今年のノーベル文学賞はボブ・ディランですか…「その筋の人達」ってまだまだ根強い影響力を有してるんですね。ただ「社会に宣戦布告した人達」が、自分達もその社会を担う立場に回って色々考え方が変わってきたというのはある様です。
*検索するまで気がつかなかった。新海誠監督作品「言の葉の庭(2013年)」の欧米ファンが合言葉にしてた「Some people feel the rain. Others just get wet.(雨を感じられる人々がいる。残りは濡れたと思うだけ)」なる言葉もボブ・ディアラン起源だったのか…
ところで、これまでの投稿の中で、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品「レッドタートル ある島の物語(原題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」において「ここだけは残念」と指摘した箇所をまとめてみました。
- 残念な人たちに残念な形で応援されてしまった…まだまだ「その筋の人達」達って強い影響力を持ってるんですね。まぁ作品内容に直接関係ないし、日本まで巻き込まれた訳でもない。あと海外では「かぐや姫の物語(2013年)」以降、高畑勲監督がからむと「何がテーマかよくわからないけど、結論はきっと人間は生きてる事そのものが罪とかそういう感じに決まってる」なんて先入観で見られる様になったのもマイナス要因。
- Love Storyとしてトリミングされてなかった…そして困った事にLove Storyとしてチェックされた時に非常に粗が目立つ構成になっていた。別に全ての作品が「Love Story」に仕立てられる必要はないのだけれど、この監督の場合、なまじ「魚の事が片時も忘れられない僧侶」とか「父親をいつまでも忘れられない娘」を描いた旧作がLove Storyの一種としても楽しまれてた事が仇になったとも。
*興味深いのはむしろ海外女性ほど日本の女性がカチンときてない辺り。海外ほど女性解放が進んでないせいか、むしろ逆に海外より進んでるから余裕があるのか…とはいえ完全に無意識でもない?
『レッドタートル』ってこんなハナシ。
— hoshinoruri (@hoshinoruri16) 2016年10月13日
・嵐で無人島に打ち上げられた男に一目惚れしたアカウミガメが、自ら男に殺されることによりヒトの女に生まれ変わり、男と男の命が尽きるまで無人島で楽しく暮らし、海へ還っていく。
嘘じゃないよ?妹「レッドタートル。超素晴らしいんだけどシリアス過ぎて人に薦められない。最近観た聲の形に似て、男の後悔と贖罪と再生の話。赤亀が何なのか、何故最初にあんな事したのか分からないけど、冒頭のシーンから長い夢を観ていたような浮遊感のある現実なんだろうな……」
— FMJ姉妹 (@FMJsister) 2016年9月30日なにやら『聲の形』は「いじめてた側がいじめられてた側に都合よく許されすぎ」とか批判されてるみたいだけど、その点『レッドタートル』はもっとすごいからね。鈍器で頭殴った上に丸一日放置してたような男を許しちゃうだけじゃなくて、そいつとつがいになって子供産んじゃうヒロインでてくるからね。
— ぽんこつ (@tamaki86) 2016年10月2日*まぁ海外女子みたいに「お前なんて現実世界じゃきっと、波打ち際に打ち上げられた遺体を蟹にボリボリ食われてるんだろうが!!」とか言いださないだけマシ? いやもう時間の問題な気も?
- 最近流行の「二重の死(生物としての死と記憶からの消滅)」を扱った作品ではなかった…マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は元来「三昧の境地(執着心を貫く事で涅槃の境地に到達する展開)」を描くのを得意とする作風。そして「レッドタートル」において初めて「(おそらく2段階を踏んで)執着心を放棄する事で涅槃の境地に到達する展開」に挑戦したが、初のアウェー戦なので逡巡や難解さを伴う事に。そういう展開なので、そこにはそもそも「生物としての死の悲哀」も「記憶からの消滅する悲哀」も描かれ様がないとも。
*ただ「生物としての死の悲哀」については、むしろ断固としてそれを認め様としない姿勢によって逆説的に際立たされてるとも。
相変わらず映像美的には完璧なんですけどねぇ…次回作に期待という感じ?
