諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【マルチバースの狂気】「悲観的ガイア仮説」のターニング・ポイントとしての「うる星やつら」?

そもそも「マルチバース」はウルトラマン用語でもあったのです。

今回の投稿の発端は以下のTweet

中平正彦破壊魔定光(1999年~2005年)」や鬼頭莫宏ぼくらの(2004年~2009年)」の様な「マルチバース全体を構成するリソースは有限なのに、マルチバースそのものは放置しておくと無数に増えていく。それによる滅亡を防ぐ為に適切な間引きが必要」なる「狂気の発想」の本当の意味での出発点であり、実際には士郎政宗攻殻機動隊(1989年~)」などにおいて語られた「マルチバース数が一定数以下になると次元多様性が保てなくなりメタバース全体が緩やかに全体が均質な熱的死状態に向かう」と考えるロジスティック方程式的宇宙観の一部を構成します。19世紀には既に発見されていましたが、実際に広まったのは第一次世界大戦(1914年~1918年)を戦い抜く為に各国が総力戦体制を構築して以降とされます。

それはマルチバース全体における重心、すなわち加法単位元(Additive Identity)0乗法単位元(Multiplicative Identity)1を見出してメンテナンスし続ける事によって可視化された範囲内の秩序を保ちつつ、その阻害要因たる「外れ値(Outliers)」を互いに視野外(観測対象範囲外)に追いやり続ける事によってマルチバース集合全体を「(互いに無相関な)複数のマルチバース集合」へと分割しようとする訳です。ある意味数学における「多様体(Manifold)=部分直交座標系」の考え方そのもの?

  • 永井豪作品。「デビルマン(1972年~1973年)」のヒロイン牧村美樹は、惨殺される事によってむしろ「不動明=デビルマン」の継戦意思を強める存在となった。「(それまで氷河の下に封印されていた)デーモン族の人類に対する密かな再侵攻」は、やがて「パニック状態下でその悪魔性を顕現させた人類の自滅」を経て「天使軍団とデビルマン軍団の最終戦」へと突入。以降このサーガでは「全面破壊を免れる時間線の模索」が続く。

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    一方「凄ノ王(1979年~)」のヒロイン雪代小百合は不良グループに凌辱される事で主人公の超能力の覚醒を誘う(ただしストーリーはその後混迷)。

  •  手塚治虫三つ目がとおる(1974年~1978年)」。ヒロイン和登千代子は最終的に「邪悪な三つ目族の退廃的末裔写楽保介がその多重人格性を脱ぎ捨て「悪魔のプリンス」に成り果てた時、その悲劇性を秘めた多面的魅力に屈服する。「再び三つ目族が人類の支配者になる事はないし、なったとしてもその支配はまた別の形になるだろう」なる安心感…

    当初手塚は「SF的な推理もの」を意図しており、写楽と和登さんの名がそれぞれシャーロック・ホームズとワトソンに由来しているのもそのためである。しかし1970年代の超能力、超古代文明などのオカルトブームという「時代の要請」を受けて次第にオカルトを前面に押し出すようになり、結果としてそれで人気を得ることになった。

     
    ただし後の改編によりこの作品「最終話」ではなくなっている。

  • 横山光輝作品。「マーズ(1976年~1977年)」のヒロイン晴美や「その名は101(1977年~1979年)」のヒロイン銀鈴は非情な決意を固めた主人公の歯止めとして一切機能しない(元々恋愛を描くのが苦手で少女漫画時代も「恋愛御法度」の因習に救われた感あり)。

    どもこ on Twitter: "@d0m0c0 元ネタはその名101に出てくる ...

  • 一方「時の行者(1976年~1979年)」は未来の最終戦争に嫌気が刺して逃げてきた少女が過去に遡って時代改編を試みるも失敗。彼を追ってきた少年に「僕達は僕達の時代で戦うしかない」と説得され、未来に戻る。

人類はこの地上に存在する唯一の種ではない」なる発想自体は1970年代前半からありましたが、1970年代中旬オイルショックを契機とする「核戦争による人類滅亡不安の高まり」を背景に怪奇/オカルト/超能力/UFO/サイキック・ブームが変質し、エコロジー観点が追加されて「地球、あるいは宇宙意思は(自らの存在を脅かす)地球人の滅亡を望むかもしれない」と考える悲観的ガイア仮説が登場。その背景にはさらにベトナム戦争(1955年~1975年)終戦後の共産主義国間戦争激化に伴う共産主義思想の失墜と、それまでの支持層の人権主義環境主義への転戦という国際的ムーブメントが存在していたのです。ただある種の「平行宇宙を題材としたトロッコ問題」なら1960年代SFジュブナイル小説が既に扱っていたとも。

そう「うる星奴ら」もまたクライマックスで「平行宇宙総破壊」をやらかした作品でしたね。ただしその結果特定の時間線がリソースを独占する様になるのではなく「誰も未来が分からない」新たな段階に突入。あれ?これ「創造は破壊から始まるザラブ星人イデオロギーなのでは?そして「うる星やつら」そのものの終わり方は「あたるとラムは一生鬼ごっこを続ける」というもの。

こうして台頭した「1980年代的多幸感」について踏み込むのは稿を改めて。「悲観的ガイア仮説」は世紀末に再び盛り上がりを見せ中平正彦破壊魔定光(1999年~2005年)」や鬼頭莫宏ぼくらの(2004年~2009年)」はこの系譜に位置付けられます。21世紀のそれは20世紀のそれと異なり「現実世界の政治との連続性」が希薄である事から「セカイ系」なる表現も生まれましたが、2020年代に入ってからのマルチバース文法復活をも視野に入れると、実は1970年代における共産主義イデオロギー崩壊悲観的ガイア仮説導入によって乗り越えようとして失敗した敗残者の断末魔の叫びと考えるべきなのかもしれません。

  • 岩明均寄生獣(Parasyte,1988年~1995年)」…ある日宇宙から「種としての人類を食い殺す」意思を備えた寄生獣集団が地上に降り注ぐ。主人公の高校生・泉新一は偶然脳を乗っ取られるのを回避し「寄生獣」ミギーとの共生生活を始める。そして社会性を備え始めた寄生獣集団、彼らこそ宇宙意思の顕現と陶酔する広川市長、人間なのに寄生獣そのものの考え方をする凶悪犯浦上らとの遭遇を経て「人類にとって危険すぎる存在に育った寄生獣後藤を倒し、力尽きたミギーは眠りにつく。それまでに寄生獣の多くは人類と共存する道を選んでいた。

  • 鬼頭莫宏なるたる(Shadow Star、1998年〜2003年)」…ヒロインが世界破壊者の説得に失敗した「マーズ」の物語文法の延長線に現れた「セカイ系構造」の一作。その結末は「マーズ」エンドより悲惨で「人類が主人公の手によって滅亡から救われた途端、人類がそれまでの破壊の責任全てを主人公に押し付けて処刑しようとしたので、やむなく自衛措置としてリセットボタンが押された」というもの。

  • 岡本倫エルフェンリート(Elfen Lied, 2002年〜2005年)」…同じく「セカイ系構造」の一作。その結末は「ヒロイン=人類殲滅マシーンが主人公とのキミ=ボク関係ゆえに主人公(および彼が生きている世界)が殺せず、逆に主人公に殺される道を選ぶ」というもの。

そうどのマルチバースにも「(リセットボタンでもある)ザラブ星人的要素」と「(目的達成に近づくほどディストピア要素が高まる)メフィラス星人的要素」なら偏在しているのです。それなら「ウルトラマン 」とは一体何者か?そこまで辿り着いた時点で、以下続報…