諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【沈黙 -Silence-】ポルトガルと日本は先天的ナチス国家?

はてなブログアクセス解析によれば、どうやら「ポルトガルと日本は先天的ナチス国家」と熱狂的に信じてる人達がいて、私のポルトガル関連投稿はそういう人達に読まれている様です。しかも彼らが考えている問題の最終解決手段は「現政権を打倒しての鎖国再決行」。まるで遠藤周作「沈黙(1966年)」における長崎奉行井上筑後守の再来?

題名未設定

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【テンプル騎士団が形を変えたのがイエズス会 十字軍の世界進出】 - 高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】

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テンプル騎士団の最後

聖地エルサレムを奪還するという大義名分で、実際は略奪集団であり、虐殺レイプ集団であり、十字軍の中心であり、一方で現在の金融システムの基礎となったテンプル騎士団がフランスのフィリップ4世により潰されました。テンプル騎士団は莫大な資金を元手に王様たちに金貸しをしていた。返済に困った王様達が、借金を踏み倒し、テンプル騎士団の財産を奪おうとした。これがヨーロッパ全土に広がっていったわけです。

しかし、ポルトガルだけは、イスラム勢力を追い出したレコンキスタに貢献したという理由で、テンプル騎士団は解散されましたが、その代わりにキリスト騎士団として存続を許される事になったのです。一方、フランスのテンプル騎士団の財産はマルタ騎士団に引き継がれます。そして日本の天皇マルタ騎士団のメンバー。それに加え、天皇家は明治からずっとガーター騎士団のメンバーです。

それって最近、アメリカのトランプ・サポーターが穿り出して広めてる有名な陰謀論の一つですよ?

現在国際的に「左翼(リベラル派)と右翼(保守派)」という対立構造が崩壊して「現状維持派(漸進派)VS現状懐疑派(急進派)」みたいな対立構造に再編される動きが顕著ですが、後者は日本においてすらこういう「プロテスタント陣営がカソリック陣営に仕掛けてきた伝統的陰謀論」まで含んでる様です。なるほど、もは「極右」や「極左」といった単語が何を意味するかも分かりません。

 キリスト騎士団(Ordem Militar de Cristo)

ローマ教皇の命令により1312年に廃止されたポルトガルテンプル騎士団に相当する勲位。以前は主イエス・キリスト王立騎士団(Real Ordem dos Cavaleiros de Nosso Senhor Jesus Cristo)であった。

  • カトリック教会の影響下にあった他の主権国家ではテンプル騎士団に対して追及と裁判が行われたが、これを拒んだポルトガル王ディニス1世の保護を受けて1318年に創設された。

  • フランス王フィリップ4世からの強い圧力のもと、教皇クレメンス5世はフランスをはじめとする欧州のほとんどでテンプル騎士団を異端の罪によって廃止したが、ポルトガル王ディニス1世はいかなる勲位であっても王がその資産を没収するのではなく、該当する勲位がそれらを継承すべきと考え、主にトマールのテンプル騎士団レコンキスタと戦後のポルトガル復興に尽力したことから同騎士団をキリスト騎士団として再構成した。ディニス1世は新たな騎士団の承認と、その騎士団がテンプル騎士団の資産と財産を継承する権利について教皇クレメンスの後継者ヨハネス22世と交渉した。

  • 騎士団の起源は1118年頃に創設されたテンプル騎士団に遡る。フランス王によって迫害されたテンプル騎士団は1312年、最終的に教皇の命により解散させられたが、ヨーロッパ全土における迫害にもかかわらず無罪が証明されたポルトガル騎士団のため、1317年、ポルトガル王ディニス1世はキリスト騎士団を創設。大航海時代、莫大な富と地位を得た。1789年、ポルトガル女王マリア1世が世俗化。

