フランスのアンシャン=レジーム下では商工業者は農民と共に第三身分に属し、人口の多数を占め、その生産と経済を担っていたが、政治的には無権利の状態に置かれていた。しかし、絶対王政のもとで、コルベール以来の重商主義政策による産業保護政策がとられるようになって次第に商工業が発達、1730年代(ルイ15世)になると、ようやく人口が増加傾向に転じ、経済成長も見られるようになった。その背景は、従来のギルド規制がくずれ、都市の親方層は分解し、農村に独自の農村工業が成長してきたことであった。特に、アルザス=ロレーヌ地方の金属工業、リヨンの絹織物、北フランス・ノルマンディ、フランドル、南フランスのラングドックなどの農村繊維工業(亜麻、羊毛、木綿)などが顕著な発展を見せた。この段階の生産方式はマニュファクチュアであり、問屋が産業資本家として資本を蓄積し始めた段階である。すでにイギリスが同じ時期に工業の機械化が開始され、1760年代の産業革命に突入したのに比べれば、フランスのブルジョワジーの成長は遅れていたと言わなければならないが、この18世紀のブルジョアジーの成長はアンシャン=レジームとの矛盾を増大させ、世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった。
論議が一向に収束しない時は、大抵前提に問題があるものです。
「ブルジョワジー(Bourgeoisie)」…そもそも、その言葉が意味しているのは何?
*参考文献:ベルンハルト・グレトゥイゼン 『ブルジョワ精神の起源:教会とブルジョワジー』 野沢協訳、法政大学出版局、1974年。ISBN 4588000578。NCID BN00729859。
原義はフランス語における中産階級。貴族や農民と区別して使われた。特に17世紀から19世紀にかけて革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合もある。短くブルジョワ(Bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。
- 中世ブルジョワジー…古代から中世にかけての経済的な低迷が終わると中世都市に商工業を生業とするものが集まり始めた。フランス語ではこうした中世都市の「城壁の中の住民」をさして貴族でも農民でもない存在を「ブルジョワジー」と呼んだ。これがブルジョワジーの語源で、後期ラテン語 burgus(ギリシア語 pygros、ゲルマン語 burg)から派生しできた言葉である。
*概ね北イタリア(フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ)やフランドルの羊毛関係者、ハンザ同盟加入都市の参事などが想起される。イタリア・ルネサンスや北欧ルネサンスでも重要な役割を果たしたが、大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると次第に衰退。ただし以降も贅沢品市場の独占は続き、最近では「第三のイタリア」論まで登場。
イタリアにおける「匠のネットワーク」 - 協同組合 沖縄産業計画
近世ブルジョワジー…近世になると大航海時代の幕開きにより、港湾都市では交易によって富を蓄積する者が現れ始めた。また絶対主義の時代には、中央集権化により特に首都が経済的な中心となり、ここにも富を蓄積するものが現れ始めた。又近世における「重商政策」は彼らの成長を積極的に後押しした。彼らが市民革命前夜における「ブルジョワジー」である。当時の権力主体であった貴族階級、聖職者と都市の労働者、民衆、農民との間に位置付けられる、都市の裕福な商人を指してブルジョワジーというようになった。ブルジョワジーの中には巨万の富を蓄え、貴族に仲間入りするものや貴族に準ずる待遇を受けるものも現れ、新たな支配階級を形成しつつあった。
*実際のフランス絶対王政下では13の高等法院(Parlement)に属する1100人の司法官を頂点とする法服貴族(Noblesse de robe)の法律家達、帯剣貴族の所領を預かる管財人、重商主義政策の庇護を受けて栄えたボルドーの商人やリヨンの工房経営者などがこれに該当。神聖ローマ帝国では宮廷芸術家や法律家や軍人や官僚などがその立場にあった。フランスのアンシャン=レジーム下では商工業者は農民と共に第三身分に属し、人口の多数を占め、その生産と経済を担っていたが、政治的には無権利の状態に置かれていた。