興味深かったのがこの評価。
『レッドタートル ある島の物語』(解釈によっては描かれているとも取れるけどそれは怖い)人の一生を描くという話であるなら、青年が島に来る前がどうだったのか、どうして島を出たいのか、結局出なくてもいいと思える程度なのかが見えないので、これでよかったのかが判断しづらくて困った。
— 光希桃@失業中 (@mikimomo_as) 2016年9月23日
先日の蟹作画つぶやきは聲の形のことじゃなくてレッドタートルに出てくる蟹のことだよ。甲殻類が好きな人はスクリーンで見てね
— せおアンドやうず (@seoaki___) 2016年10月11日
私の場合、最初からゴールディング「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin、1956年)」がベースの話だと思って鑑賞してたので…この件に関してはどうしてもギュンター・グラス「ブリキの太鼓(Die Blechtrommel、1959年、映画化1979年)」における鰻のエピソードなんぞを思い出しちゃいまして。どうしてこの物語では最も身近な蛋白源たる蟹を食べないのか? それは多分…もし私の見立て通りだったとしたら「蟹かわいいです」とか迂闊に認めちゃうと、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督がガッツポーズを取っちゃう結果に?
*そういえば日本人は(フランスの評論家と違って)誰も「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」とも結びつけて考え様としなかった。私はそれで「この映画って、フランスではフランス映画と思われてないんじゃ?」と疑い出したんだけど、日本ではあくまで「バンド・デシネ(bande dessinée)の絵がそのまま動いてる→フランスのアニメーション」という解釈が主流。実はああいうタンタン(Tin-Tin)みたいな画風って本場ではベルギー風(Beltian)って呼ばれてるし、ロンドンを活動拠点にしてるオランダ人のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督がそういう画風を習得したのも、どうやらスイス修行時代らしい。どうもこの辺りが「フランスでの興行成績が3ヶ月で2億強」の元凶にある様な。
それならこのあたり、トム・ムーア監督作品「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」の場合はどうだったのか?
- 残念な人たちが残念な形で敵に回ってしまった…日本にもシンパがいるらしく「あなたの作品って本当にディズニーやジブリのアニメにそっくりですね」としか言わない人達がいます。「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、2012年)」が日本ではたった4館でしか封切られなかったのもそのせい?
- Love Storyそれもセカイ系作品として完璧なトリミング…そもそも考えてみたら「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」なる条件さえ満たせば、もうほとんどLove Storyとしてのトリミングはほぼ完成した様なもの。そしてセカイ系作品の大半は「世界の危機」とか「この世の終わり」といった根源的不安要素具体的イメージに落とし込めないまま未完にに終わるのだけど、この作品はその部分を巧みに乗り越えた。また海外評論家の多くは、この作品における主人公とヒロインの関係を「もののけ姫(1997年)」における(文明側を代表する)アシタカと(自然側を代表する)サンの関係の単なるパクリと酷評したが、この作品を選んだ支持者達はちゃんと全ての根底に「アイルランド人自身のアイルランド神話に対する危機意識」が流れている事を見抜いた。
*実はLove Storyとしてのトリミングがさらに徹底して遂行されている新海誠監督作品「君の名は」にも、この領域まで踏み込んだ場面があえて残されている。主人公がヒロインの口噛み酒を口にして古代日本人の宇宙観を追体験する場面がそれ。ただし、これを読み解くには「キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初旬)や高松塚古墳(藤原京期すなわち694年~710年)のデザイン・コンセプト」などについての基礎教養が不可欠で、むしろ多くの日本人は「こんなの単なるクリストファー・ノーラン監督作品「インターステラー(Interstellar、2014年)」のパクリじゃん!!」と切り捨てる道を選んだ。もしかしたら新海誠監督は五十嵐大介作品に敬意を払いつつ、その影響から脱却する為に「キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初旬)や高松塚古墳(藤原京期すなわち694年~710年)のデザイン・コンセプト」や「古代日本人の宇宙観」の導入に成功したのかもしれない。また、本格的な海外封切り前なので、トム・ムーア監督作品全ての根底に「アイルランド人自身のアイルランド神話に対する危機意識」が流れていると見抜いた層がこの場面にどう反応するかまでは不明。
