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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

本当は恐ろしい国民国家形成過程② 「探検ロマン」を巡るナショナリズムと反ナショナリズム

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かつて「探検ロマン」が国民国家形成の重要な柱の一つとなった時代というのがありました。国際的海図作成合戦、19世紀ユーラシア大陸を舞台にイギリスとロシアが繰り広げたThe Great Game、そしてアメリカのフロンティア消滅宣言(1890年)…
グレート・ゲーム - Wikipedia
フロンティア/フロンティアの消滅

*ここで何かと名前の挙がる「白人の使命」提唱者にして「(ジョージ・オーウェルいうところの)イギリス帝国主義の伝道者」ラドヤード・キップリング (Joseph Rudyard Kipling, 1865年〜1936年) は「ジャングル・ブック(The Jungle Book、1894年)」「続ジャングル・ブック(The Second Jungle Book、1895年)」の作者でもある。


ジュール・ヴェルヌ「気球に乗って五週間(Cinq semaines en ballon、1863年)」が発表された当時は「詳細不明の暗黒大陸」として描かれた地域もアフリカ分割(1880年代〜1912年)によって消滅。

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それまで白人の侵入を拒んできた風土病を細菌学や衛生学の発展が克服した結果とも。

アフリカ分割 - Wikipedia

*最大の皮肉は「奴隷貿易廃止」による現地諸王朝の急速な経済的衰退が政治的衰退(強大な中央集権勢力が消滅し、各個撃破の容易な小勢力に分裂)を招いたからこそそうした展開が可能となったという恐るべき現実。国民国家なるもの奴隷制と決して相容れず、米国南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)もそうした流れの一環として発生している。

こうして「前人未到の地」は次第に「そもそも人間の侵入そのものを拒む過酷な極地」に絞られていく展開となったのでした。

北欧諸国においては19世紀後半から20世紀初頭にかけて産業革命導入による漁業革命(新しい漁法、冷蔵や缶詰製造の技術などの伝来)や探検ブームの到来によって対抗意識が芽生えると、自然に各国で国民意識の形成が進行していった。
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例えばノルウェー出身の探検家アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen、1872年〜1928年)はイギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日に探検隊を率いて人類史上初めて南極点への到達に成功。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たしている。
本多勝一「アムンセンとスコット―南極点への到達に賭ける(1986年)」

こうした流れが夢枕獏神々の山嶺(1994年〜1997年)」に描かれたエベレスト登山競争の世界や 映画「ライトスタッフ(The Right Stuff、1983年)」に描かれた宇宙開発競争へとつながっていくのです。

 エベレストの歴史 - Wikipedia

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現在、エベレストはネパールでは「サガルマータ(सगरमाथा Sagarmatha)」、チベットでは「チョモランマ(ཇོ་མོ་གླང་མ་ jo mo glang ma)」、中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。

  • エベレストの存在が初めて文献上にあらわれたのは1717年、康熙帝の命令を受けてイエズス会士ジャン・バティスト・レジス(Jean-Baptiste Régis)が『皇與全覧図』と呼ばれる中国地図を作成した時であった。そのチベット部分、現在のエベレストの位置に山の絵が描かれ「朱母郎馬阿林」(チュモランマアリン)と表記されている。この地図はレジス神父の故国フランスに送られ、それを受け取った同僚のイエズス会士ジャン・バティスト・デュアルド(Jean Baptiste du Halde)が地図製作者のダンヴィル(Jean-Baptiste Bourguignon d’Anville)に託したので、ダンヴィルによって1735年、『中国新地図集』(Nouvel Atlas de la Chine)として出版された。ダンヴィルの地図では「チョウモウ・ランクマ」(Tchoumou Lancma)と表記されている。これがヨーロッパに「チョモランマ」の名称が初めて紹介された時である。

  • イギリス東インド会社は1765年以降、測量局を設けてインド各地の詳細な地図の作成を行っていた。1815年、ベンガルボンベイマドラスにあった三つの測量部が統合されてインド測量局が発足。さらに1818年8月1日にはインド大三角測量部(The Great Trigonomentrical Survey of India)が別に設けられ、三角測量のエキスパートであるウィリアム・ラムプトン(William Lambton)が部長に、28歳の士官候補生ジョージ・エベレストが主任助手に任命された。1833年に組織改編で大三角測量部がインド測量局の傘下に入り、ランプトンの逝去によってエベレストが二代部長となった。1830年にはエベレストはインド測量局長官も兼務することになる。

  • エベレスト長官はインドの南岸からヒマラヤ山麓までの三角測量を終え、1843年にアンドリュー・スコット・ウォー(Andrew Scott Waugh)に長官職を譲って退任した。ウォー長官の時代にヒマラヤ山脈の山々の計測が行われ、まずカンチェンジュンガが世界最高峰であると考えられた。しかし、彼らはさらに奥地にある山に興味を持った。この山は初め「ピークb」(Peak b)、次に「ピークh」(Peak h)のちに「ピーク15」(Peak XV)と呼ばれるようになる。インド測量局の主任測量士でデヘラードゥーンに駐在していたラーダナート・シクダール(Radhanath Sickdhar)がピーク15の測量を行って海抜8840mという標高を算定(シクダールはエベレストが世界最高峰であると考えた最初の一人であるとされている)。ピーク15の地域はネパールとチベットにはさまれていたが、どちらの国にも入国ができなかったため、インド測量局では山の地域での呼称を確定できなかった。

  • 1856年3月、ウォー長官はピーク15が8840mでカンチェンジュンガの測量値(8582m)よりも高く、おそらく世界最高峰であるという書簡を王立地理学協会に送付。この書簡の中でピーク15の名称として「地方での呼び名は数多くあるだろうから、どれか一つを選ぶのは難しい」として前任長官のエベレストにちなんで、山の名前を「エベレスト山(初めMont Everest、後にMount Everest)」としたいとして以下のように述べた。「尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐(Colonel Sir George Everest)は、全ての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名付ける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう」。まだ存命中だったジョージ・エベレスト自身はこの名前がヒンディー語と無関係でインドの人々に発音できない名前であるとして反対し、地理学協会にその旨を書き送ったが、1856年8月に開かれたベンガル・アジア協会の会合で世界最高峰の発見が報告された後の9月に王立地理学協会が「エベレスト山」の名称を受け入れ、インド政庁も承認した。ちなみに現在のエベレストの発音(IPA:/ˈɛvərɪst/または/ˈɛvərɨst/ EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音(/ˈiːvrɪst/ EAVE-rest)は異なっている。

  • ピーク15の名称についてはネパールに駐在した外交官ブライアン・ホジソン(Brian Hodgson)が1856年に地元で「デヴァドゥンガ」(Devadhunga)と呼ばれていると唱えたり、1907年にはインド測量局の技師ナタ・シン(Natha Singh)が地元の民が「チョー・ルンブ」(Chho Lungbhu)と呼んでいることを記録している。1909年にはエベレスト登攀のための情報収集をしていたグルカ連隊の将校チャールズ・グランヴィル・ブルース(Charles Granville Bruce)がクーンブ地方の出身のシェルパから「チョモ・ルンモ」(Chomo Lungmo)という名前を聞いている。他にも19世紀の終わりには「チョモカンカル」(Chomokangkar)というのが山の名前であるといわれたこともあったが、インド測量局は一貫して「エベレスト」の呼称を用い続けた。

  • 1950年代に入って中国政府がチベット名「チョモランマ」(Chomolangma、珠穆朗瑪)を採用した、これは「世界の母なる女神」の意味であるという。1960年代にはネパール政府が「サガルマータ」(世界の頂上の意味)という名称を示した。この名前はネパールの著名な歴史学者バーブラーム・アーチャリヤ(Baburam Acharya)が1938年に文芸誌『シャルダ』に紹介したものだというが、カトマンズでは知られていない一部の地域での名称だったらしい。ネパールは以後、この名称を使い続けている。

  • 山の名称に人名を用いたことについては王立地理学協会やインド政庁でも議論があり、悪しき先例になると考えた人々も多かった。エベレスト山という名称が受け入れられた後で、世界第二位のK2に関しても名称を「ウォー山」(Mount Waugh、1860年)あるいは「ゴドウィン・オースティン峰」(Godwin-Austen 1886年)としようという動きがあったが、いずれも地理学協会やインド政庁が受け入れなかった。

そして1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第五グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース准将(Charles Granville Bruce)がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるとされる。1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れた事からイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。

  • 遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。

  • 1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われていたが、軍務に影響があるという理由で回避され、代わりに中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄チャールズ・ハワード=ベリー (Charles Howard-Bury)中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレクサンダー・ケラス(Alexander Kellas)博士、医師のサンデイ・ウォラストン(Sandy Wollaston)、測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになるオリヴァー・ウィーラー(Oliver Wheeler)、インド測量局の局員ヘンリー・モーズヘッド (Henry Morshead)、地質学者のアレクサンダー・ヘロン(Alexander Heron)、登攀部隊のリーダーとして50代のベテラン登山家ハロルド・レイバーン(Harold Raeburn)、若手登山家として知られていたジョージ・マロリーとオーストラリア生まれのジョージ・フィンチが選出された。フィンチは直前になって健康を理由にメンバーから外され、代わってマロリーの登山仲間だったガイ・ブロック (Guy Bullock) がマロリーの推薦によって選ばれた。第一次遠征隊は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。

  • 1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長として宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル (Howard Somervell) 博士や エドワード・ノートン、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ (Tom George Longstaff)、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド (Arthur Wakefield) 博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース (Geoffrey Bruce) 大尉と同僚のジョン・モリス (John Morris) 大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、モーズヘッド、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル (John Baptist Lucius Noel) 大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225 mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。

  • 1924年の第三次遠征隊では1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) 、E・シェビア (E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルと共に酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8572mに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第六キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。

  • 第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。」

  • 1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、 エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。

  • なお、1933年4月3日、スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えると共に史上初めてエベレストの空撮に成功。

  • 1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をする計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。

  • 1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン (Bill Tilman) がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが後にエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加。

  • 1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国。「最低の遠征隊」と酷評される。

  • 1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長ビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。

  • 翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われず。 

1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆にそれまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下におかれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。 

  • 1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン (Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムに至る現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、後に未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。

  • 1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール(Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611 mに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならず。

    エベレスト初制覇した男の隠された過去

  • 1953年5月29日、イギリスのジョン・ハント隊のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとネパールのテンジン・ノルゲイが南東稜より世界初のエヴェレスト登頂(1953 British Mount Everest expedition)を果たした. 初登頂者となりヒラリーはイギリス女王エリザベス2世からサー(Sir)の称号を受けられた。

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    ◎同年のイギリス隊は酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持した状態で投入された。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だった為、後がない状態での投入だった。

    ◎隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定がくつがえされ、ハントが隊長となる
    *この時のトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。

    ◎遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8749m)を制したが酸素不足で撤退。

    ◎後に続いたエドモンド・ヒラリーシェルパテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たしたのである。

  • 1960年5月24日、 王富洲、屈銀華、貢布(中華人民共和国)ら中国隊が挑戦。月25日カンドステップを超えて北東稜、チベット側初登頂。
    *同隊が夜間登頂したため、頂上での写真をとっていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている。
    山の記念: 月山で2時間もたない男とはつきあうな!

