諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「最後は勝った」フランスのブルジョワ階層

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砂糖の歴史を振り返ると18世紀フランスが意外と頑張ってる事実が浮かび上がってきます。いや、頑張ってるどころか英国を追い詰めてる感さえ…

砂糖1700年代 イギリス、フランス、オランダがギアナ海岸やカリブ海諸島で砂糖を増産。

【珈琲】1714年 フランスの植物園ジャルダン・ド・プラントで珈琲栽培開始。同年、ハイチのサント・ドミンゴでも珈琲の栽培が始まる。珈琲は南米各地にて生産され、植民地の主要な産物としての地位を確立。

砂糖1730年代 サン=ドマング島でフランスの技師の手により砂糖黍生産を効率化する複雑な灌漑設備などが造成され、1740年代までに英国の砂糖生産の拠点たるジャマイカと並ぶ世界の砂糖の主要な供給源となった。

【御茶】砂糖【珈琲】アメリカ独立戦争(1775年~1783年)…遠因の一つとなったのは、彼らが「英国植民地に国産以外の砂糖や茶を買う事を禁じる法律」を通そうとした事だった。アメリカ人にとって砂糖は贅沢品ではなく重要な交易品たるラム酒の原料だったのである。また以降アメリカ人は愛国心から茶でなくコーヒーを愛飲する様になったという。
*1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものだったが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされた。しかし砂糖法は始まりにすぎず、1765年の印紙法や1770年のタウンゼント諸法などによってアメリカ植民地の支配が強化されると植民地の不満は爆発し、アメリカ独立戦争へとつながっていくことになった。

【御茶】1784年 イギリスで茶の関税が119%から12.5%に引き下げられた(1ポンド(重量)につき品質によって[2.5~6.5]ペンス)。安価になった紅茶は消費量が増大し、ティーセットの需要も増加。

【御茶】1786年 茶の税金が下がってオランダ等からの密輸がなくなる。 
*ただし砂糖の関税引き下げは議会を牛耳る「西カリブ派」に福音派と産業資本家が結託した「マンチェスター派」が勝利する19世紀前半まで持ち越された。

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 当時のフランスは宮廷内こそ「ベルばら」の世界を生きてましたが、在野はそれなりに発展していた様なんです。

ルネ・セディヨ 『フランス革命の代償』

これまで、フランス革命は、自由な経済活動をのぞむブルジョワジーが主役となって、旧体制を打破したものだと考えられてきた。革命によって貴族の支配する封建社会は終り、ブルジョワジーの支配する資本主義社会が到来したという、マルクス主義流の発展段階説である。

しかし、歴史の後景にうごめく無名の庶民に注目するアナール派や、計量経済学の手法を過去に適用する新しい歴史学の潮流は、旧体制は暗黒どころか、多少の波はあれ、順調に産業が発展していた時代だったこと、当時のブルジョワジーは小数派にすぎず、革命の主役どころか、恐怖政治の時代には敵役にされ、貴族より多くの犠牲者を出していたことを明らかにした。結局のところ、革命とは大規模な食糧暴動にすぎず、資本主義社会到来を促進したどころか、フランスに芽生えつつあった近代産業を全滅させ、イギリスに対して決定的な遅れをもたらしたというのだ。

このような新しいフランス革命観の先駆けとなったのはフランソワ・フュレで、主著の『フランス革命を考える』が岩波書店から翻訳されているほか、彼の説とマルクス主義者側の反論を紹介した『フランス革命』(柴田三千雄著・岩波セミナーブック)という手ごろな入門書も刊行されており、ほぼあらましを知ることができる。

もちろん、この新しいフランス革命像はフュレ一人が作ったのではない。今回紹介するルネ・セディヨの『フランス革命の代償』は、経済ジャーナリストである著者が、新しい歴史研究の蓄積を一般読者向けに簡潔に概観した本で、「人口動態」「領土」「農業」「工業」「商業」など、十の部門について、決算書の形ににまとめたものである。