- 最近流行の「二重の死(生物としての死と記憶からの消滅)」を独特な形で扱った…トム・ムーア監督の関心は「アイルランド人がアイルランド神話を忘却するのを何としても防ぎたい」という一点にある。だから自然と「生物としての死」より「記憶からの消滅」が注目される事になり「ソング・オブ・ザ・シー 海の歌(Song of the Sea、2014年)」においては苦痛や悲劇を忘れたい心理がそれを引き起こすメカニズムが描かれた。「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」のアプローチはまた異なる。というのもアイルランド神話では御馴染みの存在、すなわち「あらゆる時代を超越して全てを語り継ぐ超自然的存在」にスポットライトを当てたせいで「神話が忘れられる危険」自体は存在しないから。ここで消滅の危機に瀕するのは9世紀ヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)によって滅ぼされたケルト系キリスト教の世界観。そして人間界からそれが完全に忘却されるのを防いだのは「ダロウの書(Book of Durrow、7世紀)」「リンディスファーンの福音書(The Lindisfarne Gospels、7世紀末から8世紀初頭)」「ケルズの書(The Book of Kells、8世紀)」といったケルト装飾写本だったという構図。
そう、「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」が(Love Story としてトリミングされた)セカイ系作品として成立しているのは、ヒロインをロリババァ(Eternal Loli)、すなわち「あらゆる時代を超越して全てを語り継ぐ超自然的存在」として設定し、全体構造を「僕(ブレンダンの生きているケルト系キリスト教の世界)と君(アイスリングの生きているアイルランド神話の世界)」と単純化しているせいなのですね。
要するにこういう事です。
- セカイ系作品の基本定義…主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく「世界の危機」や「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する。結局、その存在不安を具体的イメージに落とし込めず未完に終わる事が多い。
- 「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」の基本設定…ヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)」襲来によってケルト系キリスト教が滅ぼされていく時代を背景に「僕(修道院で暮らすブレンダンの生きるケルト系キリスト教の世界)と君(森で暮らすアイスリングの生きるアイルランド神話の世界)」が協業して「次世代に語り継ぐべき何か」すなわち「ケルズの書(The Book of Kells、8世紀)」を残す。
*まさしく海外評論家が「こんなの単なる署名で犠牲者を拘束する「千と千尋の神隠し(2001年)」の全面的パクリじゃん!! 結局お前のやってる事は全部ディズニーかジブリのやってる事の真似事に過ぎない」と徹底的に叩いた箇所。もはや「手塚治虫や大友克洋の作品にオリジナリティなんて片鱗もねぇよ。どこもかしこもありふれた表現ばっかじゃん!!」と豪語する日本の若者と大差ない? というか、むしろ印籠を見せられてかえって「ならば皆殺しだ!! 関係者全員の口を封じちまえば問題がこれ以上大きくなる事もねぇ!!」と開き直る水戸黄門の悪役に近い?
ここで「この作品には社会性が欠けている(実際物語のほとんど全てが修道院内か森の中を舞台に進行する)=当時のケルト人社会への言及がないのは引き篭もりの証拠」と突っ込むのは本末転倒というもの。そもそも「その時折の在野社会の有り様を生き生きとした記録として残す」という観点が古代エジプト王朝やメソポタミア都市国家群の神殿宗教まで遡る当時の知識の在り方そのものにおいて欠落しており、実際その大半が失われて復元不可能となっている。
