ナチスの何たるかを知らないままナチス批判をする「自称」リベラリスト達の言動や行動がしばしばナチスそっくりに成り果ててしまったり、却って「ナチスの再来」を招いてしまう展開を迎える事があります。
同様に「ゴビノー伯爵の人種論」の何たるかを知らないままそれを批判している人の主張が「ゴビノー伯爵の人種論」そっくりになってしまうケースが存在します。
後者を回避する為、決して読み飛ばしてはいけないポイントは以下。
- ゴビノー伯爵の「諸人種の不平等に関する試論(Essai sur l'inégalité des races humaines、1853年〜1855年)」を読み解く最大の鍵は、発表当時の思想的制約から「人種=文明圏=言語圏」なる次元で語られた作品だという事。
*例えば「混血による諸人種の平準化」なる生物学的・生理学的表現こそショッキングだが、そうした(19世紀米国の奴隷制肯定主義者やヒトラーも魅了された)見た目に惑わされてはいけない。
長谷川一年「アルチュール・ド・ゴビノーの人種哲学」
同時代のトクヴィルも「アメリカのデモクラシー」の中でこう述べている。「11世紀以来フランスで50年毎に起こっている事を吟味すれば、それぞれの周期の末端で必ず社会状態に二重の革命が起こっている事が認められるのである。すなわち貴族の境的地位が低落し、庶民の地位が高まっている。半世紀ごとに両者は接近し、やがて接触し合う様になる」。
*そしてゴビノー伯爵同様、貴族出身のトクヴィルもまた必ずしも「庶民が勝利していくプロセス」を無条件に賞賛する立場には立ってない。 - 逆をいえば「ゴビノー伯爵の人種論」なるもの、あえて「人種論」の部分を切り捨て「文明圏論」や「言語圏論」として再評価する事が可能だという事。
*実際ベルギー出身のフランス社会人類学者・民族学者レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年〜2009年)によるゴビノー伯爵の再評価もこの視点に基づく。また戦前日本の無政府主義者を代表する大杉栄のゴビノー論も同様の観点に立つ。
中島成久「国民国家と人種主義(Nation-State and Racism)」
レヴイーストロースは 「人種と歴史(1952年)」第3章「偶然と文明」の中で「われわれがある進歩の型に関心を惹かれる時、われわれは最も陶度にそれを実現している諸文化に価値をとっておくだろう。そして他の諸文化の前では無関心なままでいる。こうしておのおのの好みによってあらかじめ決定されている方向への最大の進歩だけが進歩では決してない」と述べている。
こうした主張は、野蛮人の中にこそ文明に毒されてない理想の生活があるとして文明批判を行ったルソーの理想(「高貴な野蛮人」説)を受け継ぐものであるが、そうした指摘の重要`性にもかかわらず、ルソー以来の啓蒙主義に対する根底的な批判をそのうちに見出すことができなかった。
*この論文はある意味(構造主義に批判的な)ポストモダン的立ち位置から「国民国家そのものを地上から消滅させない限り戦争もレイシズムもなくならない」とし、ある意味ルソーもゴビノー伯爵もレヴィー=ストロースも「結局は同類」と結論付ける。そしてその立ち位置に安住せず、さらに先に進もうとする。第一期個人主義時代は能動型の人物の活動に、また一般の人々の能動性の発達に、もっとも都合よき時代であった。そしてその時代の個人主義者中には、能動性のはなはだ強烈な、少数の無政府主義者がはいっていた。彼等は、幾度かの失敗にもめげず、幾度かのつらき教訓にもこりず、ひたすらにその理想の憧憬と成功の信仰とを追うて勇敢なる叛逆的闘争を続けて行った。バクーニンのごとき、またあらゆる点においてその後継者とも言い得べきマラテスタのごとき、実にその好典型である。
しかし無政府主義は、かくのごとき能動型の人物によって創始せられたのであるが、さらにクロポトキンやルクリュ等の鋭感能動性の人物によって改造せられ、また政府と社会との獰猛なる迫害のためにしばしば無為を余儀なくせられつつある間に、内省の機会を与えられて、その色彩にはなはだしき変化を生じた。さらに換言すれば、無政府主義はその社会的学説の系統において社会的個人主義に属するものであるが、その個人的感性の上に著しく心理的個人主義の色彩を帯びて来た。
そして同時に心理的個人主義もまた、実際生活におけるその対社会的態度の矛盾に目覚め、一般思想界のことに社会科学の進歩に教えられ、かつ現社会の漸次に老衰し来たるに乗じて、あたかもかつてヴィニーやゴビノーが時としてその無関心から飛び出したごとくに、再び第一期個人主義の人道主義を復活せんとしている。ロマン・ローランのごときはそのもっとも明白なる代表者ではあるまいか。
*この観点は、第一次世界大戦(1914年〜1915年)後のアプレゲール(après-guerre、戦後派)時代にあってはある意味ロマン・ロラン(Romain Rolland, 1866年〜1944年)と一括りにされていったエルンスト・ユンガー(Ernst Jünger, 1895年〜1998年)の魔術的リアリズムに継承されていく。ナチズムに対する徹底抗戦を誓った「ロマン・ロランの理想主義」と、(「超人」を志向するニーチェ哲学や、ヴァイマル体制の大統領内閣制移行を擁護したカール・シュミットの政治哲学同様に)「ええとこどり」を目指したナチスに恣意的に援用された「ゴビノー伯爵の人種論」や「エルンスト・ユンガーの英雄主義」の間に通底するものがあったとしても、それ自体は不思議でも何でもない。 - かくして問題は「フランス人は中央集権化の進行をどう主観的に経験してきたか」を巡る「二つのフランス論」に焦点が定まる展開となる。
821夜『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン|松岡正剛の千夜千冊
アンダーソンはナショナリズムだけではなく、すべての共同体の本質は「想像の共同体」の性質をもっているとも見た。
たとえば古代ならば、ユダヤ教のハッシーディズム、原始仏教教団、クムラン共同体、ウンマ・イスラム(イスラム共同体)など、もっと大きなところではブルボン王朝やハプスブルグ家やワイマール共和国など、わかりやすくいえば宗教共同体や政治共同体のほとんどの例が、同じく「想像の共同体」から出発したのではないかと言うのだ。
こうした「想像の共同体」の特質は、過去と現在と未来をひとつの均質な時間で貫こうとしていることにある。この、仏教用語でいうなら“三世実有”ともいうべき一貫時間については、かつてウォルター・ベンヤミンが「メシア的時間」とか「均質で空虚な時間」という説明を試みたものだった。
アンダーソンもこの見方に依拠して、近代国家の確立を迎えても人々がなお「メシア的な時間」を国家や国民のなかにほしがったものが、まわりまわってナショナリズムとよばれるものになったのではないかと考えたのである。
ただし、ここではあくまで(こうした考え方に到達した)ベネディクト・アンダーソンがあえて視野外に置いたフランス史(およびイングランド史)における「あくまで生々しい」階級闘争の積み重ねにのみ注目する。
①英国王エドワード1世(在位1272年〜1307年)によるユダヤ人追放令(1290年)と、フランス国王フイリップ4世(在位1285年〜1314年)によるユダヤ人追放令(1306年)…英仏時関係悪化に伴う戦費増大に備える為の施作の一環だが、民衆レベルでは十字軍運動(1095年〜1270年)同様に「大陸的排外主義(後述)」の引き金を引いた。後のスペインにおけるユダヤ人追放令の先例になった側面も確実に存在する。国外追放されたユダヤ人は南仏プロヴァンス地方やイベリア半島バルセロナ、さらにはドイツ語圏などに逃げ込んだ。
*ここで重要なのは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」は(それを権威的に裏付けてきた)キリスト教的普遍史観の論破によってのみ解体されてきた訳ではないという観点。
*どちらの国王も戦費捻出の為に果てしなく「えげつない振る舞い」を競い合った。ある意味ここに絶対王政成立の最初の機運を見る動きもある。
エドワード1世 (イングランド王) - Wikipedia
フィリップ4世 (フランス王) - Wikipedia
②百年戦争(1337年/1339年〜1453年)下、シャルル5世(在位1364年〜1380年)治世下で「イングランドに勝利する為に」強行された税制改革(マルムゼ(グロテスクな顔の小人)を台頭させた軍人・官僚階層の大抜擢)。
「税金の父」シャルル5世(ヴァロワ朝第3代国王) - Wikipedia
マルムゼとは一体何者だったのか?
