諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】そして「二人の後藤さん」のイメージが新登場?

はてなブログアクセス解析によれば、気付くといつの間にかこのブログはGoogle検索でなくTwitterに誘導されるPVの方が上回ってました。しかもGoogle検索の上位にTwitterで展開した「後藤さん」ネタが来ておりさらにTwitterシフトが強調される形に。ただこれどうやら「Twitterで私の評価が上がった結果」というより「Google検索の利用率が下がり続けた結果」としか思えない辺りが何とも残念な感じなのです。

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今回の投稿の発端はこのtweet

ただし若い女性の「太腿を見せたい願望」はまた別基底の事象と捉える。

おそらくレーザーラモンHGを最初支持したのは女子高生というのもこれ。

ル・モンド誌のIsabelle Régnier「最初から最後まで席を立てないスリルをはらんだ物語。ただし画像や動きの美しさにも関わらずフィルムの第二の部分(La seconde partie du film)」を構成するエデンの園への夫婦や家族の帰化を描くこの物語はその始まり方がアレ(直接表現的には「男が邪魔者の亀を殺したら、女に生まれ変わって嫁になった」様にしか見えない場面)なもんで同じ監督の手になる短編作品ほど素直に楽しめない

この問題について日本の配給側はどう対処したか?何とその宣伝からこれが「家族の物語」である事そのものを排除したのだった。
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そう日本のリベラルの人権意識は「日本における黒人表現には問題がある」「だから作品に黒人を一切出すな」なる発想に走った1960年代から一切進歩してなかった。

この辺りバーバラ・ウォーカー系フェミシストは実に敏感だし、実際商業天下以上のリスクとしても急浮上してくる訳ですが「(女性の自由を奪って強引に妻とする)羽衣女房系説話」が共通して抱えるリスク。実際、「ざらし女房説話」を原型とするトム・ムーア監督映画「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(2014年)」でも物議が生じる事に。

  • これはちょっと複雑で、まず「メリンダとおそろしの森(2012年)」に「(獣性の象徴たる)熊の毛皮に身も心も飲み込まれようとしているママを、パパがそれを脱がして助ける」という…

    いやーん(でも、ちょっと嬉しそう)」なる「まいっちんぐマチコ先生(1980年~2003年)」的展開があって、しかもニンフェット世代(女児が男児を成長速度で抜かす小学生高学年から再び抜き返される中学生にかけての年代の少女)が鬼門とする「ママも女よ」攻撃に該当するとあって色々物議を醸したのものだが(この作品、女性監督が途中で降板させられていて、どこまでが彼女の企図した「フェミニズム文学的展開」だったか解釈が難しいところがある)…

    その経緯もあって錯乱したニンフェット世代が「ソング・オブ・ザ・シー」で「ママが(パパが隠していた)ざらしの毛皮を取り戻して神話の世界に帰ろうとする」場面で散々「脱がせ!! 脱がせ!! 脱がせ!!」コールを繰り返した後にふと恐ろしい事に気付いてしまったのである。

    あれ?このママにとっては毛皮の方が本体なのだから、毛皮を剥がれたら残るのはただの抜け殻なのでは?」。私の脳裏に浮かんだのは「タクティクスオーガのバッドエンド」だったが、国際的にはこちらの場面が脳裏に浮かぶのがスタンダードだった模様…

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    この解釈が入ると「ソング・オブ・ザ・シー」のラストシーンは滅茶苦茶になってしまう訳で、トム・ムーア監督の「アイルランド神話の復興を願うシャイな感情」までが解剖台に載せられてしまう展開を迎えたのである。

この辺り、フェミニズム文学論的には「女性側が男性側に対する生死与奪の権利を完全に握った状態」から出発して「お前はイケメンだから殺さない」「イケメンだからこっそり嫁に来た」「(正体がバレたが)お前はイケメンだから殺さない(子供を残して去る)」と全面的に女性側がイニチアシブを握った上でさらに女性側が「悲劇の英雄」性を帯びる「雪女(1904年)」との対比という意味合いでも実に興味深かったりします。

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  • 小泉八雲が海外に英語で紹介した事から「耳なし芳一(1904年)」同様、ただでさえ相応の国際的知名度がある(意外な事に小泉八雲「怪談」は、日露戦争前夜「無謀にも大国ロシアに挑む謎多き新興国家」大日本帝国の臣民心理を知る手掛かりとしてベストセラーになる。しかも序文にもそれを意図して発表された事が示唆されていたりする)。

    「怪談 Kwaidan」

  • それに加えH.P.ラブクラフトが(小泉八雲が米国ルイジアナ州滞在時代に翻訳を手掛けた)ゴーチェある夜のクレオパトラ(Une nuit de Cléopâtre,1838年)」英訳版について「これがあったおかげで私はエドガー・アラン・ポーの呪縛から逃れられた」と激賞した事から国際的に幻想文学ファンの間で評価が高い。

  • さらにいうと所謂「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」系列の作品はアーサー・マッケン「パンの大神(The Great God Pan,1890年同人誌掲載,1894年出版)」で活写されたエロティズムがスキャンダル的に叩かれて以降(ニューウェーブSFが登場する)1960年代までこの方面に極めて奥手となった為に小泉八雲怪談(1904年)」収録の「雪女」「菊花の約」といった超自然系ラブストーリーは貴重な穴を埋める役割を果たす事に。

出雲風土記」によれば、渡来系文化と土着系文化の混交する出雲には「男の放浪神が在地有力者の娘を妊娠させて去っていく起源譚」と「女の放浪神が現地人との間に残した子供が在地有力者の由来となる起源譚」が想像以上に均等に分布していました。

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そして…

英国の書評家もこの作品に「マミー・ポルノ(母親向けポルノ)」のレッテルを貼って何とか既成概念の枠内に収め様とした辺りで限界を露呈。彼らはそれが10代少女や若い独身女性も含む「トワイライト二次創作界隈」発祥で、そちらの世界ではこの程度のエロなら普通に横溢してる現実を認められなかったのでした。そしてふと気づいてしまう…

この辺り結構記憶が曖昧に。

そんな感じで以下続報…