諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

54歳で16歳の少女と再婚したルーベンス

話題になってる様なので便乗。まさかハフィントンポストまで取り上げるとは…

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www.youtube.com

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*余談ですが「フランダースの犬」のOP曲の歌詞って、あの悲惨なエンディングの後に流れる事を想定した様な内容。何せ全ての言及が過去形で「僕は(天に昇っても)当時の事を忘れない」という内容。
おそらくウィーダ「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872)」にヒロインとして登場するアロアは、アントワープ市の聖母大聖堂の奥に秘蔵された三連聖壇画に憧れる「中二病少年」ネロをそのまま放置しておくべきではありませんでした。引き摺ってでも同じアントワープに今なお現存するルーベンス(Peter Paul Rubens、1577年〜1640年)の邸宅に連れて行くべきだったのです。

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実際それを見学した司馬遼太郎「オランダ紀行(1989年)」によれば、そのホールの様に広いアトリエは、床に大作を効率良く量産する為の滑車や滑り溝が効率良く配置され、まさに工場そのものだったとか。また三階は完全に全て弟子達を育成する美術学校として間取りされていたという事です。ローマ留学時代にイエズス会から受注した大作が話題となり、ブリュッセルに城館を有するスペイン領ネーデルランドの総督アルブレヒト大公に任命されて宮廷画家となり、大小の貴族が争って肖像画を発注してきたばかりかリュクサンブール宮を飾るフランス王太妃の一代絵巻まで受注して生涯で数千点以上の作品を残したルーベンスなる人物は、ただの絵描きではなく工房経営者だったのですね。しかもその最大の武器は、画力はもとより欧州じゅうのあらゆる言語と古典に精通し、発注者のあらゆる要望をバロック的荘厳さを加えた形で確実に具現化してのける「圧倒的教養に裏付けられたイメージ力」。1621年にアルブレヒト大公が亡くなると残されたイザベラ大公妃から外交官に任命されたのも十分頷けます。若いうちに地元の名家の娘に見初められて結婚してこんな理想の邸宅を建ててもらい、54歳で16歳のロリ巨乳少女と再婚して心臓発作によって68歳で亡くなるまでに二児をもうけたのは、そういう人物だったのでした。

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現実は常に残酷。全てを知ったネロ少年が、中二病から醒めるどころかその場で即身成仏してしまう景色が目に浮かびます。まぁアロアはどちらかというと死別した先妻スタンスなので相討ち感も漂いますが…ならばアロアはどうすべきだったんでしょうか?
*覚悟を決めたアロアが「中二病少年」ネロを「ルーベンスの再来」に仕立て上げていく「じゃじゃ馬ならし(The Taming of the Shrew、1594年)」ないしは「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady、1964年)」的物語、見たい様な見たくない様な、すでにハーレクイン・ロマンスあたりには定番として収録済みな様な…

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ところで司馬遼太郎「オランダ紀行(1989年)」を再読していて「ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年)のルーベンス」なんて貴重な証言が含まれている事を知りました。

悪の華(Les Fleurs du Mal、初版1857年(禁書指定)、禁断詩を抜いた第2版1861年、「政治的浪漫主義の旗手たる伝説の赤チョッキ」ゴーチェの序文論考が追加された第3版1868年)」によって近代詩の暁をなしたボードレールは、その破滅的生涯の最後をベルギーで過ごし、倒れてパリに戻って慈善病院において亡くなった。 この「悪の華」の中ではルーベンスが礼賛されている。

 ルーベンス、忘却(レテ)の河、怠惰の園
 爽やかな肉の枕、そこで愛することは出来なくても
 生命は絶えず流れ、波立っている
 空の風の様に 海の潮の様に

ただし最晩年のノートの中では「通俗性(パナリテ)の泉」「大袈裟な表現」「繻子の服を着た下司」とこき下ろされている。幸いな事に倫理を含め人間の感覚は、ボードレールほどには透明にならない様に出来ている。そこまで意識が透明になってしまうと、悪が美しく見え出す一方で、善や美が化粧の様に醜悪にしか映らなくなり、退廃の中にしか身の置き場がなくなってしまうのである。

この話はおそらく以下と組み合わせて考えないといけません。

  • 悪の華」に収録された詩の大半が実際には1850年以前に執筆されている事。

  • 二月/三月革命(1848年〜1849年)を契機に「国王と教会の権威に裏付けられた領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」を絶対視するイデオロギーが崩壊した事。 その事によってフランス人の思考様式が不可逆的な形で決定的に変わってしまった事。

