権威主義と反権威主義。それは元来、光と影の様に一対の存在。フランス革命勃発(1789年)から二月/三月革命(1848年〜1849年)にかけてあれほど欧州じゅうを騒がせた政治的浪漫主義者達だって、皮肉にも彼らが未来永劫の絶対抵抗を誓った教会と国王の権威に裏付けられた権力者が芸術を全人格的に代表するアカデミズム世界が崩壊すると対消滅を余儀なくされたのです。まさしく「人を呪わば穴二つ」の世界。
それでは対消滅の結果何の足跡も残さないかというと、登場時のインパクトが爪痕となって「後世の人間には何が起源だかもうよく分からないもの」を後世に残す場合があります。当事者にとって、それが幸運な事か不幸な事かはともかく。そして、そうなったらそうなったで新たに商業利用の歴史が始まるのです。
歌舞伎の世界では「助六」や「自来也」の変遷史も壮絶。「巨大骸骨軍団を召喚して日本征服を企む平将門の娘」が登場するに至っては「日本エンターテイメント業界もすっかりこじんまりとしちまったな」と感じ入るばかり。日本の妖怪でも「妖怪の総大将ぬらりひょん」とか「豆腐小僧」について、様々な議論が重ねられてきました(詳細はあくまで不明)。
*ちなみに個人的には「二口女」の画像が国際SNSに流れ、海外女子の間で「これは何?」「きっと無理なダイエットが祟って食欲が暴走した姿だよ」と新しい解釈を与えられ二次創作まで流行したプロセスに感動した。そうやって「実際の歴史から解放された諸概念」は生き延びていくのである。
一方欧米では…
狼男、吸血鬼、フランケンシュタイン博士の怪物…欧米においてこれらは各時代を象徴するある種の精神そのものでした。それが理解不可能となった後世においては怪物視され、商業利用されてユニバーサル・モンスターズとして一緒くたにされる展開。ただしあくまで「男ばっか」なんですね。それで後世、中二病女子達が「自分も本当は怪物かもしれないと不安になる権利は女子には与えてもらえないの?」と怒り出してしまいます。ナサニエル・ホーソーンの名作「ラパチーニの娘」に再照明の光が届いた瞬間でもありました。
*ユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters)…元来は「Universal Picturesが映画化した怪物群」という意味なのだけど「普遍的怪物群」とも読める。最近はもう「ハロウィン・コスプレの定番」くらいの認識しかないかも。
さらにはこれに「(どこまで現実か分からない不安定感を特徴とする)40年代RKOサスペンス」が加わる。代表作はアルジャーノン・ブラックウッドの「太古の魔術(Ancient Sorceries、1927年)」の影響を色濃く受けたヴァル・リュートン(Val Lewton)の「The Bagheeta(1930年)を原作とする映画「キャット・ピープル(Cat People、1942年)」。この流れが「フェミニストや黒人オタクの猫神バズテト(Bastet)好き」へとつながっていく。
アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Henry Blackwood、1869年〜1951年)…M.R.ジェイムズ(Montague Rhodes James、1862年〜1936年、レ・ファニュを再評価しアンデルセン英訳でも知られる古文書学者でもあった)やアーサー・マッケン(Arthur Machen, 1863年〜1947年、アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce、Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年〜1913年失踪)と双璧をなす「クトゥルフ神話の父祖」)と並び称される近代英国怪奇小説三巨匠の一人。魔術結社「黄金の夜明け団」に所属する魔術師でもあり、生涯独身であった。
映画「キャット・ピープル(Cat People、1942年)」…フランス人映画監督ジャック・ターナー/ジャック・トゥールヌール(Jacques Tourneur, 1904年〜1977年)が手掛けた低予算のホラー映画で、オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン(Citizen Kane、1941年)」「偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons、1942年)」の興行的失敗で破綻しかけていたRKOの経営を救った。RKOとジャック・ターナー監督はこれに気を良くして「私はゾンビと歩いた!(I walked with a Zombie 1943年)」「レオパルドマン 豹男(The Leopard Man、1943年)」「キャット・ピープルの呪い(The curse of the cat people、1944年)」「吸血鬼ボボラカ(Isle of the Dead 1945年)」などの異国情緒あふれる「文芸ホラー」を量産。
こうした展開を背景に思わぬ国際人気を獲得したのが「化け猫(Bakeneko)」です。「プラーグの大学生(Der Student von Prag、1913年)」「カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari、1920年)」「吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens、1922年)」「メトロポリス(Metropolis、1927年)」といったドイツ表現主義無声映画の全盛期、その要素を取り入れた怪奇映画を量産した事が国際進出の最初の鍵になった事実は動きません。
まぁ海外の「キャット・ピープル」系統と合わせてフェミニズムの台頭とネコ好き層のハートを射止めたタイミングで一緒に持ち上げられたせいでもあるんですけど。
それでは、そのさらなる源流は? 検索すると「鍋島藩化猫騒動」なるキーワードが引っ掛かってきます。
起源は「番町皿屋敷」や「八百屋お七」と同時期の江戸時代初期。中々の古参な上に、それが何か理解するのには「退屈な」九州史まで遡らねばなりません。
ここでいう「退屈な」は、当事者以外にはまるで関心の持てない「氏族戦争(Clan War)」を意味しています。ドイツとイタリアを舞台に展開した皇帝派と教皇派の戦い、イングランドの薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)、まぁ神聖ローマ帝国における領邦国家間の内紛、フランス王室とハプスブルグ家の闘争史、そして国際的には日本の源平合戦もこれに分類されたりしています(まぁ外国人には「退屈」としか思えないのも仕方がない?)。
- 熱が醒めた後は何でそんな事で本気で殺しあったか分からなくなってしまう。
- 夢中になり過ぎて外部勢力に漁父の利を奪われる結末に終わる事が多い。
こういうマイナス面も「退屈(覚える意味が分からない)」といわれる所以。実は大英帝国が大躍進を遂げたのはヴェストファーレン条約締結(1648年)によって「普遍的価値観に基づく戦争」の遂行が不可能となって以降、大陸で盛んに行われる様になったその種の戦争に巻き込まれるのを徹底して避けたからといわれる事があるくらい。実際、以下に関心を持てる日本人がどれくらいいますか?
