諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「内心の自由」とは?

いろいろ考えないといけなくなってきたので、とりあえずメモ。

今回の投稿の発端は以下のTweet

まぁあくまで出発点はどちらもジョン・スチュアート・ミル自由論(On Liberty,1859年)の章句「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、権力がそれを妨げる事を許されるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」まなのです。これを文字通り英米法的に「禁じられていない事は原則として許されている」と解釈し「(行為の累積結果として自明の場合として浮上してくる)目に余る行き過ぎ」にのみ対応するのが奇数系フェミニズム大陸法的に「許されていない事は原則として禁じられている」「禁止範囲を巡るは自明の場合として様々な形で暴力性を帯びる」と考えるのが偶数系フェミニズムと定義づけられます。

  • この定義では英米における婦人参政権獲得運動が遅々として進まない事に業を煮やして過激行動に打って出たサフラジェット運動こそが「第二世代」にカウントされるべきなのだが …ちなみに英国映画「未来を花束にして(Suffragette,2015年)」は完全にこの立場に立つ第四世代フェミニズムプロパガンダ映画だった。

  •  偶数系フェミニズムにおける「(行為の累積結果として自明の場合として浮上してくる)目に余る行き過ぎ」への対応…多くのLGBTQAコミュニティにおける「異性憎悪からの同性愛傾倒者(実は「同性憎悪からの異性愛傾倒者」もアウト)」や「性愛嫌悪からの無性愛傾倒者」排除規約などが該当。如何なる倫理的判断の結果でもなく「彼らを放置した結果起こった実害の累積」が生んだルールというのが重要で、そのケースにおいてのみ「奇数世代フェミニストも偶数世代フェミニストの様に振る舞う」。

  • 上掲の様にLGBTQAコミュニティ側が問い掛けてくるのはあくまで「貴方は異性嫌悪からの同性愛嫌悪者(あるいは同性嫌悪からの異性愛)ではありませよね?」なる質問だけで、これはヤクザの様な反社集団の内規においてすら建前上は「銃刀類の保有は、これを禁止する」と定めているのに似ている。偶数系フェミニズムは浅薄に「実際の在り方としては自明の場合としてもっと多様で連続的なのは知ってる。しかしコミュニティ維持の為、その表明の自由が原則として禁じられる場合もある」と主張してその範囲を最大限化しようとするが(それで「化粧するな」「ブラするな」みたいな極論に至ってしまう)、奇数系フェミニズムはあくまでそう考える範囲を最小限に留めた上で苦渋の決断の結果として「虚偽申告も一生貫けば嘘ではなくなる」なる立場に立つのである。

ここに乱入。

ここでいう「使い捨てにする手口」についてはアントニオ・ネグリマルチチュード」とかが参考になりますね。

そして最新の疑問。

そんな感じで以下続報…