*それは、ほぼ同時代に編纂された「古事記(712年)」や「日本書紀(720年)」や万葉集(7世紀後半〜8世紀後半)および当時の日本における仏教研究の在り方とて同じ事。中には山上憶良「貧窮問答歌」の様な例外もあって「何時の時代も中央政権が滅ぼすべき絶対悪に過ぎなかった動かぬ証拠、当時の記録で読むに値するのはこれだけ」とする研究者もいるが、近年では中華王朝への憧憬心から類話を模倣したに過ぎないとする説も有力視されている。
貧窮問答歌
何か既視感を感じないだろうか? 間違いなくこうした当時の知識の在り方れこそが宮崎駿「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」に登場する「土鬼の秘密の庭園」の元ネタ。それを逆手にとって「こんなの単なるジブリのパクリ」と騒ぎってるのはまさしく「手塚治虫や大友克洋の作品にオリジナリティなんて片鱗もねぇよ。どこもかしこもありふれた表現ばっかじゃん!!」と同室の暴挙。
*「するってーと実は世界系作品とか、なろう系作品って当時の世界観への回帰じゃね?」と思った人鋭い。実際そういう説もあったりする。
地獄の沙汰も恋しだい
*まぁこの辺りがアナトリア半島経由でギリシャに伝わってヘラクレス神話やテセウス神話の原型になったとされている。神殿宗教が豪勢で華美な儀礼や参加者を選ぶ神秘的な秘儀で自らをヒステリックに飾り立てる様になるのはむしろ無条件にその絶対的権威性が敬われなくなってからで、始まりは至って素朴なものだったのである。そしてアイルランドにおけるケルト系キリスト教にはその当時の古拙さがしっかりと息づいている。
古い世代の日本人だと大原まり子「メンタル・フィメール(女性型精神構造保持者、1988年)」 辺りを思い浮かべるかもしれません。ただ1980年代日本の作品って「フリーハンド権の代償に世界の行く末全てについて責任を負わされる」地母神の憂鬱に立脚する作品が多いのですね。現代女性には「女にそこまで負わせるの?」と、かえって不評です。むしろ「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」を支持した女性層は、この作品における主人公とヒロインの関係を、そうした伝統的重責の押し付け合いから解放された西尾維新「物語シリーズ(2006年〜)」における阿良々木暦と忍野忍の関係に重ねました。まぁこれも2010年代に入ってからのトレンド「平坦化(fraternize)」の一環。それでは彼女達も共感した「ブレンダンとケルズの秘密」のメインヒロイン「アイスリング(Aisling)」の苦悩とは一体何だったのか?
- 知り合った人間全てが先立っていくロリババァ(Eternal Loli)独特の苦悩…良い意味でも悪い意味でも日本の作品だったら絶対に「じゃぞ」とか老人言葉で喋らさせたキャラ。ところが彼女はこの問題を「自分の個性」と受け止め、時の流れに身をまかせて全てを「経験」としては忘れ去っていく事で精神的若さを保ち続けている。その彼女に唯一「忘れられない経験」を残したのが主人公。まぁこの時点でもうLove Storyは成立してるとも? 他国作品だったら支倉凍砂「狼と香辛料(2006年〜2011年)」や「レッドタートル」みたいに孕まされて子供まで産まされている展開に…
*「狼と香辛料(2006年〜2011年)」はロリババァ(Eternal Loli)たるメインヒロインが「お前の子供なら産んでやってもよい」と決断を下すまで物凄い時間をかけた。その点「レッドタートル」は何でも何でもいきなり過ぎたのである(なまじ赤海亀の産卵に立ち会って感動したせいでダークサイドに堕ちたとも)。女性(特に十代少女)にとって「娘と女と母の三重アイデンティティ問題」は恐ろしいまでにデリケートで、ステファニー・メイヤー著「トワイライト(Twilight)シリーズ」すらそのハンドリングに失敗した途端「歴史の掃き溜め」に一瞬にして放り込まれたくらい。 - アイルランド神話におけるトゥアハ・デ・ダナーン神族とフォモール族の微妙な関係…ここで突然としてアイルランド神話に関する教養が必要となってくる。神話上は「先住民」フォモール族を「最後の移住者」トゥアハ・デ・ダナーン神族が駆逐した事になっているが、実際の後者は森の奥の神殿に押し込められただけだったとするのが「ブレンダンとケルズの秘密」の中核設定。日本神話でいうと天津神と国津神の関係。まぁこれが理解できない文化圏の評論家が逆に「こんなの単なるジブリ作品の全面的パクリじゃん!!」と騒ぎ立てる訳である。
*それでは国際SNS上の女性層の反応はどうかというと、これまた一筋縄ではいかない。Love Storyオリエンテッドの立場って本当に馬鹿に出来ない。
この辺りから本当にガチで「アイルランド人自身のアイルランド神話に対する危機意識」に対する基礎教養が必要となってきます。まぁ、古代日本について語りたければ「古事記(その序によれば712年(和銅5年)に太安万侶が編纂し元明天皇に献上)」や「日本書紀(720年完成)」未読じゃ絶対に済まないみたいなもの?