  • 1910年、ポルトガル王国の消滅に伴い騎士団は廃止されたが、1917年に復活されてポルトガル大統領が騎士団のグランドマスターとなった。現在、キリスト騎士団はアヴィス騎士団、聖ヤコブ帯剣騎士団とともに「古き騎士団」を構成し、グランドマスターである大統領を補佐するために大統領が指名する長官および8人の評議員の管理下に置かれている。騎士団勲章は、その名称にかかわらず、議会、政府、外交、裁判所、国家機関あるいは行政府にて共和国に対する卓越した貢献を行ったポルトガルまたは外国の市民および軍人に贈られる。

今日、ポルトガル政府によって授与されるキリスト騎士団勲章は、5階級からなる。

  • 大十字 (GCC)。右肩の大綬に章(バッジ)、右胸に金の騎士団星章。

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  • 司令官 (ComC)と上級士官。ネックレットにバッジ、左胸に金銀の星章。

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  • 士官 (OC)。小綬(リボン)にバッジ、左胸に小綬章(ロゼット)。

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  • 騎士 (CavC) と女騎士 (DamC)。 左胸の無地のリボンにバッジ。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/PRT_Order_of_Christ_-_Knight_BAR.png

騎士団の「章」(バッジ)は、騎士団のエンブレムと似ているが下の腕がより長い、絵付けされた金めっき十字である。王政の間は、市民と軍人でバッジが分かれていた。市民騎士は上部にキリストの聖心がある現在と同様のバッジを身に付けていた。軍人騎士は全く異なる記章であり、金めっきの白色で絵付けされたマルタ十字と十字の腕の間に絵付けされた楕円形の盾(それぞれポルトガルの国章から赤色の縁を消したものと似たデザイン)、それらを全て囲むヤシのリースからなっていた。中央の円盤は白色で絵付けされ、バッジの頂点には金めっきの王冠によって飾られていた。星章は22本の非対称的な光線を持つ。大十字および上級士官のものは金めっき、司令官のものは銀めっきである。中央の円盤は白色で絵付けされ、現在のバッジのミニチュアが置かれている。王政の間は、キリストの聖心が星の頂点に置かれていた。リボンは無地の赤色である。

【テンプル騎士団が形を変えたのがイエズス会 十字軍の世界進出】 - 高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】

テンプル騎士団を救ったディニス1世はテンプル騎士団の財産を大航海時代の資金とし、その後のポルトガル全盛期の礎を築いた人物です。

ポルトガル王ディニス1世(在位1279年〜1325年)

第6代ポルトガル王(在位:1279年 - 1325年)。アフォンソ3世と2番目の王妃ベアトリス・デ・カスティーリャカスティーリャ王アルフォンソ10世の庶子)の長男。農民王(O Lavrador)の異名で知られている。

  • 従来ラテン語を用いた公文書をポルトガル語にするよう決定し、リスボンに、エストゥード・ジェラル(一般教養学院)を創設した。コインブラ大学の前身である。1290年、教皇勅使書により大学となり、ポルトガル語の文法、教会法、民法、医学を教えた。

  • リスボンポルトが、フランドル・地中海間の中継港として繁栄しており、1317年、ジェノヴァからマヌエル・ペサニャ(イタリア名エマヌエーレ・ペサーノ)を招聘して商船隊長官とし、航海技術指導に当たらせた。

  • ポルトガル国内のレコンキスタに貢献したテンプル騎士団は、1312年にフランス王フィリップ4世に取りつぶされていたので、王は教皇から新しい宗教騎士団イエス・キリスト騎士団の創設許可を取り付け、テンプル騎士団ポルトガル国内に所有していた財産を譲り受けることに成功した。大航海時代にこの騎士団の総長を務めたのがエンリケ航海王子であり、アフリカ西海岸探検航海の経費はこの騎士団の財産と収入で賄われた。

  • 王は貴族たちに「我々は騎士であるとともに、所有する土地の耕作者であることを名誉とすべきである。」と説き、沼沢の干拓、荒れ地の開拓によって整備した農地に果樹、ぶどうを植えさせた。また、レイリアの海岸に、海岸の砂の飛来を防ぐ防風林として松を植えさせた。後年この松林は、大航海時代に活躍したポルトガル船の建造に役立った。