- プファルツ継承戦争(Pfälzischer Erbfolgekrieg、1688年〜1697年)
- スペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española、1701年〜1714年)
- オーストリア継承戦争(Österreichischer Erbfolgekrieg、1740年〜1748年)
当時の江戸幕藩体制下では、こんな下らないお家騒動を起こして領民に迷惑をかけたら即座に改易・お取り潰し。それを知った出島のオランダ人(御目見得以上)は「日本を仕切っているのはどんな絶対君主なのか? いやあの将軍家が偉いというより法概念が絶対的に共有されていて、それに従うなら誰もが納得してしまうのか?」と考え「法専制主義」なる歴史用語を考案しました(再発見して世界に広めたのは日本通で知られるライシャワー博士あたり?)。イングランドにおいても薔薇戦争に際して領民に迷惑をかけない様に最大限の配慮が払われたといいますし、案外これこそが真の意味での「資本主義の起源」なのかもしれません。善政とか名君以前に「領民に恨まれた領主が確実に瞬殺される仁義なき世界」こそが議会制民主主義の原風景なのかもしれません…
まぁフランス王室とハプスブルグ家もその後、漁父の利をプロイセンに持って行かれたのを悔しがって慌てて和睦したくらいですから、実際「退屈」と割り切って突き放すくらいが丁度良いのでしょう。
それはそれとして、ポルトガルの「アフリカ十字軍」の延長線上に存在した日本にとっても、九州の氏族戦争(Clan War)は国家存亡を招きかねない危険な事態だったのです。何しろ西アフリカ諸国同様、戦争が絶えないが故に戦争奴隷の供給源として有望視され、奴隷商人を引き寄せてしまった訳ですから。
そういえば、そもそも猫はアフリカ(エジプト)原産。国際的にも化け猫は一般的に日本起源とされていますが、案外アフリカこそが原産地なのかもしれません。そもそも国際的には「その親玉は猫神バステト」とか思われている様ですし。
*ちなみに猫神バステトは当時から金の装身具をジャラジャラぶら下げた姿で描写される事が多かったが、これは古代エジプト王朝が金をナイル川上流域のヌビアとの交易で得ていた事に由来する。ヌビア人そのものは(ヒマラヤ山岳部やナイル川上流域や日本の様な僻地でしか生き延びられなかった)古モンゴロイド人種だったが、彼らが西アフリカ諸国との交易でそれを得ていたのは明らかなので黒人の人気が異様に高い(召喚モードを引き上げると「エジプト最強の女神」に変貌するしね。二次創作界では死神アヌビスとのカップリングが人気)。ちなみに海外の黒人歴史オタクから教わった知識。まぁ想像以上に勉強している。
海洋博物館に行くと受付に猫がいた。台上に寝そべっている。黒っぽい縞猫で、巻貝を置いた様な形にうずくまり、瞼を持ち上げて私達の方を見たが、すぐに閉じた。この光景は猫が常に船乗りとあった事を象徴している。
17世紀におけるオランダ大航海時代には、この国の猫も地球のあちこちに向かった。猫がいないと航海が成り立たないと言っていいほど、当時の船にはネズミが多かったのである。山猫は別として、家猫が欧州にやってきたのは8世紀とされる。自信のない想像だが、アラビア人による地中海交易と関係があるのかもしれない。アラビアは猫の飼育の先進圏なのである。
日本に(山猫ではない)猫が来たのは、伝説では仏教伝来(通説では552年)とされる。日本に向かう船に経巻を積み込む際、鼠に食い荒らされない様に一緒に乗せられたのだという。猫は世界中の遠洋航海につきものだった。
ついでながら、猫を飼う習慣の起源は起源前遥か前のエジプトにある様で、中国にもたらされたのは遠い古代ではない。当時は田にはびこる鼠を捕らせる為に猫を飼っていたらしい。
*猫が広まる以前の田園や家屋では蛇が鼠捕りの役割を担っていた。その一方で雀が害虫退治の役にたつと考えられていた。江戸期に入るとこれらと猫の戦いを描いた怪談が急増。
そういえば九州には「海外向けに開かれた国際交易の拠点」という側面もあるのです。そして、それゆえに江戸幕藩体制下でも(密輸などで)こっそり蓄財を果たし、明治維新を主導する立場に回る事に。
中世九州における三大勢力の鼎立(~1335年)
北九州太宰府の少弍氏、中九州豊後の大友氏、南九州鹿児島の島津氏の有力三氏の鼎立時代が長く続いた。
少弍氏はもと武藤の姓で平家の家人で平家滅亡のおり投降し関東の三浦義澄に身柄を預けられ後、鎮西奉行に抜擢され関東より九州太宰府に入部した。官職が太宰少弍を世襲した事により一般的に「少弍」と称し最盛期には筑前、豊前、肥前、対馬、壱岐の守護職となった。
関東から大友氏や島津氏が守護として九州に入ったのもほぼ同時期だが、太宰府を本拠地とする地の利ゆえに少弍氏は鎮西奉行として最大の勢力をもって鎌倉時代を過ごす。
少弍氏の衰退と竜造寺一門の台頭(1336年~1529年)
建武三年(1336年)に九州に逃れてきた足利尊氏を支援した事が少弍氏にとって裏目に出た。南朝を支持する菊池軍の攻撃を受けて敗北し、当主少弍貞経が自殺に追い込まれてしまったのである。残された少弍一族は、大友氏と連合して後に筑後大保原の戦い(1351年)と呼ばれる筑後川沿いの戦いで征西将軍懐良親王を擁する菊池軍四万と激突するが、ここでも大敗させられて太宰府を追われる羽目になる。
以降しばらくの間少弍氏は大友氏の庇護下に入る。そして宝徳二年(1450年)になってやっと少弍教頼が太宰府への帰還を果たすが、今度は中国の大内氏に追われ、仕方なく当時の新興勢力で頭角を表していた肥前佐賀の竜造寺氏を頼る。
そうする間にも中国の覇者大内氏は北九州への圧力を強めていき、明応六年(1497年)四月には五万の兵を筑前に進めた。わずかに残った少弍軍もこれに壊滅させられて、少弍氏は完全に勢力を失う。
以降、少弍氏勢力下の小領主や家臣団は分裂と抗争を繰り返す様になる。そして大内氏に走る者が続出する最中、混乱を利用して最大勢力を誇る様になったのが竜造寺一門だった。
鍋島一族が竜造寺一門の危機を救う(1530年~1544年)
享禄3年(1530年)八月、残り僅かとなった少弍氏の息を止め様として大内氏が佐賀平野の中心地ともいえる神崎に侵入する。
少弍氏の庇護者だった竜造寺家兼は少弍冬尚の籠城する福寺城の救援に向い、大内勢を田手畷で阻止し様とした。相手が大軍なので苦戦が続く最中、突然大内勢の側面を鍋島清久一族が突いて竜造寺一門の危機を救う。
戦後、竜造寺家兼は鍋島清久に八〇町の領地と鍋島清久の二男清房に家兼の孫娘を嫁がせた。この二人の間に生まれたのが彦法師丸である。
天文12年(1542年)
天文13年(1543年)
- 豊後の大友義鑑領に三人のポルトガル人が漂着。嫡男義鎮(後の宗麟)の助命嘆願により処刑を免れる。この時『東洋遍歴記』を著すフェルナンド・メンデス・ピントが折衝に当たったが、本人の印象に乗ったのは「手で食べていたら軽蔑と嘲りの対象になった」事で、地元民の印象に乗ったのは「自分を抑える事なく感情を露わにする。文字も読めない」事だった。
天文16年(1547年)
- ポルトガル冒険商人ジョルジュ・アルバレス船長が来日し、その後でインドとマレー諸島で布教活動をしていたイエズス会のフランシスコ・ザビエルと接触する。翌年、船長から既に受先済みの日本人ヤジローを紹介され、二人は日本に向かう決意を固める。
馬場頼周の猛攻(1544年~1545年)
天文13年(1544年)、肥前の小領主、馬場頼周は少弍氏の当主冬尚に「冬尚の父、少弍資元は竜造寺家兼のしわざにより戦死した」と讒言する一方で竜造寺一門の滅亡を画策した。少弍氏の領地で着実に勢力を拡大させていた竜造寺一門を妬む馬場頼周の策略であった。
同年冬、松浦方面の有馬、松浦党の波多、多久(後の旧竜造寺多久家とは別)氏が少弍氏に対して反乱したとして竜造寺一門を鎮圧に向かわせる。