③シャルル6世代(1380年〜1422年)からシャルル7世代(1422年〜1461年)にかけて続いたブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛(大貴族間の潰し合い)と(百年戦争をフランス側勝利に導き、課税強化に反対し大貴族連合が蜂起したプラグリーの乱(1440年)も鎮圧した)リッシモン大元帥の常備軍(1425年〜1458年)の創設と国軍への編入。
「狂気王」シャルル6世 (同朝第4代国王) - Wikipedia
「ジャンヌ・ダルク見殺し犯」シャルル7世(同朝第5代国王)- Wikipedia
ブルターニュ公アルテュール3世 (リッシモン大元帥) - Wikipedia
*この時期より次第にイングランドとフランスの双方で「大量の火器を装備した常備軍を徴税によって養う国家だけが勝利する」という図式が定着していく。
④ルイ11世(在位1461年 〜1483年)時代における公益同盟戦争(1465年〜1477年)での国王側の大貴族連合側に対する「(ただひたすら自滅を待つ続けた結果としての)静かなる勝利」。
*英国でも薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)があったが、どちらの国の戦いにおいても「国王側」と「大貴族連合側」の双方が「大量の火器を装備した常備軍」を軍事力の主体とした事が被害の規模を拡大した。
「公益同盟戦争の勝者」ルイ11世(同朝第6代国王) - Wikipedia
⑤「檄文事件(1534年)」に端を発し「ヴァシーの虐殺(1562年)」以降内戦状態に突入したユグノー戦争(1562年〜1598年)。
*この戦いにおいても(王党派寄りの)旧教側と(大貴族連合や新興産業階層寄りの)新教側の双方が「大量の火器を装備した常備軍」を軍事力の主体とした事が被害の規模を大きくした。
「カルヴァン派を誕生させた」檄文事件 - Wikipedia
「実は階級闘争だった」ユグノー戦争 - Wikipedia
⑥(フランス西部の小貴族出身の)リシュリュー枢機卿(宰相在職1624年〜1642年)や(イタリア出身でスペイン出身のルイ13世王妃と共闘した)マザラン枢機卿(宰相在職1643年〜1661年)による絶対王政の基礎固めを不服として法服貴族と帯劍貴族が蜂起した「貴族最後の反乱」フロンドの乱(1648年〜1653年)。
リシュリュー枢機卿(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu) - Wikipedia
ジュール・マザラン枢機卿(Jules Mazarin) - Wikipedia
フロンドの乱(La Fronde 1648年〜1653年) - Wikipedia
*公益同盟戦争同様、この時ももまた「大貴族連合側」は内部分裂によって自滅。ある意味「反中央集権を標榜する勢力の寄せ集め」が必然的に辿る末路といっても良い。実際、逆に「貴族民主主義」が勝利したポーランド・リトワニア連合王国のセイム(ポーランド立法府)は内紛解決の為にそれぞれが敵対する外国勢力を巻き込んで故国を地上から完全消滅させてしまうのである。
黄金の自由(羅Aurea Libertas、ポーランド語Złota Wolność) - Wikipedia
*この時期が(ブルゴーニュ出身の料理人が大躍進した)フランス宮廷料理革命の時期と重なるのは決して偶然ではない。それは、それまで外国との外交や戦争の事ばかり考えてきたフランス国王の目が国内に向けられた端緒でもあったのである。
*同時期のイングランドは薔薇戦争に続いて清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)において「権力者が交代すると法的正義の内容も入れ替わる現実」を繰り返し経験。その統治理念が「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」から「(ホッブスが提唱した様な)法実証主義(Legal positivism)」へと推移する。
⑦「フランス式王的支配(Dominum regale)=絶対王政」が全盛期を迎えた太陽王(Roi-Soleil)ルイ14世親政期(1661年〜1715年)、「貴族による政治独占を復活させようとした」オルレアン公フィリップ2世摂政期(1715年〜1723年)とコンデ公ルイ4世アンリ宰相期(1723年〜1726年)、「ブルジョワ階層(ラングドックの富裕な収税代行人)出身」のフルーリー枢機卿宰相期(1726年〜1743年)、「ブルジョワ階層出身の公妾」ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の女宰相期(1745年〜1764年)。この時期の貴族は「常備軍の将校と官僚と聖職者の供給階層」となる道を選んだ一族のみが繁栄し、残りは軒並み没落。
ルイ14世 (フランス王) - Wikipedia
フィリップ2世 (オルレアン公) - Wikipedia
ルイ4世アンリ (コンデ公) - Wikipedia
アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー - Wikipedia
ポンパドゥール夫人 - Wikipedia*同時期のイングランドでは名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)とそれに続いた「外国人王室」時代に議会内閣制の基礎固めが進行。巷では産業革命が産声を上げている。
⑧所謂「アンシャン・レジーム」の維持が不可能となったのは、社会矛盾が頂点に達したからというより、それを取り回せる人材が尽きて制度全体が機能麻痺に陥ってしまったせいであったとも。そして「戦争をもって戦争を養う」フランス革命戦争(1792年〜1802年)とナポレオン戦争(1803年〜1815年)を通じてフランスと英国に世界初の「近代ナショナリズム」が萌芽する。
*ここで萌芽した「近代ナショナリズム」は、まさしく歴史のこの時点においては、「国民国家=国民と国内資源の全てを動員して最後まで戦い抜く総力戦体制」の別名に他ならない。その風景はある意味、現代社会における核武装問題と重なってくる。
フランス革命戦争 - Wikipedia
ナポレオン戦争 - Wikipedia*ただし歴史のこの時点における近代ナショナリズムと植民地争奪戦は、直接重なってこない。確かにそれは英国政党政治史となら密接な関係があるのだが「(毛織物市場の墨守しか念頭になかった内地地主階層の利権代表団体たる)トーリー党」や「(カリブ海で大規模農園を営む不在地主の集まりたる)砂糖貴族連合」はむしろ(1833年、ナポレオン戦争後の高度成長の追い風を受けた新興産業階層の市場開放を求める声に政治的に破れるまで)これに反対する立場を貫き続けるのである。そして近世英国産業を牽引してきた英国東インド会社(1600年〜 1874年)もまたインド大反乱(1857年〜1859年)などを契機に取り潰されてしまう。
奴隷制度廃止
イギリス東インド会社 - Wikipedia*しかも続いて王政復古時代(1815年〜1848年)が始まった事もあり、他国(特にドイツ語圏や帝政ロシア)の宮廷では、まだまだ当面「何それ、美味しいの?」状態がしばらく続いた。彼らと「(未だ覚醒の気配すら垣間見せない)故郷の領民達」の板挟み状態に置かれながら、フィヒテやヘーゲルやドロイゼンといったドイツ人インテリはドイツにナショナリズムを振興すべく孤立無援の戦いを繰り広げる展開となる。
*こうした停滞状態から頭一つ抜け出したのが「王国化して停滞状態に陥ったオランダ」の属国状態から1830年革命によって独立したベルギー王国。伝家の宝刀「鉄と砂糖」を担保に外国融資を誘致し、見事産業革命の導入に成功する。
*また成り行き上「絶対王政を打倒し、王室のブルジョワ化を果たした」スウェーデン王国もまた、この時期着実に立憲君主制への移行を進めていく。その推進力を担った「魚の缶詰」は皮肉にもノルウェー王国を独立に導く展開に。
⑨そしてフランスにおいては七月王政期(1830年〜1848年)末期までに「王侯貴族階層のブルジョワ化」が確実に進行。実態を有する政治的勢力としての大貴族連合はここに消失し「王党派」と呼ばれる、より抽象的でまとまりに欠ける集団だけが後に残される展開に。
さらに19世紀後半に入ると(赤旗を奉じる)急進共和派と(白旗を奉じる)急進王党派が切り捨てられ、(三色旗を奉じる)穏健派の「王党派=共和派」が圧倒的多数を占める様になって、やっとフランスは政治的安定状態に到達した。
