そういえば横溝正史作品を夢中になってまとめ読みしてから、もはや半世紀…
この投稿の契機は以下のTweet。
ああ、あまりに昔の話過ぎて記憶が混乱している!! 割と大きな比率で扱われていた印象があった描写が遺作「悪霊島(1979年~1980年)」第二章「なんでも見てやろう」で見つかりました。時期的には1967年(1967年)頃とされていて、ここ自体には「カニ族」の文言はないです(探索続行)。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年6月8日
横溝 正史. 金田一耕助ファイル19 悪霊島(上) (Japanese Edition). 角川書店(角川グループパブリッシング). Kindle 版.
第二章 何でも見てやろう
二十か二十二、三の若者である。その頃は長髪は一部芸能人にかぎられていて、まだ一般化してはいなかった。その若者も頭をG・I刈りにしていて、脚には身にくいいるようなジーパンをはいている。靴はズック製である。うえに着ているクリーム色の半袖のスポーツ・シャツの胸元には、I WILL SEE EVERY THING ONCEと、いう文字が弧の型に湾曲して藍色に染めだしてある。石のベンチのうえには大きなリュックサックがおいてあった。
「きみ、このテープを聴いたのか」
「いやあ、雑音ばかりでしたよ。ぼくはまたジャズかロカビリーでも聴けるんじゃないかと期待してたんですがね」
恐縮しながらもさわやかに笑っている。標準型の好男子にはほどとおいが、日焼けした顔の感じは悪くない。笑うと口許からこぼれる白い八重歯が印象的だった。うわ背は一メートル七五くらいはあろうか、いまどきの青年としてはめずらしくがっちりとした体をしていて、半袖のシャツからのぞいている両腕も、太ぐてたくましく強そうだ。
「金田一さん、ああいうのをヒッピーというんでしょうか」
「さあ、ぼくもヒッピーの定義はよくしりませんが、いうところのヒッピー・スタイルとはちがってましたね。服装はラフだが、わりに身だしなみがよかったじゃありませんか。いちどはなんでも見てやろう族というやつでしょう」
「えっ、それ、なんのことです」
「あれ、警部さんは気がつかなかったんですか。あの男のシャツのまえに、大きく染めだしてあったじゃありませんか」
そして、金田一耕助は唄うように口ずさんだ。
"I will see everything once."
第七章 若者二人
「ときに、きみ、そのバッグのなかになにがはいっているの」
金田一耕助は若者がぶらさげている細長いバッグに目をやった。
「ああ、これ?これ尺八。おじさんはさっき琴と尺八の合奏を聴きませんでしたか」
「じゃ、あの尺八はきみだったのかい。いまどきの若い人としては珍しく、風流なたしなみを持っているんだね」
「なあに、おやじのおしこみですよ」
「お父さんはなにをなさるかた……?」
「神戸で証券会社をやっていました。三年まえに胃癌で亡くなるまではね」
「それはまた……きみのお父さんならまだ若かったろうに」
「それがそうでもないんですよ。ぼくはおやじの四十二の年の子どもだそうですから」
「そのお父さんに尺八のたしなみがおありだったんだね」
「はあ、おやじはもと職業軍人だったんだそうです。日本が戦争に負けるまではね。ぼくはまた日本が戦争に敗れた年にうまれてるんです。戦争に負ける少しまえにね」
そうすると昭和二十年の生まれということになり、昭和四十二年のことしでは数えどしで二十三歳、現代のかぞえかたでいえば二十二歳になるのだろう。
結構物語に絡んでくる若者ですね。で、以下は(詳細が思い出せない)佐藤優の著作からの要約。私が「生活保守」なる単語を知った最初。
- 日本は昭和25年(1950年)まで旧制中学まで進級するのが全若者人口のうち1割〜2割、旧制高校を経て大学にまで進級するのが1%未満という超教育格差社会だった。これが2人に1人が進学するほど大学の大衆化の進んだ社会に変貌したのだから動揺がなかった方がおかしい。
- 敗戦後の日本に送り込まれてきたGHQは大日本帝国が超格差社会だったが故に(世界的不況を背景として)社会全体から「学士様」と尊ばれる大卒者でさえ就職出来ない「大学は出たけれど」時代の到来が「とりあえず戦争さえあれば昇進が早まる軍人や政商」を新たな(自分達も目指し得る)政治的エリートとして推戴する軍国主義時代を準備したと考えた。その結果、昭和25年(1950年)に旧制中学や旧制高校は廃止となり、教育の均等性をより高めた所謂「6.3.3制」がスタートする。
当時教育を受けた世代は「1%〜20%のエリート」と「80%〜99%の一般人」から構成されていたが、さらに以下の様な世代に分類される。
- そもそも曲がりなりにも戦前の安定期に相応の教育を受け、終戦直後の第一次出産ブームに乗じて所謂「全共闘世代」を生み堕とした親世代は「政治的エリート」が愚民を善導するのは当然と考えており「聖戦」が敗北に終わっても政治不信を強める事はなかった。しかし、だからこそ逆に昭和54年(1979年)に共通一次試験が導入されるまで「(東大をはじめ旧帝国大学が集中する)1期校に入れなければ、革命でも起こさない限り一生落ちこぼれのまま」という危機感が2期校の大学生の間に蔓延。焦燥感から「よど号ハイジャック事件(1970年)」「山岳ベース事件(1971年)」「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」「あさま山荘事件(1973年)」などを次々と引き起こす過激派への人材提供の温床になっていく。
- 一方、戦間期に若者時代を過ごしたせいでロクな教育を受けられず、最前線と銃後で下っ端として酷い目に遭わされ続け、生活不安に明け暮れる終戦直後の焼け跡期に子供を産んだ親世代は「(それが学士様だろうが大日本帝国時代の将校様だろうが)政治的エリート」への不審感が強い一方で自分達の子供には真っ当な教育を受けさせてやりたいと考える生活保守派(その自分中心主義故に犯罪率も前後の世代に比べて格段に高い)の温床となった。この傾向はその子供の世代、すなわち大衆が新左翼運動に見切りを付け、海外旅行ブームの前史的にカニ族(北海道を巡るバックパッカー)が流行した1970年代前半に青春時代を送り、資質ある人が作家などより官僚や学者や金融損保関係といった手堅い方面に向かった一方で「競争は嫌いだ」などと口にしつつ常に競争してしまう世代に継承される事態となる。
とりあえずメモがてら…