こうした「価値観の空白期」にボードレールは「悪の華」そのものというより、ある意味商業主義の先駆者ともいうべきエドガー・アラン・ポーの「炎上マーケティング」やマルキ・ド・サドの「自らの性癖がマイノリティに属すると自覚したが故に顕現した類稀なるマーケティング・センス」に注目して「人の心を動かす言葉の組み立て方」に目を向けさせようとした評論によってフランス文学史上に重要な爪痕を残すのです。

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そう考えた時に初めてボードレールバロック様式を「繻子の服を着た下司」と弾劾する一方でロココ様式を「(視野外に追いやられた)高貴なる憂鬱(メランコリー)」と称揚した意味が見えてくる様な気がします。要するに「常識を疑え!!」という立場ですね。「刑事コロンボ(Columbo、1968年〜18978年)」のあるエピソードでピーター・フォーク演じる刑事コロンボが犯人に向けて告げた「いい気なものだ。君は中世の輝きもルネサンスの闇も知らない。だから犯罪者にしかなれなかったのだ。自覚したまえ」という名台詞を彷彿とさせます。

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後世流行する象徴主義(Symbolisme)から逆算すると、今度浮かび上がってくるのは若杉公徳デトロイト・メタル・シティ(Detroit Metal City、2005年〜2010年)」の作中において主人公ヨハネ・クラウザーII世が事あるごとに絶叫する「殺害せよ」と同じでインパクト勝負。のちにバタイユが定式化しますが、つまり「タブー(禁忌)破りこそロマン」という路線。 ロートレアモン伯爵「マルドロールの歌(1868年〜1869年)」やマラルメ象徴詩の世界ですね。こうした善悪の彼岸を超越した言語/象徴体系を打ち立てようとする姿勢は、やがてデカダン(頽廃派)とまとめて非難される様になります。

680夜『マルドロールの歌』ロートレアモン|松岡正剛の千夜千冊

司馬遼太郎は「倫理を含め感覚と意識が透明になってしまった結果、悪が美しく見え出す一方で、善や美が化粧の様に醜悪にしか映らなくなり、退廃の中にしか身の置き場がなくなってしまった」とするが、こうした考え方は実際には「主観」としてではなく「客観」としてしか存在しなかった。それぞれの当事者の念頭には、まさに善悪の彼岸を超越した言語/象徴体系を打ち立てようとする野望しかなく、それはむしろ「国王と教会の権威に裏付けられた領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の崩壊によって伝統的な善悪の基準が崩壊した時代に、それを再建しようとする試みだったと考えるべきなのである。まさしく「人間どもが自分の負担で養っている、ある種の昆虫」の集団脱走状態。「人類の手から放たれた百艘ものレヴァイアサン」。ただしこうした先駆的試みは、後に全てフロイトユングが登場して深層心理や集団的無意識の存在を指摘する様になると丸呑みにされてしまう。同時期、マルクスとその後継者達が並列的に主張してきた「それぞれの人間が個性や自由意志と思っているものは、実は社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」とする思考様式もやはり丸呑みされてしまう。新たなリヴァイアサンの誕生だ?

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そして20世紀に入ると、以下の様な「決して手の届かない世界へのノスタルジア」なる内部に矛盾を抱え込んだ新概念が最終的勝者に。

  • マルセル・プルーストが「失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu、1913年〜1927年)」の中に描いた「(時折感覚的刺激が鮮烈に蘇らせる)記憶の中だけに残る世界」。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-ec-f2/qjrtx233/folder/781916/19/1190519/img_2?1264483214

  • その不可能性を知りながらあえて「冷徹な即物主義が支配する近代戦の戦場にギリシャ・ローマ時代の英雄主義が再現される瞬間」を追い求めたエンルスト・ユンガーの魔術的リアリズム

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/German_stormtroops_training_Sedan_May_1917_3.jpg

  • ゲッベルスが「芸術の完成型」とほめそやしたウォルト・ディズニーロココ・リヴァイバル。

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  • なまじとして古典文学に関する造詣が深かったが故に「現代人は完全に没頭可能な全く新しい架空の物語を必要とする(過去の歴史的制約の産物たる既存の物語にその役割は果たせない)」という結論に到達して「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」や「指輪物語The Lord of the Rings、1954年〜1955年)」を執筆した古英語文学研究者トールキン
    古英語文学研究者としてのトールキンは「ベオウルフ(Beowulf、8世紀〜9世紀)」について「巨人やドラゴンの存在は後から物語を面白くする為に追加されたのではなく、主人公の英雄性を表現する手段として最初から組み込まれていた」という判断を下し、(断片しか現存しない)古英語叙事詩「モールドンの戦い(The Battie of Maldon)」の続編の執筆を試みた事で知られている。後者はあまりうまくいかず、その経験が「過去の歴史的制約の産物たる既存の物語から現代人を納得させるファンタジーは生み出し得ない」という結論に至ったとも。http://ichef.bbci.co.uk/images/ic/1600xn/p0232nkj.jpg