しかし絶対王政のもとで、コルベール以来の重商主義政策による産業保護政策がとられるようになって次第に商工業が発達、1730年代(ルイ15世)になると、ようやく人口が増加傾向に転じ、経済成長も見られるようになった。
その背景は、従来のギルド規制がくずれ、都市の親方層は分解し、農村に独自の農村工業が成長してきたことであった。特に、アルザス=ロレーヌ地方の金属工業、リヨンの絹織物、北フランス・ノルマンディ、フランドル、南フランスのラングドックなどの農村繊維工業(亜麻、羊毛、木綿)などが顕著な発展を見せた。
この段階の生産方式はマニュファクチュアであり、問屋が産業資本家として資本を蓄積し始めた段階である。
すでにイギリスが同じ時期に工業の機械化が開始され、1760年代の産業革命に突入したのに比べれば、フランスのブルジョワジーの成長は遅れていたと言わなければならないが、この18世紀のブルジョアジーの成長はアンシャン=レジームとの矛盾を増大させ、世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった。
正直、英国で清教徒革命(Puritan Revolution、1638年〜1660年)や名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)を主導した人々を「市民=ブルジョワジー」と呼ぶのが正しいか間違っているかまでは分からない。いずれにせよ最終的にホイッグ党とトーリー党の二大政党が誕生し、彼らは議会制民主主義を支える議員達となった。これについて大陸側諸国の多くは「くだらないブルジョワ同士の内輪揉め」以上の感想を抱かなかった。
新興富裕層がジェントリー階層に吸収され続けるイングランドでは産業革命が本格化する19世紀まで議会が彼らに独占され、農本主義的政策が優先され続けた。その後英国議会を舞台に展開した「ジェントリー階層 VS 新興産業資本家」の政争についても大陸側諸国の多くは「くだらないブルジョワ同士の内輪揉め」以上の感想を抱かなかった。ここでブルジョワジーと呼ばれた人々は、市民革命の主体となり、それまでの貴族や聖職者が主体であった体制を革命によって転覆させた。そのため市民革命をさして「ブルジョワ革命」とも言う。この場合の「市民」とは「ブルジョワジー」のことで現在の「市民」という概念とは異なっている。現在の「市民」という概念に近い言葉としてシトワイアン(Citoyen)があった。
*これは現在ではほぼ否定されている考え方。上掲の様に大陸系の近世ブルジョワジーは権力庇護下で発展してきた経緯から王党派寄りである事が多く、フランス革命ではサン=キュロット(浮浪小作人)層やその支持を受けたジャコバン派独裁政権から貴族より徹底的に殲滅され尽くし、ほぼ根絶やしにされてしまう。
ルネ・セディヨ 『フランス革命の代償』
また清教徒革命(Puritan Revolution、1638年〜1660年)でも当初「プロレタリアートや中小ブルジョワを寄せ集めた歩兵隊」が王党派貴族の騎兵隊に連戦連敗を続けた。やがてクロムウェル卿が「信仰心のみを基準に選ばれた騎兵隊」を編成して巻き返すが「信仰心のみを基準に選ばれた」とされるだけあって、彼らの出自は明らかになってない(馬を乗りこなしてる時点で所謂「ピューリタン・ジェントリー」の可能性が高いとはいわれている。西南戦争(1877年)で、薩摩士族の斬り込みに対抗すべく元会津藩士が投入された様なもの?)。そのうちブルジョワ階層出身者がどれだけの比率を占めたかなど「世界の終末が間近に迫っている」恐怖を感じながら連日連夜戦い続けたピューリタン信徒達にとって、どうでも良い話題だったのである。
ピューリタン・ジェントリー論の射程- 産業革命以降のブルジョワジー…市民革命によって政治的な参加権を得たブルジョワジーの中には同時に進行していた産業革命と結びついて「産業資本家」になる者が現れた。これによってブルジョワジーは19世紀中頃から資産階級を指す、そして貴族に代わる新たな支配階級を指す言葉として転化した(中華人民共和国では現代中国語でブルジョワジーを「資産階級」としている)。
