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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史⑤そして突如として「京都」が出現。

さてここで問題です。

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それでは京都の起源、平安京(794年〜)への遷都を主導したのは?

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当時の史料には「制作委員会方式であった」と書いてあります。そもそも当時の遷都には南都寺院の影響力を弱める意味合いがあって責任者は藤原種継の様に暗殺される危険がありました。それで誰が責任者だったか秘される事になった上、実に多くの勢力がこの遷都で利益を受けた為、本当に誰が主導したのか推測もつかなくなってしまったのです。まさしくエヴァンゲリオンに登場するゼーレ(Seele)。良い意味でも悪い意味でも「日本的意思決定プロセス」の起源という他ありません。

ところで斉明天皇(在位594年〜661年)の時代から桓武天皇の時代までは、ある意味「滅亡した百済からの亡命者に振り回された時代」と要約可能かもしれません。

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  • 百済再建を大義名分に掲げて遂行された対唐戦争は「白村江の戦い(663年)」における倭国側の惨敗に終わる。

  • 天智天皇(在位668年〜672年)の亡命百済人贔屓はその崩御後「壬申の乱(672年)」を引き起こした。

  • 聖武天皇(在位724年〜749年)の発願で始まった東大寺盧舎那仏像建立事業(745年〜752年)に際しても百済王敬福に率いられた百済系渡来人が暗躍。

  • 仲麻呂新羅征討計画(753年頃より論が起こり759年から763年にかけて準備が進行)においても百済王敬福の復位が大義名分に掲げられた。

  • 南都寺院と戦い続けた桓武天皇の母は高野新笠。父は和乙継、母は土師真妹。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。先んじて夫人の立場にあった藤原永手藤原式家)の娘たる藤原曹司を蹴落として皇太后となったが、南都寺院と関係が深かった桓武天皇の実弟たる早良親王藤原種継藤原式家)暗殺に連座して憤死している。
    *近年では「天皇家百済王族の血が入った」点ばかり注目される傾向があるが、実際には当時の壮絶な氏族戦争の一環に過ぎなかったと考えるべき。ちなみにこの時勝利した土師氏系氏族から菅原家が台頭。大宰府に左遷された菅原道真(845年〜903年)がやはり怨霊化している。おそらく背後に長年にわたって存続してきた「怨霊メーカー」が存在する。概ね太子信仰を広めた勢力と同一視されている。

百済武寧王の子孫高野新笠」には、またこんな側面も。

平野神社と久度神社

現・京都市北区平野宮本町に鎮座する延喜式名神大社平野神社高野新笠と縁の深い神社である。平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代に田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。

また久度神は竃神とされ、この神を祭るのは現・奈良県北葛城郡王寺町延喜式内社・久度神社だけであり、その近くには和乙継の墓もあることから、百済系渡来人和氏が祭祀していた神とされる。とすれば和氏の本拠地はもともとこのあたりと推定される。平野神社の久度神は平城京の内膳司に祭られていたというから、王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移ったと考えられている。

高野新笠と八幡信仰

奈良時代新羅との関係が緊張すると、宇佐から八幡神が上京し、和気清麻呂の託宣でも知られるように、にわかにその信仰が高まった。八幡神神功皇后応神天皇を祭ったもので、三韓平定の説話をともなうことから朝敵や「異境の毒気」とされた渡来の悪疫を払うものと考えられた。神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていたならば、この時代に育った桓武天皇らが、新羅調伏のためにあいまいな母方の血筋を強調したのはきわめて当然のことであったといえよう。

孝謙称徳天皇の時代、有力皇族が次々と失脚、処刑されていく最中にあって(桓武天皇の父)白壁王は難を恐れ、大納言を致仕し郊外の田邑邸で酒色にふける「陽狂」の日々を送っていたという。当時は采女という比較的身分の低い女性(中級・下級貴族層の子女)が女官として高貴な者に奉仕することがふつうだったので、采女である新笠がたまたま白壁王の目に止まり、枕席に侍り情を受けたともみなせる(もっとも新笠が白壁王との間に3人の子等をもうけた時期は主に聖武天皇の時代と重なっている)。いずれにせよ帰化人の血筋の有用性が強調されたのは、井上皇后一派が失脚し排斥されたイメージを払拭するために、桓武擁立派によるものと見るのが自然だろう。

井上内親王による光仁天皇呪詛事件(773年)

難波内親王光仁天皇の同母姉)が宝亀4年(773年)10月14日に薨去すると、同年10月19日、井上内親王に呪詛の嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉された事件。同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。この不自然な死には暗殺説も根強い。

井上内親王は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后

宝亀3年(772年)、井上内親王の廃后と他戸親王廃太子事件のあった後の11月13日、にわかに井上内親王の娘の酒人内親王が19歳で伊勢の斎王に卜定されており、この事件と酒人内親王の斎王卜定は連動していた可能性がある。また、井上内親王立后他戸親王立太子に尽力したと言われている左大臣藤原永手宝亀2年(771年)の2月21日に他界して、藤原氏内部における藤原北家から藤原式家への政権移動があったことも注目すべき事柄である。