  • 1963年5月22日、アメリカ人初登頂。
    *ウィリー・アンソールド、トム・ホーンバインらアメリカ隊は西稜初登頂を果たした後に東南稜から下山し世界初縦走も成し遂げた。

  • 1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった(1度目は1963年のアメリカ隊と)。 

ネパール政府によって外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。

  • 1970年5月11日、松浦輝夫植村直己が日本人として初めて登頂に成功する。
  • 1973年イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。

    ミラノの実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊はイタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンに及ぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。

    エベレスト登頂は命をかけた夢実現・目標達成 | 夢実現、目標達成のための宝地図ブログ
    ◎同年10月26日、石黒久と加藤保男が秋季初登頂。

  • 1975年5月16日、田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功。

    田部井淳子 - Wikipedia

    ◎同年9月24日、ドゥーガル・ハストンとダグ・スコットが南西壁初登頂。 
  • 1978年5月8日、ラインホルト・メスナーとペーター・ハベラー が無酸素初登頂。 

  • 1979年5月13日 、アンドレイ・シュトレムフェリとイェルネイ・ザプロトニクがロー峠からの西稜完全縦走。

     

  • 1980年2月17日、クシストフ・ヴィエリツキ、レーチェク・チヒが冬期初登頂。 

    ◎同年5月19日、イェジ・ククチカ、アンドレイ・ジョックが南峰直登ルート初登頂。

    ◎同年
    5月30日、重広恒夫と尾崎隆が北壁初登頂。

    ◎同年8月20日、ラインホルト・メスナーが北面未登ルート初登頂。同時に無酸素単独初登頂も達成。

  • 1982年5月4日、エドゥアルド・ミスロフスキとヴォロディア・バリベルディンが南西壁~西稜ルートを走破。

  • 1983年10月8日、ルイス・ライハルト、キム・モン、カルロス・ビューラーらが東壁初登頂。

  • 1988年5月5日、 日本テレビチョモランマ登山調査隊(同社の開局35周年記念特別番組の取材)が世界初山頂衛星生中継を達成。

    ◎同年9月26日、ジャン=マルク・ボワヴァンが山頂から5900mのキャンプ2まで初のパラグライダーによる下山を達成。

    ◎10月14日、リディア・ブレディが女性初の無酸素登頂を達成。

  • 1995年5月11日、古野淳と井本重喜が北東稜完全縦走による登頂を達成。

  • 2000年10月7日、ダボ・カルニカールが山頂からベースキャンプまで、スキーを脱がずに走破(初のスキー下山)。

  • 1996年5月10日 8名が死亡する大量遭難死が発生。同シーズンにさらに4名の遭難があり1シーズンで12名の死者が出た。

  • 1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見。マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。

  • 2005年5月14日、ディディエ・デルサーユ(ユーロコプター社所属パイロット)が自身が操縦するヘリコプターが山頂に数分間にわたり着地(航空機による山頂への初着陸)。同時に航空機による世界最高高度への着陸記録も達成した。

  • 2008年5月8日 - 北京オリンピックの聖火が午前9時17分頂上に到達。女性登山者の吉吉らの手でリレーされ、チベット民族女性のズレンワンモが“最終走者”を務めた。

  • 2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症し4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。

  • 2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡(死者は全てネパール人ガイド)。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている。

  • 2015年4月25日、同日発生したネパール地震の影響で大規模な雪崩がベースキャンプを直撃し、日本人1人を含む18人が死亡。エベレスト史上最悪の遭難事故となった。ネパール側では余震によりルート修復が困難になり、キャンプ1とキャンプ2に100人以上が取り残されたがヘリコプターで救助された。一方、この地震をうけて、中国政府はチベット側の登山中止を宣言。この影響で、この年は1974年以来41年ぶりに登頂者が1人もでなかった。

登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)。その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半〜4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくハシゴも設置する事が検討されている。

 宇宙開発競争(Space Race)

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冷戦中にアメリカ合衆国ソビエト連邦との間で宇宙開発をめぐって戦われた、非公式の競争。おおよそ1957年から1975年までの間続いたこの競争のもと、それぞれが人工衛星を打ち上げ、人間を宇宙空間へ送り、月に人間を立たせるための計画を並行して行った。宇宙開発競争(Space Race)という用語は公式な用語ではなく、軍備拡張競争 (Arms race) から類推して生まれた言葉である。

その発端は、初期のロケット技術の競争や、第二次世界大戦後の国際的な緊張の中に既にあった。

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  • ロケットは長年に渡り、科学者やアマチュア科学者らを魅了してきた。中国人は早くも11世紀に、これを兵器として利用している。
    *英国東インド会社もまた、インドにおけるマイソール戦争(1767年〜1799年)で石火矢の威力に苦しめられた。その経験から1801よりイギリス王立工廠のウィリアム・コングレーヴが研究を開始し1805年に相応品を完成させてナポレオン戦争(1803年〜1815年)や米英戦争1812年〜1814年)に投入。アメリカ国歌に登場する"Rocket"はこれを指す。
    コングリーヴ・ロケット - Wikipedia

  • 19世紀末、ロシアのアマチュア科学者、コンスタンチン・ツィオルコフスキーは宇宙に到達できる多段式の液体燃料ロケットを理論化している。実際に液体燃料ロケットを打ち上げたのは1926年、アメリカ人のロバート・ゴダードであったが、2人とも世間から注がれる目は冷ややかなものがあった。ゴダードはロケット打ち上げ研究を辺鄙な場所で続けていたが、科学者のコミュニティからも、大衆からも、ニューヨーク・タイムズ紙からさえも嘲笑されている。

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  • ロケット技術の評価が高まるのは、結局は第二次世界大戦という戦争を通してであった。これは、いかに「ロケット研究は政治や軍事とは関係のない純粋に科学的な研究であり、平和のためでもある」というレトリックを駆使しようと、あらゆる宇宙開発競争は国家の軍事に対する野望と避けがたく結びついてしまう未来への先触れであった。

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  • 1920年代半ばにドイツ人科学者たちは、液体推進燃料で作動する、高空や遠距離に届くロケットの実験を開始した。1932年、ヴァイマル共和政下の共和国国防軍ライヒスヴェーア、後のナチス時代のヴェーアマハト・ドイツ国防軍)は長距離砲としてのロケットに強い関心を持つようになった。熱意のあるロケット科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンはロケット研究に加わり、苦心の末、ナチス・ドイツが第二次大戦で使用することとなる長距離砲撃兵器の開発に成功。

    http://www.b14643.de/Spacerockets/Specials/A-4/Gallery/Bumper_5a.jpg

  • 1942年に打ち上げられたドイツのA-4ロケットは、人類が初めて宇宙空間に到達させた人工物体となった。1943年、ドイツはA-4をV-2(報復兵器2号)の名で大量生産。射程距離300km、積載可能な弾頭の重さ1トンというV-2を国防軍は数千発もイギリスなど連合国側の国土に打ち込み、多大な損害と多くの犠牲者を出した。

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  • 第二次大戦が終わりに近づくにつれ、ソビエト、イギリス、アメリカの軍や科学者の間で、バルト海沿岸のペーネミュンデ(現在のドイツ北東端、メクレンブルク=フォアポンメルン州内)にあったドイツのロケット開発計画の施設や研究者や技術の奪い合いが始まった。その結果、「ペーパークリップ作戦」によって、多数の科学者(その多くは、フォン・ブラウンも含めナチス党員であり、このためソ連に拘束された後の身の危険を恐れた)がドイツからアメリカに移送された。アメリカで、ドイツ人科学者たちはドイツ製ロケットを、イギリスなどへの爆撃の代わりに、アメリカのための科学研究や軍事研究などの目的で使用するため研究を続けることとなる。また、イギリスもV-2の実機や研究者を捕らえるなどいくらかの成功を収めた。

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  • 赤軍フォン・ブラウンなどの主な研究者が去った後のペーネミュンデを占領し(その後ペーネミュンデはドイツ民主共和国東ドイツ)へ編入)、多くのV-2の実機や研究者を捕らえた上で、ソ連国内へ連行してロケット開発に当たらせた。ただし、その後ソ連は、ドイツの技術の継承ではなく、晩年はソ連科学アカデミーに所属していたツィオルコフスキーの研究、およびその死後(1937年)も続けていた独自の技術研究を基にした開発に進んだ。

    http://stat.ameba.jp/user_images/20150515/01/blessing-of-the-light/90/eb/j/o0490027513307255230.jpg?caw=800

  • 戦後の科学者はロケットを上層大気の観測(気温や気圧など)、宇宙線の観測など科学目的で使うようになった。これらはアメリカの研究機関の一員となったフォン・ブラウンとその同僚たちにより細々と続けられた。

