諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】21世紀の「戦陣訓」について。

この「独裁政権への抵抗を三本指で示す態度」、映画「ハンガー・ゲーム(原作2008年~2010年、映画2012年~2015年)」由来なのだけれど、正直評判がよくありません。世界中の若者がコンテンツとしての「ハンガー・ゲーム」を見捨てる契機となったし諫山創進撃の巨人(Attack on Titan,原作2009年~2021年、アニメ化2013年~2021年)も巻き添えを喰らって忘れ去られる羽目に陥ったからです。

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由来は、独裁国家ネムを描く米SF映画『ハンガー・ゲーム』で、民衆が独裁への「抵抗」「反逆」の印として掲げるサイン。それが現実世界で、権威主義的な強権への抵抗のシンボルとして一般化したのは、一四年に起きたタイの軍事クーデターの際だったといいます。

さらには、同年、若者らが民主化を求めた香港の「雨傘運動」でも象徴的なサインとして用いられました。

本来「ウォール街を占拠せよ(2011年9月17日~11月15日)」運動は体制側から妥協を引き出したスペインの「インティグナドス運動(2011年)、及び台湾の「ひまわり学生運動(2014年)」をこそ戦果として記憶に留め、先に進むべきだったのです。

2008年9月15日に、アメリカ合衆国投資銀行であるリーマン・ブラザーズが、連邦裁判所に連邦倒産法第11章の適用を申請し、リーマン・ショックが発生して以来、アメリカ合衆国だけでなく、世界中が世界金融危機の不景気に喘いできた。特にアメリカの19歳から20代前半の若者(ハイスクール卒、大学卒)の4割は職業がなく、それに対し有効な対策を打てないアメリカ合衆国連邦政府に対する(主に中流層が抱く)不満が、このデモ呼びかけに賛同させたとされる。

2010年末より、アラブの春と呼ばれるSNSを発端とする連鎖的な市民革命が中東各地で発生し、2011年5月にはスペインで、のちにインティグナドス運動と呼ばれる組織的かつ大規模な占拠デモが発生していた。 2011年9月16日にはニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグがラジオ番組に出演し、悪化する若者の雇用状況を放置すれば、カイロやマドリードと同様にニューヨークでも暴動が起きかねないと警告するなど、溜まった不満の向かい先を心配する声が挙がっていた。

ところが世界中のリベラル層はむしろ彼らの「現実との妥協」を裏切りと認識して徹底弾劾しつつ、ヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables,1862年)」のミュージカル版挿入歌「Do You Hear the People Sing?」を楽しそうに合唱しながら玉砕していったトルコ「タクスィム広場運動(2013年)」や香港「雨傘運動(2014年)」の「主義に殉じる潔癖さ」をこそ称揚してしまったのでした。

国際的に若者はこういう奥田民生人の息子」の歌詞にある「戦え若者よ、ワシらが楽になる、大活躍するのを待っている」的大人の無責任な態度が大嫌いです。

ミュージカル映画レ・ミゼラブル(2012年)」の大ヒットに際しても、国際SNS関心空間上の若者達は「21世紀左翼の戦陣訓」と認識された「Do You Hear the People Sing?」について一切触れず「(あの「ウルヴァリン」が自らのアイデンティティについて悩む)Who Am I?」や「(同じく激動の時代をどう生きるか若野の自信が主体的に悩む)Red and Black Song」ばかり回覧していたのが印象的でした。

