諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「国民国家」概念の起源③ 「カインの邪悪さ」が所有権の起源。「ニムロドの傲慢さ」が統治権の源流。

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英国薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年) 当時の法律家ジョン・フォーテスキューの政治理論の中核をなす「王的・政治的支配(dominium regale et politicum)」概念。
ジョン・フォーテスキュー著『自然法論 第一部』(邦訳)

そして、そもそもイングランド法制史における「二重大権(double majesty)」論の大源流はゲルマン部族法起源かもしれないとされます。本当にそれだけ?

JAIRO | 国民国家の始原 : ジョン・フォーテスキューの政治理論についての一考察

しかし,フォーテスキューの政治理念はイングランド法制史のなかで論じられた二重大権という概念に収まるものだろうか。

それならばフォーテスキューが古代から中世に至る哲学を援用したこと,とりわけトマス・アクィナスの哲学を彼の理論形成の土台としたことは,さらにはイングランドにはあまり馴染みのなかった自然法論から議論を始めたのは,その妥当性を対外的に証明するためにすぎないということになるのだろうか。

フォーテスキューがイングランドの政治制度を論じたとしても,それの射程はイングランド政治思想を超え出て,西欧政治思想の壮大な歴史に接続するより根源的な意味が込められていると思われる。 

最初に王国を形成した」ニムロド

フォーテスキューは『自然法論』のなかで,自然法を論じた後,支配についての議論に移る。そのなかでとりわけ興味深いのは,最初に王国を形成した人間は邪悪で不正な人間であるという主張から議論を始めていることである。彼はその人物として『創世記』第10章に登場するニムロドをあげ,そしてニムロドの支配は自然法に適っているかどうかから検討を始める。というのも,王権が確立する前に慣習法以外の人法はなく,慣習法は「繰り返された行為と時間の長さのみから成長する」ので,王の始まりを印すことはできなかったからであり,それゆえに「あらゆる統治権自然法のみによって論じられる」からだ。

『創世記』においてニムロドは,「地上で最初の勇士」で「主の御前に勇敢な狩人」であり,バベル,ウルクアッカドといったシンアルの地,そしてニネベ,イル,カラ,レソンといったアッシリアの地に王国を建てた者とされている。『自然法』第7章においてニムロドの名を初めて出したとき,フォーテスキューはミドラシュに従い,ニムロドを「狩人以外の何者でもなく」,「人間の抑圧者で破壊者」だったと否定的に描いた。あるいは別のところでは,「洪水の後,巨人ニムロドが人間に対する権力を強奪し,そこから人間の間で戦争が始まったとき,征服者が被征服者を奴隷にする専制的支配が生じた」と述べている。だからニムロドは,王国を作り,バベルなどの人々に王と思われていたとしても,「王の名に値してはいなかった」のであり,自分の欲望のままに暴力に傾倒する「暴君」という名が相応しいとされた。では,ニムロドはローマ皇帝ネロのように人民によって殺害されるべきなのだろうか。

フォーテスキューはこの問題に対し,暴君の「殺害がこの世にとって好都合なものだとしても,このような陰謀をなすことは誰にも許されてはいなかった」とする。なぜならば,「人民は暴君であったとしても王を処分することを恐れるべき」であり,「いかにニムロドが王の名に値しないとしても,ニムロドが所有していたバベルが彼の王国と呼ばれていたように,王国は彼のものだからである」と述べ,ニムロドの王としての地位を否定しない。ここではとりあえず,王の名に値しない暴君であれ,ニムロドが王権の始まりを印し,彼が支配するバベルが「王国(regnum)」と呼ばれ,それを彼が「所有」することに留意しておきたい。

ニムロド(ヘブライ語: נמרוד)

旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章においてクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。

『創世記』におけるニムロド

同時代の登場人物たちは概ね民族の代表者(族長)として記録されており、その名前はそれぞれの民族名をも兼ねているのだが、ニムロドの場合、そういった民族的な背景は触れられずに単なる個人名として記されている。

  • 旧約聖書」歴代志上第1章(1〜10)…アダム、セツ、エノス、ケナン、マハラレル、ヤレド、エノク、メトセラ、ラメク、ノア、セム、ハム、ヤペテヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。

  • 旧約聖書」歴代志上第10章(1〜13) …ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシ、キッテム、ドダニムであった。これらから海沿いの地の国民が分れて、おのおのその土地におり、その言語にしたがい、その氏族にしたがって、その国々に住んだ。ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。クシの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカであり、ラアマの子孫はシバとデダンであった。クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。
  • 旧約聖書」ミカ書第5章(5〜6)…アッスリヤびとがわれわれの国に来て、われわれの土地を踏むとき、七人の牧者を起し、八人の君を起してこれに当らせる。彼らはつるぎをもってアッスリヤの地を治め、ぬきみのつるぎをもってニムロデの地を治める。アッスリヤびとがわれわれの地に来て、われわれの境を踏み荒すとき、彼らはアッスリヤびとから、われわれを救う。

単独で紹介された人物としては相対的に情報量が少ない。だが、同時代人が残した言葉により彼が狩人の英雄として有名であったことは今日でもよく知られている。その他、彼の王権がバベル、ウルクアッカド、カルネ(その所在はいまだに特定されていない)といった古代都市を含むシンアルの地、及びニネヴェ、カラ、レセン、レホボット・イール(この都市の所在も不明である)のあるアッシリア地方にまで広がっていたことが『創世記(10章)』では述べられている。また、『ミカ書(5章)』ではアッシリアについて預言する際、同地を「ニムロドの地」として言及している。

  • ヨセフス「ユダヤ古代誌」は次の様に記す。「[ニムロデは]状況を少しずつ変化させて専制政治を行なえるようにした。人々に神を恐れないようにさせる唯一の方法は,絶えず自分の力に頼らせることであると考えたのである。また,もし神が再び地を浸水させることを望むなら,神に復讐してやると言って威嚇した。水が達しないような高い塔を建てて,彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐をするというのである。人々は,神に服するのは奴隷になることだと考えて,[ニムロデ]のこの勧告に熱心に従った。それで,彼らは塔の建設に着手した。……そして,塔は予想よりもはるかに早く建った」。

  • マクリントクおよびストロング共編「百科事典(1894年,第7巻,109ページ)」は,次のように述べる。「その力強い狩猟が単なる狩りに限られていなかったことは,その狩猟と八つの都市の建設とに密接な関係があったことからも明らかである。……ニムロデが狩人として狩りで行なったことは,彼が征服者として成し遂げた事柄の前触れであった。古くから狩猟と英雄的行為は特に,また自然の成り行きとして結び付けられていたからである。……アッシリアの記念碑にも狩猟での手柄が数多く描かれており,その語は軍事遠征を表わすのによく使われている。……狩りと戦いは,その後の同国で非常に密接に関連づけられた。よって,この両者は,事実上不可分なもの,切り離せないものと見ることができる。それで,ニムロデは大洪水後に王国を創建し,散在する族長支配の残存部分を統一し,単独の頭ならびに主人としての自分自身のもとに統合した最初の人物であったということになる。しかも,このすべてはエホバに逆らって行なわれた。それは,ハム人の勢力セム人の領地に暴力的に侵入することであったからである」