竜造寺一門は追討に一族を出陣させたが行動が洩れていた事もあって敗退し逆に佐賀水ガ江城に籠城の身となった。
天文14年(1545年)正月、馬場頼周は両者の中を取り持つと見せかけ籠城中の竜造寺一門を筑後へ落ち延びるように説得した。馬場頼周は竜造寺一門が落ち延びる途中の「川上の淀姫神社」と「神崎祇園原」の二カ所で闇討ちし竜造寺家門、澄家、家純、周家始め竜造寺一族郎党を謀殺した。竜造寺家兼は筑後へ落ちのびたが鍋島清久、清房の助けによって佐賀に帰り馬場頼周を滅ぼし仇討ちを果たした。
竜造寺隆信の登場と少弍氏の消滅(1546年~1568年)
竜造寺家兼は九三の高齢で死去し、遺言により後継者に圓月を指名した。圓月は竜造寺周家の子で竜造寺内部での後継者をめぐる争いにより僧籍に入っていたが急遽還俗させ後継者とした。
圓月が後の竜造寺隆信で父、竜造寺周家の姉は華渓で鍋島直茂の母になる。竜造寺隆信は胤信と名乗っていたが中国、北九州の大勢力者、大内義隆の一字を授かり隆信と改名した。竜造寺隆信の地位は大内氏の強力な後押しがあればの話であり大内氏からみれば隆信は肥前代官でしかなかった。
竜造寺一門を継いだものの隆信の地位は依然不安定で反隆信勢力は大友氏と手を結び幾度も攻めたてた。
そんな時に中国で大内義隆が陶晴賢に討たれる。
すかさず反竜造寺勢力の少弍の残党と豊後の大友氏は佐賀城を包囲攻撃し、隆信は筑後に逃げざるを得なくなった。
ようやく2年後に佐賀に戻ったが、その地位は依然不安定で多くの地在の領主との戦いの連続であった。それでも徐々に肥前の平定を進め、最後の少弍を名乗る冬尚を自殺させて九州入部より三百六十数年間続いた名門を完全消滅させるまでは至った。
その一方、天文20年(1551年)には陶隆房が謀反を起こして大内義隆を自殺に追い込み(弘治3年(1557年)には毛利氏が大内義長を滅ぼした。
また永禄2年(1559年)には天文19年(1550年)に父義鑑を家臣に討たれて以降領主となった大友義鎮が、豊前、筑前、筑後各国の守護職に補されている。
天文18年(1549年)
- イエズス会修道士フランシスコ・ザビエルが後に日本布教長となるコスメ・デ・トルレス神父を引率して来日する。
4月18日ゴアを出発
4月21日コチン寄港
5月31日マラッカ着
6月24日海賊船に乗り日本に出発
8月15日/日本の7月22日に鹿児島上陸。
9月29日伊集院の一宇治城で島津貴久に面接
11月12日平戸に旅行する。
天文19年(1550年)
- 父義鑑を家臣に討たれた21歳の大友義鎮(後の宗麟)が後を嗣いで領主となる。
- ポルトガル船が初めて平戸に入港する。
- 松浦家の重臣である籠手田左衛門を受洗に至らしめたフランシスコ・ザビエルが京に向けて出発。途中で博多に立ち寄る。
天文20年(1551年)
- フランシスコ・ザビエルが山口で大内義隆、豊後で大友義鎮に面接してそれぞれ布教の許可を得る(ただし大内義隆は同年陶隆房の謀反により自殺に追い込まれる)。その後豊後日出の浦に入港したポルトガル船に乗り込みインドに向かうが、途中で種子島の赤尾木浦(西之表港)に寄港して慈遠寺に数日滞在する。
- 大友義鎮がインド総督へ使を送る。
天文21年(1552年)
- 大内義長が山口に大道寺建立を許可する。
- イエズス会のバルタザール・ガーゴ神父とアルカセヴァ修道士が来日して豊後府内に着き、ルイス・デ・アルメイダ(1525年~1583年)が初めて来日する。
- フランシスコ・ザビエルが上川島で病没する(12月3日)。
天文22年(1553年)
- 豊後府内にイエズス会レジデンシヤや聖堂が建ち信徒が700人に達する。翌年にはルイス・デ・アルメイダが育児院を建て(10月23日)、バルタザール・ガーゴ神父が平戸での布教を開始した。
弘治元年(1555年)
- ポルトガルがマカオを占拠
弘治2年(1556年)
- 周防と山口の教会堂が兵火に掛かりコスメ・デ・トルレス神父が山口から豊後に移る。
- バルタザール・ガーゴ神父が博多で宣教を開始する。
- ルイス・デ・アルメイダ、コスメ・デ・トルレス神父によりイエズス会に入会する。
- ポルトガル船2隻が来航して府内と平戸に入港する。
弘治3年(1557年)
- ルイス・デ・アルメイダ修道士が大友氏の援助で豊後府内に病院を建てる。
- 大友義鎮よりイエズス会に地所と会堂を寄進がある。
- 臼杵に教会堂が建ち、ガスパル・ヴィレラ神父が来日する。
永禄1年(1558年)
- 木下籐吉郎が織田信長に仕える様になる。
- ガスパル・ヴィレラ神父やギリエルメ・ペレイラ修道士やドン・アントニオ(籠手田安経)がバルタザール・ガーゴ神父に代わって平戸布教を担当する様になり、集中伝道によって約1500人に洗礼を授けるに至ったが、その結果仏教徒と切支丹の対立が激化して肥州松浦隆信がガスパル・ヴィレラ神父に退去を命じるに至る(2月28日)。
- ポルトガル船2隻が来航して豊後と平戸に入港する。
永禄2年(1559年)
- 織田信長が上京しして将軍義輝に謁見。
- 筑紫惟門の軍勢が博多を破壊した際に教会も焼かれる一方で、11月からガスパル・ヴィレラ神父が日本人修道士ロレンソとダミアンを伴って京都布教を開始する。
- ポルトガル船が2隻入港。
永禄3年(1560年)
永禄4年(1561年)
- 博多の教会が再建される。
- 籠手田左衛門尉安経の保護によって生月島や渡島への布教を開始される。
- 島津貴久が耶蘇会教区長パードレに神父派遣を懇請。
- 島津善久がインド副王に書簡を送る。
- 京泊にマノエル・デ・メンドーサの船が入港し、阿久根にアルフォンソ・バスのジャンク入港。
- ルイス・デ・アルメイダ修道士がメンドーサらと共に阿久根、京泊、市来を経て鹿児島に。
- 松浦氏の領土であった平戸港で「宮の前事件(フェルナン・デ・ソウザら14人のポルトガル人と日本人の衝突)」発生。
*これ以降ポルトガル人が新しい港を探し始めたのを知った大村純忠は1562年、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出る。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜も図り、結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。
永禄5年(1562年)
- 大友義鎮が剃髪して名を宗麟と改める。
- 鹿児島に到着したルイス・デ・アルメイダ修道士が島津貴久に面接して各地で布教を行なう(1月~5月)。
- アルフォンソ・バスが阿久根で殺害される事件が起こる。
- 大村純忠が横瀬浦を、有馬義貞(大村純忠の兄)が口之津を相次いでポルトガル人向け貿易港として開港する。
- 横瀬浦に教会堂が建設される。
永禄6年(1563年)
- 三河一向一揆が勃発する。
- コスメ・デ・トルレス神父より結城山城守忠正(エンリケ)、高山飛騨守(ダリオ)、高山右近(ジュスト)らが相次いで受洗する。6月には大村純忠も横瀬浦で受洗して(洗礼名バルトロメオ)最初のキリシタン大名となった。
- 7月6日には3隻のポルトガル船が横瀬浦に入港し、西九州のコスメ・デ・トルレス神父と五畿内のガスパル・ヴィレラ神父に次ぐ3人目の司祭としてルイス・フロイス神父が上陸する。
- ルイス・デ・アルメイダ修道士が有馬義貞の許可を得て口之津への布教を開始し、教会堂を建設して250名を受洗したが横瀬浦の方は後藤貴明の奇襲によって焼討の末壊滅する。長崎甚左衛門が受洗する(洗礼名ベルナルド)。
永禄7年(1564年)
- 家康が三河一向一揆を平定。
- 小西隆佐(洗礼名ジョーチン)と小西行長(洗礼名アゴスティニョ)が受洗する。
- ベルショール・デ・フィゲイレド神父(1530-1597)、ジョアン・カブラル神父、バルタザール・ダ・コスタ神父らが来日して横瀬浦に入港する(8月14日)。
