一方でマルクス主義は実践の過程で「文明が発展する為にはあらゆる正義の遂行が保障されねばならず、基本的人権の保障や経済競争の必然性といった前時代的価値観がそれを阻害する事は許されない」なる正義自由主義に到達。https://t.co/LI0NtLBvWU
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月8日
その在り方は時代の最先端に到達したつもりで「領主が領土と領民を全人格的に支配していた封建時代の悪夢」と数理的に同型の状態への時代遅れの回帰に過ぎない事に当事者のみが気付いてないというのが現在の状況という訳ですね。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月8日
そんな感じで以下続報…