諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「それ自体は定義不可能な多様体から、どの任意の点を抽出して全体を代表させても本質の全てを逃した剥製しか出来上がらない」実例について。

実は韓国音楽の現代史について考える上で欠かせない人がいます。

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①まずその「ハンガリーユダヤ」という出自について検討。

しかしこの人物の出自を認識するにはもっと様々な予備知識が必要となるのです。

ブラウンはニューヨークにおいてユダヤ教保守派の両親アーヴィンとスーザンの間で生まれた。ちなみに弟のアダム・ブラウンは「鉛筆の約束:普通の人が並外れた変化を生み出す方法(The Promise of a Pencil, 2014年)」で ベストセラー作家の仲間入りを果たし、発展途上国での学校建設に重点的に取り組む 慈善団体Pencils of Promiseの創設者となった。

ブラウンはコネチカット州コス・コブで育ち、 グリニッジ高等学校に通う。そこで生徒会長を務め、13歳から18歳まで バスケットボール をプレイした。

  • アーヴィンはコネチカットのアマチュアスポーツ協会で(当時あまり人気がなく、チームすら存在しなかった)バスケットボールを盛り立てる為、モザンビークにおけるバスケットボールジュニアナショナルチームの元選手、サム・マハンガ(Sam Mahanga)と、コーネリオ・ジウバンダ(Cornelio Giubunda)を養子に取りオールスタートーナメントに参加。マハンガとジウバンダはファンからやじを受ける事になり、その様子がブラウンに大きく影響を与える。
  • また在学中、「ナショナル・ヒストリー・デイ」のビデオドキュメンタリーコンテストに、「ハンガリーでの矛盾」という、ホロコーストの前・中・後のハンガリーに住むユダヤ人に関する10分間の作品で応募。この映像は、コネチカット州の大会で1位になり、全体では3位に入賞した。ブラウンの家族の1人がこの映像をスティーヴン・スピルバーグのオフィスに送り、その後スピルバーグはブラウンのビデオをアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館に提出。ブラウンは、スピルバーグに認められたことが彼の人生の中で一番感動した瞬間であったと語っている。

その後アトランタのエモリー大学に通い、2年まで大学バスケットボールに励んだ。同時にパーティーを企画する職業からキャリアをスタート。

  • 2002年には5都市で開催された アンガーマネジメントツアーの後のパーティーの企画に抜擢され、このイベントでリュダクリスエミネムを客演とした。このようにヒップホップ の世界に入り込んだことでアトランタの音楽プロデューサージャーメイン・デュプリ(レーベル・So So Def Recordsのディレクター)とつながる。

  • デュプリが「So So Def」のマーケティングの役職に誘ったのは、ブラウンが19歳の時である。20歳の時には、ブラウンは「So So Def」のマーケティング・エグゼクティブ・ディレクターに任命されたが、このときブラウンはまだエモリー大学の2年生だった。
  • So So Def ではイベントの企画・管理を経験した。ブラウンが企画した大規模なイベントには、 2003年NBA オールスターゲームの各種パーティーや、ブリットニー・スピアーズのオニックスホテルツアーのアフターパーティーが含まれている。
  • デュプリがブラウンに、自身のレーベル「So So Def」でマーケティング・ヘッドになるように依頼すると、ブラウンはその為に学位を取得せずに大学を退学。

その後ブラウンはSo So Defを辞め、マーケティングビジネス、ミュージックレーベル、アーティストのマネージメントなどのプライベートベンチャーを開始した。リュダクリスポンティアックの間の$1200万ドルキャンペーン契約を仲介しマーケティングビジネスへの参入を果たした。リュダクリスのTwo Miles an Hourの ミュージックビデオに、ポンティアックを使用し、ポンティアックのCMにリュダクリスの曲を採用。

とにかく「ニューヨークでユダヤ系保守派の家庭に生まれ、コネチカット州に移住。バスケットボール振興の為に黒人を養子に迎え、大学進学後のパーティ主催でアトランタのヒップポップ業界と縁が出来てマネージャーとしての第一歩を踏み出す」。これだけでもう情報多過ぎですね。一番重要なのは西海岸と無縁なまま、これだけのキャリアを積む事が可能だったという事。そして…

ジャスティン・ビーバーを知ったのは、 YouTubeで12歳の時に Ne-Yoの歌を披露していたのを視聴したのが最初である。ブラウンは、ビーバーの母親であるティー・マレットに連絡し、パティーは無条件の試用期間のために、ジャスティアトランタに連れていくことに同意した。最終的にブラウンはジャスティン・ビーバーと母親をカナダからアメリカに完全に引っ越すように説得。ブラウンがオンラインで成功を収めているアッシャージャスティン・ティンバーレイクビーバーを売り込むとどちらも興味を示す。

最終的にアッシャーのメンターであるアントニオ・LA・リードアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループレイモンド・ブラウン・メディア・グループと共同でビーバーと契約を締結。

ブラウンは、ジャスティン・ビーバーのドキュメンタリー「Never Say Never」を制作。MTVは、”音楽ドキュメンタリーでは国内最高レベルの興行収入をあげた”と発表。実際この映画は、予算が1300万ドルで、1億ドルを超える世界興行収入を上げている。