- ポルトガル船が横瀬浦より平戸に向かうと松浦隆信が平戸に「おやどりのサンタマリア(天門寺)」と称する教会堂の建設とイエズス会レジデンシヤの設置を許可する。
永禄8年(1565年)
- 正月元旦にルイス・フロイス神父とガスパル・ヴィレラ神父が将軍足利義輝への謁見を果たしたが。義輝が殺される事件があり神父らは京都を逐われて堺に逃れた。
- ポルトガル船が平戸を避けて大村領福田港に向う様になり、松浦隆信と大村純忠との海戦が福田沖で行なわれて松浦氏が敗北した結果、福田港が開港される(ポルトガル船の本格的来航は翌年)。
- 大友宗麟がイエズス会に土地を寄進して、臼杵に教会堂が建設される。
- 口之津をコスメ・デ・トルレス神父が布教の拠点とする様になり、11月に「無原罪の聖母の御孕り」教会が落成した平戸にはバルタザール・ダ・コスタ神父とジョアン・カブラル神父が司祭として入る。
永禄10年(1567年)
- 織田信長が足利義昭を迎える(7月)。
- ルイス・デ・アルメイダ修道士が長崎で初めて布教を開始し(翌々年には天草河内浦に移動)、ここに口之津へ向かう途中のポルトガル船が寄港する。翌年にはイエズス会士が長崎の地を視察し翌々年にはトードス・オス・サントス教会(現春徳寺)が建設された。
永禄11年(1568年)
- 信長が足利義昭を奉じて入洛。翌年には信長がルイス・フロイス神父に京都居住を許可し、布教を許す。
- 前年には秋月種実による休松の大友軍の急襲があったが、この年も筑前立花城の立花鑑載が大伴氏に背き、ついには吉川・小早川両軍が豊前国に上陸する事件まで起こる。
戦国大名側の事情
当時イエズス会は中国産の生糸や絹織物、麝香、白檀などの香薬類、マスケット銃及びこれに付属する鉛や硝石などの軍需品などを(武装商船でもあった)交易船の寄港地において日本人に与え、それと引換にキリスト教徒の獲得に努めていた。イエズス会の財政はこの交易から上がる収益とポルトガル国王からの金銭的援助によって成り立っていたのである。戦国時代ゆえに日本人の武器に対する嗜好は異常に強く、当初は軍需物資を「外交儀礼品」として提供することによって領主たちを親キリスト教へと導いたことは想像に難くない。実際、記録に残る九州の大名達は貪欲である。
①大村純忠の、ポルトガル船舶に積載されている軍需物資に対する認識について『長崎港草』は「大村民部少輔純忠福田ノ地頭福田左京ニ申越レケルハ彼黒船ハ鉄砲西洋砲ナドモ積乗せ来レバコレヲ他所ニヤルベカラズ諸ノ軍器多シト云ヘドモコレニ勝ル者アルコトナシ」と言及している。「コレヲ他所ニヤルベカラズ」として鉄砲の輸入を独占したい気持ちが述べられている点が注意を惹く。
②『豊薩軍記』巻之一には、田原紹忍がポルトガル船から得られる軍需物資の威力について大友宗麟に対し「鉄炮火矢を放ち掛は假令何十萬騎の敵なりとも退治は何そ難しからん・・・鉄炮石火矢は差て力の勝劣にも依らす誰か放かけたりとも如何なる鉄城石郭なりともなとか破らて有ヘキと辨に任せて云ちらす」と述べている。
当時の日本は既に統一に向かいつつあったとはいえ、各地では諸大名間の確執による軍事衝突が際限なく続いており、どこもポルトガル船を誘致して領国の強兵化を図りたいと考えていたのであった。
イエズス会側の事情
巡察師ヴァリニャーノは「キリシタンたちは戦争による被害を受けた」「キリスト教徒たちは絶え間ない戦争が原因で極めて容易に異教徒達に支配されてしまう」と嘆いている(口之津発1579年12.5付け書簡)。国内の戦争によって、日本イエズス会は布教などの諸活動を行い得ず、改宗した日本人信者の信仰の維持が難しく、かつ会員の生命が脅かされ、コレジオなど修道生活に不可欠な施設の建設が困難問う問題に直面した。最大の苦悩はいかにして在日宣教師たちと日本人信者の身の安全を図ったらよいかであり、宗教活動よりも「戦火からの避難」対策が急務であった。そのため交易船の後を追うように移動することを余儀なくされた。交易船は動く要塞であり、武器供給体だったからである。とはいえ戦火と絶えざる移動は教会財産をおびやかし続ける。この事態をを解消するためにはどうしたよいか。ヴァリニャーノは「日本では騒乱と戦争が絶え間ないので、我々の存続にはキリスト教徒をいろいろな場所に配し、各領主の許に置くことが非常に重要である。というのも、ある場所で戦争が起こっても、我々は牧群とともに収容されることのできる安全な場所を手にすることができるからである」と述べている(口之津発総長宛1597.12.10付)。
さらにイエズス会が日本での宣教・改宗活動を推進し、教勢を拡大することに対してはさまざまな中傷、誹謗その他、実力行使をともなった攻撃(たとえば教会への放火、宣教師や信者への暴力など)が行われた。この種の武力行使は、信者が自衛するなど当面の危機が回避できれば、その時点で所期の目的が達成される性格のものであるが、そもそも日本イエズス会全体の存亡に関わる事態が生じた場合には対応しきれない。この様な事態を回避する為の方法の一つが日本におけるイエズス会の保護者たる「キリスト教領主」に対する軍事援助を行い、その代わりに庇護を得る方法であった。ヴァリニャーノは日本人達は、彼らの領主に依存するところが大きいので、領主たちからの好意と援助がなければ、キリスト教徒たちが保持され、進歩することはなく、改宗も拡大が不可能である」と表明している(1580年)。この場合の軍事援助における教会側の介入の在り方
①宣教師たちがポルトガル商人との間を周旋し、ヨーロッパ製の武器などをキリスト教徒の領主に調達し供与する…この種の行為は、1560年代における大友氏への大砲の斡旋や、1566年に大村氏が福田港に停泊中のポルトガル人から銃の提供を受け、松浦隆信の襲撃を撃退し危機を回避したことがあげられる。これら大友、大村両氏に対する武器の提供におけるイエズス会の介入は、直接「武力行使者」としてではなく「軍事品調達者」としてである。このようにポルトガル商船とキリシタンのタイアップは九州各地を転々とする中で在地領主に武器をもたらしていたのである。
②ただの調達者ではなく武力行使の直接的な「当事者」として主体性をもって関与する…有馬晴信が龍造寺隆信と交戦中、家臣の裏切りなどもあって、領内の城砦がつぎつぎと陥落して苦境に陥っていた際、「キリスト教徒は実に容易に異教徒によって支配され、崩壊してしまうので、きわめて深刻で確実な危険に常時さらされている」と強い危機感を抱いた巡察師ヴァリニャーノは、有馬氏に軍事援助を行った。巡察師は、貧者全員に施していた喜捨に加えて、食糧を大量に購入させた。その喜捨は貧者たちがカーサに請い求めていたものである。また焼失した諸要塞も救うよう命じ、自分でできる範囲とそれらの困窮の度合いに応じて、それらの要塞に食糧と金銭、さらに鉛と硝石をも支給したのである。事を遅滞なく遂行する為にナウ船とも入念に打合せをしており、これらの物資に約600クルザド近くを費やした(1580年10月20日付けの「年度報告書」)。巡察師ヴァリニャーノがかかる援助を行ったことは日本イエズス会が従来の武力の「調達者」から武力の「行使者」として立場を転換し、軍事活動においてポルトガルとの軍事的連携を、より深めてゆこうとする姿勢が窺われる。③キリスト教徒領主への「軍資金」提供…ヴァリニャーノ自身も「戦争の時には、巨額の費用をかけて幾人かのキリスト教徒領主たちにも援助を施さねばならない場合があった。彼らには、大村の領主ドン・バルトロメや有馬の領主に対して何度もおこなったように、金銭で援助する必要がある」と述べている。
