諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【国際SNS上の関心空間の最先端】ナマケモノと双葉杏と米林才子

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これ絶対にディズニー・アニメ「ズートピア(Zootopia、2016年)」に登場する「ナマケモノ界最高速の男フラッシュ」人気が引き金になったとしか思えません。コンセプト的出発点は恐らく「仕事が鈍いアメリカ合衆国運輸省(United States Department of Transportation、DOT)に対する悪意に満ちた反感」。しかしながら作品自体のテーマが「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマのアンチテーゼ、すなわち「確かに現実世界の本質は互いに偏見を抱えた多様な集団同士の殲滅戦に過ぎないのかもしれない。でも、だからといってそれを克服しようという努力まで放棄したら滅びへの道が不可避となるだけだ」という内容だったので最終的にその存在が容認される運びとなったのです。かくして遂に「悪魔(七つの大罪の一つ「怠惰」)」が野へと放たれた?

ナマケモノがネットの人気者に_中国網_日本語

まさしく以下の原理の発現例の一つとも?

この世界は「従来の正義が新たな価値観の台頭を前に敗北を喫すると、新たな善悪の境界線が設定され直されるサイクル」の繰り返しで回されて着た。
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  • 体制側は、既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪認定して勧善懲悪のバランスを保とうとする。
    *19世紀におけるロマン主義的英雄が1930年代に最初のピークを迎えたUniversal Monstersへと変貌を遂げていく流れ。そしてその陳腐化が所謂「RKO40年代サスペンス」の登場を準備した。

  • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。こうして表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となる。
    *こうした時代には「今我々が暮らしている世界は偽りの神が作った」とする日本のアニメやウォシャウスキー兄弟(後に姉妹)らに代表されるグノーシス神秘主義的世界観が蔓延。

  • だが決して「(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された境界線においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるからである。そして新しいサイクルが始まってしまう。
    *こうして全体像を俯瞰してみると「Cat People」に始まり「Cat Woman」で一段落する流れ。ある意味「猫尽くし」。人類にとっては猫こそが「最も身近な絶対他者」なのかもしれなくて?

この構造ゆえに「いかがわしい人々」が地上から完全に一掃される日は決して訪れないし、かつまたそれを目指す意味もまた存在しない。
*ただし彼らはしばしばその反体制精神ゆえに、実社会に「犯罪者」として登場し、その範囲内においては処分され続けるのである。


*こうした特徴ゆえにこの方面におけるこのサイクルは必然的に(親友でも恋人でも感染したら躊躇なく殺す)ゾンビ・ホラーの側面を帯びる展開となる。

ところで女子にとって「怠惰な生活(惰眠を貪り、可愛い服だけ着て、お菓子だけ食べて、漫画を読んだりゲームをプレイするだけの暮らしがしたい)への憧憬」は自分の幼少時代についてのノスタルジーと深く結びついている様です。

ここで思い出さざるを得ないのが、海外のアニメ漫画GAMEファン女子が2012年段階でアイマスを受容する際に「働いたら負け」がモットーの双葉杏が極めて重要な役割を果たしたというエピソード。

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*配給側のバンダイはこうして始まった双葉杏の国際人気を一瞬で帳消しにしそうになった事がある。彼女が「裕福な階層だからそもそも働かなくてもいい」と発表する事によって。彼女達が同時に「財産ある名家出身者ゆえに一切の自助努力なしに幸せになる」ディズニー・アニメ「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」のオーロラ姫をどれだけ嫌い抜いているかちゃんとマーケティングで把握していたら、そんな馬鹿げた間違いなんて犯さずに済んだはず? ちなみにこの観点、彼女達の「お姫様願望」が「お騒がせセレブ」への憎悪から次第に冷え切っていく2000年代の流れにぴったり符号するとも。とはいえ彼女達が「Paris Hiluton must die」なる階級憎悪一色に染まったタイミングもまた存在せず、そこには独特のアンブバレント性がつきまとい続けている。
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*ちなみにラブライブの受容には「自分の腹黒さとちゃんと向き合ってる」矢澤ニコの存在が大きく、しかも当人が「団地住まいで(下層階層らしく)妹が沢山いる」設定がその人気を加速させた感があったりする。

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*ここで鍵となるのが「ち○この大きさを本質的に気にするのはむしろ男。お○ぱいの大きさを本質的に気にするのはむしろ女」なる定理。匿名性に守られて誰もが「自らの自然」を解放する国際SNS上の関心空間においては、むしろ誰もが素直にそうした現実に直面させられ対応を迫られる。