この本では、ロベスピェールやマリー・アントワネットといった革命物語でおなじみの主役は申し訳程度に言及されるにすぎない。そのかわり、プジョー家やペリエ家(あのプジョーペリエである)、革命戦争に動員された農民等々といったその他大勢組の活躍には詳しく光があてられているし「自由・平等・博愛」の美名のもとに、実際には何がおこなわれていたかを率直に語っている。「革命」という言葉に思い入れを持つ人にはショックな内容だろうが、これが現実だったのである。

フランス絶対王政下では13の高等法院(Parlement)に属する1100人の司法官を頂点とする法服貴族(Noblesse de robe)の法律家達、帯剣貴族の所領を預かる管財人、重商主義政策の庇護を受けて栄えたボルドーの商人やリヨンの工房経営者などが中間階層の立場にありました。権力の庇護下で発展してきた経緯から王党派寄りである事が多く、フランス革命ではサン=キュロット(浮浪小作人)層やその支持を受けたジャコバン派独裁政権から貴族より徹底的に殲滅され尽くし、ほぼ根絶やしにされてしまった訳です。

【世界史の窓】市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー

フランス革命でのブルジョワ(有産市民)…フランスのアンシャン=レジーム下では商工業者は農民と共に第三身分に属し、人口の多数を占め、その生産と経済を担っていたが、政治的には無権利の状態に置かれていた。しかし、絶対王政のもとで、コルベール以来の重商主義政策による産業保護政策がとられるようになって次第に商工業が発達、1730年代(ルイ15世)になると、ようやく人口が増加傾向に転じ、経済成長も見られるようになった。その背景は、従来のギルド規制がくずれ、都市の親方層は分解し、農村に独自の農村工業が成長してきたことであった。特に、アルザス=ロレーヌ地方の金属工業、リヨンの絹織物、北フランス・ノルマンディ、フランドル、南フランスのラングドックなどの農村繊維工業(亜麻、羊毛、木綿)などが顕著な発展を見せた。この段階の生産方式はマニュファクチュアであり、問屋が産業資本家として資本を蓄積し始めた段階である。すでにイギリスが同じ時期に工業の機械化が開始され、1760年代の産業革命に突入したのに比べれば、フランスのブルジョワジーの成長は遅れていたと言わなければならないが、この18世紀のブルジョアジーの成長はアンシャン=レジームとの矛盾を増大させ、世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった。

*「ユグノー資本主義起源論」が微妙になる訳である。

 François Furet(フランソワ・フュレ)「トクヴィルとフランス革命の問題」(1971年初出)、『フランス革命を考える』(原書1978) - 國枝孝弘研究室

フランソワ・フュレは、革命史家として、フランス革命ブルジョワ革命とみなす史観を否定し、また、アンシャン=レジームと革命に断絶があり、それによって、旧・新という裁断が生まれたという見方を、19世紀以降に作られたものとして退ける。こうしたフュレの革命観は、トクヴィルの革命観と非常に共鳴している。そのフュレによる、トクヴィルの『一七八九年以前と以後におけるフランスの社会的・政治的状態』(1836)、『旧制度と大革命』(1856)を丹念に読解したのが、この論文である。


断絶を否定するとは、たとえば、フランス革命を始まりと捉えるのではなく、結果と捉えるということを意味する。まず経済面においては、18世紀のフランスは、たとえ制度上は不平等であっても、習俗としては「民主的な」国になっていたとする。それは貴族層が、土地の細分化によって、中産階級の個人の集まりに解消されたり、第三身分の上昇によって、革命前にすでに「平等理念」が人々の精神に入っていたとする。政治面では、地方政権が、貴族階級の手を離れ、国王に与えられることによって、パリの地位的優位ならびに、ばらばらの地方の統一の必要性という事態から、中央集権化過程が押し進められていたとする。フュレは、このようなトクヴィルの見方を、ギゾーが情報源であるとする。特に封建制のなかから、君主制と自由が生まれてくる。つまり「下からは自由の名で、上からは公共秩序の名で」(p.248.)攻撃を受けるのである。ただし、ギゾーにとってフランスには「真の貴族主義的政治社会は決して存在しなかった」のに対して、トクヴィルにとっては、貴族社会とは「中央権力に対して個人の自由を保証する家父長的地方社会」であり、この貴族社会が消えていったことによって、自由ではなく、平等へと道が開かれることになる(p.251)。つまり、これがトクヴィルにとっての民主主義なのである。これは「貴族制の諸社会は地方政権に傾斜するのに対し、民主制の諸社会は中央集権政府に傾く」(p.264.)という理論にまとめられよう。


