諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「国民国家」概念の起源⑧ 「想像されたもの」としての「市民革命」と「公的ナショナリズム」

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米国の政治学ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の冒頭でこう述べています。

わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム国民主義)と共に、特殊な文化的人造物であるということである…

ナショナリティナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、18世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると「モジュール(規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素)」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。

そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。

さらに興味深いのは出版資本主義(Print Capital)との関連で「フランス革命が実際にどうであったかとは無関係に、それへの言及の積み重ねが目指すべき新たな目標設定を可能とした」と述べてる点。

日本におけるナショナリズムと歴史認識

国民国家が最初に形成されたのが18世紀後半の北米大陸とフランスであったことはいうまでもない。そこでは市民に主導された革命過程が、多くの一つ一つは孤立した事件を伴いながら、ジグザグコースをとってあらたな国家をつくりだした。

しかしこの様にして国家が誕生したのはそこまでだった。これ以降はこの二つの市民革命の過程が明確な筋書きをもつ物語として語られ、理想化され、その結果として「国民国家モデル」が出来上がると、このモデルが支配者にとっても、被支配者にとっても、達成すべき普遍的な価値、いわゆるグローバル・スタンダードとして強圧的な影響力を有する様になった。

そういえば、Wikipediaにおける「市民革命」の項目なんて、中々見応えがあります。

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「国民国家」概念の起源⑦ 「国民国家」と「市民社会」は別起源?

ナチスの何たるかを知らないままナチス批判をする「自称」リベラリスト達の言動や行動がしばしばナチスそっくりに成り果ててしまったり、却って「ナチスの再来」を招いてしまう展開を迎える事があります。

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同様に「ゴビノー伯爵の人種論」の何たるかを知らないままそれを批判している人の主張が「ゴビノー伯爵の人種論」そっくりになってしまうケースが存在します。
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後者を回避する為、決して読み飛ばしてはいけないポイントは以下。 

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「国民国家」概念の起源⑥ 「ゴビノー伯爵はフランス贔屓でもドイツ贔屓でもなく貴族贔屓」その頃英国は?

ゴビノー伯爵が「諸人種の不平等に関する試論(Essai sur l'inégalité des races humaines、1853年〜1855年)」の中で描き出した歴史観は以下の様なものでした。

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  • 全ての文明は(男性原理と女性原理のバランスが取れた白人的な)ヤペテ人(Japhetic)が創造する。

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  • だがやがて(黒人的女性原理過剰を特徴とする)セム人(Semite)や(黄色人程男性原理過剰を特徴とする)ハム人(Hamitic)との混血が進み、その文明は次第に自壊していき最後は滅ぶ。

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日本にも「実は中国人や日本人もヤペテ人の末裔。だが中国人はセム人やハム人との混血が進んで退化してしまった」みたいな考え方がまだまだ現存してるみたいなので、ゴビノー伯爵を迂闊に笑えません。

「聖書の記述でわかる諸民族の起源」

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「国民国家」概念の起源⑤ 「ゴビノー伯爵の悪夢」と「人類館事件」の狭間

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ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体(Imagined Communities、1983年)」

人種主義の夢の起源は、国民の観念にではなく、実際には、階級イデオロギー、とりわけ支配者の神性の主張と貴族の「青い」血、「白い」血、そして「育ち」のなかにある。とすれば、この近代的人種主義の種馬とされるのがそこいらのプチブルナショナリストではなく、ゴビノー伯ヨゼフ・アルチュールであってとしても別に驚くにはあたるまい。そしてまた全体として、人種主義と反ユダヤ主義は、国民的境界線を越えてではなく、その内側で現れる。別言すれば、それは、外国との戦争を正当化するよりも、国内的抑圧と支配を正当化する。

こういう指摘には気をつけて当たらないといけません。こんな指摘もあるからです。

長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」

反ユダヤ主義研究の泰斗レオン・ポリアコフは人種に関して科学的に考察しようとした時に生じる「自己検閲(オート・サンシュール)」について、こう述べている。「あたかも人種主義者である事を恥じたり、恐れたりするあまり、西欧がかつて人種主義者であった事を認めようとせずに、たいした事のない人物(ゴビノー、H.チェンバレンなど)に悪を肩代わりさせるように、すべてははこんでいる」。

この自己検閲は、人種主義の全責任をドイツに転化する事によって完璧なものになる。西欧思想の内奥に巣食う人種主義の腫瘍を摘出することこそが問題なのにも関わらず、有象無象の「人種主義者」を断罪し、彼らを西洋思想史の本流からの逸脱、ドイツにおける例外的な事例として処理する事で、全て落着したかの様に安堵している訳だ。

 そもそもゴビノー伯ヨゼフ・アルチュールなる人物、本当にそんな怪物めいた大物だったのでしょうか?