  • 確かに勝てない戦争を始めた愚を、次々と全滅していく島嶼防衛隊を美化する事で誤魔化そうとした末期大日本帝国に一片の大義もなかった。しかしその現実を受容した以上、現実との妥協点を見つけた「勝者」を「裏切り者」と貶めつつ「玉砕者」のみを称揚し続けるその態度が(最前線で戦い死んでいく事を期待され、強要される若者達の目に)それ以上の邪悪として映る可能性に配慮しなければならない筈なのである。
  • この考え方についてはかつてこうした反論を受けた事がある。「これだからネトウヨは正義について何も分かってないと世界中から笑われ続けるんだ!!  大日本帝国は不正義の遂行を嫌がる若者達に犬死を強要し続け永遠に許されない罪の烙印を負った。それに対して正義を遂行する若者達は老人達の必死の説得にもかかわらず、常に自ら勝手に「これが真の自由だ!!」と誇らしげに喜び勇んで勝手に死んでいくだけだ。我々が良心の呵責を感じる道理など一片もないのだよ」。彼らにしてみればSEALDsですら自ら喜んで勝手に捨て駒となる道を選んだだけであり、その事で悲惨な余生を送る事になっても一切後悔しない設定であるらしい。

  • 私は常に「こんな老害ども、命の捨て甲斐もない」と見捨てる若者側の立場に立っていたが、彼らに言わせればそれこそ「ネトウヨ側の典型的な冷笑的態度」であり、正義の側に立つ限り「同志に一切の良心の呵責を感じされる事なく、喜び勇んで捨て駒として勝手に死んでいく若者達」には事欠かないというのである。そもそも「レ・ミゼラブル」原作者そのものがこうした現行不一致の始祖であり、七月王政に抗議して六月暴動で玉砕したフランスの愛国的な若者達(実際にはその主体は七月王政に裏切られた急進共和派と外国人労働者達だったが、その手柄すら横取りした形)を称揚しつつ、物語中で主人公ジャン・バルジャンに「自らの分身」マリウスを救出させ、自らも現実の世界では七月王政で立身出世を経験している。

特に女性アカウントが「(ジャン・バルジャンが母親にした仕打ちの後悔に配慮したせいで)本人は一切努力せず救済されるコゼット(Cosette)を黙殺し(ディズニー・ヒロインでも同様の立場にある「眠れる森の美女」のオーロラ姫の人気が最悪なのに準じる)、逆境にもめげず(愚かな形ながら)自分なりの愛を貫こうと「On My Own」を歌うエポニーヌ (Éponine、「まどマギ」のさやかちゃん枠?)に同情を集めたのが印象的でした。「ハンガーゲーム」や「進撃の巨人」が若者から見捨てられ(その愚をいち早く悟ったかの様な巧みな対応で「メイズ・ランナー」と「東京グール」が巻き添えを回避し得)たのはそういう時代だったのです…

ふと思い出したのでメモがてら。

こんな話も?

そういえばチュニジアでもこんな事が起こっているのです。

そういえばアメリカも…

むしろこれは現在先進国における「中世的不安定状態」から「近世的安定状態」への推移を対応させるべき状態と言えるかもしれません。

欧州において中世と近世の狭間に「動物裁判」や「魔女狩り」が現れたのは(それぞれが勝手な独自解釈に基づく多種多様な自然法を奉じて独自暴力に拠って自立する)伝統的領邦や地域共同体が割拠し(殺し合いを含む)直接衝突を通じて利害調整する中世型地域分割統治」が限界に到達し、それらを解体しての「(暴力を独占する中央集権が領民間の利害衝突を客観的立場から仲裁する法実証主義に立脚する)近代国家」への移行が必須となったからなんですね。

そうした歴史的経緯から「Second best」の処方箋としての「近代国家=法実証主義社会」を否定すると、たちまち「(特定主体の)究極の自由は(他者にも自由がある事を徹底して否定し抜く)専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマに基づく強者独裁肯定イデオロギー(およびその反動としての革命肯定イデオロギー)に行き着いてしまいます。

まだちゃんとした形で言語化出来ていませんが、実際欧米では既に21世紀に入ってから「近代国家概念」そのものを否定しようとする急進派リベラリズムが「中世暗黒時代への回帰願望」と結び付けて語られる様になりつつあるのです。

こうして確実に勝てるゲームですら落とし続けてきた末路が現在のリベラル層?