諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】注目に値する「宰相の条件」とは?

全盛期tumbr(2010年代前半)では匿名女子アカウント集団の側から匿名男子アカウント集団に向けて「お前達が想像や創作の世界で美少女や美女に何をしようが我々は関知しない。我々が想像や創作の世界で美少年やイケメンに何をしようが関知しない限り」なる通達があり、事実上これが停戦協定として守られていたのです。だからそれ自体についてどうこうは思いませんが、女子が男子の願望剥き出しの展開について「あー」と思う程度には「ハウル・パターン(それまで誰にも心を開かなかったイケメンのプレイボーイがヒロインと邂逅して初めて真実の愛を知る)」や「一寸法師パターン(それまでヒロインしかその良さが分かってなかった凶暴なチビがラストで突如背が伸びてイケメンに成長)」について同じ様な感覚で「あー」と思うのはあらかじめ御了承ください。

今回の投稿の発端は以下のTweet

まぁ「冬旅はよせ」と言われても来ちゃったデカルトにも責任の一環はある?

クリスティーナはフランスの哲学者であり数学者ルネ・デカルトに心酔し、1649年の年始より3度に渡り親書を送り、同年4月にはスウェーデン海軍提督に軍艦をもって迎え行かせ、10月デカルトストックホルムを訪れている。クリスティーナは政務の傍ら1650年1月より早朝5時からデカルトの講義を受けて師事したが、デカルト53歳と当時としては高齢であり、フランスでは朝寝の習慣があったため、彼には辛い日々であったとされる。真冬のスウェーデンの厳寒さと無理がたたり、クリスティーナへの講義を始めた翌月2月デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、結果的に死去させてしまった。

1649年の初めから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルト9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。

1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。

それにつけても「53歳と当時としては高齢」とは?

オスマン帝国の大宰相時代…

要するに藤原氏

いきなり気分は三国志の世界に。

それでも世界は美しい(2012年~2020年)」の宰相バルド。2014年のアニメ化に際して「CV櫻井孝宏キャラ」に。

バルドウィン・シシル・イフリキア

「晴れの大国」の先王レオニダスIII世の末の異母弟で、リビ(リヴィウス)の叔父。愛称は「バルド」。先々王レオニダスII世と第3王妃の間に生を受け、同父母の姉と第2王妃との間の兄スピラーリがいるが交流はなく、シシル宮に同居する母親や出戻りの姉ともほとんど顔を合わせることはない。金髪・金瞳の青年。年が離れており母親も違うため、彼にとって先王は兄という実感がない。

かつてはその派手な外見と人に心の内を見せない様から「宮廷の花」「太陽」などと呼ばれていたが、それは自身で敢えてそうあるように意識してのことで、本来は物静かで思慮深い。 初恋の人シーラを失って以来、彼女だけを想って生きても構わないだろうと開き直る一方、女癖が悪く女性関係が派手で、リビの元に「バルド様と結婚したい」という嘆願書が届くようになっている。

リヴィウスの亡き母シーラに想いを寄せていたため、彼女が暗殺された後、リヴィウスを守るため彼を王位に就け自身は宰相を務めていたが、リビが心を失くしてしまったことに耐え切れずに彼の元を去り吟遊詩人となった。リビが婚約したことを知って妻となるニケを見定めるために「晴れの大国」に帰る。その後、ニケの計らいでリビと和解、再び宰相に任じられた。当初はシーラの死を受け入れられなかったが、カラとのふれあいで徐々に受け入れ始める。

かなりの長身であるため、身長のことで悩むリビがニケのほかに彼女よりも一層悩みを知られたくない相手である。再び宰相となってからは、ニケとリビの良き理解者となっているが、それと同時によく2人をからかっている。自身を「歩く下半身」と呼んで嫌うルナが大の苦手。王位争いが嫌いで神官になった異母兄スピラーリの姿が単なる逃避とみなしており、力があっても使おうとせず行動しない彼を軽蔑していた。見た目は不味そうなのに、食べると美味しい料理を作りたがる。