しかしキリシタンを常に庇護してくれる「領主」がいるわけではないし、強力であったわけでもない。イエズス会の保護者である大友氏や大村氏や有馬氏といったキリスト教徒領主の軍事力は(後の秀吉の九州征伐によって致命的な形で明らかになる様に)教会関係者を救済する能力を有さないほど脆弱であったし、大友宗麟や大村純忠といった理解者も1587年には歿してしまう。その為に宣教師達は次第にキリスト教徒領主の下からの「軍事的自立」を考える様になる。保護者としての地位も極めて不安定な在地の個別領主権力を避難所とするのではなく、次第に寄進された長崎を日本のキリスト教界最大の力として位置づけ、避難所として要塞化する途を選んでいくのである。
大友宗麟の少弍氏再興運動と毛利氏の進出(1569年~1570年)
永禄一二年(1569年)、大友宗麟は少弍再興を名目に竜造寺氏に対し反旗を翻すように決起を呼びかけ武将、戸次鑑連と大軍を肥前に派遣した。大友宗麟の決起の呼びかけに肥前のほとんどの小領主は大友方につき隆信は佐賀城に孤立した。
竜造寺隆信にとって幸運なことに、この年は陶晴賢を滅ぼして中国を完全に掌握した毛利氏が北九州に本格的に進軍してきた年でもあった。背後に危機を感じた大友氏が佐賀より豊後に引き揚げた為に隆信は辛くも滅亡をまぬがれる。
翌年になって毛利氏が九州から引き上げると、大友宗麟は再び隆信の追討の兵を挙げ再び肥前に進出してきた。
竜造寺一門は約五千で佐賀城に籠城する。これを大友軍は約三万の大軍で包囲し、たちまち落城寸前の状態に追い込んだ。
この窮地を救ったのが鍋島直茂で、今山に布陣する油断し切った大友方本陣に少人数で夜襲を敢行し、大混乱に陥らせた。この今山の戦いで大敗した大友方は豊後に引き揚げざるを得なくなる。
これ契機に隆信は肥前に確固とした地位を築き上げ、竜造寺の危機を救って大友軍を撃滅させた鍋島直茂は竜造寺勢力中の最重要人物となった。
竜造寺隆信が反攻を開始(1571年~1576年)
隆信は反攻に移り大友氏に近い東肥前へも進出し大友氏の影響下にある領主をも勢力範囲におさめていった。
肥前制覇の為に実弟の竜造寺長信、竜造寺信周、一族の竜造寺家晴を周辺に配置し、同時四面作戦をもって乗り出していったのである。
この様な施策は「大村純忠領や有馬晴信領における既存宗教の弾圧」と同時進行で行われた。アウブスブルグの宗教和議(1555年)以降領邦国家化した神聖ローマ帝国所属の諸侯の所領内でもしばしば見られた事だが「領主の信仰が領民にも強要される世界」では優勢になった宗教の劣勢になった宗教に対する弾圧が果てしなく繰り返され続けるのである。
竜造寺隆信が五州二島の大守に(1577年~1582年)
1. 天正五年(1577年)、隆信は本格的に大村純忠への攻撃を強める。
2. 竜造寺に従属した松浦氏、武雄後藤家、鍋島等新旧の家臣団を従え進攻すると純忠は和議を結び人質を出し竜造寺の軍門にくだったが、大村純忠は本心から屈服したわけではなくキリシタン勢力を最大限に利用して自己の権益を守った。
3. 隆信にしてもキリシタンとの貿易がもたらす莫大な利益は魅力であり、キリシタン勢力との断絶を意味する長崎進攻は決断できなかったのである。
4. 隆信は同時に諫早の西郷氏とも和議を結び、肥前西部において隆信に公然と反抗するのはとうとう有馬氏だけとなった。
5. 天正5年(1577年)大村、諫早西郷氏を従えた勢いで隆信は一挙に有馬氏攻略し島原半島の神代(こうじろ)に上陸し有馬軍と戦った。その時は勝利まで至らなかったが、翌年の再征で有馬晴信を屈服させ肥前全域勢力下に収める。
6. 隆信は平定したとはいえ肥前中央は養子縁組や竜造寺一門を要所要所に配置し強力な勢力で固めていたが松浦、大村、諫早西郷、有馬氏等は起請文や人質を取っただけで支配は極めて緩やかであった。天正六年(一五七八)、西肥前の平定に成功した隆信は筑後にも進出し約二年で平定しさらに肥後にも進出し北半分を勢力下に納めた。
7. こうして隆信がわずかの期間に強大な勢力を誇る事ができたのも、九州における三代勢力のうち大友氏と島津氏が激しく戦った結果、筑後と肥後が空白地帯となったせいであった。特に天正6年(1578年)に日向耳川で島津氏が大友氏を完璧に敗北させ、この後も一貫して圧迫を続けたのは間違いなく追い風となった。
8. 天正八年(1580年)に竜造寺隆信が北部九州に広大な勢力誇るようになった竜造寺の国を実子、政家にゆずり須古に隠居すると、筑後、肥後の領主達が反旗をひるがえし始めた。
9. すると隠居中ながら隆信が自ら大軍を率い出陣し、逆に北九州まで勢力を広げるのに成功する。配下の鍋島直茂も肥後八代まで勢力下に収めた。この結果隆信は五州二島の大守と呼ばれる様になる。五州とは肥前、筑前、筑後、肥前、豊後であり二島は壱岐と対馬である。
元亀元年(1570年)
元亀二年(1572年)
- スペイン人がマニラを占領する。
- ガスパル・ヴィレーラ神父が離日して代わってガスパル・コエリョ神父が来日する。
- フランシスコ・カブラル神父がオルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父と京都に向かう。
- 長崎に新しい町が建設され岬に「被昇天の聖母教会(サン・パウロ教会)」が建てられる。
元亀三年(1573年)
- フランシスコ・カブラル神父が岐阜に行き信長に謁見する。
- セバスティアン・ゴンサルヴェス神父が来日して平戸に赴任した。
天正元年(1573年)
- 信長が将軍義昭を放逐して室町幕府が滅亡する。
- フランシスコ・カブラル神父が博多や山口等で布教。
- 天草沖でナウ船が難破して教会に打撃を与える。
天正二年(1574年)
天正三年(1575年)
天正四年(1576年)
天正五年(1577年)
- ミゲル・バス修道士が薩摩に行き義久に面接。次いでルイス・デ・アルメイダ修道士がバルタサル・ロペスと鹿児島へ向かう。
天正六年(1578年)
- 荒木村重が謀反を起こした際、信長がオルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父に命じて、村重の家臣高山右近を説得させる。
- 大友宗麟が正妻奈多氏を離婚してジュリアと再婚。さらにフランシスコ・カブラル神父の受洗を受け入れる(洗礼名フランシスコ)。
- ルイス・デ・アルメイダ修道士が薩摩を出て豊後に向かう。
- 日向の耳川戦において大友軍が島津軍に大敗を喫する。
天正七年(1579年)
- この年、日本の切支丹人口が10万人に達してアレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察使が来日して口之津に上陸する。龍造寺隆信の有馬領攻略にあたっては有馬軍を援助した。
- オルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父が安土に会堂建設。
- 五島純玄とその大叔父である盛重が五島の実権を握って切支丹迫害を開始した為、五島領主純堯の弟玄雅ルイスらが長崎に亡命する。
天正八年(1580年)
天正九年(1581年)
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が入京して信長に謁見。
- イエズス会宣教師ガスパル・コエリョ神父が龍造寺隆信と会見。
- 豊後から日向-薩摩-天草と船旅を進めたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が防津から島津義久と手紙を交わす。
- 大友勢が島津勢に大敗して日向地方を島津に奪われる。
- 大友宗麟臼杵に新教会堂を建設。
天正10年(1582年)
- イエズス会宣教師マテオ・リッチ神父広東に上陸。
- 本能寺の変(6月21日)で信長が死去して山崎の戦い(7月2日)が行なわれる。翌年には秀吉からオルガンティノ・ニェッキ・ソルド神父に大阪城下の教会堂敷地が与えられた。