2007年には各種事業に対応する複合サービスのエンターテイメント・マーケティング会社であるSBプロジェクトを設立。2016年~翌年のパーパス・ワールド・ツアーではジャスティン・ビーバーカルバンクライン広告契約など、ツアーのスポンサー、 テレビのキャンペーン、ブランディング、音楽ライセンスの契約にも対応。

なるほどこれが映画「レディ・バード(2017年)」で語られる「西海岸にはもう何も残されてない」の景色なのですね。時期的にいうと「アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)」の前夜くらい。そりゃ「Facebookの西海岸への到着」を喜ぶ訳です。

そして「ジャスティン・ビーバー発見」によって2007年からの破竹の猛進撃が始まるのです。当時のヒットにはまだまだ彼の様な「既存メディアでの露出も仕掛けられるマネージャー」の存在が必要不可欠だったのでした。

YouTubeの歴史において「天使の歌声ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)が発掘され「非実在アイドル初音ミク(Hatsune Miku)が登場した2007年は歴史に残る特別な年だったといえそうです。

しかしやがて ニンフェット(Nymphet)世代(女児が成長速度で男児のそれを抜く小学校高学年くらいから再び抜き返される中学生くらいまでの少女)/ハイニンフェット時代(その余波を残す女子高生)が中心となって二つの勢力が形成されます。

  • 前者の熱狂的ファン層たるビリーバー(Bieleber)
  • 岸本斉史NARUTO -ナルト-(原作1999年〜2014年、アニメ化2002年〜2014年)」「アバター 伝説の少年アン(Avatar: The Last Airbender、2005年〜2008年)」「The Legend of Korra(2012年〜2014年)」といった武闘派アニメのファン層

対立の原因となったのはジャスティン・ビーバーがネットで「アニメは嫌いだ」と発言した事にあったとされていますが、エビデンスとして挙げられるのはコラばかりでフェイクだった可能性が指摘されています。いずれにせよ一度開かれた戦端は野火の様に広がり、それぞれ徒党を組んでネット上のあちこちで衝突する様に。

当時はSOPAMega Upload廃止への反対運動が激しかった時期。

さらには東日本大震災(2011年3月11日)後の情報配信自粛によって(それまで日本から配信される情報を右から左に流していただけの)アニメ漫画GAME系ニュースサイトの多くが姿を消し、個々の制作会社のHPやクリエーター個人アカウントの発言を小まめにチェックしている「事情通アカウント」が躍進する展開も見られたのです(一方日本ではいわゆる「まとめサイト」の天下が相変わらず続く)。

そして「親殺しの夜(Night of the Parent Killers,2011年)」に匹敵する当時の重大事件…「子殺し週間(The Infanticide weeks,2012年)」においては、図らずしも「仕掛ける当事者の立場」に立つ展開を迎えます。

しかしながら2010年代後半に入ると「稼ぎ頭」のジャスティン・ビーバーがスキャンダル続きで最盛期の輝きを喪失(それまで散々ブイブイいわせてきたビリーバー達が勢いを失うと、アニメ漫画GAMEファンがカウンターとして組織した武闘派集団も巻き添えとなって勢いを失い対消滅)。スクーター・ブラウン自身も「テイラー・sウィフトとの著作権争奪戦」などを通じて凋落の一途を辿ります。

テイラー・スウィフトといえば、2019年6月に、デビューから2018年まで所属していたレコード会社「ビッグ・マシーン・レコード」が、人気歌手ジャスティン・ビーバーなどを手掛ける敏腕マネージャーのスクーター・ブラウンに約300億円で買収された。これを知ったテイラーは、ジャスティンやカニエ・ウェストを通し自分のことを長年いじめてきたスクーターに、自身の過去の楽曲の権利を奪われてしまうことにショックを受け、また「ビッグ・マシーン・レコード」に楽曲の権利を持たせてもらうことができなかったことをSNS上で書きつづり、世間は驚かされた。

 スクーターや同レコード会社のCEOのスコット・ボーチェッタは、テイラーの誤解があると反論したが、テイラーは過去の証拠のメールなどを提出。いまだに版権問題は解決せず、揉めている最中で、テイラーは過去の作品はレコーディングし直すと明かしている。そんなテイラーの版権問題のために立ち上がったのが、まさかのカニエ・ウェストだ。

テイラーとカニエといえば、長年因縁の仲で知られているが、最近カニエはツイッターで、アーティストが自身の版権を持つことの重要性を主張。「ストリーミングのこの世界では、版権のオーナーシップが全てなんだ。それが収入の大半となっている。このコロナ禍ではアーティストは自身の版権が必要だ。今まで以上にこのことが重要となっている」など、版権所有の重要性についていくつもツイートし話題となった。

歌手テイラー・スウィフトの過去の楽曲の権利を買収したマネージャーのスクーター・ブラウン。買収によりテイラー本人や業界から強いバッシングを受けていたが、今回(2020年11月)その権利を売却したようだ。Varietyが伝えている。

そして今やスクーター・ブラウンの事務所とBTSの事務所は提携関係に…

まさしく全体として「それ自体は定義不可能な多様体から、どの任意の点を抽出して全体を代表させても本質の全てを逃した剥製しか出来上がらない」実例を構成してるという。そんな感じで、以下続報…