*フランスでやっと本格的に産業革命が始まるのはルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の時代に入ってから。こうして第二帝政期(Second Empire Français、1852年〜1870年)に急成長を遂げた新興産業資本家階層は政界進出にも成功。「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれ、現在なおその牙城を守り続けている。
ナポレオン三世の経済政策
ブルジョワ革命は、プロレタリア革命はどこいった?- 社会主義者から見たブルジョワジー…プロレタリアート(自らの労働力を誰かに売って生計を立てる者)から見た場合「ブルジョワジー」「ブルジョワ」「ブルジョワ階級」という言葉そのものが蔑称であり、物理的に排除すべき対象であった。これによりかつては貴族の富裕さ、贅沢さを批判するために用いられていた「ブルジョワ」という概念が今度は自らが富裕さ、贅沢さを批判されるために用いられることとなったのである。そしてかつて貴族が敵視され、市民革命によって打倒されたように、20世紀においてはブルジョワが敵視され、社会主義革命によって打倒される時代となった。だがブルジョワを打倒した社会主義体制においても、ノーメンクラツーラや太子党といった新たな支配階級が台頭。その富裕と贅沢を批判されている。こうした社会主義体制国家が再び資本主義体制に移行した21世紀現在、グローバリゼーションによって世界全域でいわゆる「新富裕層」が台頭して新たな支配階級となり、その国の枠をも超える富裕さ贅沢さを誇示する様になった。
ブルジョワジーに対する殲滅戦は、果てしなく続く? 気づくと単なる内ゲバになってないか?
衝撃の事実…「ブルジョワ革命」なんて実在しなかった? そういえば日本も…
- 江戸幕藩体制下では「株仲間(全国規模での富農と富商のネットワーク)」が高度の発達を見せたが、やはり彼ら自身が直接主体として明治維新を主導する展開にはならなかった。
*他国同様王党派寄りで、「中小ブルジョワ」どころか「プロレタリアート」まで侠気から幕府歩兵隊に参加したり、「大ブルジョワ」が様々な形で軍資金を用立てたりしている。
- 彼らの政治参加は士族反乱の敗残兵を迎え入れた自由民権運動期以降。しかし鉄道敷設ラッシュが始まると駅の敷設が各地域の盛衰を左右する様になり、政党政治時代には立憲政友会の「我田引鉄」政策にあっけなく懐柔されて英国同様「保守派主導による普通選挙実現」に大きく貢献する事になったのである。
- かくして「繊維産業ベースの産業発展は、かえってブルジョワ階層の農本主義的性格を強める」という国際的定見に興味深い実例を提供する事になったが、それ故に大日本帝国末期の戦争を兵力供給源としても財源としても支えた側面があり、戦後GHQにより財閥解体と同時進行で大地主解体が強行された。その結果急増した小規模自作農(その多くが兼業農家)が労働者供給階層となり、日本の重工業への転換を助けたとされている。
もう本当に「人生万事塞翁乃馬」状態ですな。
実際には(「フランス革命はブルジョワ革命どころかブルジョワ殲滅戦だった」というアナール派の主張をいち早く取り入れた)ウォーラステインの世界システム論(World-Systems Theory)はもうこうしたパラダイムシフトを組み込み済みだし、日本の歴史サイトも結構多くが対応済みだったりします。
まず市民革命とブルジョワ革命についてなのですが,この2つの用語は厳密な定義のある言葉ではないので,その点に注意しながら説明します
市民革命ですが,日本ではイギリス,アメリカ,フランスの3つの革命を指してだいたい『市民革命』と言っています。しかしこれは日本独自の分類方法だと考えてもらって結構です。欧米ではこの日本の『市民革命』というカテゴライズは一般的ではありません。また,日本の学者でもドイツの第一次世界大戦後の暴動やオランダ独立戦争を市民革命に分類する方もいらっしゃいますので,定義もまちまちと言えます。
このような理由があって,日本では2つの意味で『ブルジョワ革命』が使われることが多いです。