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が大友宗麟や大村純忠や有馬晴信の後援を受けた遣欧少年使節団を伴って長崎港を出航。
- 鹿児島に向かって島津義久に面接したルイス・デ・アルメイダ神父が反対運動によって退去を余儀なくされる。翌年また鹿児島に来て住院の建設を得るが、程なく義久は宣教師放逐の命令を下す。アルメイダ神父はこの年の10月に天草河内浦にて病没した。
天正11年(1582年)
天正12年(1583年)
天正13年(1584年)
- 秀吉が3月に正二位内大臣となり、7月にはさらに従一位関白宣下を受ける。二条昭近衛前久の猶子として藤原姓を借りる。
- 石田三成、大谷吉継、福島正則ら側近10名余も昇殿可能な諸大夫になる。
- 従三位征夷大将軍は名目上足利義昭のままとされた(当時は出家して秀吉の側近として仕え1万石を拝領していた)。これに関して「秀吉は豊臣幕府開闢の為に足利義昭に自分を養子にするよう頼んだが断られた」とする説もある。
- 高山右近が播磨明石に転封となる。
- 蒲生氏郷が受洗する(洗礼名レオ)。
- 遣欧使節がローマに入りを果たし教皇に謁見する。
- 島津軍が大村領の内海と外海を占領する。
- イエズス会の日本教区が独立し本部を設置する。
天正14年(1585年)
- 羽柴秀吉が豊臣姓を名乗り正一位太政大臣となる(12月)。これに対して家康が上洛して秀吉への臣従の意を示した。
- ガスパル・コエリョ神父が大阪城で秀吉に面接。
- 有馬晴信の実子である直純受洗(洗礼名ミゲル)、毛利秀包(洗礼名シモン)、黒田直之(秋月:洗礼名ミゲル)、美濃揖斐郡の織田信秀(洗礼名ペトロ)らが受洗。
- 平戸に初めてイスパニア商船入港。
- 島津軍が豊後に侵入。圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていたので秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られる。
- 秀吉は豊後国戸次川に仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・信親親子、十河存保、大友義統らの混合軍を派遣して島津家久と戦わるが仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗を喫した(戸次川の戦い)。
- アントニオ・ロペス神父が薩摩を訪問。
- 大村純忠が内海と外海を奪回。
- 神浦にレジデンシアが設置され府内のコレジヨと臼杵のノビシアードが山口に移転。
天正15年(1586年)
- 日本司教区独立認可。
- 秀吉、島津征伐のため、九州に西下し、ガスパル・コエリョ神父が2度秀吉に会見。
- 遣欧使節、ゴアに到着。コレジヨで歓迎会、原マルティノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父に謝辞を述べる。
- 大村純忠が坂口館で死去。
- 大友宗麟の正妻奈多氏が臼杵にて病死。大友義統が受洗(洗礼名コンスタンチノ)。ただし年内に棄教してキリシタン弾圧を始める。この年、大友宗麟が津久見で死去。
- 島津軍由布院に乱入し、教会堂を破壊。宣教師妙見に避難する。
- 島津義久、川内にて秀吉に降伏する
- 黒田如水の長男である長政(洗礼名ダミアン)及び天草島の大矢野種基(洗礼名ジャゴベ)が受洗。
- 7月に秀吉が箱崎にて伴天連追放令を発布。
- 秀吉が高山右近に棄教を勧告したが右近はあくまで棄教を拒み追放される。
- 生月島山田に、山口にあったコレジヨとノビシアードを移転。都地区と下地区のセミナリヨを有馬に合併移転。。
- 黒田如水が中津城主となり、ゴメス神父を招待し復活祭を催す。一方立花宗茂が柳川城主、毛利秀包が.久留米城主となった。
天正16年(1587年)
- スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れる。
- 小西行長が宇土城主となり、西郷純信(諫早)が受洗する(洗礼名不詳)。
- 秀吉が茂木、長崎、浦上の地をイエズス会より没収して長崎については鍋島直茂に管理を命ずる。これを契機に有馬のセミナリヨは八良尾に、生月島山田のコレジヨは長崎→千々石→有家、ノビシアードは長崎→有家→天草という経路で移転される。
天正17年(1588年)
- 秀吉、耶蘇教を厳禁し、宣教師を長崎に追放、京都南蛮寺を焼く。由布院のジョチンが30名に洗礼を授けてその後殉教。
- ヒル・デ・ラ・マタ神父が薩摩の片浦港に向かう。
- 八良尾のセミナリヨが加津佐に、天草のノビシアードが大村に移転。
- 小西行長と加藤清正の連合軍が天草島の志岐氏と天草氏を攻める。
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が鍋島直茂に招かれて佐賀に行く。
天正18年(1589年)
- 秀吉が小田原城を攻略し北条氏を滅ぼす。
- イエズス会副管区長ガスパル・コエリョ神父が死去(5月7日)。ペドロ・ゴーメス神父が副管区長職を継ぐ。
- 天正遣欧少年使節が巡察師兼インド副王使節アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父とともに長崎に帰着(7月21日)。金属活字、印刷機を持ち帰る。
- 志岐にキリシタン代官日比屋平右衛門着任。
- 天草上島の上津浦種直(洗礼名ホワロン)対馬の宗義智(洗礼名ダリオ)が受洗。
- 島津義弘がイエズス会に山川港寄進を申し出る。
- 中浦ジュリアンがイエズス会に入会。
- 有家のコレジヨが加津佐に移転。
島津の猛攻と秀吉の介入(1583年~1589年)
天正11年(1583年)五月島原の有馬晴信が島津氏と内応し竜造寺攻撃を始めた。
島津義久が有馬氏支援の為に派遣した兵と、隆信が自ら率いて出陣した大軍が島原で激突する。ところが隆信は有馬、島津軍の綿密な作戦の前に戦死し竜造寺一門は最大の危機を迎える事になる。
隆信の死により大友氏、島津氏とも筑後に進出し竜造寺を加え三つどもえの攻防戦が各所で始まった。竜造寺家晴は柳川に移り筑後の防衛を固め、竜造寺政家と鍋島直茂は筑後の進出してきた大友方と戦う。そして島津氏が大友方を敗退させた結果、筑後は竜造寺と島津氏に分割される事になった。
竜造寺一門にとって幸いな事に島津氏は大友討伐に力を集中し島津義弘と家久は大友氏の本拠地豊後にまで侵入する。こうして島津氏が一貫して大友氏を攻撃し続ける間に竜造寺一門は隆信死去に伴う混乱からの建て直しを図る。
一方、滅亡寸前となった大友氏は中央権力者の豊臣秀吉に救援を依頼し、秀吉は天下統一の必要から兵を九州に派遣し島津進攻を開始する事になるのである。
竜造寺隆信の最後と鍋島家への藩主禅譲(1583年~1607年)
晩年の隆信は武将として猛勇な反面、仁愛、慈悲を装う行動ができず悪戯に敵をつくる異常な行動が目立つ様になった。佐賀に招いた柳川城主蒲池鎮並を佐賀城下与賀の辻にて謀殺したり、肥後の赤星統家が人質とて差し出していた幼い新六郎を謀反の風聞だけで磔にしたりする事で竜造寺一門に加わった小地在領主や諸将の信望までも失い始めていたのである。
天正11年(1583年)の島津攻勢でも、隆信が有馬氏の討伐を決意したと柳川の城において聞いた鍋島直茂は急遽須古城にいた隆信のもとに推参し「島津氏は侮り難く有馬氏には仁愛、慈悲の心をもってあたるように」と説いて島原への出陣の中止を強く進言した。これまでも「苦難の昔を忘れずに」と諌言してきたが耳をかさず酒色にふけり続け、この時も必死の出陣中止の懇願を振り切って島原へ出陣した結果が島津有馬両軍の巧妙な連携作戦に翻弄された末での島原沖田畷での戦死だったのである。この戦いには隆信に息子を磔にされた肥後の赤星統家も薩摩軍側に加わっていた。