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  • そして第二次大戦後、アメリカとソ連はスパイやプロパガンダを通じた冷戦の時代に入ってゆく。宇宙探査と人工衛星技術は、両方の陣営で最もシンボリックな冷戦の尖兵となっていった。衛星技術が発達すれば偵察機を飛ばすことなく他国をスパイすることが可能となり、宇宙旅行が成功すれば国家の科学分野における勇気と軍事的な潜在能力を喧伝できるプロパガンダになる、と考えられたからである。人類を軌道上や月の特定地点に運ぶロケットと同じものが、敵国の特定都市の特定地点に原子爆弾を運ぶ核兵器運搬手段となる可能性があり、宇宙旅行のために開発された技術が、大陸間弾道ミサイルICBM)など戦時のロケットのためにも同様に適用できる可能性もあった。

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  • また冷戦下では政治、経済、技術、文化、娯楽、スポーツなど、直接の戦火以外のあらゆる分野で両陣営が優劣を競って熾烈な戦いを繰り広げていた。軍備拡張競争のもつ軍事以外の側面と同様、宇宙での前進は単に相手国に先駆けたというだけにとどまらず、その国の技術や経済での大胆さの指標とみなされ、そのような成果を達成できる国家のイデオロギーの正しさや優秀さともみなされた。宇宙開発には二つの目的があった。平和的な科学的成果を収めることと、軍事的・心理的な成果も収めることである。

    国際情勢を考える(2) 東西冷戦と現在の世界 - YouTube

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  • 特にソ連の場合、通常の航空戦力ではアメリカに劣り、自国領空を侵犯して行われるアメリカ空軍の偵察活動に対してほぼ無力であった上、自国及び東ヨーロッパ諸国での勢力圏が「封じ込め政策」により世界各地へ展開するアメリカ軍に包囲されていたため、これに対抗するために超高速でアメリカ本土を直接攻撃できるICBMの重要性がより高かった。従って、その重要性を認識した後のソ連指導部は、他の軍需産業や民生部門に比してロケット産業における資源の配分や従事者の生活を優遇した。その代償として、技術や人員の多くは厚い国家機密の中に閉じこめられ、研究拠点の一部は公式地図にも記載されない秘密都市となり、ロケットの基本設計者に関してはソ連崩壊までその名前すら明さなかった。

    ソ連 超大型ロケット「エネルギア」

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  • 二大国は、どちらが先にブレイクスルーを果たすかお互いに知りえない状況の中、それぞれ宇宙開発の先端の成果を得ようと努力していた。実際には、宇宙開発の分野に、中でも技術的に可能な部分に傾斜して資源を投資していたソ連がアメリカに対し密かに先行していた。どちらも宇宙への競争の地ならしは済んでおり、後は号砲が鳴るのを待つだけだった。

実際に本格化するのは1957年10月4日のソビエト連邦によるスプートニク1号の打ち上げ以降である。

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  • 1957年10月4日、ソ連は「スプートニク1号」を搭載したR-7型ロケットを打ち上げ、世界で初めて人工衛星を地球周回軌道に送り込むことに成功した。これが宇宙開発競争の始まりであり、その後、アメリカ、フランス、日本と続いた。2001年現在、国別の衛星打上げ個数は、旧ソ連を含めたロシアが2,500個、アメリカ1,600個で、日本は94個で3位に付けている。

  • スプートニク1号以前、平均的なアメリカ人は合衆国が科学技術のあらゆる分野で世界に優越していると信じていたが、人工衛星技術は経済活動や軍事用途に応用できるため、先を越されたアメリカの国内ではパニックが発生し、政治論争も引き起こした。一方、スプートニクの成功はソ連において、自国の科学力や技術力を国民に示す重要な機会となり、大いに国威が発揚された。

  • ソ連において、スプートニク打ち上げとそれに続く宇宙開発計画は大衆の非常な関心を巻き起こした。壊滅的な独ソ戦から復興したばかりのソ連にとって、スプートニクは新しい時代における技術力の挑戦の成果として国民を勇気付ける重要な意味を持っていた。フォン・ブラウンのライバルで、R.7ロケットの設計者・開発責任者であり後にA1ロケットも設計したセルゲイ・コロリョフは、人工衛星にとどまらず月にコスモノートを送り込むことを目標としていた。

  • スプートニクに対抗して、アメリカは技術的優位性を取り戻すためのあらゆる努力をすることになる。フォン・ブラウンを超える人材を生み出すため、数学など初等科学教育を充実させたことなどがその一環である。アメリカの蒙ったショックやそれに対する一連の政策は後にスプートニク・ショック(スプートニク危機)と呼ばれる事になった。 ジョン・F・ケネディ政権下のリンドン・ジョンソン副大統領はアメリカの一連の政策努力の動機について次のように語っている。「世界の目から見れば、宇宙での1番乗りは全てにおいて1番ということだ。宇宙での2番乗りは、何事においても2番手ということなのだ」。

  • ソ連スプートニク成功に落ち込み、恐怖におびえたアメリカの大衆は、次第にアメリカの宇宙開発計画に重大な関心を示すようになった。児童や学生はロケット打ち上げが続くのを見守り、ロケットの模型作りは人気のある娯楽になり、テレビ番組やファッション、デザイン、ロードサイドの広告看板などにもロケットブームや宇宙ブームが波及した。1960年代には「スペースエイジ」を反映した銀色のメタリックな商品やデザインが席巻した。一方、巨額の宇宙開発を不安視する声も起こったが、ケネディ大統領は国民を勇気付けるため「宇宙開発を国として支援し、数百万ドルから数千万ドルの巨費を既存兵器の増産や貧困対策に充てた方がいいのではないか、という全米に広がる懐疑論に対し勝利するつもりだ」と演説した。

  • スプートニク1号の打ち上げから4ヶ月後、1958年、アメリカは陸軍弾道ミサイル局により最初の人工衛星エクスプローラー1号を打ち上げた。しかし同じころ、フロリダ半島のケープカナベラル空軍基地では衛星ヴァンガードTV3を搭載した海軍のヴァンガードが爆発し続く打ち上げも失敗するなど、相次ぐロケット打ち上げの失敗という深刻な事態が起こっていた。

  • これら最初期の人工衛星は、すでに科学探査目的で打ち上げられていた。スプートニク1号エクスプローラー1号も、国際地球観測年(1957年 - 1958年)のそれぞれの国の観測事業の一環として行われた。スプートニクは大気圏上層部の空気密度を測定し、エクスプローラー1号の飛行観測データからジェームズ・ヴァン・アレンは地球を取り囲むヴァン・アレン帯を発見。

両国の競争は次第に「宇宙に生物や人間を送り込む競争」へと発展していく。

  • 厳密に言えば、科学的研究のために意図して宇宙へ送られた最初の生物は、1946年にアメリカがドイツから捕獲したV2ロケットで大気圏外に打ち上げた果実蝿(fruit fly、ショウジョウバエの一種)であったが、これはあまり知られていない。

  • 宇宙に送られた最初の哺乳類は、1957年に人工衛星スプートニク2号で地球周回軌道を回った犬、ライカであった(ライカは、米ソによってロケットで打ち上げられ大気圏外に出ただけの蝿などの生き物と違い、はじめて軌道を回った生き物でもある)。当時、宇宙を飛行した犬を回収する技術はなく、当初はカプセルが大気圏に再突入する前にライカを薬物で安楽死させる事になっていたが、2002年に明らかになったところに拠れば、ライカはストレスとカプセル内の過熱で軌道到達後すぐに死んだという。来るべき有人宇宙飛行に向けて多くの犬を打ち上げたソ連は1960年9月18日、スプートニク5号でベルカとストレルカの二匹の犬ほかラット多数を地球周回軌道に載せ、すべて無事地球に帰還させることに成功した。

  • ソビエトは1968年9月、月へ向かうゾンド5号に亀を載せたが、これがはじめて月周回軌道を回った生物となった。

  • 一方、アメリカの宇宙開発機関もアフリカからチンパンジーたちを輸入し、有人宇宙飛行の前に少なくとも二匹を宇宙に送り込んだ。

  • ソ連はベルカとストレルカの2匹の犬を帰還させた1960年9月のスプートニク5号の成功を受け、同年12月までに人間を軌道上に送り込むことを計画。しかし試験用ロケットが爆発する惨事もあり、性急な計画は数ヵ月の遅れをきたすこととなる。明けて1961年4月12日、ボストーク1号に乗ったユーリイ・ガガーリンは人類ではじめて地球軌道を周回した宇宙飛行士となった。これを記念して4月12日はロシアほか様々な国で祝日(宇宙飛行士の日)となっている。彼は社交的で労働者階級出身と体制側にとって申し分がない人物であり、ソ連の宇宙開発がまたも世界に先駆けたこと、これを可能にした共産主義体制が優越していることの広告塔となって世界各国を歴訪した。

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  • アメリカはスプートニク計画に対抗して1958年に有人宇宙飛行計画マーキュリー計画を開始、それまでの陸海空各軍個別の宇宙開発をアメリカ航空宇宙局 (NASA) に一本化させて総力を挙げて有人飛行でソ連に先行する構えだったが、またしてもソ連に先を越される結果となった。ガガーリンの飛行から23日後の1961年5月5日、フリーダム7でアラン・シェパードを宇宙へ送り込んだが、これはわずか十数分間の弾道飛行に過ぎなかった。1962年2月20日、ジョン・グレンはフレンドシップ7で地球周回軌道を3周し、最初に地球を回ったアメリカ人となった。

    http://sorae.jp/wp-content/uploads/2016/12/20161209ng1.jpg

  • ソビエトはさらに1962年8月11日から15日にかけてボストーク3号と4号を同時に打ち上げ、両機のランデブーのテストを行い、史上初の2人同時宇宙飛行を成功させた。1963年6月16日のボストーク6号で地球を周回したワレンチナ・テレシコワは、女性として史上初の宇宙飛行士となった。

    http://www.gizmodo.jp/images/2010/08/100810_valentinatereshkova.jpg

  • コロリョフは当初、ボストーク計画のミッションは長期にわたり少しずつ、持続的に実行する計画であったが、ニキータ・フルシチョフ第一書記はアメリカのアポロ計画の公表を知り、さらにケネディ大統領が1961年5月25日に行なわれたアメリカ連邦議会特別両院合同会議の席上、10年以内の月着陸を言明したためアポロ計画の目標が月へと変わったことを聞いて、コロリョフに速度を上げるよう命じた。ボストーク宇宙船を改良し、それまでの1人乗りではなく3人乗りにしたボスホート1号 (Voskhod 1) は1964年10月12日に打ち上げられ、ウラジーミル・コマロフコンスタンティン・フェオクティストフ、ボリス・イェゴロフの3人を宇宙へ運んだ。彼らは折から開催中だった東京オリンピックにメッセージを送った。また、プロパガンダのため、1871年のパリ・コミューンの旗も持参したといわれている。ボスホート1号はスペース不足もあり、乗組員が宇宙服を着なかった最初の宇宙飛行でもある。だが、この飛行よりも世界を驚かせたのは、その直後に起こったフルシチョフの突然の解任であったろう。