*当時のブリタニア島やアイルランド独特の状況を把握するにはベーダ「英国民教会史 (羅Historia ecclesiastica gentis Anglorum、 英Ecclesiastical History of the English People、校了731年頃) 」辺りにまで目を通しておいた方が吉。英国だけでなく、英国系移民やアイルランド系移民の多いアメリカでもこの辺りが庶民レベルで徹底されてる一方、フランスではインテリですら「そんなの頭で考えたら普通誰だって全部ジブリ作品のパクリに過ぎないって分かるでしょ?」レベル。この辺りの訳の分からないギャップが評論家には(スイスで修行して最終的にロンドンを本拠地とする事になった)オランダ人監督の作品「レッドタートル」が「紛れもないフランス映画、すなわち傑作」と評価され、フランス・ベルギー・英国合作の「ブレンダンとケルズの秘密」が「誰がどうみたってフランス映画ではない。すなわちパクリが全ての単なる駄作」と評価され、興行成績が真逆となる土壌となっているとも。
この問題にはさらに根深い側面が見受けられます。
- そうした評論家達はさらに「ブレンダンとケルズの秘密」をディズニー映画「ムーラン(Mulan、1998年)」の単なる全面的パクリでもあると追加で叩きのめす。
- ところが実際のムーラン(花木蘭)伝承には中華文明を存続の危機に曝す匈奴の襲来を近代における大日本帝国の中国侵攻に擬えてきた歴史が存在したりする。すなわちこの作品に登場するヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)は、何が何でも太平洋戦争当時における大日本帝国の悪行(後の植民地独立につながっていく、アジアにおける欧州植民地の卑劣極まりない奪取)の暗喩でなければならず、そうした欧州人の直感をジブリ作品もまたこの世界における絶対的真実と力強く後押しするのである。
- しかし困った事に「ブレンダンとケルズの秘密」に登場するヴァイキングは「ケルズの書の真の価値」が理解出来ず、貴金属製のケースを入手して大喜びする一方で中身はあまりに下らな過ぎて無価値と判断し破り捨て様とする(流石に「白狼」アイスリングと「黒狼」親衛隊の堪忍袋の緒が切れて介入。ヴァイキングは散々な目に遭って追い散らされる)。ここで「その歴史の浅さ故に本当に大事な事は何一つ分からない野蛮人」として全面的に糾弾されて地上から殲滅されるべきはあくまでモンゴル人や日本人の様な先天性夷狄たるべきで、決っして常に世界の中心であり続けてきてこれからも世界の中心であり続ける欧州人であってはならないのである。
*何たる支離滅裂。まさしく「女は男の必要に応じて母となったり、聖女となったり、娼婦になったりせねばならぬ」とし矛盾は全て相手側に押し付けるマチズモ(machismo、男権主義)の対「夷狄」向けバリエーション。黄禍論同様、その背景にあるのは普遍史観に立脚する欧州中心主義。
- そもそも最近の研究によってヴァイキングは略奪者というより平和的商人という側面が強かった事が明らかになっている。ケルト系キリスト教なんて勝手に自滅したのに、それを本当は善良で平和的だったバイキングのせいにする事自体がおこがましい。
*日本の歴史家からは蛇蝎の様に嫌われている「小説家」塩野七生「ローマ亡き後の地中海世界(2008年〜2009年)」を援用すると、欧州人の間にはそもそも「人道的配慮から」数百年に渡って海賊の沿岸部襲撃を放置してきた歴史を認めたがらない傾向が見られるという。それから北欧諸族が相応に文明化した10世紀以降とそれ以前の時代のヴァイキングを同一視するのは大変危険な事。
そうした状況下における「ケルズの書の真の価値」とは一体何だったのでしょうか?
「森の王」アイスリング(Aisling)には自力で解決出来なかった「(日本における天津神と国津神の間の緊張感に重なる)アイルランド神話におけるトゥアハ・デ・ダナーン神族とフォモール族の緊張感」はその中で如何なる形で解消されたのでしょうか?
本当に美しかったです!ありがとうございました。映画を観てこんなに「きれい!」と思えたのは何年かぶりです。今回、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と、デビュー作『ブレンダンとケルズの秘密』も拝見しましたが、有名な絵画へのオマージュを幾つか発見したような気がしています。パウル・クレーとかクリムトとか。当たっていますか?