こういう時代になってやっと(注文主の要求に応じるまま)キリストと彼を囲む人々をアーリア人として描いてきたルーベンス絵画について、むしろその「欧州中心史観的傲慢さ」より「その時無関係だった欧州人が共通して抱える哀しみ」に再照明の光が当たる事になったのです。
*その原風景は欧米人にとっては「知恵の実を食べて楽園から追放されたアダムとイブが生涯抱き続けたであろう楽園への回帰願望」にまで遡るのかもしれない。これを「人間界における全人格的代表者の立場から引き摺り下ろされたカソリック信仰の近代以降の再興」と結びつける向きもある。人間界における全人格的代表者たらんとする聖職者達の使命感は、その不可能性故にかえって輝くという思考様式である。

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 「パトラッシュ、僕もう疲れたよ」…はい「中二病少年」ネロさん、また死んだ。ちなみに海外のアニメ漫画GAMEファンは(ネタ半分に)定期的に「日本人が疲れ果てると祈るパトラッシュとはいかなる神におわすか」と、しばしば問いかけてきます。「オランダ紀行」における司馬遼太郎の答えは実に単純明瞭。「それは咸臨丸である」。

「オランダ紀行」の主舞台は当然オランダであり、ベルギー訪問は1日だけですぐオランダに戻ってくる。それで「フランダースの犬」の話と「咸臨丸」の話が隣接する事に。

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  • フランダースの犬」はアントワープを地獄、その地で品種改良された犬をこの地獄に奉仕する為に生まれた奴隷として描いたが、本当の地獄はベルギー国境を越えてすぐ、大量の黒人奴隷の命を磨り潰した奴隷制砂糖農園の発案者として悪名高いオランダ側に存在した。その旧くから存在してきた軍港は名前からしてヘルフットスライス(Hellvoetslus)。「地獄(ヘル)への第一歩(フート)の水門(スライス)」という意味で、咸臨丸はここで築造されている。当時としては三等軍艦ともいうべき200トン〜400トン級の小型船で、砲なども一段砲装だった。

  • 発注したのは江戸幕府。日本史には安政四年(1857年)に長崎港の見張り所が来航を長崎奉行所に告げた時点から登場する。当初は幕府が招聘したオランダ海軍の教師団(団長=ファン・カッティンディーケ少佐、Van Kattendijke、1816年〜1866年)が勝海舟(麟太郎)ら幕府海軍の生徒を教える練習艦だった。ちなみに現地でカッティンディーケ少佐は長崎で「踏み絵祭(元来はキリシタン取り締まりの為に始まったが、やがて踏まれる金属板に浮き彫りにされたイエス=キリストの肖像は磨耗によって完全に消え去り、若い娘達のファッション・ショーに変貌していた)」を見学し、オランダ商人が長旅の過程で劣化した最低最悪の状態のワインを「これが欧州最高の味です」と騙して高値で売りつける場面に遭遇し、開国に便乗して流入した欧米人の破落戸達が「彼らを刺殺して自らも直後に自殺して果てる市民達の捨て身攻撃」の繰り返しにより確実に処分されていく恐るべき場面に立ち会った。「このツケは絶対、将来爆発する」とカッティンディーケ少佐は戦慄している。歴史のこの時点において地獄の一丁目は欧米でなく日本に存在したのかもしれない。

  • やがて日本人達はこの咸臨丸で渡米する(遣米使節の護衛艦という名目)。航海術を学んでわずか2年の学生達が安政7年(1860年)に挑んだ暴挙。それまでの無理が祟って帰国までにその蒸気機関は破壊され尽くし、幕府が小笠原開拓の任務を与えた時点でもう修復不可能の状態に陥った蒸気機関を取り外されたただの洋式帆船へと変貌していた。