*三色旗の赤は「急進共和派の赤旗」、白は「急進王党派の白」ともいわれるが、ならば青は何なのかについてフランス人は黙して語らない。要するにこれが英国式「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」理念と対峙するフランス式「王的支配(Dominum regale)」理念の極致なのかもしれない。「見えない存在」は政争の直接対象に選べないのである。 - 要するにゴビノー伯爵は、その貴族至上主義的立場から、こうした「王侯貴族が庶民に君臨する体制」が解体され「完全に平準化したフランス国民」が創造されていく過程を「人種=文明圏=言語圏が退化していくプロセス」としか認識出来なかった。その真逆にこの過程を「第三身分が次第に勝利を勝ち取っていくプロセス」と見る立場もあり、最終的にはこちらがフランスにおいて最終的勝利を飾る事になる訳だが、ゴビノー伯爵が「人種的不平等論」を発表した時期には、まだまだどちらに転ぶか予断を許さない状態にあった。最終的にイタリア王国やドイツ帝国の独立という形で決着がつく「ハプスブルグ君主国内紛問題」だって、まだまだどうなるか分からない状態にあった。だからこそ「いかなる偉大な「人種=文化圏=言語圏」も、現代に至る過程で全て退化し滅びた」なる歴史的経験を援用する形で極めて悲観的な歴史観に到達せざるを得なかったとも。
*「貴族主義か第三身分か」…実際、ジェントリー階層が政党政治を主管する様になった英国は、ニーチェいうところの「距離のパトス(Pathos der Distanz)」すなわち「貴族の庶民に対する超越性を存続させながらの国民国家への移行」に成功している。ただし対価として純血主義は放棄済みなので(新興産業階層を貪欲に取り込みつつ、時代に乗り遅れた一族は次々と没落していくのがジェントリー階層を存続させてきた新陳代謝機能)、偏狭な人種主義の枠内からの脱却は一応果たしている。
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そもそも一般にゴビノー伯爵は「純血主義を維持しないと人種は退化する」と主張したと考えられているが、それはあくまで米国奴隷制支持者やナチスが恣意的に歪曲して広めた内容に過ぎない。
*しばらく前に話題になった上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」論もこの誤った理念に振り回された結果の一例と見て取れる。実際の原型はむしろ「死か非生(non-vie)のジレンマ」つまり「人種=文化圏=言語圏」なる集団単位は常に「文明化=混血化を推進した果てに退化して没落する道」か「(これ以上の)混血を嫌って純血主義を選択し、停滞を選ぶ道」の二択の間を渡り歩いているとするビジョンをストレートに突きつけてくる。仏教でいう「二河白道」問題そのもの。その主張に端々に「これまで歴史上に現れた如何なる偉大な「人種=文化圏=言語圏」も、最後にはそれに失敗し退化して滅びていった」という現実認識に基づくペシミスティックな宿命観がしばしば顔を覗かせる。
*チャールズ・ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」において系統進化仮説を発表する以前には割とありふれた考え方だった。
*まぁ実際には、こうした論争を通じて(貴族の末裔として)貴族主義の復権を図ろうとした意図が見え見えで「(ヤペテの末裔たる)白人種は、(セムの末裔たる)男性原理過剰の黄色人種や(ハムの末裔たる)女性原理過剰の黒人種よりサバイバル上有利だが、黄色人種と黒人種の混血は白人種のバランス感覚に近付く」みたいな珍妙な理論があちことに散りばめられていたりして全体としての論調が既に寿命を迎えているのもまた事実。
聖書に基づく民族の起源
ところで、そもそも排外主義は「敗北を認めたら即滅亡(「力の均衡」だけが平和をもたらす)」と考える「大陸型」と「隔壁さえ落とせば民族的純度は保てる」と考える「半島・孤島型」の2種類に大別出来そうです。
*「ゴビノー伯爵の人種論」が実際には「人種=文明圏=言語圏」なる等式の上に成立し「国家・都市・群衆を嫌悪する地方分権論」や「貴族と庶民を峻別する「距離のパトス」温存論」といった多様な側面を内包している様に、ここでいう「排外主義」も、とりあえず対象を「人種」に限定しない。
「大陸型排外主義」とその裁定から芽生えた「オリエント専制君主」概念
一度発動すると手段を選ばず、どんな滅茶苦茶な事でも平然とやらかしかねない。
- 間違いなく「非を認めるたら殺されても文句は言えない=何があっても罪は認めないし、頭も下げない」という態度と表裏一体の関係にある。
- ウィリアム・H・マクニール「世界史講義(The Global Condition: Conquerors, Catastrophes, and Community, (Princeton University Press, 1992)」によれば、平時より飢饉や干魃時にそういう展開となりやすいのに加え、常に労働力が不足している辺境開拓地において過酷な状況が常態化しやすいという。南米におけるインディオ使役、ロシアの農奴制、アメリカ南部の奴隷制(最初は同じ白人を酷使していたが、反乱を起こすので黒人奴隷輸入に切り替えた)、蝦夷地におけるアイヌ諸族の酷使…
その一方で「力の均衡」が保たれている限り(少なくとも表面上は)平和を求める点に特徴がある。安直な人道主義ではなく、貴族主義同様「生存を最優先課題とする功利主義的態度」から本能的にそういう判断が下されるらしい。
- 例えば日露戦争(1904年〜1905年)後、帝政ロシアの日本や英国に対する態度は明らかに融和的な内容に変貌した。幕末日本で活躍した英国人外交官アーネスト・サトウの言を借りるなら、まさしく「噛まないなら吠えるな。噛み千切れないなら噛むな」の世界。
- 一方、ユダヤ人がしばしばその対象とされてきたのは、おそらく彼らが歴史上ずっと「(高利貸しや管財人や役人として)伝統的共同体に孤立無援の状態で(つまり「力の均衡」など到底保ち得ない状態で)対峙させられる存在」だった事と深い関係にある。(植民地時代は宗主国の権威を笠に着て現地人と対峙する立場にあった)ロヒンギャ「族」、漢族の大流入によって今まさに滅ぼされかけているチベット人やウイグル人などもこの条件に合致する。
ある意味、ゴビナー伯爵の人種論における「動物と同じで様に混淆(こんこう)に対して人間が自然に感じる嫌悪感に打ち克つ能力が欠如した部族(tribu)の割拠状態」と重なる部分もある。
*ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」をにおいて系統進化仮説を発表する以前なので(究極的には「世界最終戦論」などに至る)「種の淘汰」とか「生存競争」みたいな概念に乏しい。というかそもそも、ダーウィンの原典においても実際はそういう要素に乏しい。
- イロコイ連邦や近代以前のスイス連邦の様な「対外戦争や秩序を乱す内敵の粛清、交易といった限定条件においてのみ制限付きの結束を果たす部族連合状態」。ある意味「中央集権化への嫌悪感」をコンセンサスとして抱える。
イロコイ連邦 - Wikipedia
スイスの歴史 - Wikipedia
- クロポトキンが1862年から1867年にかけてシベリアの諸部族の間に観測した「(無数の伝統の絡み合いが為せる)相互扶助体制」の世界。
*そういえば欧州中世前期にゲルマン部族を軍隊に組織したハスカール(Huskarl、従士)制度についても、その源流を彼らの間に伝統的に伝わってきた「互いに客人をもてなし合う相互扶助精神」に見てとる向きがある。歴史をさかのぼってみれば、「競争」への全面的信仰は、おそらく、19世紀半ば、ダーウィンの生物進化論に行きつくであろう。ダーウィンが生物進化の論拠とした「生存競争」と「適者生存」という観念は、当時急速に富を蓄えてきた産業資本の「強欲」を正当化するために用いられた。生物界のみならず社会もまた「適者生存」の法則によって進化し進歩するのであり、社会の中での自由な「生存競争」に任せておけば生き残るにふさわしいものだけが生き残り、そのことによって社会は進歩・発展するのだ、というわけである。こうして、たとえばカーネギーとかロックフェラーといった当時のアメリカの財閥は、自分たちの成功は自分たちがこの社会の中で生き残るにふさわしい存在であることの証明だ、と胸を張ったのであった。いまの「新自由主義」の言っていることは、これと大差ないような気もするが、とするといったいどこが「新」なのだろうか。
しかし、こうしたダーウィンの理解と援用に対しては、当時(19世紀末)すでに全面的な批判がなされていた。それがクロポトキンの「相互扶助論」である。私はかなり昔に読んだものだが、要するに、動物界においては「生存競争」よりも本能的な「相互扶助」が種の生き残りと進化に重要な意味をもっているのであり、人類についても「相互扶助」の本能が社会の根幹をなしている、というのである。それは、観念的に述べられているものではなく、クロポトキン自身があちこちで種々観察した事実として述べられているものである。
- 老子の「小国寡民」論。ただしこれは後の黄老思想の発展史と鑑みて「帝国の地方行政のあるべき姿」と見る向きもある。
*これはルソー当人の中で「自然回帰論」と「一般意志論」がどういう関係にあったか問うのと同じくらいややこしい問題で、様々な見解が存在する。
もう少し大きな単位、すなわちゴビナー伯爵の人種論における「混淆(こんこう)に対して人間が自然に感じる嫌悪感には打ち克って部族(tribu)から民族(nation)に進化したものの、そこで発展が止まってしまったケース」についても多種多様なパターンが存在する。
- 「紀元前1200年のカタストロフ」以前の古代メソポタミア…「灌漑事業=神殿宗教」単位に都市国家が構築され横の交流はあまり活発でなかった。