次に、フュレは『旧制度と大革命』を読み直していく。封建的諸権利の問題、旧制度と大革命の連続性の例証としての公共権威と行政的中央集権化の発展の問題である。と同時にトクヴィルの不分明さも指摘する。君主制官僚機構の形成にとって最も大切な官職売買への言及のなさ、中央集権化過程における伝統的な年代記に沿った発展(進歩)を裏づける根拠の希薄さ、経済的な現象に対する言及の少なさ、貴族の立場の変遷を言う場合の通俗にとどまる見解などである。


そして、『一七八九年以前〜』と、『旧制度〜』を対比し、後者を支配するペシミズムから、トクヴィルの回帰したいと願う失われた時代のイメージを、貴族とその下に集う農民共同体として描き、それを君主制が破壊したのだと指摘する。またそれに続いて貴族主義的伝統は、気概と自由の感覚であり、それが民主主義的凡庸さと対照をなすのだと指摘する。

結構ヘーゲルの理想と重なってくるんですね。いわゆる「復古王政」時代が割と長く続いたのは伊達じゃない?

英国の清教徒革命(Puritan Revolution、1638年〜1660年)もそうでしたが、後世「急進的な市民革命」と絶賛された運動に限って王政復古によって元の木阿弥になってしまっている気がします。「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」って奴は、おそらく暴力だけではそう簡単には破壊出来ないんですね。

17世紀のイギリスでは農村における貧富格差の拡大、対外戦争による財政悪化、プロテスタントカトリックの対立、国王の失政などが重なって王党派と議会派が対立を深めた。その結果がイングランド内戦(清教徒革命)だった訳だが、ここでもヨーク地方の果たした役割は小さくない。

ヨーク地方も王党派と議会派の真っ二つに割れた。1642年7月、ヨーク地方南部ハルでとうとう両者が激突。ハルはもとより王党派で城内に軍事物資を蓄えていたので、それを手にするため国王チャールズ1世自らがヨークから軍を率いてきた。しかし議会派の支持者が門を閉じて王の入城を拒んだので戦闘となり、これを契機にイングランド内戦が始まってしまったのだった。英国史に名高い「ハル包囲戦(Siege of Hull)」がこれである。


ヨーク地方北部は熱狂的なまでの強固な王党派に属しており、ヨーク市を拠点にリーズやウェイクフィールドを次々と攻め落としていった。以降はこれらの諸都市の争奪戦となったが、アドウォルトン・ムーアの戦いに勝利した王党派はヨーク地方のほぼ全域を手中に収める事に成功する。ハルだけが例外的に議会派の砦であり続け、議会派はこれを拠点に反撃へと転じた。1644年春にはスコットランド勢を引き入れてヨークを攻めている。これも英国史に名高い「ヨーク包囲戦(Siege of York)」。ヨークは3ヶ月持ちこたえたが7月のマーストン・ムーアの戦いで議会派が大勝すると陥落を余儀なくされた。以降形勢は逆転し、議会派がイングランドの北部諸州を掌握。ヨーク地方では、東部海岸にあるスカボロー城(Scarborough Castle)が王党派最後の砦となったが、ここが難攻不落の要塞だった為に5ヶ月に渡る防衛戦を持ちこたえる。これも英国史に名高い「スカボロー城大包囲戦(Great Siege of Scarborough Castle)」で、遂に陥落したのは1645年夏の事だった。


ちなみにマーストン・ムーアの戦いで議会派を勝利に導いたのが、ヨーク地方出身のトーマス・フェアファクスと、オリバー・クロムウェルである。クロムウェルは以降の革命を主導し、チャールズ1世を処刑。その死後、王政復古によってチャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位すると彼の死体は墓から掘り出され、反逆者として晒し物にされた。後にその遺骸は家族によってひっそりとヨークシャー台地ウォルドにあるコックスウォルド(Coxwold)村の修道院(Newburgh Priory)に運ばれ葬られたと伝えられている。