1つは「ある程度財力を持った人間たちが革命の先陣を切った」という意味で使う場合です。イギリスやフランスで発生した革命を『市民革命』と称してしまうと,今の感覚からすれば町に住んでる普通の方々が一斉に国王を首ちょんぱにしたみたいなイメージがしなくもないですが,フランス革命でいう市民とはフランスの第三身分などの新興資産階級であって,労働者や農民ではありません。
*実は江戸幕藩体制下において実際に「町人」と呼ばれたのは大家までで、その代表格は将軍家への御目見権まで与えられ、下手な下級武士より偉かった。その一方で彼らは家賃収入で暮らすランティエ(rentier、不労所得者)でもあり、その彼らを江戸時代のブルジョワ階層と見做し、その一方で部屋を賃貸していた「(職人や人足といった我々に馴染みある感覚での)町人」をプロレタリアート階層とする立場もあるが、例えば「江戸吉原の利用者は初期には大名や大僧正、中期には豪商、後期には大工の棟梁の様な成功した町人たちであった」とする見解などと整合性を取るのが難しく、広く認知される事はなかった。というか現在から振り返るとそもそも「何でもブルジョワとプロレタリアートの対立構造に落とし込もうとするその態度」自体が間違っていたとしか思えない。『市民』という言葉から生まれる語弊を避けるために,ときとして『ブルジョワ革命』という言葉が使われます。この場合であれば,一般的に『市民革命』=『ブルジョワ革命』です。
そして,もう1つの意味は「共産主義革命の前の段階の革命」という意味で,『社会主義革命』と対置して使う場合です。マルクスなど社会主義者の理論によると,経済システムは奴隷制→封建制→絶対王政→資本主義→社会主義みたいな流れで発展していく(的な感じ?)ということになっています。絶対王政は矛盾が膨らみ,いずれ王vsブルジョワの階級闘争が起こって資本主義に移行します。同様に,その後の資本主義も格差社会うんたらみたいな問題が発生して矛盾が膨らみ,やがて資本家vs労働者の階級闘争が起こって社会主義に移行します(ホントかどうかは別としてマルクスの頭の中だとそうなっている)。
*最近は、むしろ革命の発端となったのはすべからず「王族VS王族の内紛」と考えるのが国際的に一般化している。フランス革命の発端はブルボン家とオルレアン家の対立だったし、尊王攘夷運動の起源も(王統を乗っ取った紀州家に対する)水戸藩の怨念だった。ただしこうした前近代的闘争は社会矛盾が鬱積した時代には「火薬樽上での火遊び」となり、いざ誘導爆発の連鎖が始まって以降はすっかり忘れ去られてしまっただけなのである。それでも日本の明治維新は武家が最後までイニチアシブを手放さず、最適のタイミングで「最後の将軍」徳川慶喜が「大政奉還(1867年)」を敢行したから相応の軟着陸を果たした。しかしフランス革命は「復讐心に燃えるサン=キュロット階層(浮浪小作人層)」とその支持を受けたジャコバン派が最終的勝利を飾ったせいで、後世カンボジアのポルポト派に模倣される(フランスにおける産業革命開始を半世紀以上遅らせた)ホロコーストが敢行されてしまう展開を迎える事になったのだった。この資本主義から社会主義への移行を『社会主義革命』,対して絶対王政から資本主義への移行を『ブルジョワ革命』と呼びます。ですからフランス革命は社会主義革命ではなかった(というのが一般的)ですし,マルクス的に言えば,後半は労働者などが相当の影響力を持ったとはいえ,まだ『ブルジョワ革命』なのでしょう。どちらの意味で使っているのかは,その本の文脈や著者の思想によって変わって来るかと思われます。
*最近良く見かける「ブルジョワ革命は確かに実在した。マルクの脳内には‼︎」式まとめ。でもそれって「ナチス・ドイツ成立の責任は全てヒトラーのせい」論と同じくらい浅薄なスタンスでは? 実際に何の根拠なく突然「市民革命の可能性」を論じ始めたのはヘーゲルで、少なくとも最初の時点ではマルクスはそれに反論したに過ぎない。まぁ、そこからさらに発想を飛躍させ、砂上に楼閣を築く式で「プロレタリアート革命の可能性」を論じ始めた責任からは逃れられない訳だけど。
【世界史の窓】市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー
「市民」は「貴族」や「領主」と対する一つの階級、つまり特権や大土地の所有者ではなく、商業や小土地所有によって自立できる財産を持ち、産業の発展に伴って資本を蓄えた有産階級である「ブルジョワジー」bourgeoisie(その単数形がブルジョワ bourgeois)という概念があてはまる。語源的には、ブルジョワとは中世における都市(ブルク)に住む人びと、と言う意味である。豊かな資本家層から、小商人、俸給生活者、下級官吏などの小市民階級(プチブルジョワなどという)も含まれる。それに対して、財産をほとんど持たず、労働力を商品として生きていくしかない階級を労働者階級=プロレタリアという。これはマルクス主義の初期資本主義分析で用いられた用語であり、現在ではこのような階級的な色分けは実態に合わなくなっており、あまり用いられない。
シティズンとバージェス…(引用)イギリス史では「シティズン citizen」と「バージェス bourgeois」(フランス語で言うブルジョワ)という言葉が必ず出てきます。字義通りには、シティズンはシティの市民権を持った住民のことで、バージェスは、そうでない都市の住民、有産者と言うことになります。ただしイギリスでは、シティというのは非常に限られた数しかありません。アメリカ英語では、大きな町のことを何でもシティと言いますが、ほんらい、シティというのは、司教座のあった町のことで、イギリスでは26しかありませんでした。シティ・オブ・ロンドンには、司教座がありましたので、シティなのです。司教座がなくて、城塞、つまりブルクから発展した城下町をブルクと言い、そこの住民がブルジョワということになります。シティズンであれ、バージェスであれ、イギリス近世都市の中では、こうした市民権保有者は人口の半数以下であることが多く、市民ではない住民が多かったのです。ロンドンでも、市民権を持っている人の方が少なかったかもしれません。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.56>
フランス革命でのブルジョワ(有産市民)…フランスのアンシャン=レジーム下では商工業者は農民と共に第三身分に属し、人口の多数を占め、その生産と経済を担っていたが、政治的には無権利の状態に置かれていた。しかし、絶対王政のもとで、コルベール以来の重商主義政策による産業保護政策がとられるようになって次第に商工業が発達、1730年代(ルイ15世)になると、ようやく人口が増加傾向に転じ、経済成長も見られるようになった。その背景は、従来のギルド規制がくずれ、都市の親方層は分解し、農村に独自の農村工業が成長してきたことであった。特に、アルザス=ロレーヌ地方の金属工業、リヨンの絹織物、北フランス・ノルマンディ、フランドル、南フランスのラングドックなどの農村繊維工業(亜麻、羊毛、木綿)などが顕著な発展を見せた。この段階の生産方式はマニュファクチュアであり、問屋が産業資本家として資本を蓄積し始めた段階である。すでにイギリスが同じ時期に工業の機械化が開始され、1760年代の産業革命に突入したのに比べれば、フランスのブルジョワジーの成長は遅れていたと言わなければならないが、この18世紀のブルジョアジーの成長はアンシャン=レジームとの矛盾を増大させ、世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった。
「世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった(彼らが革命の主体だったとは言ってない)」…ふと「周易」第49卦注釈 「過則勿憚改(あやまてば、すなわち、あらたむるにはばかるなかれ)、大人虎変、君子豹変、小人革面(大物は虎柄の様に大胆に自らのパラダイムシフトを宣言し、在野の有力者も豹柄の様にさりげなく立場を変えていく。凡人でさえ何もわからないままこうした時代の流れに迎合する)」を思いだしました。
虎柄…
豹柄…
そして革面…
一般に「偉い順序」とされてますが、実際にはその時対応すべきパラダイムシフトと当人の関係性に依存する訳で、原文はちゃんとその辺りを弁えている様にも見えます。まぁ公然とパラダイムシフトが容認された「科学実証主義の世界」の世界の住人は絶え間なく次々とこの三択を突きつけられ続ける訳で…
私達は一体どこに向けて漂流してるんでしょうか…