いずれにせよニムロデが大洪水後に存在するようになった最初の帝国の創建者であり,王だった事実は動かない。 

ミドラーシュにおけるニムロド

ミドラーシュとは、ヘブライ語で、「捜し求めるもの」の意味。聖書解釈法「デラーシュ」と、そこから誕生した文学ジャンルの一つ。

デラーシュとはミクラー註解法の一つで、意味の解説、隠れた意味を探るなど、決して字義通りではない聖書解釈のことをいう。しばしば、文字に書かれていること(ペシャート)とはまったく異なった内容の解釈を引き出すこともある。主に以下を指す。

  • ミドラーシュ・ハラーハー Midrash halakha : トーラー(創世記を除いた4書)のタナイームの注解書群。タルムードとは関係がない

  • ミドラーシュ・アッガーダー Midrash Aggadah(「語りのミドラーシュ」、物語ミドラーシュ):5世紀から16世紀に亘り、膨大な数のミドラーシュが誕生した

単にミドラーシュといえばミドラーシュ・アッガーダーを指すようになっている。 トーラー・シェベアル=ペの成文化された形とも捉えられる。

そこに登場する「ニムロド」はよりネガティブな人物として想定されている。それは彼の名前が即、神に対する反逆を表明しているからである。つまり「ニムロド」とはヘブライ語で「我々は反逆する」を意味している。

  • ニムロデという名前は「反逆する」という意味のヘブライ語動詞マーラドに由来。バビロニア・タルムード(エルビン 53a)も次の様に述べる。「では,なぜ彼はニムロデと呼ばれたのであろうか。なぜならば,その[つまり,神の]主権に対して反逆する(ヒムリド)よう全世界を扇動したからである(聖書解釈百科事典,メナヘム・M・カーシャー編,第2巻,1955年,79ページ。)」。

狩人としての彼の行為もまた、凶暴かつ残虐的に描写されている。なかんずくバベルの塔の建造においてはその企画発案者と見なされており、ミドラーシュには、バベルでの偶像崇拝を拒絶した青年時代のアブラハムを炉に投げ入れるよう命じる場面が詳述されている。この逸話は一神教アブラハム偶像崇拝者ニムロドとの間に起きた神学的な闘争として、アブラハムの信仰心について語る際によく引用されている。

  • 『ベレシート・ラッバー(パラシャー38.13)』にはこうある。僕(しもべ)たちはアブラハムを捕らえるとニムロドに引き渡した。ニムロドはアブラハムに命じた。「火を崇拝せよ!」。するとアブラハムは答えた。「わたしは水を崇拝します。火は水に消されるではありませんか。」ニムロドはまた命じた。「ならば水を崇拝せよ!」アブラハムは答えた。「わたしは雲を崇拝します。水は雲によって運ばれるではないですか。」ニムロドは命じた。「雲を崇拝せよ!」アブラハムは答えた。「では、わたしは風を崇拝します。雲は風によって散らされるではありませんか」。ニムロドはなおも命じた。「風を崇拝せよ!」アブラムは答えた。「ならば人間を崇拝します。人間ならば風に耐えられましょう。」するとニムロドは言った。「おまえは同じ言葉を繰り返してばかりだ。見よ、炎を崇拝するこのわたしが、おまえを炎の中に投げ入れてくれるわ。おまえが神を崇拝しているのならば、神がおまえを炎の中から救い出してくれよう。」ところで、その場にはアブラハムの弟ハランも同席していた。彼は思った。「わたしはどうすればいいのか? もしアブラハムが勝利したならば、『わたしはアブラハムの僕です』と言おう。もしニムロドが勝利したならば、『わたしはニムロドの僕です』と言おう。」アブラハムは燃えさかる炉の中に投げ入れられたが無事に救出された。するとニムロドはハランに聞いた。「おまえは誰の僕か?」ハランは答えた。「わたしはアブラハムの僕です。」ニムロドの僕たちはすぐさまハランを捕らえると炎の中に投げ入れた。彼が炎から出てきたときには腸までもが焼け焦げていた。彼は同席していた父テラの目の前で死んだ。それゆえ、『創世記』(11章28節)には「ハランは父テラの前で死んだ」と書かれているのである。

ユダヤ人社会では比較的ポピュラーな個人名として通用している。

「ニムロド」に比定される歴史上の人物

古来より、伝説上ニネヴェを建設したとされるニムス王とニムロドを同一視する説があるのだが、最新の研究では、アッカドの狩猟農耕の神と讃えられたトゥクルティ・ニヌルタ、あるいは『シュメール王名表』にウルクの初代王として記録されているエンメルカルなどがニムロドと見立てられている。

芸術作品におけるニムロド

ダンテ・アリギエーリの『神曲』では、ニムロドは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。彼に下された罰は、他人には理解できない無駄話を永遠にしゃべり続けながら、彼には理解できない他人の無駄話を永遠に聞き続けるというものであった。これはもちろん、バベルの塔における言語の混乱という故事になぞらえてのことである。

ラディーノ語の民謡『ニムロド王の時代』、及び『祖父アブラハム』では、ニムロドとアブラハムの闘争について描かれている。アブラハムの誕生を占う吉兆の星を見たニムロドは、生まれてくる男児のすべてを惨殺するよう全土に布告する。しかしアブラハムの母は荒野へ逃亡し、そこで出産を果たす。アブラハムは成長するに至って一神教に対する信仰を宣言し、神の実在をニムロドに証明する。ニムロドは命じてアブラハムをかがり火の中に投下するのだが、彼は傷ひとつ負うことなく火の中から出てくるのであった。

彫刻家のイツハク・ダンツィゲルは彫像「ニムロド」を制作し、土壌に根ざして生きる人間の崇高性を提唱するカナン主義の理想を具現化している。

アメリカのスラングでは、愚かな人間を嘲る際の蔑称として「ニムロド」が用いられることがある。その由来は、バッグス・バニーの短編映画にて敵方の愚鈍な猟師を「ニムロド」と呼んでからかっていたことにあるのだが、旧約聖書におけるニムロドが優秀な猟師であったことを鑑みれば、皮肉であることが理解できるであろう。

 クター(冥界)のネルガル(Nergal)信仰

旧約聖書」によれば、アッシリア帝国の「神殿破壊・民族大移動」によって反抗的なイスラエル王国遺民達(失われた10支族)が何処へともなく連れ去られた後、その故地に入植した雑多な異民族集団(サマリア人の先祖)の中に「ネルガル教徒」の姿があった。