島原での敗戦の後、直茂は隆信戦死に取り乱し切腹すると断言して柳川に引き篭もる。そんな直茂に対して竜造寺一門は隆信亡き跡の国政をみることを懇願し続けた。島津大友両氏の強大な勢力に対峙し、隆信の死後にわかに反乱を始めた領内の多くの地在領主を抑え切れるのはこの人物をおいて他にないと考えたのである。
当初、直茂は頑強に拒否していたが竜造寺一門の懸命の説得により最後には承諾した。そしてついに天正14年(1586年)4月、竜造寺家臣団は鍋島直茂に竜造寺の国政と領国支配を委任する。この時代に権力者の交代が平和裏に行われたことは極めて珍しいが竜造寺家臣団に他の選択肢があったとも思えない。
その結果、天正18年(1590年)正月八日に豊臣秀吉から竜造寺高房にだされた朱印状には次のように記載される事になった。肥前国竜造寺藤八郎(竜造寺高房)知行割之事
後藤善次郎(後藤家信、竜造寺隆信三男、武雄領主) 一四、〇〇〇石
竜造寺六郎次郎(長信、竜造寺隆信弟 多久領主) 一〇、〇七〇石
竜造寺いせ松(鍋島勝茂) 九、〇〇〇石
神代二郎(鍋島直茂弟) 六、〇四〇石
竜造寺阿波守(竜造寺信周、竜造寺隆信弟 須古領主) 五、二五〇石
竜造寺七郎左衛門(家兼曽孫、竜造寺家晴、諫早領主) 一九、一八八石
鍋島加賀守(鍋島直茂) 四四、五〇〇石
*ここに名前の見えない竜造寺家晴は竜造寺家兼の曾孫にあたり柳川城にいたが秀吉の島津追討に参加しなかった諫早西郷氏を討ち諫早に入部した。そして江戸時代の初期、竜造寺家晴の子、直孝の代に竜造寺姓より諫早姓に変え幕藩時代を過ごしている。
この様に中央権力者としての豊臣秀吉が指定した佐賀藩主はあくまで竜造寺高房であったが、朝鮮出兵等の軍役は鍋島直茂・勝茂親子に委ねられ実質的な藩運営は鍋島一族が担い続けた。徳川政権に移行しても江戸住まいの竜造寺政家と高房の生活費用は鍋島直茂より出されており鍋島家の実質的支配は動かしようもない事実だったのである。
とはいえ直茂と竜造寺家臣団は最初から強固に結び付いていた訳ではあるまい。おそらくその関係は共に中央政権の豊臣氏に仕え、朝鮮出兵を通じて同じ戦場で血を流しながら培われてきたものと考えられる。竜造寺と再三戦火を交えた豊後の大友氏が「朝鮮出兵時に多大な手落ちあり」として藩をとり潰されたのを見て「暗愚な藩主を抱くと家臣団まで巻き込まれて破滅を迎える」という思いを強くした事も、あるいは良い方向に左右したかもしれない。
慶長五年(1600年)の関が原の戦いにおいて鍋島勝茂は豊臣側に回って伏見城と伊勢攻撃に参加したが伊勢在陣中に敗報に接して徳川家康に謝罪、豊臣軍に加わった柳川氏と立花氏を降伏させる事により佐賀の領地を安堵される。
そして慶長12年(1607年)3月3日、竜造寺高房は江戸屋敷において夫人を刺殺した後、自ら自殺を計りその傷が悪化し同年九月に死去した。高房の親である竜造寺政家もその一ヶ月後に死去して竜造寺本家は完全に断絶。
幕府は竜造寺本家断絶を受け諫早領主竜造寺家晴、多久領主竜造寺安順、須古領主竜造寺信昭の三名の竜造寺系の重臣を江戸に呼び家督の問題について意見を求めたが、三家は一致して鍋島直茂の功績により竜造寺家が存続した事情を説明し直茂が家督を相続すべきところ高齢の為、勝茂が相続すべきと陳述した。その結果、慶長12年(1607年)四月に幕府は竜造寺家の家督は勝茂が相続することを認め名実ともに佐賀鍋島藩が成立したのである。
岡本大八事件(1609年~1512年)
転封により肥前国日野江藩初代藩主となった有馬晴信の運命を暗転させた事件。
①1609年、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオの市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。
②これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めたが、そこへ丁度マカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ベッソアがノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号(マーデレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港してきた。晴信は船長を捕らえるべく多数の軍船でポルトガル船を包囲したが船長は船員を逃がして船を爆沈してしまったのである。
③この事件の後、家康の股肱で本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、この事件の恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取る。これが発覚して激怒した家康は切支丹であった岡本大八を火炙りにし、晴信を贈賄の罪で甲斐に追放し、その後切腹を申し付けたという。
④晴信はキリスト教徒であった為に自殺を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせた(1612年6月5日)。
*ちなみに江戸時代に入ってから肥前国日野江藩の江戸下屋敷において怪異騒動があった。その原因がどうやら庭の沼らしいという噂が流れ、数々の怪談や物語に元ネタを供給する事になる。「沼を浚うと有馬家時代の巨大な十字架が揚がってくる」というオチが多かった。有馬家家内は親キリスト派と反キリスト派の確執が酷かったので関連事件も多く題材には困らなかったのである。
そして「佐賀の夜桜猫化け騒動」(1608年~1589年)
- 佐賀で葉隠と並んで有名なのが講談や歌舞伎で有名になった「佐賀の夜桜猫化け」である。この物語りのヒントになったのは竜造寺と鍋島の相続に関する実際の事件であった。
- 慶長13年(1608年)、佐賀城総普講の最中に佐賀城下に自害した竜造寺高房に隠し子がいるとの噂でやがて事実と判明した。この子の母は正室のお付き女中で妊娠が判明すると高房は屋敷から去らせ子は捨てるように命じた。高房の家来は生まれた子供を秘密裏に佐賀へ送つて育てた。噂の子が初法師で後の伯庵で化け猫騒動の主人公となってゆく。
- 元和4年(1618年)6月12日、鍋島直茂は佐賀城下の多布施の隠居所において81歳で死去したが、死後一年前位より奇病にかかり耳に潰瘍ができ膿が流れ落ち激しい痛み死ぬまで苦しまされた。これが自殺とはいえ非業の死をとげた高房の亡霊のせいであるとの噂が広まったのが怪談の最初となる。
- 伯庵は成長し佐賀城外鬼丸の宝琳院に17才で出家した。宝琳院は竜造寺隆信も圓月と称して修行していた竜造寺家と縁深い寺である。伯庵はその後比叡山での数年の修行を経て佐賀に帰郷した。
- そして寛永7年(1630年)の秋、伯庵は請役、多久安順に再び比叡山へ修行に行きたいと申しでたが、安順は勝茂の許可を得なければならないとして返事を引き延ばし続ける。痺れを切らした伯庵は勝茂の許しを待たず12月、藩に無断で宝琳院を出奔し消息は以降途絶えてしまった。
- そんな記憶も薄れかけた寛永11年(1634年)7月になって伯庵は再び姿を現し、叔父の竜造寺主膳正(高房の弟)と申し合わせて三代将軍家光の上洛にあわせて訴え出る。訴状の内容は「佐賀藩の後継者は鍋島ではなく竜造寺である。すなわち伯庵を藩主として竜造寺家を再興したい」というもので、幕府は訴状を却下したが伯庵は再び寛永12年(1635年)1月に出訴し、訴状を受理した幕府は佐賀藩と伯庵を幕府評定所で対決させる事になった。