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「国民国家」概念の起源④ フランス式「王的支配」と英国式「王的・政治的支配」の到着地点

英国薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年) 当時の法律家ジョン・フォーテスキューの政治理論の中核をなすフランス式の「王的支配(Dominum regale)」理念と英国式の「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」理念の鋭い対峙。

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その背景には王の「秩序構成権力」と対峙される人民の「正義構成権力」の内容の国ごとの違いがあったともいわれています。

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「国民国家」概念の起源③ 「カインの邪悪さ」が所有権の起源。「ニムロドの傲慢さ」が統治権の源流。

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英国薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年) 当時の法律家ジョン・フォーテスキューの政治理論の中核をなす「王的・政治的支配(dominium regale et politicum)」概念。
ジョン・フォーテスキュー著『自然法論 第一部』(邦訳)

そして、そもそもイングランド法制史における「二重大権(double majesty)」論の大源流はゲルマン部族法起源かもしれないとされます。本当にそれだけ?

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「国民国家」概念の起源② 「二重大権」ゲルマン起源説と日本の「三種の神器」

明治天皇は現役当時、国際的に「大帝」と呼ばれていました。「大政奉還(1867年)」王政復古の大号令1868年)」版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「廃債処分(1872年)」「廃債処分(1872年)」「秩禄処分(1876年)」をスムーズに成し遂げて江戸幕藩体制の完全解体を成し遂げた「手腕」が評価されたのです。

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  • ただ、西洋文化の機微に通じた森有礼(1847年〜1889年)は「必ずしも褒め言葉ではなかった」という同時代証言を残している。「欧米先進国においては、王侯貴族の財産権(Property)に土足で踏み込ねば必ずしや致命的な内戦勃発を誘発する。そういう展開とならなかった事によって大日本帝国帝政ロシア並の絶対王政 / 権威主義国家だと証明した様なものだ」。
    *実際(福井藩の「お雇い外国人」として廃藩置県を経験した)W.E.グリフィスによれば、この時に明治天皇を「雷帝」と報じた海外メディアすら存在したという。もちろん欧米社会で雷帝(ро́зный //the Terrible=「ひどく峻厳な / 恐怖を与える / 脅すような」統治者)」といったら「モスクワ大公」イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、在位1533年〜1547年)を指す。ある意味、この感覚を理解していないと「ロシア革命(1917年)が欧米諸国に与えた独特の印象」および「共産主義革命? ロシアだったら起こりかねん。何としても欧州への伝播までは防がねば」という所感が理解出来ないかもしれない。

  • 実際の日本史を知る日本人の所感はまた異なる。幕末期へと至る過程で諸般の多くが債務超過の経営破綻状態にあったからこそ、こうした「大博打」はスムーズに通ったのだった。似た様な状況なら、壬申の乱(672年)の結果成立した天武天皇代(673年〜686年)にもあった。「(氏族戦争(Clan War)を激化させるだけの)氏姓(うじかばね)制」が完全破綻し、中華王朝から律令制を導入する試みが始まるまでの過渡期。天武天皇は従来の位階制度の一切を停止し、新位階制度を発足させたのである。
    *この意味で日本の天皇には伝統的に「究極のリセットボタン」という機能が与えられてきたと表現される事
    もある。むしろ重要なのは天皇そのものの意思というより「誰がリセットボタンに手を伸ばしたか」だったりするという次第。
    天武天皇 - Wikipedia
    案外、日本人が「GHQ占領期(1945年〜1952年)」を黙って受容したのも。そうした伝統ゆえだったのかもしれない。

  • こうした「日本のリセット文化」と対比すべきは、おそらく「時代遅れとなった太平洋三角貿易などをオンライン状態のままリアルタイムに精算してきた英米の凄み」なのである。

    まさしく議会制民主主義に根差す重厚な保守主義文化の大源流。

どちらがいいかといった比較論ではなく「根底にあるのはこの発想」といった本質論の世界。基本的にどちらも部族連合状態から出発してる筈なのに、どうしてこんな違いが発生してしまったのでしょうか?

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