  • 「列王記下」17章(22〜34)イスラエルの人々がヤラベアムのおこなったすべての罪をおこない続けて、それを離れなかったので、ついに主はそのしもべである預言者たちによって言われたように、イスラエルをみ前から除き去られた。こうしてイスラエルは自分の国からアッスリヤに移されて今日に至っている。かくてアッスリヤの王はバビロン、クタ、アワ、ハマテおよびセパルワイムから人々をつれてきて、これをイスラエルの人々の代りにサマリヤの町々におらせたので、その人々はサマリヤを領有して、その町々に住んだ。彼らがそこに住み始め始めた時、主を敬うことをしなかったので、主は彼らのうちにししを送り、ししは彼らのうちの数人を殺した。そこで人々はアッスリヤの王に告げて言った、「あなたが移してサマリヤの町々におらせられたあの国々の民は、その地の神のおきてを知らないゆえに、その神は彼らのうちにししを送り、ししは彼らを殺した。これは彼らが、その地の神のおきてを知らないためです」。アッスリヤの王は命じて言った、「あなたがたがあそこから移した祭司のひとりをあそこへ連れて行きなさい。彼をあそこへやって住まわせ、その国の神のおきてをその人々に教えさせなさい」。そこでサマリヤから移された祭司のひとりが来てベテルに住み、どのように主を敬うべきかを彼らに教えた。二九しかしその民はおのおの自分の神々を造って、それをサマリヤびとが造った高き所の家に安置した。民は皆住んでいる町々でそのようにおこなった。すなわちバビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クタの人々はネルガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、アワの人々はニブハズとタルタクを造り、セパルワイムびとはその子を火に焼いて、セパルワイムの神アデランメレクおよびアナンメレクにささげた。彼はまた主を敬い、自分たちのうちから一般の民を立てて高き所の祭司としたので、その人々は高き所の家で勤めをした。このように彼らは主を敬ったが、また彼らが出てきた国々のならわしにしたがって、自分たちの神々にも仕えた。今日に至るまで彼らは先のならわしにしたがっておこなっている。

当時も今もユダヤ人社会は彼らをあくまで「特定の神殿の宗教的権威に支えられた都市国家の住人」として理解しようとし続けている。その為「クター(Cuthah)」を彼らの宗教的中心地と見做し、今日なおそれを祀る碑文が発見されたバビロンより北西15マイル離れた荒野の一角(今日ではテル・イブラヒムTell Ibrahimとして知られる地域)に比定し続けている。

http://www.allardpiersonmuseum.nl/binaries/twocolumnlandscape/content/gallery/projectsites/allard-pierson-museum/afdelingen/opgraving-tel-ibrahim-awad.jpg?1391349462665

  • しかし実際には当時の言葉において「クター」は元来、人の留まれぬ不毛の地を統べる冥界の女王エレシュキガルの在所(すなわち冥界)を著す一般名詞に過ぎず、この区画で「巨大宗教都市クター」が発掘されたという話も聞かない。当時は神殿宗教全盛期であり「ネルガル神も合祀されていた」事跡なら少なからず残っているものの、おそらく単独で都市神として祀られた実績はない。

    アナトリア半島におけるヘラクレス信仰も元来はそういう形態だったらしい。

  • その実態はあくまで(古代エジプトにおけるオシリス信仰の初期形態同様)あくまで在野信仰の一種だったと考えるべきであろう。おそらくその主だった信者もアッシリア近郊で果樹園を営んだり放牧や狩猟で暮らしていた(時として集団化して略奪行為を行う)放浪民あたりではなかったか。

神殿宗教を毛嫌いする在野信仰だった事もあってか、フェニキア商人達の宗教の影響を逃れたたこの信仰の起源は(本来ならバール(男主人)/バーラト(女主人)系伝承に分類される)「ドゥムジ/タンムズ(Dumuzi/Tammuz)信仰」にあったと推定されている。
イナンナ - Wikipedia
タンムーズ - Wikipedia
*暗黒時代の地中海沿岸部では現レバノン出身のフェニキア商人達が(メソポタミアの歴代王がそれを求めて遠征を繰り返してきた歴史がギルガメシュ叙事詩フンババ(フワワ)討伐にその足跡を残す)レバノン杉、猛毒を有する貝から取れる紫色の超高級染料(Murex、ミュレックス、貝紫)、多くの地域の土俗信仰の類似性に着目した「バール(男主人)/バーラト(女主人)神殿宗教」を編纂し、これを武器に巨大商圏を構築したと考えられている。

  • メソポタミア神話『エンリル神とニンリル女神』…エンリルが清らかな乙女ニンリル女神をヌンビルドゥ運河の堤で強姦し、その罪のゆえに最高位の神であるにもかかわらず他の神々によって罰せられ、冥界へ追放されることになる。ニンリルは月神ナンナルを身ごもっていたが、エンリルの後を追う。息子が冥界に住まねばならぬ不幸を避けるために、エンリルは複雑に込み入った企みでさらにニンリルと交わり、三柱の子を妊ませてナンナルの身代わりとする。これによりナンナルは天に昇れることとなった。代わりに冥界に住むこととなった三柱の神々は、ネルガル神、ニンアズ神、そして文書が欠損しているがエレシュキガル(Ereshkigal)女王である。

  • メソポタミア神話「イナンナの冥界下り」…天界の女王イナンナは、理由は明らかではないものの、地上の七つの都市の神殿を手放し、姉のエレシュキガルの治める冥界に下りる決心をした。冥界へむかう前にイナンナは七つのメーをまとい、それを象徴する飾りなどで身を着飾ったが、冥界の七つの門の一つを通過するたびにそれが一つずつ剥ぎ取られ最後の門を潜るまでに全裸となった。さらに死刑判決を受けて殺され、その死体が三日三晩宮殿の壁に鉤で吊るされる。その後復活を遂げたイナンナに対して冥界の神々は「お前が地上に戻るには身代わりに誰かを冥界に送らなければならない」と申し渡され、夫神ドゥムジを指名する。その後、彼と姉が半年ずつ交代で冥界に下ることになった。

    *「豊穣神アフロディテとその恋人アドニスと冥界の女王ペルセポネの物語」や「豊穣神デメテルとその娘で穀物神のペルセポネと冥界神ハデスの物語」同様「穀物の死と再生の説明譚」の一種。オリエントに伝わる伝統的ストリップ「七つのベールの踊り(Dance of the Seven Veils)」の大源流。
    7つのヴェールの踊り - Wikipedia

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  • アマルナ文書「ネルガルとエルシュキガル(NERGAL AND ERESHKIGAL)」…天の神アヌが宴席を設けたが、冥界の女王エレシュキガルは当然出席できない。そこでナムタルという神を代理として遣わせたが、ネルガル一人だけ立ち上がらない。激怒したエレシュキガルを慰める為にネルガルは冥界へと下り、かえってエレシュキガルをメロメロにしてしまう。

メソポタミアでは牧畜神が次第に戦争神と同一視される様になっていった事、および次第に神殿宗教を中心にまとまった都市国家が周辺民を大規模灌漑農業用の農奴供給源としてしか考えなくなっていった事、それでも彼らを傭兵として便利使いし続けた事などが重なって「紀元前1200年頃のカタストロフ」発生の遠因の一つとなった。