  • 漁業では、捕鯨とマグロ漁を始めさせ、ポルトガル漁民がイングランド領海で出漁することをイングランドに認めさせた。

  • 商業発展のため、国内各地に課税免除の「自由市」を作った。穀物、オリーブ油、ワイン、塩、塩漬け魚の輸出に力を入れ、フランドル、フランス、イングランド、イタリアとの貿易を振興した。

  • 晩年、王が庶出の王子をかわいがる姿を危惧したアフォンソ王子は譲位を迫ったが、王が拒否したため、1320年に反乱を起こした。王妃イザベルが仲裁に入り、1324年に和解した。翌1325年にディニスは死去し、王子はアフォンソ4世として即位した。

1282年にアラゴン国王ペドロ3世の王女イサベル(イザベル)と結婚した。王妃は慈悲深く、常日頃から国民への奉仕を怠らなかった。伝説によると、ある日、かごにパンを入れて貧しい人々を訪ねようと、王宮を出ようとしていた王妃を王が見とがめると、王妃は「これはバラが入っているのです。」と、王の追求をかわそうとした。王がかごにかけられた布を取ると、中には赤いバラが入っていたという。1625年、和解の美徳と慈悲により、聖人として認定された。コインブラ守護聖人となっている。
2人の間には1男1女が生まれている。

 ポルトガル王ディニス1世はブルゴーニュの家系

ディニス1世を辿って行くと、ブルゴーニュの家系である事が分かります。

ポルトガル王国は、フランスのブルゴーニュ家出身の国王アフォンソ1世がブルゴーニュ朝として始まりました。

ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガルアフォンソ1世はマファルダ・デ・サボイアと1146年に結婚。

なんだよ、またサヴォイかよ・・・

前回の記事でも書きましたが、大昔からサヴォイなんです。

ウンベルト2世とブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘ジゼルとの長男、アメデーオ3世・ディ・サヴォイア

ギヨーム1世の他の四女、クレマンス(1078年 - 1129年) フランドル伯ロベール2世と結婚、のちブラバント公ゴドフロワ1世と結婚。

ブラバント公アンリ2世は現在のベルギー王の家系で、ヘッセン方伯の祖であるハインリヒ1世(1244年 - 1308年)の父です。

そして、ブルゴーニュにはヴェルフ家の血筋も入っています。

これらの家系は、大昔から、もう絶対的に、現在まで地位を譲らずに続いています。

 そしてイエズス会

で、この存続されたテンプル騎士団改め、キリスト騎士団ですが、エンリケ航海王子という、大航海時代の探検事業家を総長とし、アフリカ侵略を始めます。

エンリケ航海王子の父である、ジョアン1世が、ポルトガル王国アヴィス王朝を開きました。

エンリケの死後、アメリカ大陸、日本にまで触手を伸ばし、世界中で十字軍活動を行いました。

エルサレム奪回の道中でやって来た事と同じです。

この正体はイエズス会です。

イエズス会テンプル騎士団と言っていいんじゃないでしょうか?

Wikipediaにもありますが、16世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。

ヨーロッパでは人気のなくなって来たカトリックは海外に活路を見出したのです。その証拠に、大航海時代に活躍した帆船には、テンプル騎士団の旗が描かれていました。

ヨーロッパで徹底的に潰されたポルトガルテンプル騎士団ホスピタル騎士団、カラトラーバ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタイベリア半島からイスラム勢力を追い出し、ポルトガルで名前を変えて存続し、今度はアフリカ、アジア、アメリカで略奪ビジネスを開始したということです。

これがポルトガルとスペインから始まった大航海時代の正体です。

フランスのテンプル騎士団の財産を受け継いだ現在のマルタ騎士団の本部はバチカンに在ります。

テンプル騎士団マルタ騎士団イエズス会バチカン

そして日本の天皇マルタ騎士団のメンバー。それに加え、天皇家は明治からずっとガーター騎士団のメンバーです。

ちなみに彼らの検索に引っ掛かってるらしい私のポルトガル関連投稿は以下。

どうせならこっちも一緒に読んで欲しいものです。

「沈黙 -Silence-」でも原作同様「悪」として断罪されたカプラルですが、彼の「売る奴がいるから買う奴も出る」という指摘は、大名が雑兵による戦争奴隷の売却を黙認してた当時の日本にとって実に痛い所を突いてもいたのです。