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  • 1965年3月18日に打ち上げられたボストーク2号は2人乗りで、その一人アレクセイ・レオーノフ飛行士は人類最初の宇宙遊泳(船外活動、EVA)を実現した。しかしこのミッションは寸前のところで大惨事に終わるところだった。レオーノフはもう少しでカプセルに帰れなくなるところであり、さらに姿勢制御装置の故障と手動点火した逆推進ロケットの火力不足により、目標降下地点を1,600kmも離れて着地した。しかしフルシチョフは1964年10月に失脚、新しい指導者レオニード・ブレジネフらは宇宙開発に全力を注がないようになっていった。

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  • 一方、次々と人類初の成果を先取され、1962年から開始し1964年4月には無人試験飛行を行った2人乗り宇宙船「ジェミニ計画」がかすんでしまったアメリカだったが、1965年から1966年までの12機に及ぶジェミニ計画で、軌道飛行と生命維持以上の技術、すなわち月着陸に必要な長期宇宙滞在の実施、2機でのランデブーやドッキング、燃料電池や姿勢制御の実験、船外活動、帰還予定地点への確実な着陸技術などを着実に積み重ね、ソ連の次世代宇宙船ソユーズの搭載する技術をすでに実現していた。アメリカがソ連を追い抜く準備はできていた。

アメリカとソ連双方がここまでに達成した宇宙開発の成果はそれぞれの国民に大きな誇りを与えたが、双方のイデオロギー対立が依然激しいため、少なくともどちらかの飛行士が月面を歩く時までは宇宙競争をやめることはできなかった。月面着陸という目標の達成に向けて、まず無人探査機が月に到達して上空から写真撮影などをし、安全に月面に着陸できることを証明する必要があった。
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  • ソ連スプートニクで軌道上に人工衛星を送り込んだことに対抗し、アメリカはマーキュリー計画で有人飛行において先行しようとしたほか、ソ連より先に月面に探査機を送り込もうともした。この月探査計画はパイオニア計画と呼ばれたが、失敗が続いた。ソ連は同じく月探査計画ルナ計画に挑戦し、1959年1月4日にルナ1号を打ち上げ月に接近させ、衝突させるはずがそのまま通過し、結果世界初の人工惑星となった。続く1959年9月4日のルナ2号は月面衝突に成功、世界で初めて月に人工物を送り込んだ。さらに月の裏側を撮影したルナ3号(1959年)、月面軟着陸に成功したルナ9号(1966年2月3日)など次々とアメリカに先行した。
    マーキュリー計画(Project Mercury) - Wikipedia

    https://history.nasa.gov/SP-4001/images/fig02.jpg

  • 一方パイオニア計画は1959年3月3日に4号がはじめて月探査に成功したが、5号以後は別の惑星探査に切り替えられた。アメリカはパイオニア計画に代わる3つの計画を用意した。
    パイオニア計画 - Wikipedia

    外惑星探査のために1972年に打ち上げられた10号は初めて木星、1973年の11号は木星および初めて土星に接近・観測に成功した。

    10号と11号は探査後に外宇宙へ向かって飛行中であり、機体には地球外生命体に遭遇することを考え、地球や人類の姿(あらゆる民族的特長を融合した最大公約数的な造形を意図された)などの線画からなる簡単な図解を記した金属板が搭載されている。図の意図するところを読み取れれば、その生命体は人類並みの知性を持っているはずという事で描かれたという。

    この図が発表された当時、世間ではその科学的意義よりもむしろそこに描かれた人物画の着衣状況について議論が沸騰したため、考案者のカール・セーガンは呆れたという。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/Pioneer_plaque.svg/800px-Pioneer_plaque.svg.png

  • 月面の写真を接写するレインジャー計画は1959年に始まったが、1961年の2機、1962年の3機はいずれも失敗し、1964年から1965年にかけての7号から9号がクレーターなどの撮影に成功した。

  • 月面の地図を製作するためのルナ・オービター計画では1966年8月から1967年8月にかけて5機が打ち上げられ、いずれも成功に終わり月面の99%におよぶ高解像度の写真が得られた。

  • 月面に軟着陸し遠隔操作で月面の土壌の硬さや組成などの探査を行うサーベイヤー計画は1966年5月から1968年1月に掛けて7機が打ち上げられ、5機が着陸と観測に成功した。

  • いずれも、アポロ計画で有人宇宙船が安全に月軌道に到達し着陸するための技術の試験や、安全な着陸地点を探すことが目的であった。

ソ連は宇宙開発における「人類初」の偉業のほぼ全てでアメリカを打ち負かしたが、月面に人間を着陸させるアメリカのアポロ計画に先行することはできなかった。

  • ソ連の宇宙開発初期の成功後、特にガガーリンの宇宙初飛行後、ケネディ大統領とジョンソン副大統領はより強力に大衆の想像力をかきたてる宇宙計画は何であるか、探し続けていた。その結果アメリカはより遠い目標である月探検を、10年以内で達成するという公約を打ち出した。

  • 1961年5月25日の連邦議会特別両院合同会議の席上、ケネディはこの公約を言明し、月軌道周回という内部研究にすぎなかったアポロ計画の目標が月着陸へと変わった。以後、マーキュリーやジェミニといった有人飛行計画やその他の月探査計画は、月に人類を送り込むアポロ計画のための技術開発や飛行士訓練、現地調査の一環となった。

  • 巨額を要するアポロ計画は多くの反対にさらされ、それゆえ左右の政治家による異論を一掃するだけの成果を上げる必要があった(右派政治家は宇宙開発費をベトナム戦争に勝つための戦費や兵器開発に回すことを主張し、左派政治家は社会福祉や根深い人種問題の解決などに予算を回すべきだと主張した)。アポロ計画推進派が主張した実利は以下のようなものがあった。

    ◎アポロは次回の選挙で鍵となる州に対して経済効果を約束し、与党の勝利を確実にできる。

    ◎アポロの技術は軍事利用できるため、1960年の選挙でケネディが触れた米ソの「ミサイル・ギャップ」を埋めることができる。

    ◎アポロから多くの科学技術がスピンオフすることにより新製品ができ社会や経済が活性化する。

  • ケネディNASAの第二代長官ジェームズ・E・ウェッブとの会話で次のように話した(ジョン・F・ケネディ図書館に保管されたテープより)。「われわれが行う全ては、ロシア人より先に月に降り立つ事業にきちんと結びつける必要がある…そうでなければわれわれはこんな金を使うべきではない、私は宇宙には興味がないからだ…(このような出費が)正当化されるのはただ、神に懸けてきっと数年以内に彼らを追い越し、アメリカの方が遅れていると思っている世界に成果を見せ付けて、ソ連を打ちのめすという希望があるからだ」。

  • ケネディとジョンソンは世論を操縦し変えてみせた。1963年にアポロ計画を支持したアメリカ人は33%だったが、1965年までに、58%まで支持率を上昇させた。ジョンソンが大統領になった1963年以降、彼も計画を支持し続け、アポロ計画を成功に導いた。

一方、ソ連は人類の月着陸に、強い積極性と消極性の両面を見せた。ソ連の指導者フルシチョフは、宇宙以外の別の分野で勝つことで満足しようという気はなかったが、月計画に巨費を投ずる気もあまりなかった。

  • 1963年10月、彼はソ連の宇宙開発計画について「現時点で月にコスモノートを送る計画はない」と述べたが、競争からは降りていないとも付け加えた。その1年後の1964年、ソ連も月着陸計画に関与することとなった。

  • ケネディは米ソ両国の飛行士による月着陸や、より高性能の気象衛星などの共同計画をソ連に提案したことがあった。フルシチョフは、ソ連の進んだ技術を盗もうとする意図を感じてこの提案を拒否した。ソ連宇宙開発の「主任設計員」コロリョフは、月に人間を送る能力を有するソユーズ宇宙船と打ち上げ用N1ロケットからなるアイデアの提案に奔走していたが、これに対しフルシチョフコロリョフの研究機関(コロリョフ設計局)に、現行のボストークの技術を用いて改良し、さらなる「宇宙初」の事業に挑むよう命令した。しかしその裏で、コロリョフと確執のあるウラジミール・チェロメイが指揮する「チェロメイ設計局」が、有人での月 - 地球間往復ミッション(ゾンド計画)のために、全く新しい打ち上げロケットと宇宙船であるプロトンロケットとゾンド宇宙船開発に着手していた。