 ここにも「勝利する市民」の姿は影も形も…むしろ英仏で共通していたのは「地方貴族の没落」だったかも。中央主権化が進行すれば必ずそういう展開となります。

没落過程にあったフランス田舎貴族

絶対王政期フランスの人民は、第1身分(高級僧侶)・第2身分(貴族)・第3身分(平民)の3階級に分かれていました。このうち、貴族人口は約40万人、人口のほぼ1.5%を占め、フランス全土の25%の土地を所有していました。


この貴族は、3つの階層に分かれます。まずは山賊の末裔である旧来の貴族を帯剣貴族と総称します。剣を携えることを許され、戦いとなれば自前の武装集団を率いる階級。これにはふたつの「貴族」が含まれます。
*「山賊の末裔」は酷いが、考えてみれば北フランス諸侯の多くはノルマン公を含め(後にフランスの王統となる)パリ伯が孤立無援の戦いを繰り広げていた頃には襲撃側だったりする。

パリやベルサイユの宮殿にたむろして、政治の中枢に関わりを持つ帯剣貴族集団を「宮廷貴族」と呼び、約 4000 家を数えました。これに対して、宮殿には参上せず、代官として各地の統治に当る地方貴族をオブロー(Hobereaux ハヤブサ;小形の鷹。小鳥しか獲物にできないことから田舎貴族の蔑称)と呼びます。
ロココ様式絵画を完成させる為にフラゴナール(Jean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)がパトロンに選んだのがこの地方貴族だったといわれている。中央宮廷は既に新古典派の牙城と化していたのである。


帯剣貴族に対して、法服貴族というのがあります。第3身分の中から、経済力をたくわえたブルジョワが生まれました。そのなかでも特に大きな財をなした豪商たちは、王家に金を貸し付けるほどになり、その経済力と発言力は、政治にとって無視できるものではなくなってきます。一方で、帯剣貴族たちの官職は、高額の付け届けがなくては思うに任せないほど腐敗が進んでおり、王家や上級貴族の重要な収入源として、官職売買が行なわれていました。これに便乗して貴族の仲間入りを果たした上部ブルジョワジー出身の成り上がり貴族を「法服貴族」といいます。武器を持つことは許されておらず、「領地」を持たないものもあります。

法服貴族(Noblesse de robe)

アンシャン・レジーム下のフランスにおける、司法もしくは行政上の官職を保持することによって身分を保証された貴族。爵位と違い、官職それ自体は規則上彼らに貴族としての地位を与えるわけではなかったが(同時に爵位も保有する場合はあった)、実際には官職と特別な地位とが結びついていることがほとんどであり、売官制を利用して官職を購入して列に加わる者が絶えなかった。官職はしばしば世襲され、1789年にはほとんどの法服貴族が自身の地位を相続によって得ていた。彼らのうち最大の影響力を持ったのは、13の高等法院(Parlement)に属する1100人の司法官であった。

  • 本質的には文官である法服貴族は、騎士階級の末裔として地位を保証され、軍務を担った帯剣貴族(noblesse d'épée)とは区別されたが、両者はともにフランス革命以前の第2階級を構成した。

  • 法服貴族(特に司法官)は多くが大学で学んだために、学位授与式で着るローブやガウンにちなんで「ローブの貴族」という呼称が生まれた。

  • 元来、官職に伴う地位は国王への奉仕に対する報酬として与えられるものであったのが、次第に(十分な執務能力を持った者に対して)金銭で売買されるものとなっていった。この慣行はポーレット法で公認され、購入した地位を世襲するために官職保持者はポーレット税を支払うことを義務付けられた。父から子への世襲の過程で、彼らの間にはしばしば階級意識が芽生えていった。
    *貴族の間では、長男には法服貴族なり帯剣貴族なりのキャリアを積ませ、次男や三男は僧侶にするのが一般的であった。

  • 法服貴族の地位は軍務の奉仕とも土地の支配とも無関係なため、帯剣貴族からは下に見られたが、高等法院の司法官のようなエリート法服貴族は、帯剣貴族との平等を求めて争った。