前1200年のカタストロフ - Wikipedia

  • 「流民」…狩猟や牧畜や郊外の果樹園運営に携わる一方で農奴や傭兵の補充要員として重宝されたが、しばしば牙を剥き出しにして都市の簒奪者へと変貌した。そもそも現在の都市国家支配層も元を糾せばそうした簒奪者だった事が多かったのがメソポタミア文明の特徴である。

    メソポタミア王朝興亡史

  • 「太陽神=戦争神=疫病神」…太陽神アポロンの起源にも関わるが、そもそも中東において太陽が強烈に照りつける夏は旱魃に見舞われ体力を奪われた者が疫病などで次々と命を失う「死の季節」だったのである。そして傭兵と都市襲撃者の供給源にして疫病の伝播者を兼ねていた「死の運び手」遊牧民は概ね太陽を崇拝していた。その中には「琥珀の道」を通って黒海に到達したヨーロッパ人もしばしば混じっていたと推測されている。
    アポローン - Wikipedia

「紀元前1300年のカタストロフ」以降は、衰退を余儀なくされたウルク(シュメール地方やアッカド地方におけるイナンナ=イシュタル信仰の中心)やバビロン(バビロニア地方やアッシリア地方におけるマルドゥク信仰の中心地)から破壊と殺戮しかもたらさない「恐怖の大王」として恐れられた。

ネルガル/メスラムタエア

マルドゥク - Wikipedia

『エヌマ・エリシュ』に伝えられているマルドゥクの英雄的活躍から一変、『エラ神話』に描かれるマルドゥクは、老齢に差し掛かって落ちぶれた支配者のように描かれ、若い頃の輝かしさを微塵も残していない。エラ、エッラ(=ネルガル)に騙されて支配者としての権力を譲渡してしまい、血で汚された自身の神殿には恐れて入ろうともしなかった。

いずれにせよエジプトにおける「オシリス=イシス信仰」やインドにおける「パールヴァーティ=ドゥルガー=カーリー信仰」の様に統合される事はなく後世に爪痕を残す事もなかった。文献記録が残っていないだけで、こうして一時的に流行してその後消えていった在野の怨霊信仰なら他にも沢山あったであろう。
*日本で近い存在を探すなら、朝廷に逆らってその存在を抹殺された人々、すなわち菅原道真を祀る天神信仰聖徳太子を祀る太子信仰や平将門を祀る将門信仰などがこれに該当しそうである。日本の朝廷はこうした動きを「在野を跋扈する正体不明の体制外宗教」として放置せず、自ら祭場を建てて管理下に置いたり、「日本書紀」の様な公文書の中で触れて正規の歴史観に組み込む事で懐柔しようと試みてきた。その結果最終的には武家に実験を奪われる事になったが別に滅ぼされる事はなく、権威の源泉としての立場を現在まで維持している。

*将門信仰…全国に首塚が残り身体は神田明神に葬られていると言う状況に「オシリス=イシス信仰」や「パールヴァーティ=ドゥルガー=カーリー信仰」との関連が見て取れる。ちなみに「将門の首塚」は明治時代まで前方後円墳の原型を止めていたという。

  • やがてバビロニアの守護神マルドゥクや英雄ヘラクレスと同一視される様になり、ヘレニズム時代の折衷主義の闇の中に消えていった。恐らくアナトリア半島沿岸部に植民地を築いたドーリア人経由でギリシャ神話にもたらされたが、ホメロスオデュッセイア(紀元前8世紀成立)」最古の部分でその起源がミケーネ文明時代まで辿れるとさえ考えられている第11歌「ネキュイア (Nekyia)」において「魂が天界に上げられて以降もその魄は冥界で修羅の冒険を続けている」 とされ、また数多くの伝承で「英雄にして身近の人々をその修羅の世界に巻き込んで死に至らしめる禍津神(God of War)」という側面が強調して描かれる。

  • その一方でこの系譜はどこかで(世界中の多くの神話で神話で元来は地母神との結婚とセットで語られてきた)王権の付与過程から女性を排除しようとする試みの系譜に連なっていく。ウェスタの巫女レア・シルウィアがヘラクレス軍神マルスとする説もある)と交わってロームルスとレムスの双子の兄弟を授かり、山奥に捨てられた彼らが狼に育てられて成人し牧人を率いて蜂起するローマ建設神話は明らかに(アテナイテセウス王誕生譚でも意識された)トロイア戦争叙事詩環の紀元前7世紀成立分で語られるアテーナー・アレアー神殿の女神官アウゲーがヘラクレスと交わって生んだテーレポスがパルテニオン山に捨てられ、牝鹿に養われた後で牧人に発見されて育てられて後にミューシア王となった物語を忠実になぞったものだった。

    ローマ/ローマの建国神話

また後世のヘブライ文献では「旧約聖書」に名前のみ登場する広域統治者ニムロデと同一視される様になっていく。

「 正しく支配した最初の王」ベルス

フォーテスキューは続いて正しく支配する最初の王として,アウグスティヌスの『神の国』を典拠にして,バベルを統治したベルスの名をあげる。とはいえ,フォーテスキューがここで重視しているのは,ニムロドとベルスの間に断絶があったことよりも,連続していることである。

最初に不正な支配者がいた他の事例をあげつつ,そうした支配者たちの「由来するもの」つまり支配を確立したという事実によりそうした支配者の存在を正当化している。その理由は,モーセの時代以前においては一定の土地の一定の慣習法以外に人定法は存在しなかったので,王の威厳を開始するのは「自然法の所業」に他ならず,「自然法のみが王の高みの起源を固めた」ことにあった。したがって,たとえ不正な者が王国を興したとしても,そのことは「王国が自然法のもとで正当に設立された」ことの妨げるものではない。不正な支配者は王権を打ち立て,王国を築いたという点で善なるもので,自然法に適っているということだ。こうして暴君の存在も摂理のなかに含み入れることで,フォーテスキューは以下のように,神の祝福に至る

「ああ,神の力がいかに大きく,永遠法である神の摂理の卓越性がいかに大きなことか。それにより,善き人の善きもののみならず,悪しき人の善きものと悪しきものすべてが,善きことに利するように働くのである。また,全世界の栄光へと変わらないものはないので,いかなる邪悪な人も長続きはしないのである。このようにして善きことが神を称賛し,すべての悪しきことも神を称賛するのである。」

旧約聖書歴代志上第一章(43〜51)

イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。ベオルの子ベラ。その都の名はデナバといった。ベラが死んで、ボズラのゼラの子ヨバブが代って王となった。ヨバブが死んで、テマンびとの地のホシャムが代って王となった。ホシャムが死んで、ベダテの子ハダデが代って王となった。彼はモアブの野でミデアンを撃った。彼の都の名はアビテといった。ハダデが死んで、マスレカのサムラが代って王となった。サムラが死んで、ユフラテ川のほとりのレホボテのサウルが代って王となった。サウルが死んで、アクボルの子バアル・ハナンが代って王となった。アル・ハナンが死んで、ハダデが代って王となった。彼の都の名はパイといった。彼の妻はマテレデの娘であって、名をメヘタベルといった。マテレデはメザハブの娘である。ハダデも死んだ。

「支配者による覇権」は「自然法に適う善」か?