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  • ポルトガル奴隷商人自身は、決っして自ら奴隷狩りの罪に手を染める事はない。その役を担ったのは、あくまでアフリカでも日本でもあくまで「原住民」。

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  • その悪癖を払拭する為、当時の日本の支配者達は「戦争そのものを根絶やしにする」という究極の問題解決方法を選択せざるを得ない状況に追い詰められていく。「天下泰平」を謳歌した江戸幕藩体制の誕生にはこんな背景も?

    幕藩体制(1509年/1603年〜) - Wikipedia

    江戸幕府を全ての武士の頂点とし、最高の統治機関としながらも、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した統治機構(藩)を形成していることと、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制をその基礎に置いていることが特徴である。諸大名を親藩譜代大名外様大名に分け、参勤交代や改易によってこれを統制した。また、職分の区分けによって、武士を一部の権利を持つ階級に位置づけた(もっとも、「士農工商」という言葉は当時の階級を正確に表してはいないと指摘されている)。

    石高制については豊臣政権によって兵農分離が行われ、太閤検地によって徐々に形成され、続く江戸幕府の成立後に初代将軍徳川家康以降、2代徳川秀忠、3代徳川家光の時代に、鎖国体制や知行制、村請制などが確立、更に武家諸法度や朝廷に対する禁中並公家諸法度、寺社に対する諸社禰宜神主法度・諸宗寺院法度・寺院諸法度といった統制なども行われていった。 古くは「江戸時代=幕藩体制」であり、当然江戸幕府が成立した1603年が幕藩体制の始期と考えられてきたが、1960年代に安良城盛昭が太閤検地による荘園制の解体が中世と近世の統治体制を分ける画期と考え、豊臣政権が日本全国を統一した1590年を幕藩体制の始期とする考えを打ち出し、論争を呼んだ(太閤検地論争)。このため、現在では1590年をもって幕藩体制の始期とする説が有力ではあるが、1590年・1603年どちらを採用した場合でも、その年に幕藩体制が完成したものではなく、最終的な完成は17世紀中期以後であったと考えられている。

    江戸時代には商人資本の成長や農村への商品経済の浸透、それらによる身分制の変質など、村落共同体の動揺は一揆や打ちこわしを招き、幕府や諸藩は幕政改革や藩政改革を行い、再編を試みる。

    幕末には、諸外国の砲艦外交により幕府は鎖国政策を改めて開国し、朝廷権威も伸長して公武合体路線が進められる。江戸幕府大政奉還王政復古江戸開城により解体され、明治初期には旧藩による統治は維持されるが、中央集権政策のもと、版籍奉還(1869年)、廃藩置県1871年)により幕藩体制は完全に終結する。しかしその後も名残として残っている箇所が多く見られている。

  • 一方「食い詰めヨーロッパ人」が自ら奴隷狩りに手を染めた時、インディオ側に味方して彼らを叩き潰したのはスペインとイエズス会であり、イエズス会はこの振る舞いによって「財布を軽くされた」欧州の王侯貴族の恨みを買い、取り潰しの憂き目に遭わされる。

ここまでくればもはや「時代が違えば正義の在り方も異なる」としか言い様がありません。まさしくこれこそが遠藤周作「沈黙(1966年)」の前日譚。

  • 来日したイエズス会ポルトガル奴隷商人を止める力まではなかったが、彼らは一人でも多く奴隷を買い戻し、読み書き算盤を教えて社会復帰させるプロジェクトに邁進。

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  • そして、同時にキリスト教ととしての教育もしっかりなされた「キリスト教達は「本来なら、とっくになかった命だ。この機会にイエス・キリスト様に報恩せねば俺らの義理が立たねぇ」と考え、弾圧に際してむしろ喜んで殉死していく。

