この年表の補筆?
より具体的には以下。
【社会党】55年体制の成立当初は政権獲得を目指した(当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた)。しかし地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなか、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱。公明党や共産党に支持基盤を奪われる事になる。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がっていく。
*戦前の社会大衆党より三輪寿壮・河上丈太郎・西尾末広・浅沼稲次郎らが合流し社会党幹部となっている。
【共産党】1955年7月 第6回全国協議会(六全協)。従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議。
- またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った(比喩的に55年体制とも呼ばれる)。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言。
【民主党】1956年 総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きなどを見せる。
【社会党】1956年7月 第4回参議院選挙。自民61議席に対し、49議席と健闘。
【社会党】1957年1月 労働者農民党が合流。衆議院160議席となる。
【社会党】1958年 第28回総選挙。自民287に対して166と保守議席に迫れなかった。
【共産党】1958年 第7回党大会。宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年にかけての分裂と混乱を「五〇年問題(50年問題)」や「五〇年分裂(50年分裂)」と呼び、その「軍事路線」はソ連・中国の大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判。外国の干渉は受けないという自主独立路線の始まりとなる。
- 以後も日本共産党執行部は五全協、六全協での「再統一」宣言や「軍事方針」たる「51年綱領」決議、「北京機関からの指示」およびそれに従って行われた武装闘争などは全て、徳田、野坂分派が党中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もない。」という態度を貫いている。
- この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に不法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や新左翼運動にもつながっていく。
- また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。公安警察と公安調査庁は、日本共産党は「敵の出方論」や暴力革命を実際には放棄していないと見続けており、1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で]、不法行為によるスパイ行為と批判している。また警察庁の『警察白書』では、現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、警察は政治的中立を保たなければならないのに、党の綱領や決定について批判的な講義がされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという不正常な状況が続いた。そういうマスメディアに共産党側は「新聞は権力の手先」と反発していたという。
- さらに日本社会のマイノリティーとも一線を引く。部落解放同盟や朝鮮総連は代わって日本社会党に次第に接近。
- この党大会以降、不破哲三や上田耕一郎といった「改革派」が党中央の要職に就任。宮本顕治は1960年代半ばまでに党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立し不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し「クリーンな党のイメージ」を打ち出す。
【社会党】【民主党】1959年 第5回参議院選挙。東京選挙区で公認候補が全滅するなどやはり伸び悩む。
- 最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判。さらに安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立。
- 当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙う。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦った。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成される。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまう。
- 結局、西尾末広は1959年に脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成。この時、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相とされる。しかし、河上派の動揺を抑える為に河上は同年の委員長選挙に出馬。鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功。その一方で河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい(浅沼刺殺後は江田三郎が委員長代行)、翌年、河上が委員長となる。
- 以降社会党内の派閥対立は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡る意見の不一定がなくなり、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものになる。
- 合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟(ブント)を結成。
- 安保闘争では強硬な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難したが、必ずしも批判された側すべてが「トロツキズム」を主張していたわけではない。
【民主党】【社会党】【共産党】1960年11月 第29回総選挙。
- 民主党(後の民社党)はこの選挙で議席を40から17へと激減させ、その後しばらく20 - 30議席前後で推移。
- 社会党にとっては浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後。145議席を獲得。1969年に分離した民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やす。
- 日本共産党はこれ以降、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになり、その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続る。
- 当時、日本社会党系はソビエト連邦の核実験は防衛的と主張し「いかなる国の核実験にも反対」と主張。日本共産党はこの態度を激しく非難した。1965年に日本社会党系は原水協を脱退して原水禁を結成。以後日本の原水爆禁止運動は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいると主張している。
【共産党】1961年 綱領草案を巡る論争
- 日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。
【社会党】1963年 第30回総選挙。前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して停滞・微減。
- 高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。これについて石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘する。
- また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析する。
【共産党】1964年 中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」と声明を発表。
- 国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党を離反。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
- この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった(親中派)。
- 4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。
- 同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。
- 「共産党は1966年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)」。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名され「日本労働党」「日本共産党(左派)」「日本共産党(マルクス・レーニン主義、後の労働者共産党)」「日本共産党(解放戦線)」「日本労働者党」などを結成。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後のこれらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていたが、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていただけで、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と目されている。
【社会党】1960年代後半〜1970年代 社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まる。
- 向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。
- 親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。
- ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定し続けている。
- この時期の社会党は自治体首長選挙において共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させている。社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。
【社会党】1969年 第32回総選挙。社会党は候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減。また東京都議会議員選挙で公明党に抜かれ第3党となる。
- これについて石川真澄は、この当時の社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争(内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)など)のために、社会党に嫌気がさした旧来の支持層の多くが棄権し、各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためとする。
チェコ事件- とはいえ当時は新左翼に対する若年層の支持がそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態もこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っていた筈だった。なので社会党の敗北は多党化現象の余波や都市部での都市流入層の組織化を怠った結果とする意見もある。
【社会党】1970年2月11日 日本最初の人工衛星「おおすみ」が、東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)の鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げられる。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来。
- 1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始。1969年に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含んで、5回の試行錯誤の後ついに成功。その結果、日本はソビエト連邦(当時)、アメリカ合衆国、フランスについで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。その2ヵ月後に中華人民共和国は東方紅1号の打ち上げに成功している。
- なお中国を含め、多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したが、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかったという点で、国際的に特異性である。
- さらにはL-4Sロケットは世界初の「誘導制御装置が付いていない無誘導衛星打ち上げロケット」であった。これは決して開発能力が無かったわけではなく「誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能である」と日本社会党などの野党が食い下がり、開発の着手時期が大幅に遅れた為である。もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても地球周回軌道には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として独楽の様に機体を回転させる「無誘導重力ターン方式」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。その技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。
今回の投稿の発端は以下のTweet。
しばらく前「70年安保を主導した学生運動家の出自」が話題になりました。彼らがこぞって「死体状態」と要約し口をつぐむ第一次ブント(1958年~1961年)解散から第二次ブント(1966年~1970年)結成までの期間は「中核派」「革マル派」の成立時期でもあるという…https://t.co/LT7qukH0Zj
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年10月1日
大衆運動や武装闘争を推進する立場から「頭数揃え」を重視し共産主義者同盟(ブント)や社青同解放派など他党派との共闘も辞さない中核派…https://t.co/ct3hFa8klW
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年10月1日
それに対し「選民主義的で大衆を侮蔑し、外敵への対応より党争での勝利を優先する」講座派福本イズムを継承する革マル派…https://t.co/I8hipYIgy1
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年10月1日
そんな感じで以下続報…