しかし,たとえ不正な支配者であっても,支配を確立したことをもって,それがどうして自然法に適う善と言えるのだろうか。フォーテスキューは『サムエル記(上)』をもとにして,そのような支配に対して考えうる異議を2つあげ,それに対する反論というかたちで議論を進める。

第一の問い掛け「神を王とするイスラエルの民にとっては、人間の王を求める事そのものが罪」なのか?

第1の異議は,『サムエル記(上)』12章に「あらゆる重い罪の上に,さらに王を求めるという悪を加えました」と記されていることからして,神を王とするイスラエルの民が人間の王を求めたことによって罪を犯したのであれば,王を立てることは一層重大な罪になるというものである。

それについてフォーテスキューは,すべての民族は神の民であるが,イスラエル民族は神を王とする選ばれし特別な民であり,他の民族のように王に裁きや戦いを求めるのは適切ではないと同意したうえで,王を求めることが罪だとしても,それは神を王としていたイスラエルの民に課せられた罪であり,したがって「彼らが要求した王の威厳が不正なものであったことを立証するものではない」し,それどころか「王の威厳は善きものであり,それを設定した法も善きものなのである」と言う。

つまり,イスラエルにはもともと王(神)がいたのであり,王がいること自体に問題はなく,自然法に適うものだとされる。とはいえ,まだこの段階では,不正な王を支配者と認める理由,換言すれば,人間を王とする王権がなぜ立てられたのかという起源とそれに由来する本性に基づく正当化の説明にはなっていない。

第ニの問い掛け「王が民の財産を没収して家臣に分け与えるのは自然法と対立する」?

第2の異議は,『サムエル記(上)』8章で書かれている,王が民の財産を没収して家臣に分け与えるという王法は,カノン法に明記され,『マタイによる福音書』にも似たような記述があるところの,自らにして欲しくないことを他人にすることを禁ずるという自然法と対立するという異議である。

これに対する反論から議論は一気に深化する。

フォーテスキューはその議論の初めに,『自然法論』の中心的な位置を占めるもっとも有名な第16章において,トマス・アクィナスとアエギディウス・ロマヌスに依拠しながら,支配者が「自ら定めた法にしたがって,また自らの意思にしたがって支配する」ところの「王的支配」と,支配者が「市民の立てた法にしたがって市民を支配する」ところの「政治的支配」を区別する。

そしてトマス・アクィナスの議論から「王的・政治的支配」と呼ばれうる第3の支配形態があることを指摘する。フォーテスキューが典拠としたトマス・アクィナス著『君主の統治について』には「王的・政治的支配」という言葉は出てこないので,その合成はフォーテスキューの独創によるものである。

フォーテスキューはその例証としてイングランドの統治形態を提示する。イングランドでは,三身分の同意なしに法制定や課税ができないだけでなく,司法も王命ではなく国法に従うことが宣誓によって義務づけられている。したがって政治的支配と言えるが,しかし他面では,王の権威なしに法を創造することはできないし,王国は相続権に基づいて王により継承的に所有されるので王的支配と言える,とされた。フォーテスキューはさらに,皇帝の意思が臣民すべてにとって法となったが,それがローマ人のために支配し,皇帝権が継承されなかったローマ帝国や,神を王にもち,ほとんどの部族が参加する会議を開いていた人間の王を要求する以前のイスラエルも,王的・政治的支配が存在した例としてあげている。

「支配(dominium)」という語は,「家長(dominus)」,さらには「家(domus)」に由来し,「所有」「権威」「主権」といった意味も含む多義的な語である。クライムズはそれを dominion と,クレアモント卿やプラマーは government と訳すことが多く,直江喜一氏の邦訳では「支配」と訳されている。J・H・バーンズが言うように,それにあてはまる完全に満足のいく訳語はないだろう。本稿では基本的に「支配」と訳しているが,フォーテスキューの理論におけるその語の中心的な意味は権力関係にある。というのも「支配する(dominor)」と権力論的意味合いの強い「統治する(regno)」を互換的に用いており,さらに王的支配の開始を「王的権力(potestas regia)」の開始と言い換えているからである。また政治的支配についても,政治的とは「多数者の行政参加によって規制される」ことを意味するとしており,政治的支配の場合も「多数者」である市民の権力行使が概念の核になっていることが分かるからである。

フォーテスキューはこのようにして「王的・政治的支配」という概念を打ち立てたが,そこに王による統治の要素があることに変わりはなく,したがって,王法と自然法の対立は続くことになる。

フォーテスキューはこの問題を『自然法論』17章で確認した後,王的権力と政治的権力の本質に迫っていく。

権力論的見地から見たフォーテスキューの支配論

最初に問題となるのは,王の起源と自然法の関係についてであり,フォーテスキューはたとえ邪悪な者どもが王的支配を始めたとしても,王的支配が自然法によって開始したことを次のように説明する。

「カインの邪悪さが貪欲によって地上の上に最初に境界線を引き,ニムロドの傲慢さが人間に対する支配を最初に強奪した。しかし人類にとって,これらより良いことないし有益なことが起こることはありえなかった。すべてのことが以前と同じままであり,人間の罪の後,地上において人間に対するいかなる支配もなかったとすれば,公的なことは人間にとってより不適切にしか執り行えなかっただろうし,そしてまた,正義が欠けているゆえに,人類は相互の殺戮によりそれ自体壊滅していたからである。」

この引用のなかでもっとも重要なのは,「人間の罪」の前と後で区別をつけていることであり,それはフォーテスキューの政治理論におけるもっとも根本的な区別の一つとなっている。「人間の罪」とは,言うまでもなくアダムとイヴが犯した「原罪」を意味する。

旧約聖書」創世記第4章(1-16) 

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
*ここでもまた執拗に「土を耕す者が羊を飼う者を大地に生贄として捧げる」モチーフが繰り返される。ただし女性を排除した形で。

ジョン・ロックの自然状態論とフォーテスキューの「原罪以前・以降」

引用文中の「すべてのことが以前と同じままであり」という言は,この原罪以前の状態を示している。「平和と善意と相互扶助の状態」というジョン・ロックの自然状態論を彷彿させる考え方である。だが,ロックに似ているのはそれだけであり,2つの点で大きく異なる。

  • その一つは,ロックが自然状態において私的所有が自然権として享受されていたとしたのに対し,フォーテスキューは堕罪以前,人間は「あらゆるものを共通に所有し」,所有権をまったく知らなかったとして,原始共産制のような社会を描いていたことだ。この点が重要なのは,王権の相続に係わるからであるが,それについては後述する。