- 地中海から黒海にかけて広がったフェニキア商人の交易網(紀元前10世紀頃〜紀元前146年)…各地有力者と血縁関係を結びつつ、神官団を送り込んで土俗信仰に「バール(男主人)/バーラト(女主人)信仰」の体裁を与えていた。発見された交易拠点の多くが小規模で「(現地に輸入した)祭祀に用いる(高位者のみが着れる紫衣といった)高価で嵩張らない威信財」などを主要な商品としていたと考えられている。
*おそらく大元はアッカド神話における「豊穣神イシュタルと牧畜神ドゥムジと冥界神エレキシュガルの三角関係」やウガリット神話における「豊穣神アシュタロトと穀物神バールと不毛神モトの三角関係」辺り。旧約聖書にもイスラエル王国やユダ王国の王族がフェニキア商人と政略結婚すると神官が送られてきてヤハウェに配偶神が設定されるエピソードが存在する。実際サマリアの神話や遺跡には「アシェラとヤハウェの夫婦神祭祀」の痕跡が残されているし、エレファンテネのユダヤ傭兵居住地でも「天空の女神とヤハウェの夫婦神」という体裁で祀られていた。こうした世界観はギリシャ神話における「豊穣神アフロディテと穀物神アドニスと冥界神ペルセポネの三角関係」や「豊穣神デメテルと穀物神ペルセポネと冥界神ハディス」といった秘儀を伴う物語にも継承されていく。
あなたの神、主のために築く祭壇のかたわらに、アシラの木像をも立ててはならない。またあなたの神、主が憎まれる柱を立ててはならない。
こうしてイスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘れて、バアルおよびアシラに仕えた。そこで主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らをメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムの手に売りわたされたので、イスラエルの人々は八年の間、クシャン・リシャタイムに仕えた。
その夜、主はギデオンに言われた「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。
「旧約聖書」列王記上16章(29-33)
ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはまたアシラ像を造った。
旧約聖書列王記上17章(17-19)
アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。
アナトリア半島や黒海沿岸などに大規模な植民都市を次々と建築し、フェニキア商人から東地中海の制海権を奪取したギリシャ商人の交易網(紀元前8世紀〜紀元前4世紀)…ホメロスの叙事詩「イーリアス」「オデュッセイア」などを共通教養として神話体系を共有。ただし彼ら「ヘレネス」は、国制としては都市国家連合の域を出なかった。
*ドーリア商人の影響力が強かった時代にはアナトリア半島起源の英雄ヘラクレス(コリント商圏では「ペガサスにまたがったベレロポーンあるいはペルセウス」)の意匠が、アテナイ商人の影響力が強かった時代には英雄テセウスの意匠が流行した。こうした時代に続いてオリエントには多民族帝国の時代が訪れ「オリエント的専制君主」の概念が成立する。「国家・都市・群衆」の概念を嫌悪するゴビノー伯爵は、中央集権の概念そのものを「黒人種や黄色人種の考案した退化思想の概念が欧州に伝わったもの」と考えていた。
*その一方で東方遠征(紀元前334年〜紀元前323年)を遂行し、ユーラシア大陸規模の未曾有の大混血状態を現出させたアレキサンダー大王をこよなく敬愛していた辺りが、ゴビノー伯爵の複雑な心理を窺わせる。
- 新アッシリア帝国(紀元前8世紀〜紀元前7世紀)…概ねティグラト・ピレセル3世(在位紀元前744年〜紀元前727年)の治世から首都ニネヴェ陥落(紀元前612年)までを指す。イスラエル王国の様な「まつろわぬ民」に対しては容赦無く「大量捕囚政策(神殿を破壊し、遺民を帝国領内に分散して植民する一方、空っぽになった故地には異邦人の移民を送にり込む政策)」を遂行する一方、従順な征服地や服属地域については、その文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集。そうした情報に基づいて飴と鞭を使い分けた対応をとっていた事が同時代記録の分析から明らかになっている。
*「大量捕囚政策」…住民の精神的拠り所たる神殿を破壊し、遺民を帝国領内に分散して植民し、空っぽになった故地には異邦人の移民を送にり込む。こうしてイスラエル王国は紀元前722年に滅ぼされ「失われた十支族」伝承が誕生。こうした過酷な政策はさらに新バビロニア帝国(紀元前625年〜紀元前539年)へも継承され、有名なバビロン捕囚(紀元前586年〜紀元前538年)を引き起こす。
北イスラエル王国とユダ王国の滅亡 :一口メモ
バビロン捕囚- アケメネス朝(haxāmanišiya)ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)…文化的先進地帯たるメソポタミアから離れた荒野の僻地だったからこそ安定した中央集権が成立したとも。新アッシリア帝国や新バビロニア帝国から継承した多民族帝国の経営ノウハウをさらに洗練させた。
*ただし、アナトリア半島沿岸部に点在するギリシャ人植民地は中央集権体制下に組み込まれる事自体を好まず徹底抗戦を続け、ギリシャ本土の都市国家群までこの戦いに巻き込まれた結果、マラトンの戦い(Μάχη του Μαραθώνα、紀元前490年)やサラミスの海戦(Ναυμαχία της Σαλαμίνας、紀元前480年)が勃発する。
マラトンの戦い
サラミスの海戦- マケドニア王国(紀元前808年〜紀元前168年)とヘレニズム時代(紀元前323年〜紀元前30年)…同じギリシャ系ながらギリシャ本土とペルシャの中間に位置する辺境に強大な王国を建築。ギリシャ世界を統一し、アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたがアレキサンダー大網没後は政情不安定な状況が続く。
マケドニア王国 - Wikipedia帝政ローマ(Imperium Romanum、紀元前27年 - 1453年)…属州(イタリア半島外領土)の急拡大により、元老院が政務を所轄する共和制が統治形態として相応しいものでなくなり、多民族帝国形態へと移行した。その統治原理はしばしば「クレメンツァ(Clemenza=寛容)の精神」という言葉に要約される。
*「クレメンツァ(Clemenza=寛容)の精神」…①帝国は無数の分国で構成され、それぞれの分国は絶えず隣の分国と争っているので、そのままでは外敵から攻撃された時に一致団結して事に当たれない。②帝国の個々の分国の繁栄は領内及び領外との通商の繁栄と密接に結びついているが、その前提となる通商経路の確保と整備という問題は個々の分国の手に負えない。③そこで帝国領内では「分国間紛争の公平な調停役」「共通の敵(領内の危険分子及び外敵)の認定と討伐命令の発布者」「通商網の保全者」を兼ねた「帝国統治権」の実存が認められる様になっていくが、これを資質面から見たのが「クレメンツァ(Clemenza=寛容)の精神」という事になるのである。欧州の王侯貴族は聖書と古代ギリシャ・ローマ時代の古典を必須教養としていたので、こうした「元来は全く異質な文明の歴史」の延長線上に自らの統治理念を構築する事になったのであった。
「半島・孤島型排外主義」とその玉突き状伝播
元老院制の統治下にあった共和制ローマ、大陸に既得権益を有さない時期の日本、ブリテン島、北欧諸国などに比較的純粋な形で見て取れるが細分化していけばキリがない。そしてここにおいてゴビノー伯爵の人種論における「死か非生(non-vie)」あるいは「二河白道」のジレンマが効いてくる。
- 元老派ローマ人がポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前146年)に反対し続けたのは何故か?
カルタゴ滅ぶべし - Wikipedia
- 現代日本人は「大日本帝国の大陸進出失敗」を全然悔やんでいないのでは?
*大日本帝国は「軍人と官僚の人間解放」を優先した結果、彼らの欲望に誘導される形でズルズルと際限なく大陸進出を果たす展開に陥った。これに歯止めを掛けるには政党政治も財界もまだまだ未成熟過ぎたのである。
- 北欧諸国が最終的には英国同様「栄光ある孤立」を選んだのは何故か?
*スウェーデン王室にも一応は(三十年戦争(1618年~1648年)参戦を決意させた)ゴート起源説や(デンマークをプロイセン・オーストリア連合軍と衝突させた)汎スカンディナヴィア主義や(第一次世界大戦の遠因の一つとなった)汎ゲルマン主義に引き摺られた黒歴史自体は存在するのだが、立憲君主化の進行によって次第に無理が効かなくなっていく。
ゴート起源説 - Wikipedia
汎スカンディナヴィア主義 - Wikipedia
汎ゲルマン主義 - Wikipedia
- イングランドはブリテン島統一の為にウェールズとアイルランドとスコットランドを併合した時点で手遅れだったのでは?
- ましてやイスラム教圏とキリスト教圏の接点として激しい争奪戦が繰り広げられてきたイベリア半島の「スペイン人」や、アナトリア半島の「トルコ人」をや?