  • 1964年、フルシチョフ失脚後の新しい指導部はコロリョフの月着陸計画に全面的な支援を与え、全ての有人飛行計画を彼の指揮下に置かせた。月着陸ミッション・ソユーズL3計画の始まりである。だが1966年にコロリョフが急死し、最初のソユーズ宇宙船・ソユーズ1号が1967年に死亡事故を起こすと、ソ連の有人月旅行計画は指導者を失ったことと犠牲に敏感になったことで破綻をきたすようになった。
    ソユーズL3計画 - Wikipedia

    http://www.astronautix.com/graphics/q/q2n1sair.jpg

  • ソ連も月着陸船を建造し、アレクセイ・レオーノフを月面に立たせるはずの月旅行計画のために飛行士の選抜を行った。しかし1969年に肝心のN1ロケットが打ち上げに失敗し、以後どうしても打ち上げを成功させることができなかった。このため有人月着陸計画は遅れが生じ、ついには中止の憂き目にあってしまうのである。

    http://www.orbit-inc.co.jp/rocket/N1.jpg

  • ソ連無人探査機(ルナ計画やゾンド計画)がアメリカの宇宙船よりも先に月軌道に達し、着陸もしたものの、月面に足跡を残した最初の人類はアメリカ人のニール・アームストロングとなった。アポロ11号の月着陸船の着陸の翌日、1969年7月21日のことであった。アポロ11号の船長アームストロングは、司令船パイロットのマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットエドウィン・"バズ"・オルドリンのバックアップのもと、世界中で5億人が見たという大イベントを成功させた。多くの評論家達はこの月着陸を20世紀の決定的瞬間の一つであると認識しており、またアームストロングの月面に足を踏み出した際の言葉は長く人々の記憶に残っている。「これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」。

    http://kininaru-syumi.com/wp-content/uploads/2016/01/jkjkokjl.bmp

  • アメリカの一応の勝利と双方の疲弊によって、巨額の費用がかかる有人月探査は政治的使命を終えたため行われなくなり、宇宙開発競争は一段落したが、21世紀に入るとアジアやヨーロッパの様々な国が宇宙開発に参入して相互の競争が始まるようになり、様相は変わってきている。
    民間宇宙開発 - Wikipedia

なお、それまでの他の国際間競争とは異なり、宇宙開発競争は領土拡張の欲望とは無縁のまま保たれた。月着陸成功後、アメリカは月面のいかなる部分の領有も明白に否認した。

ここで改めて第一次世界大戦(1914年〜191年)勃発から欧州復興(1970年代)にかけての総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)の影響を色濃く感じます。

ある意味、資本主義的発展の規模が国家間競争を追い抜いて自由主義諸国と共産主義諸国の格差が開き始めた時代。特にその動きは情報産業の世界において顕著でした。

 そして同時期には「探検ロマン」の内容も時代に合わせて変質していきます。

 

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1965年(24歳)、世界第6位ヒマラヤ山脈チョ・オユー(8201m)の明大登頂隊に参加し登頂に成功。翌1966年7月(25歳)、モンブランで2年前の登頂挫折のリベンジを果たし、同月マッターホルン(4478m)単独登頂にも成功する。秋にはアフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)の単独登頂に成功した。1968年(27歳)、南米最高峰アコンカグア(6961m)の単独登頂に挑み、現地では“20日かかる”と言われたが、たった15時間で山頂に立った。世界的なアルピニストとなった植村は、ここでいったん山から離れ、アマゾン川6000kmの単独いかだ下りに挑戦し、ピラニアとバナナを食べながら2カ月かけて河口に出た。この後、4年ぶりに帰国。

  • 1970年5月11日(29歳)、日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト(チョモランマ 8848m)登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われ参加。自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、タフな体力と慎重な判断力を買われて松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれる。エベレスト南東稜から先輩登山家の松浦輝男と共に日本人初登頂を果たした。

  • 植村はアタック隊の先頭にいたが、頂上を前に「いよいよ頂上です。松浦さん先に登ってください」と先を譲り、頂上では次のように交信した「ありがとうございます。私だけが登ったのではありません。皆さんの力が私を頂上にあげてくれたのです!」。

  • しかしこの経験で、大量の隊員を荷物運びとして使いながらほんの一握りの者しか登頂できない極地法による高所登山に疑問を持った。

  • 同年8月26日、アラスカにて北米最高峰マッキンリー(6168m)の単独登頂を成し遂げ、20代最後の年に『世界初の五大陸最高峰登頂者』(エベレスト・モンブランキリマンジャロ・マッキンリー・アコンカグア)となった。

翌1971年(30歳)、新たなる冒険の場を極地探検に定めた。最終目標は南極大陸3000km横断。

  • この距離を体感するため、同距離となる北海道稚内から九州鹿児島を51日間で踏破。

  • 1972年9月から5カ月間、グリーンランドでエスキモーと共同生活を行い、狩猟や犬ぞり操縦技術を学び、そのままグリーンランドで3000km犬ゾリ単独行を刊行。

  • 1974年(33歳)、前年にトンカツ屋で出会い、一目惚れをした公子夫人と結婚。

  • グリーンランドの経験を踏まえ、74年から76年まで1年半をかけ、北極圏12000kmの犬ぞり探検に挑み、そりの“海中”水没や、犬の全頭逃亡という死の危機に直面しながらも、これらを乗り越え成功させる。

  • 1976年(35歳)、ロシア・コーカサス山脈のヨーロッパ最高峰エルブルス(5642m)に登頂。

1978年(37歳)、米国ナショナルジオグラフィック協会から資金提供を受け、史上初の単独北極点到達を犬ぞりで成し遂げ、日本人として初めて『ナショナル・ジオグラフィック』の表紙を飾る。

  • この冒険はたまたま同時期に日本の大規模隊が同じ北極点を目指しており、彼らに良い犬を独占されてしまい、植村は犬集めに苦労した。実際、北極点に到達するまで真剣に犬ぞりをひいたのは7頭ぐらいで、他の犬はエサを食べるばかりで役に立たなかったという。その4カ月後、白熊のテント襲撃に遭いながらもグリーンランド単独縦断にも成功し、冒険家ウエムラの名を世界に轟かせた。同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から1979年、イギリス王室ビクトリア・スポーツ・クラブから優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ賞を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得。

  • 一方でスポンサーの電通の意向でもあったが無線機を持ち食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機で補給をしたことなどに対して一部から「冒険と呼べない」疑問と批判も出た。これに対し植村はこう反論している。(1)無線はオーロラが出ると電波状態が悪化し使用できない(2)無線で救援を求めても飛行機到着まで12時間以上かかるため、緊急事態には間にあわない(3)何より私は通信網に頼りすぎてはならないことを肝に銘じている。

    昔から電通の手法は 「体育会系すぎる」 と言われており、万事が強引だった。これが80年代のバブル景気の時はイケイケで許されていたが、景気が落ち込むに連れて電通の体育会系ゴリ押し方式は嫌 悪されるようになり、今では企業から 「何とか電通さんを抜かせませんか?」 と言われるまでに成り下がった。

    私にとって身近な話で言うと、冒険家・植村直己(故人) さんの奥さんの実家がお隣さんで、商店街仲間として付き合いがあったのだが、その植村さんを追い込んだのは電通だと言われている。 「金は我々が作りますからやりましょうやりましょう!」 と、より難しい冒険をしろと持ちかけ、最終的に真冬のマッキンリーなんて無謀な挑戦で行方不明になってしまったのだ。(遺体は未だに発見されていない)

    電通は金になると踏んだら人を持ち上げるだけ持ち上げて、その気にさせて、逃げ場をなくす。どれだけ人が死のうと構わない。死んだら死んだで話題になるか らなおよしと考える。それが 「電通方式」 である。現に植村さんの時も、電通は早々と西田敏行主演で映画を作ってくださった。きっと電通が 「世界のウエムラ」 に投資しただけの金は取り返せただろう。おめでとう。よかったね。

     

    そういえば、風船おじさんも遺族の方がマスコミに騙された、と仰っていましたね!

    それに、TVの機材が大切だからと、熊に襲われそうだ、と訴える写真家を自分で何とかしてくれと言って見殺しにしましたね。

  • 植村の犬ぞりは全長約4メートル。荷物の重量は多いときで500kg。これを12頭~17頭が引く。天候が良好なら時速10km。犬の食料はアザラシの凍肉だが、植村も毎日1キロ食べてエネルギー源とした。肉が不足するとオヒョウ(大型カレイ)を釣った。「(カリブーの)獲りたての生温かい肉はそうおいしくないです。やはり、冷凍した生肉を口の中に入れ、アイスクリームのように溶けだすのがいちばんうまく、量も多く食べられます」。元気を出すために紅茶(大量の砂糖入り)、コーヒー、ビスケットを重宝した。毎日朝夕、荷物・テントの積み降ろしや犬の世話に1時間以上要する。植村の記録「テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛皮の手袋、毛糸の手袋、帽子、マフラー、ヤッケをテント内にわたした紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう。石油コンロは身動きしたときひっくり返さないように木箱の中に入れておく。氷を溶かしたお湯で紅茶をのみ、カンテラの明りを頼りに地図を見ながら食事をとる。セイウチの肉には塩をつけるが、肝臓やキビアにはなにもつけない。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む…約1キログラムだ。食事がすむと、その日切れたりほころびたりした犬の胴バンド、ムチ、靴の修理をすませ、紅茶をのみながら日記をつける。瞬く間に十二時をすぎ、ときには一時、二時にもなる。日中の疲労で、ほころびをつくろう縫針をもったまま、眠ってしまうこともあった」。

数々の冒険で名声を得た植村だったが、80年代に入ると試練が続く。

  • 1980年(39歳)、エベレストの厳冬期登頂を目指し自身を隊長とする日本隊が編成されたが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去。悪天候が続き登頂を断念。

  • 1982年(41歳)には12年越しの夢だった南極大陸単独横断と、南極最高峰ビンソン山(4897m)登頂を実現するため、南極のアルゼンチン軍基地まで行き、“あとは出発するだけ”という状況で、アルゼンチンVS英国のフォークランド紛争が勃発。10カ月も基地に足止めされた挙げ句、必要とした軍の協力が得られなくなり横断を断念。

だが、簡単に夢を諦める植村ではない。新たに南極のアメリカ基地をスタート地点にする計画を練った。その為にはアメリカに対して冒険家として存在感をアピールする必要があった。そこで、成功すれば世界初となる北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂を敢行。

  • 知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由について詳しくは分かっていない。登頂開始も一部記者によってのみインタビューされたに止まる。

  • この最後の登山では、かつて「探検家になるために必要な資質は臆病者であることです」と持論を語っていた植村が、悪天候のため雪洞で待機中に「何が何でもマッキンレー、登るぞ」(2月6日)と記すほど焦っていた。山頂はマイナス50度。「何が何でも」は本来の植村の哲学=『冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である』とは異なる。