監督:全くその通り!当たってます。
クリムトっぽいと感じたのは、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも前作にも美術の中に多用されている、渦巻き模様を見た時です。渦巻きのクルクルっと蔓が伸びるような動きを見ていてそう感じたのですが、あそこまで渦巻きにこだわって、繰り返し何度も何度も描いているのは、いったいどういう理由からなのでしょう?
監督:渦巻きや螺旋、それに幾つか重ねた円。それらはケルト人に先立つ太古の時代のピクト人たち(今のイギリスのスコットランド辺りにいた先住民族。アイルランド人やスコットランド人、ウェールズ人の祖でもあるケルト民族の一派ともされるが、言語系統が不明で、ケルト系ではない可能性もあり、謎が多い)が遺した装飾なのです。ピクト文化というのは、アイルランドやスコットランドに大昔あった石の文化ですね。私の映画ではイメージ作りのため、そうした古代のデザインを取り入れています。大昔の文化と現代の芸術をつなぐということは、この映画で達成しようとしている試みにとって大変に重要でして、劇中、神話や民話のキャラクターと人間のキャラクター、2人の異なるキャラクターを、そっくりの顔に描いたり声優にも1人2役やってもらっていたり、リンクさせているのですが、それも同じ狙いからです。この映画は、古い民話の中に私たちの芸術を見出すことはできるか?私たちの真実を民話の中に見つけることはできるか?そこにチャレンジしようとしています。古い民話を現代の観客のために描き直す、解釈し直す、ということに挑みたかったのです。
監督:そういうわけで、ピクト人が遺した様々なイメージ、石に刻まれた模様などを、アートディレクターのエイドリアン・ミリガウに見せた時です。彼が「これはパウル・クレーやカンディンスキーだ!」と言った。それらの現代美術も古代のデザインから引用していたんですね。
古代のデザインを現代美術の巨匠たちが引用し、その絵画と、そもそもの古代のデザインを、あなたは作品にさらに引用して、古代と現代をつなげる、ということを試みているわけですね。しかし、なぜ古代と現代をつなぐことがあなたにとってそこまで重要なのですか?
監督:アイルランドでは95年から07年まで「ケルトの虎」と呼ばれる高度成長期があったのですが、その時に不安を覚えたからです。昔ながらの風景を残さず、その上に舗装道路を作ろうとしたりショッピングモールを建てようとしたり。社会の表層、上の層が塗り変えられていくのと同時に、その下の層にある、いにしえの文化までもが忘れ去られようとしている。そのことに危機感を募らせたのです。
東京も同じですね。日本で高度成長というと戦後の1960年代だったのですが、我々日本人は、監督の仰る“下のレイヤー”まで東京をメチャクチャに掘り返してしまって、もう原状回復はとても無理そうです。江戸の町を思わせる遺構も文化も今ではほとんど残っておらず、残念でなりません。ダブリンはどうでしょう?原状回復できそうですか?もう手遅れですか?
監督:私は、ダブリンの中心街のどこにでも、古い時代の遺跡やその名残りみたいなものが今でも残っていると感じますね。ところで、自分はとてもラッキーだったと思っているのですが、私はキャリアの中で2つの時代を経験しているんですよ。お金はいっぱいあるけれども価値観がなかなか思う方向に行かない時代と、あまり経済は良くないけれども、その中でも芸術を大事にしていこうという時代です。まず、スタジオを99年に設立したので、当時は好景気でしたから政府の助成を受けながら映画作りを始めることができました。やがて08年にバブルが崩壊すると、今度は、経済が危機的状況でも芸術は大切なのか?という課題に取り組むことになったのです。「ケルトの虎」が崩壊したこの経済危機の時にアイルランドが直面したのは、物質文明から脱却するにはどうしたらいいのか、という大きな課題でした。この時に人々の考え方は大きく変わりましたね。失いかけていたものを思い出し、それを大切にしようと考えるようになった。幸か不幸かアイルランドの経済成長期は先進国の中でも遅くやってきた方なので、古いライフスタイルを守っていったり蘇らせたりできる選択肢が、その時点でも私たちには残されていたのです。しかし、一方で私は、古くからの文化というものは消そうと思ったってそう簡単に消え去るものではないとも思っていますが。私たちの世界観の中にあまりにも深く、物の見方として根付いてしまっているからです。