「欧州における半島・孤島型排外主義」という観点から歴史を辿ると、その原風景はなんと東ローマ帝国(395年〜1453年)のギリシャ化が始まる以前の時代まで遡る。
東ローマ帝国 - Wikipedia
- 東ローマ/ビザンティン帝国(395年〜1453年)…東方正教会の本拠地だが、その原理主義的態度ゆえに皇帝スティニアヌス1世(527年〜565年)の時代には異端認定を受けた多くの宗派が峻険なシリア奥地に逃げ込み、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアが閉鎖に追い込まれて、数多くの学者がササン朝(226年 〜651年)ペルシャに亡命し、最後にはとうとう西ローマ教会とも決別する羽目に陥ってしまう(シスマ(Schisma=分裂、1054年))。
ササン朝ペルシア
キリスト教会の東西分裂
【メルハバ通信】=トルコの新聞記事=【109】ビザンチンに関しては、そこにギリシャ的なものも含まれているから、ここで冷静さを取り戻す為にも、いくつかのことを申し上げたい。
18世紀に、オスマン帝国の中でギリシャ民族主義が芽生え、キリスト教徒たちの間にギリシャ人というアイデンティティーが広まりつつあった頃、「新しいギリシャ人たち」は、ビザンチンのことを「敵対する力」と考えていた。この民族主義的なギリシャ人たちは、自分たちのことを「ビザンチンの子孫」であるとは思っていなかったのである。ギリシャとビザンチンを直接に結びつけようとしなかったばかりか、ビザンチンを強権的な外国人による頚木と見なそうとしていた。最初のギリシャ小説とされるソウトゥソスの「レアンドロス」(1834年に出版された)では、1821年のギリシャ独立戦争中のある海戦が、ギリシャ人による「ビザンチン海軍に対する闘い」として描かれている。
ビザンチンがギリシャの歴史学上でギリシャと見なされるようになったのは、1850年以降のことである。この思想を創始した人たちとその著作は明らかになっているが、以後ギリシャ人たちは、このルーツに関する事柄を信じ込んでしまった為、このルーツがどのようにして後からもたらされたものであるかを想起させると、その多くが気分を悪くする。
以上のことは、ある歴史哲学を示すものだ。歴史は、広く信じられているように、過去から始まって今日を説明するものではない。現時点から歩み出て過去を解釈するのである。各時代は、その時点から過去を新たに解釈しようとした。
- ウマイヤ朝(661年〜750年)…イスラム教団が最初に建築した国家だが問題だらけだった。北アラブ閥による政権独占、シーア派の台頭、そして異民族への重税。しかも最後の問題はマロワリー(異民族からの改宗者)急増による財政圧迫、彼らが都市部に大量流入した事による治安悪化、さらには非アラブ人たる彼らへの差別の表面化などまで伴ったのである。かくしてアッバース革命(750年)が起こるべくして起こる事になった。
ウマイヤ朝 - Wikipedia- アッバース朝(750年〜1517年)…「イスラム教徒の平等」「異教徒への寛容」をスローガンに掲げた関係からシリアのキリスト教徒や(シーア派を除く)ペルシャ系ムスリムが第抜擢され「アラブ純血主義」を刺激した。
アッバース朝 - Wikipedia
イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。この時代にはアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。
東西交易、農業灌漑の発展によって繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
(エジプトやバビロニアといった)ヘレニズム世界の伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。
政治的実体としてのアッバース朝自体は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。
1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
知恵の館(バイト・アル=ヒクマ、Bayt al-Ḥikmah)
830年にアッバース朝第7代カリフのマームーン(在位813年〜833年)がバグダードに設立した図書館。天文台も併設されていたと言われている。
- ササン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳とされる。
- この時代にはペルシャ語文献のアラビア語への翻訳も盛んに行われている。またシーア派はスンニ派より積極的にヘレニズム思想(特にその新プラトン主義)を摂取し、その教義内容の国際性向上につとめてきた。
*970年にイスマーイール派(シーア派分派)のファーティマ朝(al-Dawla al-Fātimīya、909年〜1171年)が本拠地カイロに創立したアル=アズハル学院もこの流れに属する。スンニ派教学の総本山としてバグダット近郊に設立され、ペルシャ系の法学者や神学者が本拠地としたニザーミーヤ学院と併せ、あらゆる欧州大学の大源流とも。
- ササン朝はユダヤ教徒にも寛容で、東ローマ帝国よりユダヤ人コミュニティが栄えていた。6世紀に編纂された二つのタルムードのうち(エルサレムで編纂された)パレスチナ・タルムードでなく(バビロンで編纂された)バビロニアン・タルムードが(その内容の充実もあって)後世スタンダードになっていくのも、イスラム教の発祥基盤がキリスト教でなくユダヤ教となったのもこのせいと考えられている。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」時代)。また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることすらあった。
*そして「欧州12世紀ルネサンス」においては、カスティーリャ王国のトレドなどを中心に、これらのアラビア語文献がラテン語に翻訳される事になる。
12世紀ルネサンス
- 活動の中心はギリシア語の学術文献のアラビア語への翻訳で、時にはシリア語を介しての翻訳を行う事もあった。
- 初代館長ヤハヤー・イブン=マーサワイヒも、当時翻訳家として名を残したフナイン親子やクスター・イブン=ルーカーもキリスト教徒だった。他のスタッフも多くがシリアのネストリウス派や単性論派のキリスト教徒やハッラーン出身のサービア教徒であった。ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、ギリシア哲学を異端としてしまったのである。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れる展開になったのだった。
- ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになったのがこの時期とされる(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。
- ただし12世紀以降、イスラム世界におけるギリシア哲学研究が停滞を始めると、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。
翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。
しかし第10代カリフ・ムタワッキル(在位847年〜861年)はマアムーン時代から続くムウタズィラ派擁護政策を放棄せざるを得なくなる。
- それはムウタズィラ派の極端な合理主義・思弁主義的思想に反発する形で台頭してきた伝統主義者、いわゆる「ハディースの徒(アフル・アル=ハディース ahl al-ḥadīth )」への配慮が必要となった為だった。
*「ハディースの徒」と呼ばれた伝統主義の人々の立場は、おもにイスラーム法の法源は第1にはクルアーンであり、預言者ムハンマドにまつわるハディースはこれに次ぐものとしていたのである。- アッバース朝初期の神学論争ではクルアーンやハディースで語られている「唯一なる神アッラーの絶対性」を巡る議論が交わされていたが、「ハディースの徒」をはじめとする伝統主義の考えでは「クルアーン創造論」を巡る論争のようにムウタズィラ派にみられるようなギリシア・ローマ哲学流の「合理主義」的な経典解釈ではクルアーンやハディースで語られている「アッラーの絶対性」を損ねるものと受け止められ、一般的なムスリム信徒たちの宗教的な心情とも遊離しつつあったのである。
- また、ムウタズィラ派系の人々が使用していたアラビア語の術語は、従来のアラビア語では見られないようなギリシア語的な翻訳語を多用する場合が多く、ハディース学・伝承学の分野で必須の伝統的なアラビア語文法学を修めた伝統主義的な学識者にとって、ムウタズィラ派の人々の論説で使われている言い回しは「アラビア語らしからぬ新奇な表現」と映ったのである。
- ムタワッキルの時代はサーマッラーに遷都したままであり、カリフからの庇護を失った「知恵の館」も衰退。次第に翻訳活動より伝統的なアラビア語学を駆使してのクルアーンやハディースの解釈の方が重視される時代に推移していく。
欧米では1258年のモンゴル帝国によるバグダードの戦いによりバグダードが陥落した時に、知恵の館もその膨大な文書と共に灰燼に帰した、とする風聞が流布している。
スンナ派におけるフィクフつまりイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。ハンバリー法学派とも表記される。アフマド・イブン・ハンバル(855年没)を起源とするが実質的には彼の弟子たちによって始められた。非常に厳格・保守的で、特に教義や儀式に関する問題を扱う。
マズハブ - Wikipedia
- 発祥当時はアラビア半島から現在のイラクにかけて強大な勢力を築いていた。現在は主にサウジアラビアで流行しているが、近年では英語圏の人々に教える授業や教科書によって西方諸国でも復活しつつある。イスラームの聖地であるマッカとマディーナでもおもな法学派である。
- 佐藤優は、イスラム過激派の95%以上は、ハンバル学派の出身であるとしている。佐藤は、当学派について、『コーラン』や『ハディース』に世の中の全てのことが書かれているとし、世の中が一番正しかったのは、ムハンマドが生きていた6世紀の頃であり、時代が経れば経るほど退化するという思想であると述べている。また、ハンバル学派のムスリムが多数を占めるサウジアラビア国家の目的は「6世紀の当時に世界を変える(戻す)」であるとしている。
*要するにその背景に「イスラム発祥の地なのにペルシャ系諸族やテュルク系諸族に繁栄を乗っ取られたアラビア半島内陸部族の怨念」が透けて見える。
*サウジアラビア王家そのものは、国家建設過程でかかるイスラム原理主義から距離を置く様になり、その事で熱狂的支持者の顰蹙を買っている。
