諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【古典的自由主義と社会自由主義】「はいてない?」「BL」を取り締まる中国当局の抱えるリスクについて

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古典的自由主義は「統計的多数決による決定論」を提唱したコンドルセ伯爵や「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」としたジョン・スチュアート・ミルの平等論に由来します。

可能な限り全てを数理に委ねようとする立場故に「それまで見落としてきたパラメーターが思わぬ影響を発揮する可能性」や「アルゴリズム自体が間違っている可能性」により神経質にならねばならないとする進歩主義的立場。だからこそ「事象の地平線としての絶対他者に対する黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」の運用が重要になってくる訳です。

これに対して社会自由主義は(科学的マルクス主義を継承する形で)とりあえず「私が自由である」と主張する絶対制定者を立て、彼に全ての判定を委ねていこうとする人間中心主義的かつ中央集権的なスタイル。「太陽王ルイ14世が臨終の席で述べた様に、この種の超越的裁定者は常に「ダモクレスの剣のジレンマ」、すなわち調停を綱渡り的に成功させ続ける事で不安定な均衡状態を持続させるのに失敗すれば、即座に全責任を負わされて処刑されてしまう恐怖に曝され続ける事になります。まさしくフレイザー牧師の「金枝篇(The Golden Bough、1890年〜1936年)」の世界。

この意味合いにおいて社会自由主義は 「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに対する処方箋の一つで、ある意味(おそらくフランク・ハーバートデューン砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981)」で描写されるディストピア世界にヒントを得た)宮崎駿風の谷のナウシカ(漫画版1982年〜1994年、アニメ映画化1894年)」に登場する「巨神兵」や「土鬼の皇帝や(その力の源たる)霊廟」そのもの。
フランク・ハーバート「デューン砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981)」

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ナウシカ」作中にも「自分の判断が信じられなくなった当時の人類は神まで発明してしまった」なる嘆きが登場しますが、まさにそういう態度に矛先を向けたのが「科学的マルクス主義の人間中心主義」に意義を申し立て「絶対他者は良い意味でも悪い意味でも人間の理解を超越してるからこそ絶対他者なのであり、それに全てを委ねたら本当にどうなるか分からない」と批判したポーランド人SF作家スタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに(Solaris、1961年)」やロシア人SF作家ストルガツキー兄弟の「丘の上のピクニック(Roadside Picnic、1977年英訳)」「願望機(1989年英訳)」の反人間中心主義的文学だったのでした。こうした発想の大源流にあったのは、明らかにアーサー・C・クラークの小説「幼年期の終り(Childhood's End、1953年)」や映画「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey、1968年)」など。

そして1980年代には欧米でも同じテーマを継承するグレッグ・ベア「ブラッド・ミュージック(Blood Music、1983年短編、1985年長編)」が登場。ただこれらの作品は同時に「古典的自由主義の暴走可能性」に対しても警鐘を鳴らします。

フランク・ハーバート「デューン砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981)」

以下の最新展開は、こうした観念史とも照会される必要があるという話。

そう、これはまさに江戸幕藩体制下において「男女間の性交描写の禁止」が「男の娘」を「人間間の性交描写の禁止」が「触手物や妖怪強姦物」を産んできた修羅の道…

ファシズムやナチズムは(科学的マルクス主義が放棄したマルクスの人間解放論への回帰を志向し)「現代における階級闘争は支配階級の上からの権力(フォルス)と、被支配階級の下からの暴力(ビヨランス)との闘争であり、後者こそが世界を救う創造的な力である」としたソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」を(カール・シュミットの「例外状態」「敵友」理論に基づいて)「組織化された暴力(ビヨランス)の権力(フォルス)に対する無限闘争こそ絶対正義(すなわち)」と読み替えたが、原文における「体制に対する暴力(ビヨランス)」はむしろ(やっと安定運用段階に到達した身分制を改めて揺るがすが故に倫理的に徹底否定された)既存の身分秩序を超越した不倫や駆け落ち、現体制批判を暗喩する猥褻物に該当する気がしてならない。

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*こういう戦い方の方が間違いなく「(補給を侵略側の兵站に依存する)ゲリラ戦」よりはるかに「非対称戦」の定義に相応しく思えてならない。そしてヒッピー運動などでは「下からの暴力(ビヨランス)」として始まったものが「上からの権力(フォルス)」に変貌して新たな「下からの暴力(ビヨランス)」の脅威に曝されるサイクルが顕現。

要するに社会自由主義とは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の完成系たる絶対王政人道主義版なので、こういう問題のハンドリング失敗が致命傷となりかねない訳です。それにも関わらず中国当局は最近も「腐女子を大量逮捕して精神病院送りにする」なんて愚行をやらかしてましたっけ…

「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む : 中国の鄭州でBL小説サイトが摘発され関係者が大量に逮捕される

中国人有識者いうところの「今日の中国はまさにフランス革命前夜?」なる発想はまさにこうした枠組みの産物。「習近平の独裁志向」に対する懸念も、それ自体が悪というより「調停者の立場を捨てて一人勝ちしたら(ルイ16世ナポレオン三世ヒトラーの様に)有事の際にヘイトが集中し全責任を負わされ絶対悪認定される」展開を迎えるのがリスキーという立場。変な理想視をやめて「要するに社会自由主義とは本質的にそういう代物なのだ」と割り切れば、色々見えてくる事が多い?