*考えてみればこの発想ってアイルランド出身のエドマンド・バーク(Edmund Burke)が「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中に記した「時効の憲法(prescriptive Constitution)」の概念そのものなのである。この考え方と(美と戦慄が同居する)ピクチャレスク(Picturesque)概念について触れた「崇高と美の観念の起原(A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful、1757年)」がドイツ観念論の起源となる。そしてここにも「トム・ムーア監督は(ラファエロ前派経由で英国古代文明の意匠を継承した象徴主義の大家たる)スイス出身のパウル・クレーやオーストリア出身のクリムトの影響下にある」という本末転倒の解釈が登場してくるのが興味深い。
1250夜『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク|松岡正剛の千夜千冊
流石あまりにも作品の本質に関わる部分なので詳細解説は避けますが、この作品が「主人公とヒロインの個人的Love Story」としても「それでもなおかつ世界の終焉に対抗しようとするセカイ系作品」としても通用する内容となったのは、こうして「問題点の完全抽象化」に成功したのが大きいと私は考えます。キーワードは「教会建築の原点とは森の聖域の神秘性の再現に他ならなかったのではあるまいか?」あたり。
1098夜『ゴシック』アンリ・フォション|松岡正剛の千夜千冊
日本人でも流石に「前方後円墳(3世紀中頃〜7世紀初頭頃)はどうしてあのデザインに決着したのか」とか「装飾古墳(4世紀〜7世紀)とは一体何だったのか?」なんて具合の踏み込んだ歴史的テーマに最終結論など存在しません。アイルランド出身のトム・ムーア監督はあえてそういう領域に踏み込んでダンスを踊ってる訳です。
*最近は「島ケルトなんて存在しなかった(アイルランド古代文化と大陸のケルト系文化の間に連続性が存在しない。むしろイベリア半島系諸族との関係が深い)」なんて説も出てきて、さらにややこしい事に。
そして(以下完全にネタバレとなりますが)最終的に紡ぎ出されたのはこういう物語。
- (天津神トゥアハ・デ・ダナーン神族の一員を示唆する)アイスリング(Aisling)は「あらゆる時代を超越して全てを語り継ぐ超自然的存在」にして森の世界に君臨する孤高の存在。ただ彼女も決っして万能ではなく(国津神フォモール族を示唆する)クロウ・クルワッハ(Crom Cruach)を幽閉した森の奥の神殿の敷地内には足を踏み入れられない。
- 一方、ケルズ修道院の厳格なAbbot Cellach院長の甥ブレンダン(Brendan)は、ヴァイキングの襲撃によって壊滅したアイオワ修道院から脱出してきたエイダン修道士(Brother Aidan)が持ち込んだ未完成の聖書に魅せられ、これを完成させたいと考える様になる。そして森に足を踏み入れてアイスリングと邂逅し、彼女の力を借りて森に溢れるありとあらゆる意匠を各ページに写し取っていく。
- だがこの本を完成させるには、どうしてもクロウ・クルワッハ(Crom Cruach)の意匠をも森の一部として盛り込む必要がった。そこでブレンダンはアイスリングの力を借りて森の奥の神殿に潜入し、既に隻眼だったクロウ・クルワッハ残りの目も奪う。クロウ・クルワッハの意匠は各ページを飾る枠飾りに採用された。
- やがてケルズ修道院もヴァイキングの襲撃を受けて壊滅。森の中に逃げ込んだブレンダンとエイダン修道士は追いつかれ、豪華な聖書カバーを奪われた末に中身を破り捨てられそうになるが、そこに狼に変身したアイスリングとその親衛隊が追いついて彼らを蹴散らす。ブレンダンとエイダン修道士は残りの生涯を費やして「ケルズの書」を完成させる事で神々と人間が共存した時代の息吹が人間界から忘却されるのを防ぎ、アイスリングは「(象徴操作によって天津神トゥアハ・デ・ダナーン神族と国津神フォモール族の対立を解消した)文化的英雄ブレンダン」の物語を神々の世界に語り継ぐ。
こうしてざっと関連二次創作画像を並べると、思うより「単なるLove Storyとして消費されてる」感が強いです。まぁこれは新海誠監督作品「君の名は」や山田尚子監督作品「聲の形」もそうだし仕方がない?