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  • イエズス会のパードレ達はこの展開を喜ぶどころかむしろ悲嘆し、信徒達に「隠れキリシタン」として生きる道、すなわち表面上は仏教に服する様に見せ掛けながら、本当の信仰を継続する方法を伝え、日本から撤退していく。

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果たして最も正解に近かったのは一体誰だったのか? 
*「キリスト教」…文禄・慶長の役(1592年〜1593年、1597年〜1598年)に際して、日本側と朝鮮王朝側が鉄砲と弾薬の入手の為に競い合う様に駆り集め、当時の奴隷の売値を1/3まで暴落させた朝鮮人奴隷が大きな比重を占める。ちなみに「本来なら、とっくになかった命だ。この機会にイエス・キリスト様にお返しせねば俺らの義理が立たねぇ」なる章句は牢の壁面にラテン語で刻まれ、それを読めた牢役人が幕府に報告したから公記録に残り、さらにローマ教会にまで伝わって福者認定の理由として挙げられたのである。その一方でこの問題は戦後、徳川幕府が積極的に推進しようとした「文禄・慶長の役に際しての俘虜変換事業」に暗い影を落とした。朝鮮王朝側官僚は「新キリスト教徒」化した自国民だけでなく「夷狄と接触した自国民」までも「穢れ」とみなし、引き渡されてすぐ女子供もろとも容赦なく皆殺しにしたり、飢饉が起こってる地域に投げ込んで全滅していくのを楽しんだりしたからである。改めて問う。果たして最も正解に近かったのは一体誰だったのか?

あとこれ。最近トランプ大統領も虎の尾を踏み掛けてますが、迂闊にプロテスタント陣営の陰謀論の尻馬に乗ると、カソリック陣営全体を敵に回す事に。

  • そもそもイエズス会成立の背景には「スペイン統一後のカスティーリャ大貴族連合の権益独占が生んだ冷飯組の反撃」という側面があった。

  • 領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」の行き着く果ては、一円領主化と(最終的に勝ち残った)君主間の領土争いとなる。「フランス国王フィリップ4世(Philippe IV、在位1285年〜1314年)によるテンプル騎士団取り潰し」はこの次元で把握しなければいけないし、キリスト騎士団そのものは、なまじ当初「アフリカ十字軍」を主導する立場にあったが故に農本主義的実体を喪失して「世俗化=解体」を余儀なくされて歴史上から消滅していくのである。またポルトガルでもまた農本主義的総決算として「ポンバル侯におけるイエズス会お取り潰し」が決行されている。
    *「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統の行き着く果ては、一円領主化と(最終的に勝ち残った)君主間の領土争い」…この過程で国家権力は農本主義的実体から離れ、資本主義経済に立脚する近代国家へと推移していく。日本では戦国時代において概ね「(戦国大名による公家領や寺社の接収という乱暴な形をとった)一円領主化」が完了し、明治維新後の「版籍奉還(1869年)」廃藩置県1871年)」秩禄処分(1876年)」といった急進的政策(およびその反動としての不平士族反乱の鎮圧)によってかなり強引な形で農本主義的支配の残滓が払拭されたが、欧州はむしろその残滓を第一次世界大戦(1914年〜1918年)によるロシア帝国オーストリアハンガリー二重帝国・オスマン帝国の解体まで引き摺る事になったのである。あれ、いつの間にか日本、追い越してね?

  • むしろ一旦取り潰される事によってイエズス会農本主義的実体から解放された感もある。その結果カソリック的知性の中枢の最高峰の一つとなった彼らは、プロテスタント陣営に憎まれ、陰謀論の対象とされながら逆に相手を感化する実績を地道に積み上げてきた。

海外では「リベラル派の八方美人的態度が自己崩壊を起こした(マスコミがデモに便乗して近隣商店街の略奪を働く様な連中まで擁護する様になったら正義はおしまい」といわれてる昨今の状況ですが、日本で問題となってるのは「伝統的ええとこどり主義の崩壊」なのかもしれません。

 さて、私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?