  • 1984年2月12日、43歳の誕生日のこの日、植村は世界で初めてマッキンリー冬期単独登頂を果たし、山頂付近に日の丸を建てた。ところが翌13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、下山途中で消息不明となってしまう(16日に捜索機に手を振ったという証言があったが、後に目撃者が誤認の可能性を認めた)。最後の交信は「私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして…標高…えーあとは…20000フィート(約7千メートル)。えー、私もよくわかりませんが約20000…20000、20000フィートです、どうぞ。20000、20000、20000フィート」。

  • 2月20日、救援隊が4200m地点の雪洞で植村の日記を発見、4900m地点の雪洞には食べ残しの食糧や装備の一部があった。さらに5日後、5200m地点の雪洞にて35点もの装備と整理された食糧が見つかった。食糧も雪洞もあるのに、ただ植村の姿だけがなかった。植村の身に何が起きたのか…。

  • 明大山岳部OBによる第二次捜索隊はマッキンリー山頂で日の丸を見つけたが消息の手掛かりはなく、最後の交信があった2月13日が命日とされた。

  • 他界の2カ月後、日本政府は国民栄誉賞を贈る。同年、デンマーク政府は植村に敬意を表し、かつて植村がグリーンランド縦断で到達したヌナタック峰を「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称した。

単独行に傾倒して以降の植村は、例えば登山における高度順化といった度合いを超え冒険する現地で長期間を過ごして言わば生活順化することから始めるという点にあった。

  • 犬ぞり行に先立つ約五カ月は単身グリーンランドのエスキモー宅に寄宿し、衣食住や狩・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。

  • アマゾン行では主な食料源は釣りとバナナに頼り、犬ぞり行では釣りと狩猟で得られる生肉と脂を中心に、持参の紅茶とビスケットで補完するといった食生活だった。

  • 俗にアザラシの漬物と言われるキビヤックはその特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だったという話は有名である。

  • これらの挿話は、先進国の機材や物資を大量に持ち込んで言わば西欧文明流の力押しで自然を制覇するという近代以降の冒険流儀を一概によしとしなかった植村の思想性を表している。

ただし盲目的に現地の流儀にこだわったわけではない。植村の犬ぞりは現地の伝統的な構造と製法に則りつつ、構造材としては繊維強化プラスチックを利用した例があった。極地用のテントは自ら考案したものを使用した。冬山登山などでは、1964年11月モンブランでクレバスに落ちながらアイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた。植村が行方不明となった最後のマッキンリー行においても、肩に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が目撃されている。

田部井淳子 - Wikipedia

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女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。

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1962年、昭和女子大学英米文学科卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。以後数年間、谷川岳穂高岳でのクライミングに熱中する。1965年、佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功(12月19-20日)。

  • 後に1969年冬に登った谷川岳一ノ倉沢凹状岩壁は、エベレストよりもつらかったと回想している。

  • 1969年、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立。翌年にアンナプルナIII峰(7555m)に遠征して登頂に成功。

1975年、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)に女性世界初の登頂に成功。ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと表現した。

  • その後、日本女性で登頂したのは難波康子(1996)で、田部井が登頂成功した21年後である。ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞。

  • エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還、下山をせずアタックすることを主張し計画は続行された。

  • 企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので、予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。

  • 登山で「もうダメだ」と思ったときが三度あり、いずれも雪崩に巻き込まれたときである。一回目はエベレストの第二キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められ、二度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流され、三度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われ、テントごと吹き飛ばされた。ポペーダ山では1999年に登ったときにも雪崩がテントを襲ったが、早朝に出発していたため助かった。

  • 旅行会社が企画する登山ツアーやTV、雑誌の登山企画の出演によって謝礼は得ているものの、自分が求める登山ではスポンサーなどによる資金を得ずに自身でお金を支払っていること、ガイド資格などを所持していないことから「登山家が自分の仕事かと言うと、そうではないと思う」とインタビューで答えている。エベレスト後の登山では一切スポンサーをつけていない。

1988年、福島県民栄誉賞第1号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞

1992年、1988年のマッキンリー、1991年のビンソンマシフに次いでエルブルス山に登頂し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となる。文部省スポーツ功労賞。

1995年、内閣総理大臣賞。

1999年、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得る。(日本女性初)

2000年3月、九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了(研究テーマ:エベレストのゴミ問題)。年7~8回海外登山に出かけるかたわら、山岳環境保護団体・HAT-J(ハット・ジェー)の代表を務めた。

2016年7月23日、HAT-Jが主催する福島県の小学生を対象としたネイチャーカレッジにて福島県雄国山登山に参加、これが生涯最後の頂となった。

2016年7月27日、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加、これが生涯最後の登山となった(7合目で断念)。2016年10月20日、腹膜癌で逝去(77歳没)。

本多勝一 - Wikipedia

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千葉大学卒業後に京都大学に入学。京都大学では山岳部に所属し、のち探検部の創設にかかわったとされている。
*この時、大学卒業後にまた別の大学に入ったので学費は自ら稼ごうと家庭教師などをしていたが、海外遠征のため受験生を最後まで看ることがことができず、志望校には合格したものの申し訳ない思いだったという(『旅立ちの記』)。

探検部時代にヒマラヤ山脈からヒンドゥークシュ山脈奥地にかけての合同調査隊に加わり、その体験をまとめて初の著書となる『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』を刊行した(1958年、角川書店)。京大探検部を朝日新聞社が援助したところから朝日新聞と縁が生じ、同年10月朝日新聞東京本社校閲部に研修生(校閲見習い)として途中入社。推薦人は朝日新聞社主上野精一だった。同期に筑紫哲也がいる。

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1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)まで朝日新聞北海道支社に勤務した後東京本社に転じ、短期間とはいえ現地で実際に生活を共にした上で取材した人類学系の探検ルポ三部作『極限の民族』(『カナダ=エスキモー(1963年)』、『ニューギニア高地人(1964年)』、『アラビア遊牧民(1966年)』)により全国的に高い評価を得た。このうち、『カナダ=エスキモー』の報道については、文藝春秋から第12回菊池寛賞を(藤木高嶺カメラマンとともに)受賞している。
*この時期の専門分野は自然や探検を主題とする文化人類学的なルポルタージュであり、北海道支社時代の記事をまとめた『きたぐにの動物たち(1969年)』もその一つである。

  • 当時から本多勝一には「目の前の相手の話を鵜呑みにし、それが全てだと思って世に広めてしまう欠陥」が存在していた。例えば「エスキモー」と呼ばれるのを嫌い「イヌイット」と呼ばれたがるのは、あくまで「カナダ=エスキモー」の特徴に過ぎず、アメリカ在住の「アラスカ=エスキモー」はそういう自民族に対する劣等感を徹底して軽蔑し抜いているのである。
    *そもそも「アラスカ=エスキモー」は石油を掘り当てて相応に裕福な暮らしを営みつつ、狩猟民族としての立場から全米ライフル協会(NRA)を後援し「(捕鯨大国たる日本や北欧諸国ですら手を出さない)ミンク鯨漁を続ける権利」を勝ち取り続けている「権力に到達したエスキモー」であり「可哀想な憐れむべき少数民族」なるイメージからあまりに乖離しているので「カナダ=エスキモー」ばかりか国際的に左翼勢力から「氷の植民地(Icy Plantation)」と呼ばれ、蛇蝎の様に嫌われている。彼らはむしろ「権力に到達したエスキモー」の生命線たる石油パイプライン(1977年完成)が現地インディアンを支持する過激派がテロ行為によってそれを破壊される都度祝杯を挙げる立場であり、その都度大量の環境汚染問題が発生して現地住民の生活環境が致命的打撃を受ける事など一切気にしないのである。
    『カナダ=エスキモー』

    エスキモー側の記録にエスキモーとインディオが仲が悪い(というか生活リズムがあわない)事情が出てくるように、インディオ側もやはり同じようにエスキモーを嫌っており、避けている。「イヌイットの呪術師は強いから、呪い殺される。近づいてはけない。」と表現されているのが面白い。インディオ側から見た、さらに極北の人々は、得体の知れない存在なのだ。フィンランド叙事詩「カレワラ」に登場する、フィンランド北部のラップ人に対する評価とよく似ている。北の地は魔術的なものと捉えられやすいのだろうか。

    先住民族であるインディオは、エスキモーと同じく"旧大陸"の病気に耐性がない。そして、エスキモー同様に結核は高確率で発症し、時には死に至る。病院は村にはなく、町の病院に入院して療養することになる。その際、エスキモー(イヌイット)とインディオは別々の病室に分けるという。ケンカになるからだそうだ。ちなみに医療費は政府負担。

    カナダ北部のエスキモー、インディオそれぞれの記録を読んでいた思ったのは、カナダの福祉・医療費は、かなりの部分が彼ら先住民に裂かれている、というか裂かざるを得ないのだな、ということだ。そうしないと死んでしまうのだ。本人たちは長年不安定な狩猟生活で暮らしてきており、飢餓にも病気にも慣れている。この本にも「飢え死には犬死ではない」という表現が出てくる。かつては、不漁の年は村まるごと飢え死にで全滅ということも珍しくなかったという。しかし近代国家では、それを見逃すことは許されていない。

    とはいえ極北の地では農作や牧畜が根付きにくく、根付いたとしても非効率なのは間違いない。観光資源があるわけでなし、狩りや漁で得たものだけでは十分な現金収入にならない。結局、政府が生活を援助するしかないわけで…。まあ、日本でいう生活保護や医療費援助みたいな問題が発生しているのは想像に難くない。
    *こういう観点からも、むしろその石油資産によってアラスカ住民を養っている立場にある「アラスカ=エスキモー」の立場は「可哀想な憐れむべき少数民族」という立場から大きく乖離している。

  • ちなみにこっち系統の情報は「プルドーベイ油田(Prudhoe Bay Oil Field)」をキーワードに検索すると比較的簡単に集められるが「エスキモーをイヌイットと呼ぶのはレイシストだけ」という本多勝一の残した「人道的先入観」に支配された日本の左翼陣営も今日なお黙殺を続けている。