こうした背景から山部親王立太子をもくろむ藤原良継藤原百川藤原式家一派の陰謀(あるいは彼らの政治的圧力によって内親王が追い詰められた結果とも)とする解釈がある。

そもそも当時の日本が次第に独立性を高めていったのは皮肉にも周辺諸国の衰退のお陰だったのです。

  • 安禄山の乱(755年〜763年)以降、唐朝(618年〜907年)が衰退期に入った。
  • 統一新羅(676年〜935年)が武烈王の王統が絶えた780以降、衰退期に入った。
  • 渤海(698年〜926年)も三代王大欽茂(文王、在位737年〜793年)の時代以降は衰退期に入った。

つまり「制作委員会方式」の登場には、こうした諸外国との交流を一手に担ってきた外交氏族や渡来系氏族の天下の終わり、それに伴う水面下での利害関係の調整という意味合いもあった様なのです。どう「調整」されたかさえ皆目見当がつかないのが、これまた「制作委員会方式」の恐ろしさ。

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そもそも政略結婚の繰り返しによって、この時代にはもう純粋な意味での外交氏族や渡来系氏族なんて存在しなくなっていました。確かに「経歴ロンダリングに着手するなら今」というタイミングではあったのです。もちろん(律令体制浸透に伴う)氏族解体なんて大事業が一直線に進む筈もなく、嵯峨天皇の代には古代氏族名鑑「新撰姓氏録(815年)」が編纂されたりもしています。しかし最終的には「ちびくろサンボ」の様に溶け合って「京都人」として融合していく事に。

『新撰姓氏録』氏族一覧

最大の地雷となったのは奈良時代の氏族戦争(Clan Wars)末期に相対的に力をつけた物部氏(当時の資料には「石上氏」や「弓削氏」の名前で登場してくる)。中でも藤原仲麻呂に代わって称徳天皇(718年〜770年)の寵愛を得た「日本のラスプーチン弓削道鏡(700年~772年)の存在感は突出していたのです。

石上氏(いそのかみうじ)

朱鳥元年(686年)までに物部氏から改めたこの家が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。

石上麻呂朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。

石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。

弓削氏(ゆげうじ)

「弓削」を氏の名とする氏族。古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族で、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統がある。物部氏と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。

  • 河内を本拠とした弓削氏物部氏の本拠と地理的に近く、職掌からも近い関係にあったと考えられるが、学説には物部氏とは別の一族だとする説と、物部氏の傍系とする説がある。

  • 平安時代初めの『先代旧事本紀』では物部尾輿が弓削連の祖である倭古連の女子、阿佐姫と加波流姫を妻としたとある。また尾輿と阿佐姫の子守屋は弓削大連と名乗った。『日本書紀』でも守屋は随所で物部弓削守屋と呼ばれており、その理由として母方の氏の名をとったとするのは自然である。

  • しかし、孝謙上皇天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の大臣の地位を継ごうとしているから退けよと言われたと語る所がある。この大臣は大連であった物部守屋であろう。ここでは河内の弓削氏物部守屋の子孫だと考えられている。

  • 日本書紀』によれば、物部守屋が滅亡したとき、守屋の子は逃げ散り、奴婢の半数と宅は四天王寺に与えられた。10世紀頃成立と思われる『四天王寺古縁起』にその内容が記され、領地の中に弓削なる地名があり、守屋の子孫従類が弓削5村に住んだとある。これも守屋の子孫が弓削氏に連なるという説を傍証するものである。

複数の氏族があり、各時代に現れる人物がどの系統に連なるかを捉えることは難しいが、9世紀初めの『新撰姓氏録』に基づくと主に以下3つの系統があったとされる。

  • 天神系…高魂尊の後裔天日鷲翔矢命(天毘和志可気流夜命)の子孫を称した、弓削部の総領的伴造。姓は連であったが、嫡流は天武朝において朝臣に改姓。雄略朝の弓削豊穂、6世紀頃の弓削倭古、持統朝の弓削元宝がこの系統の氏人とされる。

  • 天孫系(物部流)物部氏の一族で、物部守屋が母姓を仮冒して弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したとされる。この系統に属する氏人に道鏡、その弟弓削浄人がいるが、道鏡孝謙上皇称徳天皇)の信任を得て、この兄弟の一族は著しく優遇され、大納言に昇った弓削浄人を筆頭に、五位以上の者が男女あわせて10人に達した。これまで、姓は連であったが、浄人らが弓削御浄朝臣、その他は弓削朝臣、弓削宿禰に改められた。道鏡の失脚とともに、姓は元の連などに戻され、一部の者のみ弓削宿禰のまま五位にとどまって官職を歴任したが、その位を次代に引き継ぐことはできなかった。また、9世紀後半の播磨国飾磨郡陰陽師陰陽頭に任ぜられた弓削是雄もこの系統に属するとされる。是雄の姓は連であったが、のちに宿禰姓を賜与された。