アフマド・イブン・ハンバルは神の属性や神学上の問題に関して、ジャフム・ブン・サフワーンを始祖とするジャフム派(al-Jahmiyya)やムウタズィラ派の説を論駁・否定した。特にハンバルは両派がクルアーンで描写されている神の属性や別称、擬人的表現の問題について否定的な主張を展開していたが、イブン・ハンバルはクルアーンに述べられていることを字義通り解釈することの重要性を強調し、これらの主張に反駁を繰り返している。
- イブン・ハンバルによれば、ムウタズィラ派もイスラーム初期の分派で神の予定説や属性・擬人表現を極端に排斥していたジャフム派もいずれも永遠性を考慮せずに神について考察しているという点で誤っている、という。
- クルアーンや預言者の伝承(ハディース)で言及されているように神は数多くの属性と名前を持ち、しかも神は一つであるとハンバルは信じていた。それゆえジャフム派やムウタズィラ派はタウヒードを理解していないとイブン・ハンバルは断言した。
- イブン・ハンバルが述べるには、「スンナとジャマーアの民( أهل السنّة و الجماعة ahl al-sunna wa al-jamā`a)」、つまり「預言者ムハンマドの慣行(スンナ)とその正統なる共同体(ジャマーア)を護持する人々」、すなわち「スンナ派」を奉じる信徒とは、神はその権能と光輝とともに永遠であり、彼は永遠性を語り、知り、かつ創造する存在であると信じる者である、という。
- 永遠とは神であり神は一つであるために神の他には永遠なものは存在しない、というジャフム派やムウタズィラ派の説にイブン・ハンバルは反対した。地獄と天国は神が永遠であるようにしたので永遠だとイブン・ハンバルは考えていた(つまり永遠性の根源は神にあり、被造物の永遠性は神からの付与によってはじめて成立する)。
- この世では神を直接見る事は不可能とされていたが、天国の人々は神からの恩典によって神を直接見ることができ、神は彼らに自分を最もたたえるようにさせたとイブン・ハンバルは信じた。しかしイブン・ハンバルはこの世界での見神は認めなかった。来世に限って神に愛されたものには見ることができるようになるという。ムウタズィラ派とジャフム派はこの「見神」を天国でのものまで全面的に否定した。
- 神の言葉は永遠であり、神自身が預言者ムーサー(モーセ)に話しかけてムーサーが彼の言葉を聞き、神がムーサーと意思疎通した際には神は自分の言葉を創造しなかったとイブン・ハンバルは信じた。神の発言は属性であり、そして神は永遠であるので、神の全ての属性は同様に永遠である。神はモーセが理解できるように自分の言葉を創造したとジャフム派とムウタズィラ派は考えていた。
- イブン・ハンバルは考えでは、クルアーンは神の言葉であり、神の言葉は創造されたものではないので、クルアーンは創造されたものではなく、そしてクルアーンは神の言葉あるいは発言であり、神の啓示でもあると。対して、ムウタズィラ派やジャフム派は、読んだり触れたりできるクルアーンは他の創造された生物や存在と同じく創造されたものだと考えていた。
- クルアーンは確かに物であるが、他の物とは違って創造されたものではないとイブン・ハンバルは主張した。クルアーンを地上や天上にいるような神が創造した生物のカテゴリに含めることをイブン・ハンバルは論駁した。他に神が言及していないものが存在するがそれらも神が創造したものである。そういったものの中には神の椅子、玉座、クルアーンの原版でありこの世の全ての運命が記されているという「護持された書板」(ラウフル=マーフズ لوح المحفوظ Lawḥ al-Maḥfūẓ)などがある。それらは地上や天上のように創造された生きものではない。それゆえにイブン・ハンバルはクルアーンは創造されたものではないと力説した。
*マンハイムの言い回しを援用するなら、イスラム多民族帝国はイスラム教が瞑想を重視するスーフィー(イスラム神秘主義)や聖者崇拝といった「土俗信仰」を(「主観的世界における自由」を重視する)ロマン主義を駆使して取り込む事によって成立した。これを伝統主義的見地から「不純」と切り捨て、反対者を抹殺し尽くす事で「イスラム信仰の純潔性」を取り戻そうとしているのが彼らの立場とも見て取れる訳である。
要するに、こうした伝統主義的思考様式と(ジャフム派やムウタズィラ派の奉ずる)ヘレニズム哲学の対立を解消させる為にアラビア哲学は発達した。それは新プラトン主義を取り込んだシーア派への対抗上必要となった措置でもあり、最終的にはガザーリー(Abū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)によるスンニ派古典思想樹立に至るのである。
*その一方でスンニ派から追放されたジャフム派やムウタズィラ派は(スーフィズム同様に)シーア派に合流を果たす。皮肉にも「世界の半分」を征服して巨大な多民族帝国を現出させた学派(マズハブ)はハンバルではない。セルジューク朝(1038年〜1308年)時代に国学として選ばれた(ペルシャ系法学者の発展させた)シャーフィイーであり、オスマン帝国(1299年〜1922年)時代に国学として選ばれた(中央アジア起源の)ハナフィである。アラブ・ナショナリズムが極限化した形で現れたイスラム過激派の思想とは、とどのつまり「イスラム信仰の純血性(すなわちアラブ・ナショナリズム)」を武器に世界宗教としてのイスラム教の到達範囲(すなわちオスマン帝国故地やハドラマウト商圏)全域に優越性を樹立せんとするある種の誇大妄想、というかまさしく「(大日本帝国臣民の勝手な妄想でアジア全域を従え様とした)八紘一宇」思想のアラビア販に他ならない。
*イスラム原理主義と同じくらい、キリスト教原理主義(すなわちプロテスタント神学)にも危ない側面が存在する。アメリカ人なら「テネシー猿裁判(1925年)」といえばピンとくる。- ムラービト朝(al-Murābiṭūn、1040年〜1147年)及びムワッヒド朝(1130年〜1269年)…マグリブ(チュニジア以西のアフリカ大陸北岸)を本拠地とするベルベル人王朝で、アル=アンダルス(スペイン語Al-Ándalus、アラビア語al-ʾandalus、今日のイベリア半島南部)にも強い影響力を発揮した。学派(マズハブ)的にはマーリクに分類される。ただそのタウヒィード(神中心概念)は独特の「イスラム純血思想」に彩られ、所領内のユダヤ教徒やキリスト教に対して積極的にイスラム教への改宗を強要し続けた。皮肉にもこれによって現地にイスラム教への嫌悪感が芽生え、最終的にイスラム教圏のアル=アンダルス完全失陥につながっていく。だがしかし、そうした絶対矛盾の最中に置かれたからこそコルドバ出身のアラビア哲学者イブン・ルシュド(abū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd, 1126年〜1198年)、ラテン語名アヴェロエス(Averroes)は大いに苦悩し、その叡智がパリ大学で教鞭を取ったトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年頃 〜1274年)などを経由して欧州スコラ学へと継承されていく展開となる。
ラテン・アヴェロエス主義(Latin Averroism)*ここで「宗教的原理主義」と「イエズス会的適応主義」の鋭い対峙が浮上してくる。
*さらなる皮肉は、次にベルベル人が建てたマリーン朝(1196年〜1465年)が、その出自こそ「ジハード(異教徒に対する聖戦)に燃え、モスク(寺院)とマドラサ(神学校)建築資金を略奪を目的とした軍事行動によって稼ぐ狂信者集団」なるとんでもない代物だったにも関わらず、ユダヤ教徒を積極的に官僚として抜擢し、(セファルディム系)ユダヤ商人の地中海商圏展開を積極的に後援した点にあった。ある意味彼らは「砂漠の盗賊団」に過ぎなかったが故に、実利に敏感な徹底的リアリスト集団にもなり得たのだった。英国人歴史学者トインビーから「イスラム世界のヘロドトス」と激賞されたハドラマウト系歴史哲学者イブン・ハルドゥーンはこの時代に出た。
1399夜『歴史序説』イブン=ハルドゥーン|松岡正剛の千夜千冊- スペイン帝国の自滅的排外主義(15世紀〜17世紀)…レコンキスタ(Reconquista、718年〜1492年)の途上においてはむしろ国際的活躍が目立つ。12世紀ルネサンス当時のトレド派の活躍、ハイメ1世(在位1213年〜1276年)以降のアラゴン王国の地中海帝国化…しかし次第にムラービト朝/ムワッヒド朝(1130年〜1269年)の「イスラム教純化運動」をそのままひっくり返したかの様な「キリスト教純化主義」が表面化してきて自滅。
*いわゆる「スペイン異端審問」開始(1478年)、グラナダ王国陥落によるレコンキスタ完了と同期したユダヤ人追放令(1492年)、シスネロス枢機卿の宗教改革(1495年〜1517年)、フランドル地方へのカソリック信仰強要が引き起こした八十年戦争(1568年〜1609年、1621年〜1648年)と自国経済を大幅に棄損したアントウェルペン/アントワープ略奪(1576年)、そして自ら母国に飢饉を引き起こしたモリスコ(改宗イスラム教徒)追放令(1609年)…しかも結局、自らは国民国家に向かう志向性そのものを持つ事なく終わってしまう。国内大貴族連合の声が強過ぎた為だった。
トレド(旧西ゴート王国首都) - Wikipedia
ハイメ1世 (アラゴン王) - Wikipedia
スペイン異端審問 - Wikipedia
フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス - Wikipedia
アントウェルペン - Wikipedia
モリスコ追放 - Wikipedia絶対王政化に向かうフランス王国におけるユグノー弾圧(1533年〜1705年)…まるでスペインにおける「キリスト教純化主義」の再来で、フランス経済が英国経済に追いつけなくなった理由の一環に挙げられる事もある。
ユグノー - Wikipediaそれでは「島国国家」日本の場合はどうか。
もちろん「民族」や「人種」といった概念の発明以前なので、前近代のそれが「民族紛争」や「人種戦争」といったイデオロギー色を帯びる事はない。むしろ争点となったのは「宗教」で、今日なおこの次元における戦いは継続し続けている。
ところであたし、先日のマレーシアでの上映延期騒ぎを報じたBBCが、同国での刑法(同性愛は違法)などについて報じた上でこんな風に付け加えていたのが忘れられないんですよ。
- (マレーシアでは)映画に同性愛者のキャラクターが出てきてもよいが、それは同性愛者がネガティブに描写されていたり、悔い改めたりする場合だけだ(Gay characters can be shown in films, but only if they are portrayed negatively or repent.)
