以前この投稿で参照サイトが増えるにつれ…
Yutubeでは、この2016年リリースのスウェーデンのバンドのMVが紹介される率が格段に増えていったんです。
続きを読む近未来的景色?
続きを読む以下の投稿でも述べてきましたが、中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論(文弱化した都市住民が部族的紐帯の強固な辺境民騎兵隊に征服され、かつ新たな支配者となった彼らも次第に文弱化して都市住民に変貌していく王朝循環史観)の観点では中華王朝時代の全てが「古代」に分類されてしまいます。
そしてこのサイトは「(イブン・ハルドゥーンが生きた時代には想像し得なかった)必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)間の国際協調社会の登場(体制としての完成は第一次世界大戦(1914年~1918年)後で、その結果国家間の競争が全てと見做される総力戦体制時代(1910年代~1970年代)が到来)」を「近世時代(Early Modern Age)」としてきました。
なので、その条件に従うなら必然的に戦国時代(15世紀後期~16世紀後期)終焉後の安土桃山時代・江戸幕藩体制下においては必要な条件を満たす様な進歩的展開は現れず、やっと版籍奉還(1869年)廃藩置県と藩債処分(1871年)秩禄処分(1876年)を一気に成功させてフランス郡県制を模した近代的中央集権国家に移行した大日本帝国時代(19世紀後半=20世紀前半)において必要充分条件が一気に満たされたなる解釈に陥ってしまう訳ですね。全体構造としては、宗教や王統問題を巡るつまらない大陸内部の内紛の連鎖から距離を置いてカリブ海に進出した「商業革命の国」大英帝国が近代最初の覇者として台頭してくる歴史的展開になっているのにも関わらず…
続きを読む西洋史を理解する上での基本中の基本?
続きを読むもともとユダヤ人とは南のユダ王国の国民を指すものでした。しかし王国崩壊後に多くがバビロニア王国内に連れて行かれると(バビロン捕囚)、ユダ王国の末裔という血統による定義としてのユダヤ人という呼称が一般化しました。それを示すようにユダヤ人という言葉が旧約聖書には約90回登場するのですが、その全てがバビロン捕囚の後となっています。バビロン捕囚が始まって約半世紀後、ペルシア帝国によってユダヤ人たちは祖国への帰還が許され、紀元前6世紀終わりにはエルサレムにふたたび神殿が建てられ多くのユダヤ人がユダヤに戻りました。しかし全員が帰還した訳ではなくペルシャに残ったり他の地域に移住したユダヤ人もいました。こうして世界各地にユダヤ人が住み始め、イスラエルに住むユダヤ人とイスラエル外(離散の地/ディアスポラ)に住むユダヤ人の2種類が各々の地で独自の発展を遂げていきました。
こうして多様化していったユダヤ人にとって大きな転機となったのがアレクサンダー大王の東方遠征です。これによってギリシャ文化とオリエントが融合したヘレニズムという考えがうまれたのですが、ギリシャ的なヘレニズムを広めたアレキサンダー大王この文化圏では人種も生まれた地も宗教も全く違う何百万人が混在していました。そんな多民語族・多文化を抱えるヘレニズム文化圏では、ギリシャ的教育を受け共通語であったギリシャ語を話せばギリシャ人として認められました。これは、生まれた土地や血統によって決まっていた従来の定義法とは全く違う革新的な民族観でした。これによってエジプト人やペルシャ人、ユダヤ人であっても同時にギリシャ人でもいれるという、2つの民族的アイデンティティーを持つ形が可能となりました。これは現在欧米では一般的な他重国籍や「…系~人」という表現が発祥した瞬間でもありました。
ではこのヘレニズムがどのようにユダヤ人の定義に影響したのでしょうか。ヘレニズムによって民族についての新定義ができると、イスラエルを中心にヘレニズム文化圏に居たユダヤ人たちは他の民族と同じようにギリシャ人になるか否かを考えると同時に、自らの定義についても再考しなければいけませんでした。ギリシャ人とはギリシャ文化を受け入れた人の事。この新しいギリシャ式定義法を用いると、ユダヤ人とは「ユダヤ文化を受け入れた人」となります。多神教社会であった古代を生きる彼らにとって自分たちのユダヤ文化とは一神教であるユダヤ教の事でした。こうしてユダ王国民でもその末裔という血統とも違う「ユダヤ教を信じる者=ユダヤ人」という新しい民族の定義ができたのです。
へぇ、こんな代物が…
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