諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【桜を見る会中止】マスコミと野党連合がまたひとつ「党争」で勝利を獲得?

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マスコミと野党連合がまたひとつ党争で勝利を獲得しました。「桜を見る会」を中止に追い込む事に成功したんです。

そこで飛び出してきたのが「我々はもはや民主党ではないから、当時の話は無関係」なる超理論…映画「カサブランカCasablanca、1942年)」における「昨日何処にいた?」「そんな昔の事なんて誰も思い出せないよ」「明日、何処にいる?」「そんな先に事なんで誰も知らないよ」なる刹那主義を彷彿とさせますね。迷走状態ここに極まれり?

 さてこの問題、これからどう展開するのでしょう?(棒読み
*この問題も結局「巨乳イラスト問題」同様に「女性も所詮はその9割が男性的価値観に洗脳された名誉男性に過ぎないから、男性全員に加えてそうした女性からも一切の発言の自由を奪う事によってのみ真の女性解放が達成される」なる過激エリート独裁主義に落ち着く予感がしてる。「ルソーの血塗れの手」ロベスピエールの影がまたしても…

 むしろ私が関心あるのはこういう展開。

 そして、さらにはこういう話。 

そういえば「どうして日本の国花は桜になったか?」について、こんな話を聞いた事があります。

中華王朝から伝わった「目出度い花」は梅でしたが、古墳時代から続く大和王朝がそれをそのまま継承するには問題がありました。(古来、大陸からの文明伝来地でもあった)越国や(太宰府のあった)九州北部に流された政治的敗残者に「中央への抵抗の象徴」という色をつけられてしまったというのです。とどのつまり「梅の花を詠み込んだ和歌」を代表するのが大友家持や菅原道眞である事についてどう考えるかという話…

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*さらなる水面下で大伴家持の歴史的再評価を後押しした「加賀百万石」前田氏や「幕末動乱に向けて薩摩島津家の復興を輔た」富山の薬売りが暗躍する恐るべき世界。まぁどちらも江戸幕藩体制下における当地の経済的繁栄が産んだ余力の産物と考えれば、穏当?

  • というか、そもそも背景に近畿大和そのものが、当初大陸からの文明伝来地として栄えた「日本海沿岸文明圏」から(秦朝(紀元前221年〜紀元前206年)や前漢朝(紀元前206年〜8年)時代の中央集権体制を少なくとも部分的には継承した後漢朝(25年〜220年)が崩壊し隋唐朝(581年〜907年)時代の安定に入るまでの混乱期、すなわち五胡十六国時代(304年〜439年)を含む魏晋南北朝時代(184年〜589年)の政情不安定を受けての)「瀬戸内海沿岸文明圏」への移行を受けて成立した歴史的経緯が存在する。
    *日本史上においては、欧州の世界史への躍進が大航海時代到来によって経済の中心が地中海沿岸地域から大西洋沿岸に推移したのに匹敵するパラダイムシフトだったとも。

    ここで鍵を握るのが「動乱の震源」出雲と、そこに生じた「土俗的な葬祭政経未分化状態の)」中央集権文化を畿内に伝えた吉備有力者達…そういえば(以下に述べる歴史的展開において重要な役割を果たす菅原道眞を輩出した)菅原氏の大源流もまた、土木技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間にかけて古墳造営や葬送儀礼に関った土師氏とされている。

    吉備有力者集団…彼らもまた「代表的敗残者Representative losers)」の一つとして知られる。1.「日本最初の首都」纏向の建築には豪族連合を主導する立場で参画。5世紀前半には(おそらく畿内豪族集団の百舌鳥古墳群古市古墳群大阪府)に対抗する形で)造山古墳などの巨大古墳が次々と築造された。

    2.むしろその先進性と近畿への近さ故に他地方に先駆けて中央集権性を保てなくなって「群集墓を築造する新興在地有力者集団」にその座を譲り、以降は(古事記日本書紀の記述によれば)東海地方や山陰地方に先駆ける形で畿内政権による直轄地化が進む。ある意味この歴史的段階において既に長州(大内-毛利)と東海(織豊-徳川)の最終決戦の準備が始まっていた?

    3.後世には「四道将軍吉備津彦命やその弟とされる若日子建吉備津彦命稚武彦命)の吉備平定、温羅の鬼退治、桃太郎などにまつわる伝承が残される。(遺跡から考古学的に復元された)上掲の吉備古代地方史との関係は不明点ばかり。出雲地方同様「忘却され、復元不能となった政治的対立図式」が多過ぎるせい。

  • そして大伴氏といえば物部氏同様、5世紀前後に畿内豪族を圧倒する形で台頭した中央集権官僚集団の一員だったにも関わらず、その後の氏族間抗争であまり卯建が上がらず、大伴家持万葉集編纂を思い立ったのも(当時反社的テロリスト集団にまで堕して何かと評判の悪かった)大伴氏再興を目しての事だったとされてるくらい。

    家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。

    大伴家持と梅花の宴 - 山口県大学共同リポジトリ

    戦後軍歌認定されるに至った「海行かば」の歌詞の原典たる長歌万葉集』巻十八「陸奥国出金詔書」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持)も、素直に当時の歴史的文脈に従って読めば「我々は天皇すめらぎの為に殉死する準備なら何時でも出来ているのに、どうして獅子身中の虫たる蘇我氏やその後継たる藤原氏秦氏に蝕まれた朝廷において顧みられないのか」なる(新約聖書が執筆された当時のゼロテ熱心党の如き)怨嗟のルサンチマンを抱く大伴氏の心境を表現したものになると言われてるくらい。しかもこの党争あるいは氏族戦争Clan War)、平安時代に入った応天門の変866年)まで形を変えながら続いていく。ただしこちらの系譜には、まだ「(テロリスト集団大伴氏にイメージを汚されてしまった梅の代替物として桜を」なる発想は存在しない。

  • 一方、この問題の「中興の祖」となったのが菅原道眞の太宰府左遷…

    しかし同時に国風文化黎明期の文化人でもあった菅原道眞こそが「日本の桜の美しさ」を見出した重要な一人に数えられている辺りが歴史の皮肉という…

かくして勅撰和歌集として最初に編纂された「古今和歌集905年〜912年)」が編纂される時期までに「国花としての桜」の地位が次第に確立していった訳ですね。

何事にも歴史あり…それにつけても党争や氏族戦争(Clan War)を巡るドロドロって、何時の時代でも何処の国でも、それ自体は本当に不毛そのものなんですねぇ…(鼻糞ほじりながら棒読み)。梅や桜に一体何の罪科が?

現実は常に残酷で理不尽で御伽話の様にはいかない」?