  • もう一つは,支配者の有無についてである。ロックの場合,自然状態は自然法の支配の下で形成された自由で平等な状態が想定されており,そこでの自然権の享受が不確実であるがゆえに,社会契約によって政治社会が形成されるという理論を展開する。それに対してフォーテスキューの場合,自然法に基づく「自然な衡平」があるとしたことから,一見したところロックの自然状態と似た状態が想定されていると考えられるが,そこには何らかの支配者が想定されている。

フォーテスキューは,「多くの人のなかで生きる社会的かつ政治的動物であることは人間の本性であり,……また各人は本性上,私的で独自の利益を調達しそれを得ようと画策するので,多くの人からなる人間社会は,もしそれを監督する人によって支配されなければ,没落し消滅しただろう」と言う。ここで述べられている「利益」が善を意味することは,「最高善は,人類の最初において,常に善を望むように人類の本性をその影響下においた」という言葉から分かる。

したがって人間は善をめざす以上,その自然な本性からして「何等かの首長か支配者がいなければ,社会において生きていけない」存在であり,支配者をもつことは自然なことであるというのがフォーテスキューの考えなのである。

フォーテスキュー自身が言うように,彼はこの点で,最高善のもとでの人間的善の追及,目的論的な共同社会観,自然な支配者の存在を説いたアリストテレスの理論を受け継いでいるが,内容的には,共産主義と哲人王の支配を説いたプラトンの理想国家論に似ているといえる。

ホッブズの社会契約論との類似性と「秩序構成権力」

フォーテスキューによれば,原罪を犯す前,人間は「無垢の状態(statu innocentie)」にあった。そこには人定法が存在せずに人間の本性を示す自然法が支配し,「自然の衡平」によって罪を犯していない人間にあらゆるものの分け前が分配されていた。

ならば原罪以降の状態についてはどうか。「地上において人間に対するいかなる支配もなかったとすれば……人類は相互の殺戮によりそれ自体壊滅していた」という言葉が示すのは,原罪以降,堕落した人間は暴力的な無秩序状態に陥ることになり,それゆえに殺し合いを防ぐためには支配者が必要であるということだ。それがニムロドのような邪悪な者が権力を握って支配することも自然法に適うとした理由である。

こうして「王の至上性は,不誠実な者の下で,またその者によって創始されて存在するようになったが,しかしそれは自然なものであり,自然法が定めたものであった」。「王の権力の創設は,それがいかなる者によってなされたにせよ,常に善であるのみならず衡平でもあるとみなされるがゆえに,正しきものだった」のであり,「正義の徳のみならず罪の悪もが自然法の作用に仕えることになった」という言葉は,このような意味で理解することができる。

そうだとすれば,このような支配者は第一義的には暴力をもって秩序を形成する武人である。そのことは,王を要求するイスラエルの民に対し,神の命令に従って預言者サムエルが「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず,あなたたちの息子を徴用する。それは戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ……」と言ったことを引用していることから理解できる。あるいはまた,イスラエルの民が王を求めるという罪を犯したことに関して,それを促した他の民と同じくなるために,王によって裁かれるために,王が彼らの戦を戦うために,という3つの動機をあげ,『出エジプト記』第19章を典拠として王たる神がそれを行っていたので人間の王を求めたのは罪であり,王の威厳そのものは正しいと主張したことから,王の役割が何よりも暴力によって秩序を形成することに置かれていることが分かる。

王的権力の起源はこの暴力にある。

そしてその機能に注目すれば,その権力を「秩序構成権力」と呼ぶことができよう。こうしたフォーテスキューの立論のなかには,「万人の万人に対する闘争」という自然状態を脱して自己保存を実現するために,各人が自然権を相互的に放棄し,主権者にすべての権限を譲渡するとした,ホッブズの社会契約論に類似した論理構造が存在する。

もちろん,そこに自然権や社会契約や主権といった近代的な概念がないことは言うまでもないが,暴力を用いる支配者によって無秩序が克服されるというモチーフは共通している。

注意すべきは,このような暴力に依拠する支配者は,あくまでも原罪以後の状態のなかから出てきたものであり,原罪前から存在する共通善のための支配者とは異なることである。それについては,王の制定する王法について述べたところで,「王法は,始原となる自然法のように楽園で生まれたわけではないし,さらには理性的被造物から始まったわけでもない」のであり「人間の本性が原罪によって汚され,始原的な無垢の純粋性が大地における異教の王の下で失われたとき,王法は突然現れた」と言っていることから明らかである。

改めて「王が民の財産を没収して家臣に分け与えるのは自然法と対立する」?

ここまできて第2の意義への答えが明らかになる。たとえ不正な王だとしても,原罪後にあって人民の上に強き者を王におき,無秩序を克服するために王的権力を行使すること自体は自然法に適ったものであり「神に由来する」。したがって,王と被支配者の間に不均衡が生じるのは当然のこととなる。「人間社会に不均衡が存在しなかったとすれば,その社会には秩序が存在しなかったことになる」ので,人間社会の秩序には不均衡が必然的に含まれることになる。だから王法そのものは自然法と矛盾しない。

しかし,原罪後に立てられた人間の王は「法の力によって王の悪行を抑制できるいかなる者にも服することがないままで」あり,そして「すべての人定法の拘束から解放されて,不正に行動できる」権力をもったので,臣民の誰かを勝手に徴用したり,財産を略奪したり,土地を自らの下僕に与えることさえもできた。したがって,こうした王によって制定される王法は「ある時は善をなし,しかしより多くは悪をなす」という具合に,王の意思によって変化しうるものである。

このように論じるフォーテスキューは,自分の欲望に任せて権力を濫用し,臣民を圧迫する者は罰を逃れるものではないとして,そのような権力行使を自然法に反するものとして断罪する。したがって,王法は自然法に従うべきで考えるまでもないというのがフォーテスキューの答えであるが,そこには王法の存立そのものは自然法に適うものだが,王法はつねにそこから逸脱する可能性をもつという含意が込められている。

「所有権」の起源と「支配者の汗の対価」

このような立論から,フォーテスキューの現実主義的な視点を垣間見ることができる。彼は暴力に起源をもつ王的権力は本来,それ自体何の拘束も受けないあからさまな暴力的性格をもっているとしたが,そこには暴力が政治において果たす役割についてのリアルな眼差しがある。さらに暴力をそれとして認めて理論に組み入れる思考の根には,人間をありのままに受け入れる態度がある。

トマス・アクィナスは目的論的自然観を論じるなかで,目的因を第一の原因として自己実現をはかる人間の自然本性として,理性的欲求とともに自然的欲求をあげたが,フォーテスキューもまたその種の現実主義的な視線をもっていた。王の暴力的起源ということもまた,現実的な話であって神話の世界の話ではない。マックス・ウェーバーによれば,「国王は,どこにおいても,第一次的には武侯」であり,「王制は,カリスマ的英雄性から生まれてくる」。フォーテスキューがあくまでも狩人であり,王ではないニムロドを王国の始まりに位置づけたのは,そのことを政治理論で表現したと言えよう。王のそうした起源はまた,王国という制度のなかにも表れている。