  • 地祇系…天押穂根命が手を洗った水から生まれたとされる禰伎都麻を祖とする。

吉備弓削氏備前には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫・物部氏が関係する、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣を収めたという石上布都魂神社がある。この近隣には様々な職能集団が形成され、その中の一つに岡山県久米郡久米南町の「弓削」がある。浄土宗の開祖・法然の両親が参籠したといわれる、美咲町本山寺を天永元年(1110年)に開いた人物として「弓削師古」の記述が見られる。

河内弓削氏…現在の大阪府八尾市に、大和川の旧河道をはさんで旧志紀郡に弓削、旧若江郡に東弓削の地名がある。江戸時代に大和川が付け替えられたため、現在は長瀬川とされるが、古代にはこちらが大和川本流であった。対応して、川をはさんで二つの弓削神社が現存する。奈良時代には弓削寺もあって称徳天皇が参拝したが、今はなく、位置も不明である。道鏡の弟弓削浄人河内国若江郡の人であったが、弓削氏河内国内でもう少し広く分布していたようである。天平宝字8年(764年)に渋川郡加美郷に弓削広足、伯麻呂なる人がおり、神護景雲3年(769年)10月30日に称徳天皇が下した恩恵では、大県郡と若江郡の田祖が全免、安宿郡と志紀郡が半免と差があった。

 道鏡から密教

そもそも道鏡(700年~772年)の神通力の源とは一体何だったのか。この人物は若年の頃に法相宗高僧の義淵の弟子となり、良弁から梵語サンスクリット語)を学んだだけでなく葛城山に篭って密教の宿曜秘法を習得したとされている。おそらく「雑密(体系化されてない完成度の低い密教)」に過ぎなかったとはされているが、それでも一応密教を修得していた事が栄達する上で大きな武器となった事実は揺らがない。

  • そもそも東大寺南院で研究されていた「三輪宗」も、元興寺や大安寺で研究されていた「成実宗」も中国仏教の世界では最終的に密教へと吸収合併させられている。日本においてもそれは空海の開闢した真言密教に吸収合併されている。

  • というより「密教」そのものが、ある意味龍樹「中論」にある「まず空の認識に到達しなければ、不完全な呪術しか繰り出せない」なる一節をヒントに現地のヒンドゥー僧侶との「呪術合戦」に勝つ為の手段として研鑽されてきたものだった。

  • 鎌倉時代にはいると華厳宗僧侶明恵(1173年~1232年)の手によって東大寺にも密教思想が導入される事に。

  • また「法相宗」もまた「中論」に加えて「如来蔵(生まれながらに全ての存在が備えた仏性だが、それと自分を隔てる壁を壊す事によってのみ到達できる)」「阿頼耶識(自分では扱い切れない深層の働きであり、人の心を迷わせる煩悩を全て捨て去るまでは意識出来ない)」「自覚聖知(如来蔵や阿頼耶識に規定の方法で迫るのではなく自らの固有姓や個人的体験を通じて本来の意味での自己実現を目指す)」といった概念を含む「楞伽経」を重んじる。これは密教だけでなく禅宗からも参照される経典である。

要は氏族戦争(Clan Wrs)を終わらせる為には道鏡を「偽物」として駆逐する必要があり、その過程で培われた「本物志向」こそが、インドで滅び中国でも衰退した仏教が日本に残った主要因になったとも。

かくして年表を綴っていると頭の中が疑問符でいっぱいとなる謎の地域がまた一つ増えた訳です。

  • イタリアのボローニャ…チェザーレ・ボルジアのイタリア統一(1499年〜1503年)を阻んだ立役者。西ローマ教会の教学の本拠地にしてパドヴァと並ぶ科学実証主義の起源(人体解剖学の発展を支えた新アリストテレス主義の発祥地)。ボローニャ・ソーセージやボロネーゼ・ソースを生んだ「美食=ブルジョワの街」ながら(いやだからこそ?)共産主義支持者も多く「赤い街」の異名もとる。実は数多くのファシストも輩出。遺作で「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを提示したパゾリーに監督もこの地域出身。

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  • 中国の山東…古代には太公望を初代宰相に迎えた事で有名な斎があった地域。「孔子と盗賊の故郷」という渾名を有する(孔子の故国「魯」は中国山東省南部にあり、後に斎に併合された)。無数の聖人君子を輩出し続けてきた一方で中華王朝を滅ぼす規模の反乱の大半がこの地を起点に発生した。経済面では関東省(元「満州」)と並んで「日本や韓国と最も近い中国」なる側面も有する「白菜の故郷」。地政学的関係というのはそう簡単に縁が切れる訳でもないらしい。

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まさしく森見登美彦有頂天家族(2007年)」「有頂天家族 二代目の帰朝(2015年)」の世界。作中における「天狗とタヌキは決っして友達にはなりませぬ。君臨こそ天狗の本質、面従腹背こそタヌキの本質ゆえに」なる言葉こそ、これらの地域の特徴を最もよく捉えた名言とも?