  • 幕府瓦解後に旧幕臣榎本武揚らが北海道に新天地を求めて江戸湾を出た時にこの艦も従ったが、途中波浪の為に新政府軍に拿捕されてしまう。明治維新後は新政府大蔵省や北海道開拓使の宮船として日本列島を北上したり南下したりし続けたが、明治三年(1870年)に嵐のせいで函館港外で破損。この時点において回航距離は軽く世界一周を超えており、しかも操船を担当したのが素人だった期間が長過ぎた為、建造後わずか15年の船齢にしてはあらゆる箇所に隅々まで構造疲労が及び、もはや手のつけられない状態だったという。

  • 明治四年(1871年)になると民間の運輸会社に払い下げられたが、終焉についての記録がない。一説によれば「こんなボロ船、まだ沈んでない方が奇跡」と呆れられ、すぐに廃船にされてしまったとも。

わざと狙って選んだとしか思えないほど「フランダースの犬」に描かれるパトラッシュの苛酷な生涯そのもの。実際、司馬遼太郎が「フランダース」を再読して真っ先に連想したのがこの「咸臨丸の生涯」だったからこそ描写が連続した可能性が捨てきれません。そして、そこまで尽くしてなお本格的産業革命の到来とともに切り捨てられていく…地域を問わず、これこそがまさに近代の到来だったのです。

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♪Hiho Hiho 仕事が好き」…はい「中二病少年」ネロさん、また死んだ。それはそれとして「オランダ紀行」の中でこういうルーベンスをオランダの誇る画家レンブラントと対比させています。

 

 

 

画家としてのレンブラント(Rembrant、1606年〜1669年)の生涯は悲惨だった。彼が主に住んでいたのはユダヤ人街の真ん中で、実際その家屋もユダヤ人から1万3千ギルダーという破格の値段で購入されたものだった。現代オランダ人ですら「ここまでボラれるなんて、有り得ませんってば」と笑いものにするほど、愛すべき勘定知らずだったのである。ただしその資金を銀行から借りた。骨董品狂いを主要因とする浪費癖もあって、生涯逼迫し続け、晩年は破産状態に近く最後はこの家も手放してしまうのだが、その間は借金を払う為もあってひたすら製作に没頭し、数々の名作を残している。ただしその解剖学的見地に基づいて病的なまでのリアリズムに徹したその描写力は必ずしも全ての顧客に歓迎された訳ではない。

当時のオランダで画家といったら肖像画家を指した。しかもケチだから「割り勘(Douch Account)」を駆使して集団単位で発注。さらには各人が自分が一番目立とうと好き放題注文を出し、その全てが採用されないと断固として支払いを拒絶したといわれていr。当時のオランダ商人は、誰でも一端の収入を得る様になると頸に白いお飾りをつけ、鐔広の帽子を被って気取っていたが、さらに平素から商品の形や質感に敏感で、注文内容を満たさない限り決して納得しない。
*実際、今日では17世紀を代表する名作として名高い「夜警(De Nachtwacht、1642年)」についてさえ「あんたさぁ、何、たかが画家のくせに発注者の要望に逆らって勝手にアレンジ加えまくってるの? バカなの? いっぺん死んでみる? こんな作家のオナニーみたいな作品に誰がお金を払うっていうのさ?」と散々罵られた挙句の果てに、ついに一切の対価も受け取れなかったという逸話が残っている。そういう民族性だったからこそ産業革命以降の時代に乗り遅れたとも。

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 まぁ最近のラノベ(特に「なろう」系)でもよく聞く話ですから、別に珍しくもない逸話とも。以下の様な人達の苦労を忍ばせます。

こういう観点から入るのが「マルキ・ド・サド文学は一体どういう読者層を狙って執筆されたのか?」について理解する最短の近道かもしれません。

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ちなみにエドガー・アラン・ポー炎上マーケティングを繰り返したのは自らが手掛けた雑誌の発行部数を伸ばす為でしたが、その強引な手法が祟って敵も沢山作ってしまい、その死後アメリカでは一旦忘れ去られる事になります。

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司馬遼太郎「オランダ紀行」そのものは、最終的にほぼ強引に「同時代日本は織田信長豊臣秀吉徳川家康肖像画こそ残したが、中級以下の武士や商人の顔は滅多に描かれる事はなかった。それに比べると、発注者の要望に従う限り後世には忘れられる駄作しか残せなかったが、その宿命に逆らったレンブラントが夜警を残した。その意味でやはり17世紀オランダはやはり偉大な国だったのである」という結論に至ります。しかしこれって現代に置き換えるとなかなか壮絶な事を言ってますよねぇ。本当に実践の推奨が可能なんでしょうか?