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*そしてこうした「プロレタリア的ルサンチマン」の対極に存在する「古典部シリーズ」のヒロインにして「豪農の名代」千反田江留は、国際的にオーロラ姫同様叩かれつつつ「あの眼が男を思う様に動かすのね。是非刳り貫いて自分の物にしたい」なんて物騒な憧れ方もされてきた。まぁ「人間の形態を保ち続ける必然性」の存在しない匿名SNS上において彼女らは「イケメンを弱らせて看病出来るイベントが存在しない乙女ゲーなんて欠陥品」とか平然と言い放つし自分が本質的に意地悪な存在である事に自覚的だし、それを楽しんでる感すら存在する。

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*まぁそもそもラブコメの大源流が「性淘汰によって精神的優位を保ち続け様とする英国ジェントリー階層のサバイバル術」なのだから仕方がない側面も?

どうやら「少女時代の怠惰な自分への回帰願望」は「決してそこに留まれない醜悪な自分への嫌悪感」と表裏一体の関係にあるのかもしれません。
*よく考えてみれば「いつか白馬の王子様が迎えにきてくれる」お姫様願望から脱却し、それぞれが自分の内面と本気で向き合う様になった結果到達したコンセンサスがこれだったとも。

*そして最先鋭が「魔法少女リリカルなのは」の二次創作「なのはとフェイトの子育て日記」で展開される「男性不要の優しい世界」。そこにおいては(現実の同性愛カップルの不安を取り込んで)二人が娘に何とか「異性愛も異常愛じゃないんだよ」と教えようと試み続け、そしてただひたすら失敗し続ける。「だって、せめてママ達のどっちかに勝てる男の人っているの? しかも本気モードだったらほぼ確実にママ達二人を同時に相手にするんだよ?」「そういう話じゃない」「そもそもママ達より稼ぐ男の人っているの?」「そういう話じゃない」。

リベラル派が人類全てに先天的に備わっているとする「人類平等達成への指向性」などどこ吹く風。彼女達を駆動させているのは、どこま辿ってもあくまで「距離のパトス(Pathos der Distanz)」だったりする模様。しかしあくまで自分の本音に愚鈍なまでに素直な分だけ偽善性は皆無…

それでは全体像の整理を試みて見ましょう。

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  • 元々彼女達の間にはには「寝たいだけ寝て、起きてる間は可愛い服だけ着て、お菓子だけ食べて、漫画を読んだりアニメ見たりゲームだけして過ごしたい」なる強烈な理想像が存在し、その願望に引っ掛かる情報に著しい反応を見せる傾向が見て取れる。
    *実はきゃりーぱみゅぱみゅの国際的人気の背景にあるのがこの感情だったりするらしい。

     

  • その一方で「自分の本質は腹黒で意地悪でサイコパス」という自己認識も存在し、その事実にのめり込み過ぎても、距離を起こうとし過ぎてもやがて自分は破綻すると考えている。「魔法少女まどか☆マギカ」の美樹さやか暁美ほむらへの共感の背景にあるのはこれ。ハリーポッター・シリーズでいうと若くして(おそらくオブスキュラス(Obscurus)化して)死んだダンブルドア校長の妹アリアナにまつわるミステリー」が同等以上の牽引力を備える。
    きゃりーぱみゅぱみゅ作品が備える「ただ可愛いだけでなく不気味さも備えた雰囲気」は「可愛いものと同じくらい猟奇が好き」な彼女達の本音に比較的忠実なインプリメントなのである?

ここまで視野を広げて初めて、どうしてこうした分野に興味津々の女子アカウントが国際的に一斉に石田スイ「東京喰種(1911年)」に米林才子が登場すると突如として一斉に飛びついた理由が明らかとなるのです。
*ある意味上掲の様な視野を有する彼女達の前に現れた「最強キャラクター」とも。「働きたくない」動機を「金に困った親に本人の同意なく研究施設に売られたせい」に結びつけるとか天才的飛躍。そんな彼女が同僚の死を契機に「これ以上あたしから何も奪わせない!!」と絶叫して本気モードに移行していくとか、狙い方もあざと過ぎ。