…これって宗教を問わずどこの国にでもある考え方な気がします。日本でもね。
*実際、米国のHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)にも同種の条項があり、江戸川乱歩や横溝正史などが律儀に守っている。逆に米国ネット上では同性婚合法化(2012年12月7日)の当日に「また世界が狭くなるね」「それでもバイは淫乱」といった会話が為された。この問題はあくまで奥深い。
こうして全体像を俯瞰してみると「視野狭窄から(心の内側からの「生存本能の呼び掛け」すら黙殺する自滅的な)不寛容状態に陥って破滅していく」のがいかに容易いか、逆に「(その尺度の多次元性ゆえに)寛容に振舞って生き延びる」のがどれだけ困難かが浮かび上がってきます。ゴビナー伯爵の人種論の背後に漂うペシミズムも、案外馬鹿に出来ないのです。
さらには、どうやら確かに「(総力戦遂行マシーンとしての)国民国家」理念が、ここでいう「(ともすれば自滅的大虐殺を伴ってきた)半島・孤島型排外主義」と表裏一体の関係にある事実も否定出来なくなってきます。最大の皮肉は、それが(「大陸型排外主義」の究極系ともいうべき)多民族帝国状態の枠を超えた「国民統合」に成功した時点で初めて現れるという点。まさしく共和制ローマ時代の元老院議員の主戦派が「カルタゴ滅ぶべし」と叫んだ時、和平派が「それにつけてもカルタゴは存続させるべきである」と応じた状況そのもの。そういう意味では「力の均衡」が崩れると一方的殺戮が始まってしまう「大陸型排外主義」と、あくまで純粋性を追求しようとする「半島・孤島型排外主義」は、あくまで別個に存在している訳ではなく、相応の連続性を備えていると見てとるべきなのでしょう。
*相応の連続性…(なまじイスラム帝国建設に成功したが故に、その運営権をペルシャ人やトルコ人に奪われた復讐を今まさに果たさんとしている)アラブ・ナショナリズムや(なまじ国力が回復して「東方正教会の教義による民族統一」が実践可能となった状態となった事が自滅的排外行為に結びついた)東ローマ(ビサンティン)帝国や、(なまじイベリア半島統一に成功したが故に、西ゴート王国/アストゥリアス王国末裔という設定で国民統合を図ろうとした)スペイン王国を見舞った悲劇。
こう考えると「統治者の自由放任主義が資本主義的発展に結びつく」とする「市民社会」の理念とのあまりの乖離に驚きます。それもその筈、よく考えてみたら、両者は(相互影響こそあれ)全くの別起源なんですね。
①ある意味、近代国家成立の契機は様々な諸要因の複合結果たる「十字軍/大開拓時代(11世紀〜13世紀)」の終焉だった。その後、英仏百年戦争(1337年/1339年〜1453年)によって両国の国境が制定され、イングランドの薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)とフランスの「公益同盟戦争(1465年~1493年)」を契機に大貴族連合の凋落が始まった。両国の臣民意識はこれに由来する。
*欧州では「火器の集中投入による殲滅戦」の登場が「国王が擁する常備軍」を軍事行動の主体とし、これを養う為の官僚組織を発展させ、貴族階層を単なる「将校と官僚と聖職者の供給階層」へと変貌させていく。
*日本史は室町時代(1336年〜1573年)において最も欧州絶対王政の心理に近付いたが、イングランドの薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)や、フランスの「公益同盟戦争(1465年~1493年)」に該当する「大貴族連合の自壊」は経験しなかったので戦国時代(1467年/1493年〜1590年)、安土桃山時代(1573年〜1603年)に続いて江戸時代(1603年〜1868年)を経験する独自展開を辿る事になったのである。
*戦国時代における鉄砲の伝来が果たした歴史上の役割には諸説ある。確かに長篠合戦(1575年)の様に火器の集中投入が決定打となった合戦なら幾度も経験しているのだが「(火器集中投入による殲滅戦を主眼に置いた近代的歩兵隊としての)常備軍維持が主目的の軍人と官僚を主体としての国家経営」に日本人の視野が向くのは、あくまで黒船来航(1853年)以降だからである。日本の武家階層の自尊心は「単なる常備軍将校と官僚と聖職者(僧侶や神官)の供給階層」への転落を可能な限り食い止め様としたのだった。どれだけ江戸幕藩体制化において市場経済化が全国規模で進行したとしても、この歴史的事実の歪曲だけは許されない。
②一方、「市民社会」は全く別系列、ウェストフェリア条約(1648年)で独立を勝ち取ったスイスとオランダにおいて発展。フランス革命(1789年〜1794年)は、こうした国々の影響もあって勃発した。
*そもそも思想的大源流の一つとなったルソーそのものが(フランスの絶対王政に終始違和感しか持ち得なかった)ジュネーブ出身のスイス人であった。
(大杉栄も指摘してる通り、ルソーが提唱した様な)「何らかの契約から始まる社会」は、その開始化以前に既に社会化していなければならない。
①スイスの場合、この条件は以下の様な形で満たされた。
- 神聖ローマ帝国がホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)の時代にその南イタリア進出、すなわちホーエンシュタウフェン朝シチリア王国(1194年〜1266年)に交通路として整備され、中継貿易による繁栄が始まる。
- ホーエンシュタウフェン朝が断絶し、その本領であったシュヴァーベン地方の統制が緩むと半独立状態にとなる。
- やがてハプスブルグ家が台頭してきて所有権を主張する様になったが、有力地方が同盟して撃退。
②オランダの場合、この条件は以下の様な形で満たされた。
- 15世紀前半に入ると(それまでロンバルティア地方やフランドル地方中心に栄えてきた)毛織物産業にイングランドが参入してくる。それまでフランドルの中心地だったブリュッヘなどはブルゴーニュ公に縋って禁輸を徹底する事によって問題解決を図ろうとしたが、その輪に加わらなかったアントウェルペンに外国人商人が押し寄せる様になり、フランドル経済の中心もこちらに推移してしまう。
- 八十年戦争(1568年〜1609年、1621年〜1648年)勃発によってアントウェルペン/アントワープはスペイン北部のビルバオとアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなってイベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川封鎖に苦しめられた。
- さらに1576年11月4日にはスペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を遂行。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われ被害総額は200万スターリングにも及んだとされる。この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが(ヘントの和約)、アントウェルペン/アントワープ市民の反スペイン感情は当然かえって深まった。それで1579年のユトレヒト同盟にも加わり、反スペインの姿勢を鮮明とする。しかし1583年末までに周辺地域の全てをスペインに占領され、オラニエ公ウィレム1世もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。
- アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降服を余儀なくされる。降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられ、そのほとんどがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へと移住していく。
- オランダ側が最終勝利を飾れたのは、有名な軍事革命に加え「オランダ総督」オラニエ=ナッソウ家と血縁関係にあったザクセン公経由でドイツ人や北欧人の傭兵が無尽蔵に供給され続けたせいであったと考えられている。
現地自警団がハプスブルグ家の私兵を撃退したスイスでは以降もしばらく部族連合的紐帯のみが中央政権の実態であり続ける。一方、オランダの場合は(絶対王政化を志向する)総督派と(有力都市連合状態の維持を志向する)都市門閥派の対立が長らく続いた後で共和制を志向するパトリオッテン派が台頭して一時期オラニエ=ナッソウ家追放に成功す(1785年〜1787年)。しかし残念ながら現地に既得権益を有するプロイセン軍に鎮圧されてしまう。
こうしたオランダにおける展開がフランス国民を動揺させない筈がない。これに便乗する形で(ブルボン家との王統交代を狙う)オルレアン公がバスティーユ牢獄襲撃(prise de la Bastille、7月14日)やヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles、10月5日)を仕掛け、それによってフランス革命は始まったとも。最終的にオルレアン家は7月革命(1830年)によって当初の目的を達成する。
この様に実際には多少支配構造の違いがあったとはいえ、スイス人もオランダ人も「王侯貴族の類が経済活動に介入してそれを窒息させる愚」については知り尽くしていた。それで新興産業階層の成長が容認され、それぞれ相応に豊かな市民社会が実現する展開に。
*ただしドイツ人やフランス人がこうした歴史的流れに言及する事はまずない。ある種のナショナリズムのせいとも。
*とはいえ、そもそも「オランダ市民社会」は別に欧州において孤立して存在していた訳でもなかった。「ベルギー市民社会」を通じてパリやリヨンなどの「フランス市民社会」とも普通に連続性を保っていたのである。ただ、それが何処まで中央集権体制と関連付け可能かは実に微妙だったりする。またスイス人はスイス人で祖国の貧しさから欧州中に「出稼ぎ」に出掛け、そのネットワークがテンプル騎士団同様「ATM感覚で利用可能な金融機関」という新たな価値を獲得する事になった。