  • 本来、金銭によって入手できる法服貴族の地位は比較的獲得が容易なものであった。17世紀には、高等法院の評議員の官職は10万リーブルで販売されたが、18世紀半ばには官職の濫造によってこの価格は半分になった。一方17世紀以後、国王への奉仕の報酬として(本来の方法で)地位を獲得した法服貴族の子孫たちは、彼らの階級への新参者を制限しようとした。深刻な財政難に悩まされた国王が、歳入を増やす目的で大量の官職を濫造しようとした際に、法服貴族は強く反発した。これにより、司法関係の官職から貴族の地位を獲得することは18世紀以降ほぼ不可能になったが、他の官職の販売は続いた。

  • たとえば「国王秘書参事官(secrétaire-conseiller du roi)」になれば即座に貴族の地位を得られ、20年経てば子に相続することも可能になった。この官職は決して安いものではなかったが(1773年には12万リーブル)、何の必要条件も義務もない形だけの楽な官職であったので、以前からの貴族は「庶民の石鹸」(savonette à vilain)と呼んで見下した。

  • 新しく貴族になったばかりで何の爵位も持たない者は、官職と同様に投資商品として販売された男爵領や子爵領といった封建領地を購入し、領地の名称を自身の姓に付け加える必要があった。たとえば、農民の子であったが一代で財を成したアントワーヌ・クロザ(Antoine Crozat)は、1714年に20万リーヴルでティエール男爵領を購入している。一部の地域では、そうした新しい男爵や子爵は地方三部会への登録が義務付けられたが、三部会側に登録を拒否されることもあった。

初期の啓蒙主義者であるモンテスキューに代表されるように、法服貴族はフランスの啓蒙主義の中で重要な役割を果たしたが、革命期の1790年に高等法院と下級裁判所が解体されるとその地位を失った。

7月革命(1830年)以降、政権を掌握した大ブルジョワ(宮廷銀行家)は民間経済を回す術を知らず、中小ブルジョワを怒らせてしまい二月/三月革命(1848年〜1849年)勃発。第二帝政期(Second Empire Français、1852年〜1870年)に入ってやっと産業革命が軌道に乗り、急成長を遂げた新興産業資本家階層は政界進出にも成功。「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれ、現在なおその牙城を守り続けています。
ナポレオン三世の経済政策

この過程で「(日頃から目の敵にされ続け、有事の際には真っ先にスケープゴートにされる)ブルジョワ階層」はフランス国民の視野から消えていきます。手品のタネはこの人。

サン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)の産業階級(Industriels)

サン=シモンは「50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人・職工の不慮の死は取り返しがつかないが、50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は容易に満たすことができる」と公言して1819年に告訴された。

「富の生産を促進することが社会の重要な任務」「財産権は政治憲法よりも、社会の基礎を形作る上で重要な法」とする立場から彼が敵視したのは王侯貴族や聖職者といった生産活動と無関係な一部ランティエ(rentier、不労所得者)のみで、彼らに代わって所領を経営する管財人、法律家、官僚、銀行家はおろか全体の統括者としての地位まで認めている。
*銀行家の様な大ブルジョワと円満な関係にあったオルレアン公が サン=シモンの説をフランス7月革命(1830年)のイデオロギーに選んだのは、こうした要素が都合良かったからに他ならない。

もう一つの特徴は資本家と労働者を等しく産業階級とし、その対立を無視した点にある。1810年代の英国ラッダイト運動は認識していたが「資本の所有者はその精神的優越によって、無産者に対して権力を獲得した」との見解を持ち続けた。「使用者と協業する存在たる労働者は、自ら自由を獲得すべき存在ではない」という考え方は、労働運動に反対しつつ経営の科学化に取り組んだアンリ・ファヨール(Jule Henri Fayol、1841年〜1925年)やフレデリック・テイラー (Frederick Winslow Taylor、1856年〜1915年)といった経営学の父祖達に継承される事になる。

7月王政期における採用はほとんど名目上に過ぎなかったが、ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の時代には積極的に実践に移され産業革命を軌道に乗せた。

 そういえば19世紀後半に入るとフランスは北仏でのビーツ栽培とキューバに移り住んだフランス人砂糖農場主の活躍で世界の砂糖産業に大きなシェアを占める様になります。案外大英帝国にやられてばかりでもない?