    プルドーベイ油田(Prudhoe Bay Oil Field) - Wikipedia

  • 実はアメリカではこういう話題をとりあげてGraphic Novel「30 Days of Night(2002年)」なる吸血鬼漫画がベストセラー入りを果たしている。しかしながらハリウッド映画化(2007年)に際しては、まず真っ先に「(黒夜にまぎれて襲撃してくる)吸血鬼集団に唯一対抗可能だったのは、狩猟民族として鋭敏な感覚と身体能力を備えたアラスカ=エスキモーの保安官夫妻のみだった」という、そもそも大ヒット要因となった英雄設定が放棄された。主人公格の保安官夫妻も「原住民を守る慈悲深い白人」に変更されてターゲット層がよく分からない作品となってしまい、M・ナイト・シャマラン監督映画「エアベンダー(The Last Airbender、2010年)」同様に興行的惨敗に終わっている。2000年代後半のハリウッド映画に数多く見られたパターンとも。
    *暗闇に紛れて集団で忍び寄る吸血鬼にあくまで無力な一般人の絶望感。彼らに唯一対抗可能な保安官夫妻の超人性。そしてそういう状況に必然性を持たせる「3匹来る、500m先」「この猛吹雪の中、どうして分かる?」「これくらい察知出来ない様じゃ私達はとっくに滅んでる」みたいな「風使い」ナウシカ的やり取り。そういうのが一切省かれてしまった映画版「30 Days of the Night」は完全に「コーヒーの入ってないクリープ」状態に堕してしまったという次第。
    スティーブ・ナイルズ&ベン・テンプルスミス「30デイズ・ナイト(2005年)」
    スティーブ・ナイルズ&ベン・テンプルスミス「ダーク・デイズ(2005年)」
    スティーブ・ナイルズ&ベン・テンプルスミス「リターン・トゥ・バロウ(2005年)」

本多はスター記者としての高い評価を背景に、日本の一般市民にとってアクセスが困難という意味では探検の要素をもつものの、実質的な面においては社会派報道となる分野へと進出した。

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①その最初のものとなるのが1967年(昭和42年)5月から11月にかけて朝日新聞の朝夕刊に6部に分けて連載されたベトナム戦争ルポ「戦争と民衆」であった。この連載はその後1968年(昭和43年)に『戦場の村-ベトナム-戦争と民衆』としてまとめられて刊行され、同年の毎日出版文化賞日本ジャーナリスト会議JCJ)賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受けている。
*ちなみに司馬遼太郎ベトナム戦争に取材して「韓国兵もベトナム兵もその洗脳的イデオロギー教育のせいで狂信的殺戮者に変貌してしまった」と結論づけた「人間の集団について」の中で「確かに世界は今ベトナム共産党が何を考えているかという情報に飢えているが、迂闊に近付いても(八路軍に近づいたエドガー・スノー同様に)広告塔として取り込まれて仕舞うだけだろう」と嘆息している。

しかしこの大胆な、本質をひと刺しでえぐり出すような見方と考え方の本は話題にならなかった。意図して黙殺されたようでもあった。その文庫版が出たとき解説を担当した桑原武夫はそれを怪しみ、「私はつねづね日本に政治史や政治学説史の研究は盛んだが、現実の政治評論は乏しいのではないかと思っていたが、この名著がいまに至るまで一度も正面から取り上げて論評されたことがないのを見て、その感をいよいよ深くする」としるした。具眼の士は少なくともここにひとりいた。 (「司馬遼太郎のかたち」より)

  • 以降一連のベトナム戦争ルポ(『北爆の下(1969年)』『北ベトナム(1973年)』『ベンハイ河を越えて(1974年)』『再訪・戦場の村(1975年)』)を著す。そして『ベトナムはどうなっているのか?(1977年)』で、南北統一後のベトナム社会主義共和国の問題点についても取材している。

    「無知な人々だけが感激する『キリング=フィールド』」

    1975年5月に「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」でシャンバーグ記者が報じたクメール=ルージュの残虐ぶりを、かつては「ウソ」ときめつけてクメール=ルージュ擁護の論陣を張った本多勝一記者(「欧米人記者のアジアを見る眼」および「カンボジア革命の一側面」を参照)。しかし、虐殺が事実であることが日を追って明かになり(「事実を否定しようがなくなった」といった方が正確ですが)、シャンバーグ記者はこの報道でピュリツァー賞を受賞、さらに1980年にはシャンバーグと助手プランの体験がパットナム監督によって映画化(邦題『キリング=フィールド』)されました。

    すると、すでに反ポル=ポトに鞍替えしていた本多勝一記者は、今度は親ベトナム・ヘン=サムリン政権支持の立場からこの映画を

    • 「無知な人々だけしか感激できない愚作」、
    • 「政治的な詐術映画」、
    • 「差別的政治映画」

    と斬って捨て、この映画を肯定的に評価した論者をも攻撃しています。 今回は映画の登場人物として現われるシャンバーグ記者にも本多氏の矛先は向かいます---いわく

    • 「冷淡な差別主義」
    • 「あとの何百・何千のカンボジア人の糸は切ってしまっている」
    • 「シャンバーグ仏の頭にはもともとカンボジア人などなかった」

    などなど。ますますもって本多勝一記者の面目躍如といったところです。ここまで自分のことを棚にあげて威張り散らせるものかと、ひたすら感嘆。「ラオスカンボジアも区別がつか」ない人が「たぶん人口の八割には達する」云々と、本多氏がホンネでは「民衆」を蔑視しているのも読み取れる。

    Yamagata Dojo in CYZO 2007/12

    本誌の読者に、本多勝一といってどれだけなじみがあるのかはわからない。今だと週刊金曜日編集委員として一番有名なのかな。日本を代表する左翼ジャーナリストの一人で、クメール・ルージュによるカンボジアでの虐殺を詳細に報道し、内臓をえぐりだされた死体写真を朝日新聞に得意げにしこたま載っけて、ぼくは一時飯が食えなかった記憶がある。そして、クメール・ルージュの蛮行はかくもひどいもので、それを否定しようとする連中は人間のクズだとでもいわんばかりの文章を書き散らしていた。

    だが実は、その三年ほど前に当の本多勝一自身が、クメール・ルージュによる各種の虐殺報道について、デタラメだ、アジアについてわかっていない、カンボジアの革命政府が人民を虐げるわけがない、と口を極めてののしっていたのだった。そして、突如として態度を豹変させた後は、作品集に収録された過去の文章を改竄し、あるいは削除し、それを追求されてもまともな回答すらしていない。

    これが姑息で不誠実な行動なのはだれが見ても明らかだ。さらに、この一連の変節ぶりは、見事なまでにベトナムの思惑通り。本多勝一が反クメール・ルージュ報道を始めたのはまさにベトナムカンボジア侵攻前夜。ベトナムとして侵攻の正当性を世間に訴えたかった時期だ。もともとこの地域のかれの報道は(北)ベトナム政府べったりで、ベトナム軍がいかに清廉潔白で、ホー・チミンがいかに聖人君子であるかというような赤面するようなプロパガンダを平然と垂れ流し続けていたし、またカンボジアについての情報をまとめた『カンボジアはどうなっているのか?』も、ベトナム政府に便宜をはかってもらって情報を得てそれを流しているだけ。

    ただ、この『カンボジアはどうなっているのか?』を見ると、本多勝一は、明らかに事態に困惑している。かれの頭の中には基本的に、アメリカ帝国主義vs革命的人民の社会主義勢力、という単細胞な図式しかなかったようで、ベトナムカンボジアの革命政府同士が対立するなんてことは、まったく想定外だったようだ。結果としてこの本は、いろいろ難民の話をそのまま書きつつ、どう解釈していいかわからない。そして社会主義国がちゃんと取材をさせてくれないとか、社会主義同士で対立が起きているのは変だとか、社会主義だからというだけでほめるのはよくないのではとか、今更のような基本的なことを書き連ね、だから「『保留』以外にない」と逃げる。また、自分がベトナム側だけの情報に頼っていることについて弁明しつつ、その一方で「カンボジアについての黒い噂がすべてデマで、実は『すばらしい社会主義国』になっているとしたら」という未練たらしいタラタラの希望をついつい書いてしまう。

    かわいそうに。たぶんショックだったんだろう。本多勝一は、この時点で自分のやってきたことを、見直せる分かれ道にいた。多くの左翼は(きっかけこそちがえ)そこで正気に返ったりもするんだけれど、本多勝一は結局自分の中で社会主義をきちんと評価しなおすことができず、それをあいまいにごまかしたまま、反米とか反企業とかいったそつないお題目に逃げ込んでそれっきりとなってしまった。
    *というかベトナム共産党は(文革時代以降の中国共産党同様に)独立戦争後「アジア的優しさ」に従って冷徹に「狡兎死して走狗烹らる」格言を実践したに過ぎない。後にはむしろ資本主義的発展を目標に掲げる様になり、そうした「態度虎変」についてこれなかったジャーナリストは容赦無く切り捨てられてしまう。本多勝一も明らかにその一人だったらしく、当時の文章の端々にベトナム戦争終了後の文章では、次第に態度が冷淡になっていくベトナム共産党に対する「恨み節」があちこちに散見されるのである。

    *当時はフランスでもこうしたアジア共産主義諸国の「態度虎変」と内紛に振り回された論客が多数没落の憂き目を見ている。興味深いのは、そのうち少なくとも一部は(「フルシチョフスターリン批判(1956年、1961年)」以降のスターリン主義者同様)欧州において完全に社会的に抹殺され、生き延びる為に中東へと逃げ込んでイスラム原理主義アジテーターへの転身を果たした辺り。どうやらこうした層の心理の根底には「自由主義に対する実存不安」や「大衆の多数決主義への基本的嫌悪感」が潜在しているらしく、そろって究極的には全体主義の方向へと漂流していく傾向が見受けられるとも。

  •  「ベトナム共産党の広告代理人」としては、こんな実績も残している。
    対文藝春秋裁判 - Wikipedia

    ベトナム戦争終結後、ベトナムカントーにある永厳寺で、12人の僧侶が集団自殺をした。これは宗教政策への抗議ではないかとの疑いをもたれた。 この事件を取材した本多は自著で、サイゴン当局の説明では、僧侶が色情によって無理心中事件を起こしたものであり、政治的な背景は無かったということだった、と述べた。