*その一方で「距離のパトス(Pathos der Distanz、貴族と庶民の峻別)」が徹底していた英国におけるロンドンの「市民社会」は独特の猥雑さに満ちている。実際「バネ足ジャック」や「切り裂きジャック」の様な怪人が跳梁した。米国統計学が最初に移民を解析対象として選んだ様に、英国統計学はこうした「庶民の実態」を解析対象に選んだのである。それは必ずしも「接近」を指向した結果ではなく、むしろ「適度な距離を置きつつ政府経営に必要な情報だけ得ようとする冷徹な態度」と批判される事もあった。「計算癖が全人格化していく世界」には、確実にそういう側面も存在したのである。
③両者を最初に結びつけた嚆矢は、一般に「第三身分とは何か(qu'est-ce que le tiers état、1789年)」において「フランク王国成立によって貴族は庶民を支配する権利を獲得した」なるイデオロギーを鮮やかに逆転して見せたシエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、1748年〜1836年)だったとされている。
エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス - Wikipedia
第三身分出身。フレジュスにて徴税人の子として生まれる。ドラギニャンのセミナリオで学ぶ。父親の勧めで聖職者となり、アベ・シエイエス(Abbé Sieyès)とも呼ばれる。
1780年、シャルトルの管轄区に栄転し 司教総代理に任命される。
- その後に司教付き司法官にも就任したが、出自の関係から教会内での出世は頭打ちとなった。
1788年、オルレアン州議会の僧族(聖職階級)議員となり、政治にも関与。
- この年に『特権論』を発表し貴族などの特権を攻撃。
1789年1月、『第三身分とは何か』を刊行。革命勃発(同年7月14日)までに三版を重ねる。
- 「フランスにおける第三身分(平民)こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しとなった。
1789年6月17日、国民議会(Assemblée nationale)を設立。
国民議会 (フランス革命) - Wikipedia
- 憲法制定に際して「第二院が代議院と一致するときは、無用であり、代議院に反対するならば、それは有害である」として、二院制を批判したとされる。
1791年憲法 - Wikipedia- ただし、シエイエスらがフランス革命期に作った一院制の国民公会は暴走し、政敵である少数派を次々に死刑に処する恐怖政治を遂行。テルミドール9日のクーデター(1794年7月)によってわずか3年で廃止に追い込まれる。
テルミドールのクーデター - Wikipedia- その後できた共和暦3年憲法では、この点が反省され二院制の議会が作られた。
共和暦3年憲法 - Wikipedia同年8月には貴族の特権が廃止された。
封建的特権の廃止
- シエイエスは、貴族に補償金を払うべきと提案したが、他の第三身分議員から却下されている。
*こういう部分、「廃藩置県(1871年)における大名」「秩禄処分(1876年)における士族」「日韓併合(1910年)における朝鮮貴族(中央両班階層)」に対して律儀に「既得権益を手放す対価」を支払ってきた大日本帝国とかなり対照的。大統領就任者の大半が犯罪者として告発される形で治世を終える韓国には「日本は正義を気儘に追求する自由が許されていない後進国」という意見が存在するが、ここでいう「正義を気儘に追求する自由」は「人類平等の理念は日本人が全財産を韓国人に譲渡し、一人残らず強姦され拷問され死に絶えるまで決して実現しない」と豪語する極論同様、「生存権と財産権は人間の生得権」と考える欧米的自然法原理主義と決して相容れない。というか、その姿勢こそが中央両藩階層をして「革命勃発によって生命も財産も奪われ尽くすより、日韓併合の方がマシ」と思わせてしまった病根だったのではあるまいか?
フランス革命期の活躍はその初期に集中している。
- ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代には逼塞して生き延びた。この結果「革命のモグラ」の異名を得る。
1795年に公安委員会委員となり、政界に復帰。
総裁政府の末期に総裁の1人に就任。
- 強力な政府の樹立のため、軍隊に人気のあるナポレオンに接近してブリュメール18日のクーデターを起こす。
- クーデター成功により臨時統領の1人に就任するが、統領政府を樹立する過程で、軍事力を有するナポレオンに主導権を奪われ、実権のない元老院議長に棚上げされた。
- 1808年帝国伯爵位を与えられる。
王政復古により国外追放となるが、七月革命後に帰国してパリで没した。その生涯を「ミラボーとともに革命を生み、ナポレオンとともに革命を葬った」と要約される事もある。
この考えをさらに一歩前に進め「(ランティエ(rentier、地税生活者)を寄食者として排除する)産業者(Les industrials)同盟構想」を纏め上げた サン=シモンこそ、フランスへの産業革命導入を主導したイデオローグだったといえそうです。
その過程で「二つのフランス論」は国民教育を通じて「インテリ階層の試行錯誤」から「全フランス人が共有する基礎教養」に引き上げられていったのです。そこから貴族主義的没落史観を導出するか、第三身分勝利史観を導出するかは受け手側に任せる形で。
こうして両者の融合が果たされた19世紀後半になって初めて、大杉栄いうところの「社会的個人主義と心理的個人主義の合同」、すなわち(英仏貴族の「(ストア派哲学を出発点とする)家の存続を最優先課題とする功利主義」の延長線上に現れた)コンドルセやジョン・スチュアート・ミル提唱の「(それまでの相応量のデータ蓄積を背景とする)数理にのみ忠誠を誓う臣民」なるシステム(思考様式)が回り始めます。「計算癖が全人格化する時代」が始まったのです。
*それにつけても、大杉栄や与謝野晶子の1910年代〜1920年台前半の発言にこそ現代に通底する普遍性を秘めているという事は一体何を意味しているのだろうか。それ以降の大日本帝国精神史は、まさしくゴビノー伯爵いうところの「(西洋思想と東洋思想を強引に擦り合わせようとした必然的結果として起こった)人種的退化の歴史」に他ならない事になってしまうのだろうか。
巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。
しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。
雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。
私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
以下の文章はこの観点から読まれねばなりません。
中島成久「国民国家と人種主義(Nation-State and Racism)」
これまでの議論の締めくくりに「多文化主義」を巡るチャールズ・テーラーの議論を要約しておこう。
ルソー的な啓蒙主義が人間解放的な主張を行う一方、他方では同質化を強調していくことを先に指摘した。こうした認識を受けてテーラーは、多文化主義の倫理的成立基盤を追及する。
テーラーはカナダのケベック問題を例に引きながら、ケベック州内で顕著に見られたように多文化主義が「多文化主義の拒否」をも含みうることを指摘する。ケベックではフランス語の純粋性を守るために、一定規模以上の企業ではフランス語以外の言語の使用が禁じられる可能性が出てきた。これは連邦最高裁判所で拒否された条項であるが、国民国家における人種主義、エスニシテイ、ジェンダーの議論と通じあってくる可能性がある。
つまり「ある優越文化の他の文化への押し付け、この押し付けを助長する優越性の想定に大いに関係する問題である。」ここで問題とされるのは「われわれがみな多様な文化の価値の平等性を認めるということ、それらの存続を認めるだけでなく、その価値を認めるということである。」
テーラーは、フーコーやデリダ的な「価値に関するすべての判断基準は究極的には権力の構造によって押し付けられ、またこの構造をさらに補強するものである」という主張に疑問を呈している。なぜなら「彼らがある人々に荷担するとき、彼らはこの極の政治の推進力一承認と尊厳の追求一を見失っている」と批判する。
そこで重要なのは「文化の多様性は単なる偶然の出来事ではなく、より偉大な調和をもたらすべく意図されたもの」、と理解する道徳的な態度である。「多様な`性格や気質をもつ多数の人間に、長期間にわたって意味を与えてきた諸文化はたとえ、われわれが嫌悪し、拒否すべきものが多く含む場合ですら、われわれの賞賛と尊重に値するものをほとんど確実に含むと想定することが理にかなっている」と、テーラーは「承認をめぐる政治」を締めくくっている。
テーラーの議論に対して、フェミニスト、エコロジスト、それにハーバーマスのような近代批判論者から厳しい批判が寄せられているが、フーコー的な権力観への批判の妥当性を含めて、テーラーの提起した問題はさらに徹底して議論されるべきである。
ゴビノー伯爵は「二河白道問題=死か非生(non-vie)のジレンマ」の処方箋の一つとして(人種的多様性を維持する手段としての)インドのカースト制をそれなりに気に入っていたといわれています。もちろん現代人には(当事者たるインド人を含め)到底受け入れ不可能な意見で、ゴビノー伯爵当人ですら「とはいえ、そこには既に「混血による退化(身分制固定による文化の停滞)」の足音が忍び寄っている」として全面承認は差し控えていたりします。
国際SNS上の関心空間における女子アカウント(その匿名性に援用される形で欲望全面開放状態)は、事あるごとに「トム・リドル (Tom Marvolo Riddle)は私!!」「鎌田くん(Kamata-kun)は私!!」「オブスキュラス(Obscurus)は私!!」と叫んできましが、それにも関わらず(いやむしろそれゆえに)それが社会に実害を与える時の「駆除」に絶対反対しません。現代社会に「クレメンツァ(Clemenza=寛容)の精神」がどういう形で継承されているかについての重要なヒントともいえそうです。
本気で「ゴビノー伯爵の悲観的人種論」を乗り越えたければ、この方面に突破口を見つけるしかなくなってくるという話ですね。
さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…