- この時、佐賀藩は請役の多久安順を出府させ幕府評定所において伯庵と対峙させている。伯庵は佐賀藩主は竜造寺の血をひく者伯庵が継ぐと主張したが、多久安順は伯庵にはその資格はなく佐賀藩を継ぐ者は伯庵よりも安順の方であると反論した。安順の父は竜造寺隆信の弟であたる竜造寺長信で、兄の死後に妥当な後継者なき場合には弟が継ぐのは当然の事である。ところで直茂は竜造寺隆信の従兄弟で義理の弟でもある。隆信の父周家は直茂を養子にしていた時期があるし、隆信の母慶閨は夫の周家の死別後に直茂の父清房に再嫁しているのである。よって政家が隠居し高房が年少だった頃に藩を直茂に委ねた事に竜造寺一門はなんの異議もないとし、今後も鍋島家が藩主であり続ける件についても残り竜造寺四家は特に意義はなく、その証拠にこの訴訟騒ぎにも完全に傍観の立場を貫いた。
- 評定所は伯庵敗訴を申し渡したが伯庵がその後も訴えを繰り返して諦め続けるので幕府も持て余し、佐賀藩に伯庵を引き取って応分の知行を与えてはどうかと申し入れる。それ自体は佐賀藩も承知したが伯庵が肥前一国でなかれば意味がないと譲らなかった為、幕府は捨て扶持の百石を与えて会津の保科家預としこの問題を強引に終わらせたのであった。
- 講談や歌舞伎の「佐賀の夜桜猫化け騒動」は佐賀藩の成立に関する竜造寺から鍋島への権力の移譲、秘密めいた伯庵の出生、藩祖直茂の奇病に苦しみながらの死去、竜造寺後継者の高房が起こした夫人を刺殺してからの自害事件、佐賀に流れた高房の亡霊譚、伯庵の訴訟から流罪に至る経過を結びあわせて脚色し、歌舞伎に仕立て上げたものである。
- これを見る限り江戸時代の歌舞伎作者の想像力と創作力が相当なものだった事は確かだが、事実は上に述べた通りで、本来は妖怪の湧く余地はどこにもない。
結論は意外とあっけなく、現在でもありそうな展開。「物凄くスキャンダルな事件で背後に色々な事情がありそうなのに一切の説明がなされなかったばかりか、下手に言及すると取り締まられたのでかえって炎上し、そこから後世日本が誇るコンテンツまでもが生まれてしまった」なのですね。ちなみに佐賀藩といえば「葉隠」。その題名は蔭の「陰の奉公を大義とする」という意味なのですが、この藩が裏でやらかしてきた事は、とにかくスケール感が違います。
- 幕府に黙って伊万里焼や柿右衛門を密輸して歴史に残る国際的ヒットを残す。
*国内でも贈答品として重宝していたらしく、後世の発掘により江戸下屋敷は工場制手工業を採用した磁器量産工房に魔改造されていた。 - こっそりアームストロング砲を量産して長崎にズラリと並べ、ペリー艦隊をして「長崎に入港したら戦争が始まってしまう。関東に直接向かおう」と決断させたともいわれている。
*正直、アームストロング砲はすぐ暴発する欠陥砲で、佐賀藩の工業技術を持ってしても大半はまともに機能しなかったとはいわれている。とはいえ実はそもそも「黒船来航」って、1年以上前からアメリカ政府がオランダ経由で幕府に「大艦隊がこれから向かうから、それまでに開国準備しとけや」と通達する事から始まった情報戦で、これに勝ったのだから無問題(ペリー艦隊側も「1ダースは軽いで」という情報を流しながら、実際に到達したのは4隻だけだった)。実は佐賀藩はナポレオン戦争に便乗して出島を占拠しに来た英国船が好き放題暴れたフェートン号事件(1808年)で幕府からきつい叱責を受けており、この悲劇を繰り返したくなかっただけとも。 - 戊辰戦争においては自領産のゴム製雨合羽を着てスナイドル連発銃を駆使して火縄銃装備中心の東北軍を殲滅。
*米墨戦争(1846年〜1848年)やインディアン戦争でさえ、ここまでの火力差はなかった(というかインディアンは単発銃しか装備してない米国騎兵隊を次々と薙ぎ倒せるウィンチェスター連発銃を好んだので、リトルビッグホーンの戦い(Battle of the Little Bighorn、1876年)の様に「逆虐殺」となったケースも多い)。まさしく「一方的虐殺」だったとしか思えない。
ちなみに実は「伊万里焼や柿右衛門を密輸して大儲けした鍋島家」と「幕末日本において"彼らの動き次第で日本史が変わる"とまで諸侯に恐れられた鍋島家」は別物。実は18世紀欧州宮廷があまりの持ち出し金の多さに根を上げ、それぞれ国を挙げて磁器国産化に取り組んだせいで佐賀藩は経済的打撃を受け、それで政権交替があったんです。
「武雄鍋島家」の起源
- 幕末期に佐賀藩の藩政を主導したのは武雄鍋島家であった。
①鍋島茂順、放蕩を続ける鍋島斉直と対立しながらも財政改革に始終。
②鍋島茂義、文政七年の変の実行者であり、25才での請役に就任し後も三度請役に就任するも全て斉直と衝突し請役を辞めている。武闘派とはいえこれだけ正面から藩主と衝突してきた例は珍しい。佐賀藩における天保の改革、藩組織の近代化、長崎港警備に応えうる藩の軍備の整備、そして幕末段階における佐賀藩の近代化に最大の功績があった。
③鍋島茂昌、藩主直正のふらつく外交を請役として支えながら幕末の佐賀藩の行動を指導し、最後には自ら武雄兵を率い戌辰の役を戦う。 - 元を辿れば武雄鍋島家は、実は鍋島本家の分家ではない。本来は後藤姓で鍋島本家よりはるかに古い家柄。その祖は後藤章明とされ、平安末期に東北平泉地方に起こった「前九年の役」の戦功により塚崎の庄(武雄の旧称)を与えられて以降ずっと続いてきた九州で最も古い家系の一つなのである。ただしその実態は武雄地方に勢力を持つ小領主にすぎず、東には千葉氏、南には有馬氏、北には松浦氏等の有力大名が領地の拡張を競っており常に圧迫されてきた。
- 戦国時代末期に当たる天文14年(1545年)、後藤純明は男子に恵まれず隣領の大村領主大村純前の二男又八郎(貴明)を養子に迎え後継者とした。貴明は後藤家を継ぎ後藤貴明となり一方実家の大村家では後継者に島原有馬氏より養子として純忠を迎え入れる。なお後藤純明の婦人は有馬氏の妹であった。
- 永禄6年(1563年)大村藩主大村純忠は洗礼を受け正式に切支丹に入信しドン、ベルトラメウと称する様になる。
- 純忠は既に有馬氏の養子となっていたが、強大な勢力を持つ竜造寺氏に対抗するにはさらに切支丹に入信して歐洲から渡ってきた貿易商人や武器商人達から武器の援助を受けて南蛮貿易による富強を目指さざるを得ないと考えたのであった。
- 純忠の入信を喜ばない家臣は大挙して武雄家の家臣となり、大村領の北部波佐見や川棚や彼杵等は自然と武雄領となった。そういう立場上後藤貴明は大村純忠と敵対し事あるごとに攻撃し、再三純忠を追いつめている。当時海外貿易港として有名だった佐世保湾の奥にある横瀬浦を攻撃炎上させたのも後藤貴明であったが、須古城攻めや大村以外での戦闘が続いたせいで最後まで大村純忠の息の根を止める事には成功しなかった。
- 後藤貴明は夫人の早逝もあって子に恵まれず平戸領主松浦隆信の二男、惟明を養子に迎える。ところが天正2年(1574年)6月、父の松浦隆信の意向を受けた惟明は義父後藤貴明の暗殺を企てるのである。事前に察知した後藤貴明は黒髪城へ単身逃げ家臣を召集し惟明と対峙した。後藤貴明は当時敵対していた竜造寺隆信に援軍を依頼し竜造寺の兵が到着すると惟明は平戸に逃げ帰る。
- 後藤貴明は竜造寺隆信と和睦し貴明の長男、晴明と竜造寺隆信三男、家信の相互養子交換する。竜造寺家信は家臣五十名余りを連れ武雄に入り後藤家を継いだが、どうしても竜造寺隆信の三男としての側面が強く次第に竜造寺一門に組み込まれていく。その結果竜造寺政家より竜造寺の姓を賜って竜造寺姓となり、さらに江戸時代に入ってから鍋島勝茂より鍋島姓を賜って鍋島姓となったのである。
結局最後は竜造寺系統の血統が勝ったのか…江戸庶民の「あんな秘密主義の不気味な連中を怖がらせたのだから、化け猫でも出たに違いない」という想像は決して間違ってはいなかったのです。実際、最後に勝ったのは「化け猫」側だったという次第。しかも「領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」への執着を続けた葉隠的秘密主義は「薩長土肥の肥」佐賀藩出身者の明治維新後の活躍を阻害。唯一の例外はこれを嫌って藩閥から飛び出した大隈重信という展開に至るのです。
妖怪の反近代性たるや恐るべし…