諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

グレイテスト・ショウマン観てきました① むしろ「生還」を喜びたい心境に。

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オーストラリア人監督マイケル・グレイシーの手になる「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」…MVとしての完成度自体は完璧に近く、リピーターが多いのも頷けます。

一方、物語が竜頭蛇尾に終わってる件については、むしろ「そんな装備で大丈夫か?」なる心境に。本当にここまで徹底して準備不足な状態で「深淵」に潜って、よく生還出来たものです。むしろその奇跡を祝福したい気持ちになりました。

 「深淵」…まさにP.T.ボーナムの生涯そのものが深淵…

フィニアス・テイラー・バーナム(Phineas Taylor Barnum、1810年〜1891年) - Wikipedia

その愉快な「ホラ話(hoax)」と、サーカス(後のリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス)設立で知られるアメリカ合衆国の興行師。

  • コネチカット州ベサルで生まれた。父は宿屋兼商店の主人だった。商店主として出発するも当時アメリカで猖獗を極めていた宝くじブームに浮かれ事業に失敗。
    日本と海外の宝くじの歴史を知る | 一攫千金で億万長者になろう!
    アメリカにおけるゲーミング | 公益財団法人 日工組社会安全研究財団
  • その後、1829年にダンバリィにおいて週間新聞『ザ・ヘラルド・オブ・フリーダム』を創刊。この新聞での数件の名誉毀損訴訟及び一件の訴追を受けた結果収監される事になる。
    エドガー・アラン・ポーの雑誌経営方針といい、当時のマスコミはよほど「炎上商法」と縁深かった様である。

  • 1834年ニューヨーク市に移り住み、1835年に、ジョージ・ワシントンの元乳母で160歳を超えているとの評判があった黒人奴隷の女性、ジョイス・ヘス(Joice Heth)を買い取って見世物にすることで、興行師としての人生を始めた。この女性自身の存在とちょっとした付け足しをもとに非常に巧妙な宣伝を行い、1836年のジョイス・ヘスの死亡(その際、彼女の年齢は70歳を超えないことが判った)後の1839年までアメリカにおける巡業を成功させ続ける。

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  • その後一時期不振だったが、1841年に、ニューヨーク市にあった「スカダーのアメリカ博物館」を買い取り、これに相当の補強をして「バーナムのアメリカ博物館」(Barnum's American Museum)と名付け、ここを拠点に国内で最も人気がある興行の一つにした。

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  • 1842年には、「親指トム将軍」 ("General Tom Thumb" ) として有名な矮人・チャールズ・ストラットンの見世物で大当たりをとった。インディアンのダンス団「フー・フム・ミー」を作って彼らに伝統的なダンスを踊らせ、これも評判となった。1844年から45年にかけては「親指トム将軍」を連れてヨーロッパ巡業を行ない、ヴィクトリア女王にも面会。

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  • 彼が立てた注目すべき企画の一例としては、スウェーデンの女性歌手・ジェニー・リンドと、米国において一晩1000ドルで150公演行う(費用は全額興行主もち)と云う契約をしたことがあげられる。この巡業は1850年に始まった。
    ジェニー・リンド(Johanna Maria Lind 1820年〜1887年) - Wikipedia

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  • 1855年にいったん興行界から引退したが、債権支払いを迫られたため、1857年に興行師・展示館経営者としての以前の人生を再開。
    *当時江戸幕藩体制下の日本では「浅草の見世物」が話題となっていた。

  • 1871年には、彼はニューヨーク市ブルックリンの「バーナムのアメリカ博物館」で、サーカス・動物園・フリークス・蝋人形展示をない交ぜにしたものを巡業させる「地上最大のショウ」を設立した。
    谷崎潤一郎の問題作「黄金の死(1914年)」を経て江戸川乱歩の「パノラマ島奇談(新青年連載1926年~1927年)」や小栗虫太郎失楽園殺人事件」や横溝正史悪霊島(1979年〜1980年)」に辿り着く系譜。

  • そして1872年、サーカス業界初の興業列車を立ち上げる。サーカス団の規模拡大に伴い、馬車での移動では全米中の興行が困難となり、その解決策として発案。以来このサーカス列車は、他のサーカス団でも採用された。
    *サーカスなくして映画「キングコング(King Kong、1933年)」なし?

  • 1881年、ジェームズ・ベイリーが経営していた「クーパー・アンド・ベイリー・サーカス」と合併して、「バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」とし、世界中を巡業した。このサーカスの一番の呼び物は、バーナムがロンドン動物園から買い取ったアフリカ象のジャンボだった。
    ジャンボ(Jumbo、 1861年〜1885年) - Wikipedia

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P・T・バーナムの死後、1909年(あるいは、1907年? )に、彼のサーカスはリングリング兄弟 (Ringling Brothers) に売却され、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスとなった。

さらには1850年代には全米を飛び回り、禁酒を呼びかける演説・講演を敢行。そしてコネチカット州の州議員に立候補し、当選後4期にわたって任期を全う。この時期に推進した法案が「避妊禁止法」だったりするのです。

こんな複雑怪奇な人物にこの映画は如何なるアプローチで迫ったのでしょうか?

本作では、バーナムが取った行動の「後ろ暗い」一面は極力カットされています。その代わり、アメリカンドリームを体現する「夢追い人」としての、バーナムの無邪気でひたむきな一面が強調され、各出来事の時系列を入れ替えた上でストーリーが再構成されていました。

恐らく、本作が、アメリカや英語圏の国々で映画評論家たちに不興を買った原因はここにあるのでしょう。ディズニー映画並みに徹底して脱臭・無害化されたバーナムの半生記を、流れるようにまとめた薄めのストーリー構成は、何百、何千と映画を見てきた目の肥えたプロの批評家には駄作に映ったのかもしれません。

ただ、本作は、確かに史実やストーリーの掘り下げに対して若干不誠実な割り切りは感じられるものの、バーナムが本来持っていた

  • 「既存の発想やしがらみにとらわれない自由なアイデア力」
  • 「ありのままで生きることへの絶対的な肯定」
  • 「自分の人生を自分で選び取る意志の力」

といった少年のような無邪気な一面を生き生きと描くことに100%注力した、という点では大いに評価されるべきだと思います。何事も徹底的にやりすぎるまでやっちゃう人だったんです。

若い時に犯したいくつかのミスにフォーカスするのではなく、彼がなぜアメリカン・ドリームを体現することができたのか、その行動や情熱のエッセンスをきれいに描き出そうと注力した作品が、本作「グレイテスト・ショーマン」だったのでしょう。

特に、若い人には何度も見て欲しい作品!

むしろ 「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ 」なる摂理を、これだけカジュアルに顕現してしまった辺りに歴史的意義がある? あるいは「深淵を覗いて帰還が叶わなかった者全てに対する供養」とも…