諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】20世紀的陰謀論の世界から21世紀的数理の世界へ抜ける近道は?

このギャップは本当にどうしたら埋まるのでしょうか…

今回の投稿の発端は以下のTweet

ここに乱入。もしかしたらここで穂販されてる相手の倫理レベルは、そこで想定されてる域まで到達してないのでは?

ここで分かれ目になるのが「性嫌悪者(Erotophobic)の負相関(相関係数マイナス。プラスの場合と異なり逆相関の関係が生じる)」と「無性愛者(Asexual)の無相関(相関係数0,直交基底をさらに積み上げていく余地がある)」がちゃんと峻別出来るか。

空環認識範囲が線状の1次元まで閉じて「線路を前進するか後進するかしか二択しかない」状態に陥ってると両者の違いが分からなくなります。著名な例の一つが「何でもお金に換算してしか考えられない守銭奴の考え方」。ただこの次元においてすら「単位を区切って、その範囲における損を最小限に押さえ、得の最大限化を狙う管理会計概念の導入などによる「単次元認識からの脱却」自体は不可能ではありません。そう企業なるもの原則として毎年度の成長やプロジェクトの成功が見込まれるからこそお金や人を集め続ける事が出来るのです。

それに対して複式簿記の概念そのものを行列で表すと[x,y,-1]となり「借方」は「貸方」と調度等しい量しか持ちません(この性質が検算に使えるので広まった)。要は「性嫌悪」概念は「既存の自由な性概念の展開を全否定する(0に戻そうとする)反作用」としてしか現れず、一切の創造性を備えていないのです。実際にこれに憑かれた人には「何もかも無に帰したいドス黒い破壊衝動」しかなく「なら貴方はどういう展開なら許すのか」尋ねても何も出てきません。子供がそういう状態に陥ったら即座に治療対象認定。

そう映画「シェーン(Shane,1953年)」において農地を開墾する開拓民が憎くて邪魔し続け、最後は殺し屋まで雇って虐殺に着手したので主人公シェーンに討伐される「牧畜民」ライカー一家の在り方そのもの。

その一方で我々が通常扱う(ベクトル=直交基底の一次結合で表される)次元概念を構成する同次座標系(Homogeneous Coordinate System)は[x,y,1]の直積で表されます。ただ、こちらで物事を扱える人間の数は圧倒的に少ない?

「認識の次元が潰れる」とはアフィン変換のうち(遠近法との兼ね合いから)そのまま画像変換で用いるには難がある「剪断写像」の概念そのもの。

この風景については2010年代前半全盛期tumbrで実際に目撃しました。

最大の悲劇の一つとして知られれるのが「ISIS団の花嫁」事件。欧州に移民して西洋的価値観を習得しつつイスラム文化とのギャップに悩んでした若い少女達を唆してISIS団の本拠地に連れ込み「女は配偶者専用の娼婦たれ」なるカルト思想に染まった男性テロリスト達に戦績に応じたトロフィとして分配したのです。どうしても西洋的価値観を捨て切れない少女は強姦と拷問の末処刑され、例え生き残っても既存価値観全てを捨て去った操り人形として生きる事や、自爆テロ遂行版として捨て駒にされる道を強要されたのです。私は同種の「悪意」を「月曜日のたわわ」に登場する女子高生を「汚らわしい」と評価する人達に感じました。「私達だったら、彼女が正しい価値観を取り戻すまで監禁して再教育を施す」。その考え方が現在欧州で頻発して社会問題となってる「保守的なイスラム教徒の親が、娘達が西洋的価値観を習得するのを嫌悪してアフリカの保守的老人と強引に結婚させtr文明間から遠ざけたり「悪魔払い」と称して殺してしまう事件」とぴったり重なってくるのが怖いのです。

欧米では1970年代の親達が映画「エクソシスト(The Exorcist,1973年)」「オーメン(The Omen, 1976年,1978年,1981年,1991年)」「キャリー(Carrie,1976年)」に託した恐怖…

日本でも同時期、伝統的家父長制の崩壊が進行しましたが、また別の展開を辿る事に。

ああ、この世界か…

こうして、なまじ宗教的背景哲学的背景も備えていないが故に身軽で活動的な「(認識空間の閉じた)何も持たない人達」の活動が活発化している事自体が恐ろしくないですか? そんな感じで以下続報…