先に指摘したように,フォーテスキューは堕罪以前に所有権はなかったとしたが,堕罪後に神がアダムに向かって「お前は顔に汗を流してパンを得る」と言った『創世記』のなかの言葉を引き合いに出し,ここから所有権が発生したとする。

このことからフォーテスキューが導き出した論理は,第1に,所有権は最初に作られた自然法ではなく,自然法の「準則」によって生じたものとなり,人間にとって本質的で絶対的な法とは言えなくなること,第2に,獲得された所有権は獲得者の「汗」,すなわち労働の対価として生じたので,それを継承する者は,所有者の「汗」に関与した者,すなわち息子であるが,父親の存命中は彼自身の決定によるのでなければ,その家産が取り上げられることはないし,息子に継承されることもないこと,そして第3に,このような相続権は永続的な不動産と土地に対する所有権にのみあてはまり,永続的でない動産などにはあてはまらないこと,である。

当時のイングランド法は「土地法およびそれに結びつけられた財産の観念が現在憲法ないし公法とわれわれが呼ぶものの代わりとなり,また,それの目的に役立っていた」ので,王国の成り立ちは所有権と緊密に連関している。フォーテスキューがニムロドは国を所有していたと言い,その国を王国と呼んだのは,このような所有権論に基づいてである。王国はいかに暴力的な人間であろうと,彼の「汗」によってつくられた秩序によって成り立つので,彼の所有物ということになるからだ。王国は暴力的起源をもつ支配者である王の所有物である。そして王国はまた,土地と同様に相続法によって世襲できる財産の一部となる。

フォーテスキューはその例証として,カインが弟を殺した最悪の人間であっても,彼が建てた国を息子たちは自然法の準則に従って相続することができたことをあげている。このような王国とその継承についての考え方は,中世のイングランド法に沿うものであった。ちなみに,王は彼の国王の占有権をもっていたが,王国である財産と,王国によって与えられた財産ないし使用権との間に区別があったので,臣民の支配的所有権を侵害せずに占有することが可能であった。ニムロドはこのような支配者であり,彼が王権の起源にあったとしても,しかし彼は「王には値しない」とされた。

それでは「真の王」とは一体いかなる存在か?

では,真の王とは一体どのような者のことを言うのだろうか。これについては,原罪以前にあった共同体の支配者は原罪以後どうなるのかを検討するなかで考えてみたい。

フォーテスキューは人間の自然な属性から支配者が必要であることを述べた後,続けて「とりわけ,人間の本性を過ちに陥りがちにした原罪によって,人間の本性が損なわれて以後はそうである」と述べる。ここからこの種の支配は強化されつつ継続することが分かる。

そのことは,トマス・アクィナスの言葉を引用しつつ「無垢の状態」において,つまり原罪以前においては「王的統治ではなく,政治的統治が存在していた」と述べたところから明らかである。このような政治的統治において行使される権力を「王的権力」と対比して「政治的権力」と呼ぶことにしたい。

「王的権力」に対峙する「政治的権力」と「正義構成権力」の登場。

政治的権力とは「市民の立てた法にしたがって市民を支配する」政治的支配において行使される権力である。フォーテスキューは別のところで,「王の下す個々の判決においてすべての市民の同意が欠けていることがあってはならない」とも述べている。フォーテスキューの時代に,ましてや彼が引き合いに出したロマヌスの生きた13~14世紀に,近代的な意味での「市民」は存在していないので,市民と人民はほぼ同義であると思われる。これらのことから,政治的権力とは人民の意志に淵源をもつ権力であると言える。

では,人民とは何か。フォーテスキューがアウグスティヌスの言葉を借りて,「人民とは法への合意と利益の共通性によって結合した人間の集合体」であると述べていることからすれば,人民とは集合概念である。
*ハンソンは「フォーテスキューの人民概念には人権をもつ個々人の意志という近代的な含意はまったくなく,貴族と互換的な意味で使われることもあった」という指摘を紹介したが,それと合わせて考えれば,「人民の意志」とは政治的共同体の意志のことであり,その主体がどこにあるかは問題にならなかったのである。

政治的権力が人民という集合体の意志に起源をもつとすれば,その機能ないし目的は何だろうか。フォーテスキューはトマスを援用しつつ,ローマの皇帝が政治的権力によっても統治したとして,その理由を「元老院によって助言を受けたから」ではなく「皇帝権が皇帝の相続人に継承されなかった」こと,そして皇帝が「多くの人,すなわちローマ人の利益のために」支配したことに求める。

前者は政治的権力が人民に発することから派生すると言えるが,後者については,権力そのものの規範的性格を規定している。王を要求する以前のイスラエルにおいて,支配者である士師たちは自分たちのためではなく,イスラエルの「共通の利益のため」に支配していたことも,そのような性格をもつものであった。この場合の政治的権力は,「人間を徳に向かって秩序立てる」という自然法に従って,共同体の善を実現するという目的をもつ権力を意味する。こうした権力は,「無垢の状態において存在する,自由人をその善あるいは共通善に向けて統治し方向づける義務」をもつ,原罪前に存在した支配者の権力と同一である。したがって,政治的権力は人民に由来する権力という起源的意味と,正義を実現する権力という機能的意味の2つの意味をもつと言える。ここでは後者を「正義構成権力」と呼ぶことにしたい。

「王的権力」と「政治的権力」、「秩序構成権力」と「正義構成権力」の鋭い対峙(あるいは「幸福な結婚」)

特別権力関係論 - Wikipedia

イングランド法制史における「(ゲルマン部族法起源かもしれない)二重大権(double majesty)」論にこの観点を加え、ロックやホッブス啓蒙主義的政治論を準備したのがフォーテスキューの政治理論の中核をなす「王的・政治的支配(dominium regale et politicum)」概念だったという考え方。

いや、より正確には、それを準備したのは薔薇戦争(1455年〜1485年 / 1487年)におけるヨーク派、清教徒革命、清教徒革命(狭義には1641年〜1649年、広義には1638年〜1660年)における国王派と議会派の不毛な潰し合い(恣意的な法運用による政敵の抹殺行為の繰り返し)だったというべきかもしれません。
清教徒革命 - Wikipedia

かくして英国とドイツの法哲学は法実証主義(英legal positivism, 独Rechtspositivismus)に到達。

法実証主義(英legal positivism, 独Rechtspositivismus)

法哲学における法実証主義に類する思考そのものは、ほとんど普遍論争まで遡ることができるが、それを体系的に纏め上げた最初の法哲学者は、イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムである。

デイヴィッド・ヒューム経由で事実と価値の分離論を引き継ぎ、功利主義の立場から自然法思想及びコモン・ローを批判したベンサムの理論は、ジョン・オースティンの主権者命令説に引き継がれ、分析法学派の基礎を築くものとなった。このため、分析法学の学統を受け継ぎそれを再興したハーバート・ハート以来の英米法哲学では、法実証主義がなお有力であり、法哲学者は自己の立場を法実証主義との異同から明らかにする形で提示することが多い。