    これを受けて殿岡昭郎が『諸君!』(1981年5月号)において、ベトナム統一仏教会最高委員会に接触し、焼身自殺が共産主義への抗議の殉教である証拠、確証を得たとしたうえ「本多氏はハノイのスピーカー役を果たしている」として、虚偽を報じたので「筆を折るべきだ」などと批判した。

    これに対し本多は、その部分の記述はあくまで当局の側の言い分であることを明記しており、そのうえで、当局の発表をもって結論とはできないとまで書いてあるのだから、殿岡の批判は曲解に基づいたものであると反論し『諸君!』編集部へ抗議の手紙を送った。

    さらに本多は、当時殿岡が助教授を務めていた東京学芸大学に、文を正しく読解せずに非難する学者がいても良いのかという質問状を送付する。これについて、同大学は無視することにしたと殿岡は説明するが、その3か月後に殿岡は同大学を退職している。このことと本多の質問状との関係は不明である。

    その後、本多は、『諸君!』の投書欄に反論を投稿したが掲載を拒絶されたため、同誌の発行元である文藝春秋と殿岡を相手取って、東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こす。殿岡の本多への批判は、本多が書いた記事の曲解に基づくものであり、その訂正を求めても応じなかった。このため読者に誤解をさせ名誉毀損であるとするものであった。

    1992年2月25日、東京地方裁判所は、掲載された文に本多の記事が引用されているため読者には元の文がわかるとして、本多の請求を棄却する判決を言い渡した。

    *日本の論客はある意味、こうした戦いを通じて「外国勢力のスピーカーに徹し、なおかつそれを信じた「リテラシーの低い」読者に一切責任を追わないで済む自由」を勝ち取ってきたともいえる。そもそもこうした姿勢の起源は、さらに大日本帝国敗戦直後に朝日新聞が出した「新聞社の存在意義はまず第一に社員を養う事であり、軍国主義に屈っして行った報道を行ってきた事について何ら反省する必要を感じない。勝手に信じた読者の方が悪い」なる声明まで遡るとも。確かにそれ自体は一企業の姿勢としては一切間違っておらず、現在なおその姿勢を多くのメディアが貫き続けているのである。

②こうした路線の延長で特に有名なのは、中国で取材した旧日本軍についての連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)を再編集した『中国の旅(1972年)』で、これは連載当時から大きな反響を呼び、朝日文庫の「本多勝一シリーズ」で『日本語の作文技術』に次いで二番目のベストセラーとなった(朝日文庫『滅びゆくジャーナリズム』による)。
*大衆侮蔑に軸足を置く本多勝一には、おそらく今日なお自らが勝ち取ってきた「ジャーナリズムがどんな失言をやらかしても「騙された方が馬鹿」と逃げ切る特権」こそが今日の「リベラル・インテリ層の死」を招いたという自覚などない。馬鹿は何度でも盲目的に騙され続ける訳ではなく同じミスは繰り返すまいと努力するものだし「俺達だって食べていかなきゃいけないんだから状況に応じていくらだって方便を使う。貴様ら愚民にそれを責める権利などあると思ってるのか!?」と開き直られたら返す言葉もない。確かに現実としてはそういう応酬があっただけで、この世界観に別に悪人など存在しないのである。

  • これ以後、本多に対する非難とともに自宅から子供の学校にまで脅迫や嫌がらせが相次ぎ、転居を強いられたほどであった。これをきっかけに住所を非公開にしていると本多はインタビューで述べている。
    *事実かどうかともかく、この事に関しては「自分が相手の命を脅かす事で論争に勝利するタイプだと、相手も同様に振る舞うと考える様になる」と指摘する厳しい批判も存在する。

  • まず忘れてはいけない事、それは当時について日本共産党が公式に「資金と人材を惜しみなく当時続けるソ連中国共産党のスパイと際限なく戦い続けなければならなかった試練の時期。信じられない様な裏切り者が次から次へと現れ、容赦無く切り捨てていかねばならなかった時代」と表明している点にある。
    本多勝一当人もも2001年の日本共産党の集会で来賓として挨拶し、政党が離合集散してばかりいる中で、一貫している政党は日本共産党だけであるから、シンパとか追従ではない現実的な選択として、日本共産党を応援するしかないと述べている。また2010年6月、日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』6月号外に支持者の一人として名前を連ねている。2008年2月1日の「赤旗」創刊80周年によせての寄稿でも、新聞をとるなら「赤旗」も併読紙として重要だと購読をすすめているし、2010年9月12日付の『しんぶん赤旗』「読者の広場(投書欄)」に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判する投書を行っている。

  • 実際、藤子不二雄毛沢東伝(1971年)」が出版され「大陸において大日本帝国軍は原住民に対する略奪と強姦と殺人しか働かない破落戸の集まりに過ぎず、八路軍ソ連軍と戦えば必ず一瞬にして殲滅された世界最弱の軍隊に過ぎなかった」と訴えかける日本映画が国内で大ヒットとなったのもこの時期だった。
    *当時の学校では左翼教師が好き勝手振舞っており、担当下の生徒は本多勝一をカリスマの様に敬う事を強要されたものだったが(定期的にそれを読んだ感想文を提出させられた)、そこで教えられていたのは「自虐史観」なんてなまやさしいものではなく「先天的野蛮民族たる日本人は、中国人や韓国人から盗まれても、強姦されても、殺されても、むしろ贖罪の機会が得られたと考えて歓喜すべきである」といった完膚無きまでの奴隷教育だった。とある韓国人が「学校で熱狂的反共教育の先鋒に立っていた教師ほど、その後狂信的な親北派教師に転向した」と述べている。戦前に教育勅語聖典化して皇道教育に邁進した教師とこうした左翼教師も間違いなく同様の関係にあるのだろう。要するに「(生徒に与えられる)自由が許せない」という思考様式において両者は等価なのである。

    もちろん、こうした話題は全て「誰だって食べていかねばならないし、それなりに良くしてもらった以上、相応の働きも見せねばならない。現実などそれだけだ。迂闊に騙された愚民に抗議する権利などあるものか。それは表現の自由の侵害に該当する」と開き直られたら一瞬で論破されてしまう展開に過ぎない。そして、かかる状況が「毛沢東死去による文革時代の終焉(1976年)」「共産主義の完成を標榜したクメール・ルージュ派による大量虐殺とベトナム系市民の民族浄化(1976年〜1979年)」「共産主義国同士が互いに殺戮の限りを尽くした中越戦争(1979年)」といった苛烈な歴史展開を経て新たな局面を生み出す事になる。
    大躍進政策 - Wikipedia
    文化大革命 - Wikipedia
    クメール・ルージュ - Wikipedia
    シドニー・シャンバーク「プノンペンの2週間--陥落から脱出まで」
    中越戦争 - Wikipedia
    *「新たな局面」…1980年代を特徴付ける、ある種の思考停止状態を指す。それまで互いに殺意しか持ち得ない状態で対峙してきた「旧左翼」と「新左翼」の大同連盟が成立したのもこの 時期とされる。18世紀欧州においてフランス王室とオーストリア皇室を和解に至らせた「外交革命(1758年)」みたいなもの?

  • 中国の旅」にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた(百人斬り競争#名誉棄損裁判)。2005年8月24日東京地裁は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難であるとし、また「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)が死者に対する名誉毀損の判断基準であるとして、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」と判断して、60年余り前の記事を訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過しているとして原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所に上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。
    *実は東京裁判では無罪とされた「百人斬り競争犯人」を中国法廷がまともに審議せず処刑してしまった事により、GHQは「中国法廷に法的判断力なし」という認識を抱く様になり、中国に捕らえられていた日本人戦犯260名を裁く事を禁じたという経緯が存在する。同様の展開はナチス戦犯を裁いたニュルンベルク裁判において「容疑者は、容疑者であるだけで一人残らず処刑し尽くされなければならない。証拠は自白書一通で十分で、我々には容疑者に確実にそれを書かせるノウハウがあるから全て任せてほしい」と主張したソ連裁判官に対してても適用された。「共産主義圏の常識」が「自由主義圏の常識」と衝突した端緒でもあったのである。

  • 「中国の日本軍」において「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載。その写真は笠原十九司南京事件』Ⅲ章の扉にも使用されていたが、この写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが、秦郁彦より笠原に対して指摘された。この写真は南京大虐殺紀念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている[14]。2014年にこの件について週刊新潮からのインタビューを受けると、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした。

    ヘタレ戦士の独り言-2016年05月06日-

    http://blog-imgs-44.fc2.com/h/e/t/hetare1004/o0617040511823769268_convert_20120710134429.jpg

  • 本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけた写真を掲載して いるが、この写真について東中野修道は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったとしている。本多は自身の著作に納められた写真が虚偽であった理由について、分からないと釈明した。

    http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/photofiles/c-36.jpg

    *ただし虐殺の有無に関わらず「南京攻略戦」そのものが「(現地派遣軍が日本政府や軍司令部の意向を無視して勝手に始めた)不義の戦い」であった事実は揺らがない。この時の無謀な策動が日中戦争を泥沼化させ、双方に甚大な被害を及ぼしたむ事を考えれば、むしろ東京裁判ではその不義こそが「改めて」裁かれるべきだったともいわれている。

朝日新聞社を定年退職後、他の新聞社あるいは地方紙か機関紙の記者として再就職しようと職業安定所に登録し、経験があり給与は安くてもよいとの条件を提示していたが全く声がかからず、来た話はすべて大学の教授や講師にならないかというもので、性に合わないから断ったことを『朝日ジャーナル』に連載中の『貧困なる精神』で述べている。そして1993年(平成5年)に筑紫哲也久野収らと週刊誌『週刊金曜日』を創刊し、現在同誌の編集委員を務めている。

 こうして1970年代以降の「探検ロマン」は(商業主義に立脚する)ナショナリズム高揚と正反対の方向に推移していった訳です。まずこの基礎構造を念頭に置かないと全体像の掌握が出来なくなってしまうのですね。