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そういえば彼女達は同じ「東京喰種」のヒナミちゃん(先天的能力こそ最大級だが持久力が心もとない少女グール)も大好き。もしアベンジャーズに「その先天的能力の絶大さ故にメンバーに加えられたが、怠惰で自分から積極的に働こうとはせず、しょっちゅうキャプテン・アメリカやアイアンマンから説教されてる(ただし本気を出すと最強)」みたいな少女ヒーローが加わったら、ほぼ確実に全人気を攫われてしまうでしょう。しかし、それを素直に思いつけない(あるいは思いつけても伝統的制約から実践に移せない)のがハリウッド映画の実に残念なあたりとも。
*「ハリウッド映画でやられたら敵わない」…実際、パワーこそ物凄いがその力の制御に不安があるネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(Negasonic Teenage Warhead、映画「デッドプール(Deadpool、2016年)」における「X-MEN」末端メンバー)に一斉に飛びついた。それ以前に「Deadpoolの中の人は女子でも有り得ると思うの」とか話し合ってるし、全く油断がならない。それにしてもコロッサスのロシア語訛り酷過ぎる…

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なんでネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドを映画デッドプールに出したかというと「名前がカッコ良かったから」(脚本家談)という、身も蓋のない話が。キャラとしてはそこまで出番はないのですが、名前だけは目立ってて、ファンサイトでやるちょっとアレな名前のヒーローランキングに結構出張ってきて、最終的にその名前がきっかけで映画に登場。人事塞翁が馬を地で行くキャラです。ちなみにこの候補予測が無ければ、毎度打ちたくない長さなネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド、名前の元ネタはロックバンドモンスター・マグネットが歌う、そのままズバリのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドだそうです。ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドの生みの親であるライターのグラント・モリソンも、モンスター・マグネットも、まさかこうなるとは予測してまいよ。

名前がカッコ良かったというだけあって、コミックスのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドと映画のネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドに、あまり繋がりはありません。見ての通りビジュアルはまるっきり違いますし、コミックスの彼女の能力はテレパシーや未来予知。かたや映画の彼女はウォーヘッド(弾頭)のイメージを膨らませた、爆発系能力者。コミックスではデッドプールやコロッサスと関係があるどころか面識があるかどうかすら怪しく、強いて関係のあるX-MENのメインメンバーといえば、X-MEN:ZEROやX-MEN:ファースト・ジェネレーションに登場したエマ・フロスト。コミックスで所属したチームも、強いて挙げるならばX-MENではなく、その真逆とも言えるヘルファイア・クラブ。

映画X-MENでは、数多くのキャラが映画向けのアレンジや派手な改編を施されておりますが、その中でもネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドは随一、というかもうコレは、名前だけ受け継いだ別人と言ってしまっていいでしょう。

ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドのコミックスでの有り様はは“悲劇”です。出番はごく短いものの、その出番で描かれたのはX-MENにおけるミュータントの悲劇を凝縮したかのようなもの。生命の長さだけで言うなら、実は初登場号ですぐ死んでます。それは種族の悲劇、思いもよらぬテレパスの悲劇、ゾンビとして蘇った再生者の悲劇。コミックスにおける彼女は、短い出番の中で、これらの悲劇を体験してきました。

そんな彼女が、例え名前がおもしろかったのがキッカケとはいえ、生前入れなかったX-MENに候補生ながらも所属し、こうして映画でまっとうに活躍でき、さらには多くの人の目に触れられるようになったこと。これもまた、一つの再生と言ってもいいのではないでしょうか。

で、やっと一般のアメリカ人も「ナマケモノ」レベルにはかろうじて追いついてきたって感じ? まぁアメリカは広いから…

そもそも若者文化は伝統的に音楽との関連が強く、こちらからの分析もちゃんと追随出来てないと全全然追いつけないという過酷な現実。



今年になってやっと正式Mの日本語版が発売される「選択肢によっては誰も殺さずに済む新機軸RPG」UndertaleとかもちゃんとPlayしないと現状に全く追いつけないかも?

この界隈で拾った最大のパワーワードが「最大の刺客は常に過去の自分」なる恐るべき指摘。まぁそれって「フェデリコ・フェリーニカサノバ(Il Casanova di Federico Fellini、1976年)」最大のテーマでもあった訳ですが。

ところで「若者の中二病離れ」なんて誰が言い出したの?

この流れこそ国際的観点から見て「中二病」の大源流でないのだとしたら、一体何を「中二病」と呼んでるつもりでいるの?