ああ…

バルドのモデルは「太陽王を嫉妬させた宰相二コラ・フーケ

1661年8月ルイ14世は、すでにフーケを失脚させると心に決めながらも、フーケがヴォーで開催したパーティーに参加した。これはフランス史でも1、2を争うような豪華なパーティーで、 モリエールのコメディ・バレエ「はた迷惑な人たちLes Fâcheux)」も初演された。この豪華さを王は嫌い、フーケの運命が完全に決定された。とはいえ、王は、これほどの力のある大臣にそのまま対立することを恐れた。手の込んだ企みによって、フーケは、まず自分の検察長官の地位を売り渡すように仕向けられ、それによって特権の保護を失い、そして代償を国庫に支払うことになった。

ルイ14世がヴォーを訪問した3週間後の9月5日、王はフーケを伴ってナントを訪れた。フーケは、自分が大切にされていると喜んだが、御前を離れたときにマスケット銃士隊長のダルタニャンの手で逮捕された。裁判は3年間続いたが、一般大衆は概ねフーケに同情しており、ラ・フォンテーヌやセヴィニエ夫人など多くがフーケを擁護する文を書いた。しかし、フーケには国外追放の判決が下された。ルイ14世はこの判決に激怒し、終身刑に差し替えることを命じた。フーケは1665年の初頭にピネローロの要塞に収容され、1680年3月23日にそこで死去した。

この裁判は正規の進め方から逸脱していたと言われ、21世紀になってもフランス法曹界では学術論文の題材としてしばしば取り上げられている。フーケは不屈の精神を貫き、牢においても何冊かの翻訳作業なども行った。フーケの裁判に関する15巻の記録が、コルベールがフランス三部会で抗議したにもかかわらず、オランダにおいて1665年から1667年の間に出版された。第二版も1696年に Oeuvres de M. Fouquet のタイトルで出版された。

フーケが鉄仮面の男だと言われることがあるが、この説は信頼性が低い。実際、ピネローロの牢獄で鉄仮面の男がフーケに下男として仕えていたという証拠がある。

宰相バルド、一時期政務を離れて吟遊詩人をして暮らしていたしモデルの可能性も?

漫画論的にいうと吾峠呼世晴鬼滅の刃(2016年~2020年)」同様「シリアスなストーリーのガス抜きとして極端なデフォルメキャラによる寸劇を入れてくる」スタイル。古くはたがみよしひさ軽井沢シンドローム(1981年~1985年,続編2002年~2006年)」に採用されたスタイルですが、はたして連続性があるのかどうか。

まぁ最後には超古代文明が登場してSF大作に発展した「異世界ディスティニーロマンス」に史実性を求めてもアレですが、クライマックスで登場する超古代文明の主要キャラクターの名前がシドンテュロスだったのには驚きました。まさかの時にフェニキア人ですよ…何となく世界構成要素にハーレクイン・ロマンス味を感じて未履修だった「シーク物」も何冊か手を出してみましたが、完全に別世界でした。

初代は「(若い頃はオスマン帝国スルタンのムラト三世と同性愛の関係にあったとされる事もある)串刺し公ブラド・ツェペシュの弟美顔王ラドゥ3世」同様、その筋の玄人に好まれるタイプ。

一方、オルレアン家自体は超高級の香料にして着色料だったサフラン栽培によって「フランス一の素封家」とまで呼ばれた財を構築。

フランス革命(1789年~1795年)に際してもその居城パレ・ロワイヤルから「バスティーユ牢獄襲撃(prise de la Bastille,7月14日)」と「ヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles,10月5日)」が進発。さらに7月革命(1830年)から2月革命(1948年)にかけての7月王政期には王統として君臨。以降もオルレアニストと呼ばれる王党派派閥が政治的影響力を発揮し続けるのです。

そして、こうした時代に執筆されたアレキサンドル・デュマダルタニャン物語(D'Artagnan、1844年〜1851年)」などが「(スペインから輿入れしてきて初代オルレアン公の生母となったルイ13世王妃を免罪し)外国人宰相リーシュー枢機卿のみを悪人とするオルレアン朝史観を世界に広めていったという次第。

そんな感じで以下続報…