また、法実証主義に見られる方法二元論の立場を、ヒュームからではなくイマヌエル・カント経由で引き継いだのがハンス・ケルゼンである。新カント派に属するケルゼンは方法論上、法の認識における、事実と規範の徹底した分離を要求する。これによって、事実とは完全に切り離された、純粋な規範の体系の探求としての純粋法学が誕生することになる。

ヒュームを引き継ぐ英米系の法実証主義は、法の存在条件を社会的事実に求め、価値の問題を「あるべき法」を探求する正義論へとさし回して留保するが、カントを引き継ぐ大陸系の法実証主義は、ケルゼンに見るように法の内的体系性において法の「(事実とは切り離されるべき)規範性」を強調する。英米・大陸の両者の間で、方法二元論が全く異なる形態をとっていることに、注意が必要であろう。

悪法問題

実証主義には、それが正義や善といった価値から法を切り離してしまう(「悪法も法である」)ので、悪法に対する批判的態度を失わせる、といった批判がなされ、また法実証主義は戦後、ナチス体制下においてあった悪法への批判の基礎になれなかったとして、自然法学派からの批判にさらされた。グスタフ・ラートブルフの確信犯論が著名。

しかし、法実証主義は、法概念論(法の認識)と法価値論(法の評価)との峻別を主張するのみであって、法価値論の放棄を説くものではない。実際、ベンサムのコモン・ロー批判、ハートのリーガル・モラリズム批判、ケルゼンのイデオロギー批判など、法実証主義者は多くの場合、精力的な悪法批判者でもある。法実証主義は、法の存在条件を社会的事実のみに求めるので、法が法であるというだけで遵守されるべきだとは主張しない。
*むしろ逆に「悪法問題」には「正義実現の為には「法の不遡及」原則の放棄が不可欠である」という方向に向かい、市民革命や共産主義革命などに際して「既得権益者の生命権と財産権の放棄」を正当化し、その内ゲバによる自滅を奨励してきた側面もあったのではあるまいか。
法の不遡及 - Wikipedia
*そうしたジレンマが究極の形で表面化したのが「クメール・ルージュベトナム語Khmer Đỏ、クメール語ខ្មែរក្រហម、中国語紅色高棉、1968年〜1996年)のホロコースト」だったともいえる。彼らは「知識と財産の不平等」解消の為にインテリ=ブルジョワ階層そのものの粛清をはかり「民族的不平等解消の為にベトナム系市民に対する民族浄化を敢行して「同じ共産主義的正義を奉ずる立場の筈の」ベトナムの軍事介入を招いて自滅したが、それまでの間「これこそ共産主義的正義の完成型」と世界中の左翼陣営から絶賛され続けたのだった。
クメール・ルージュ - Wikipedia

*一方「クメール・ルージュホロコースト(犠牲者200万人以上)」と「インドネシアの9.30事件(犠牲者50万人〜100万人)」の間の線引きに苦慮したベネディクト・アンダーソンは「各植民地における公定ナショナリズムの履行のされ方の違い」に答えを求めた。少なくともインドネシアには「ベトナム人やカンボジア人やタイ人や華僑の間に鬱屈する相互憎悪」が見られない点に注目した結果といわれている。

しかし残念ながら薔薇戦争清教徒革命の経験から「基本的人権法の不遡及原則の全面否定は必ず大虐殺とそれに伴うモラル・ハザードを誘発する」なる結論に到達した英国の法哲学的リアリズムに対する決定的優位の確立に成功したとは言い難い。

*この問題は「存続の正統性を失った民族はことごとく滅ぼされてきた」大陸的倫理観念の伝統、およびプロパガンダ次元における「世界は人道的正義と平等の理念を回復する為に先天的ナチス民族たる日本人の財産権と貞操権と生命権の停止(相手が日本人なら誰でも略奪と強姦と殺害の自由を有する)に同意すべきであり、これに反対する人間の全てが国際的正義の実践に反対するレイシストとして同様の目に遭わされるべきである」なる主張とも深く関係するしてくる。プロパガンダ次元においては当事者の同意や、当事者も同席した上での公平な裁定など視野に入れる必要はない。一人でも多く世界中にその主張を拒絶出来ない人間を増やせば、それが勝利となる。その実力によって「力による均衡」を生み出す事に成功し続けてきた、さらにはこれからもそれを維持していくであろう日本民族ベトナム民族に対して仕掛けられ続ける「非対称戦(ゲリラ戦)」。ある意味こうした矛盾の究極の形での顕現は「欧米列強に植民地支配の駒として利用され、その後見捨てられて今や滅ぼされ尽くそうとしている」ロヒンギャ族の悲劇に集約しているというべきかもしれない。

ロヒンギャ族と異なり中国の「漢族」や朝鮮半島の「韓民族」は曲がりなりにも自ら「力の均衡」を生み出し得る立場にある訳で、「存続の正統性を失った民族はことごとく滅ぼされてきた」大陸的倫理観念の観点から見ても、その「プロパガンダ次元における反日策動」は明らかにフェアではない。大半の中国人や韓国人とはこの論点からの反撃によって妥協に到達する余地があるのだが(漢族もモンゴル人やチベット人ウイグル人に対しては色々やらかしてるし、韓民族だって例えば東南アジアにおける展開で「先天的ナチス民族日本人」を一方的に弾劾可能な「無垢なる民族」とは言い難い)、そこまで徹底して篩(ふるい)に掛けても「(ロヒンギャ族同様に今や存続の危機に立たされている)北朝鮮、東北軍閥、朝鮮族の悲劇」が「最後まで消えない苦味」として残る。日露戦争(1904年〜1905年)勝利を契機としての満州鉄道(1906年〜1945年)の大陸進出とは、日韓併合(1910年)を契機としての朝鮮軍二個師団増設問題(1906年〜1915年)とは、第一次世界大戦(1914年〜1918年)の裏側で暗躍した寺内内閣の西原借款(1917年〜1918年)とは、関東州(遼東半島先端)と南満州鉄道附属地の警備部隊を前身とする関東軍(1919年〜1945年)とは、間島暴動(1920年、1930年)とは、張作霖爆殺事件(1928年)とは、満州事変(1931年〜)とは一体何だったのか。英国人同様「大陸的倫理観念」から距離を置きたがる日本人にとって、まさしくこうした歴史的過程から決っして目を逸らさない事こそが「日本人としての原罪」を直視する態度なのではあるまいか。
南満洲鉄道株式会社(1906年〜1945年)
二個師団増設問題(1906年〜1915年)
西原借款(1917年〜1918年)
関東軍(1919年〜1945年)
間島暴動(1920年)
張作霖爆殺事件(1928年)

間島暴動(1930年)
満州事変(1931年〜)

五味川純平「戦争と人間(1965年〜1983年)」にも「3.1.事件を契機に正義の味方としての自覚を獲得した朝鮮人の(対日本人限定の)連続強盗強姦殺人魔」なんて概念が登場し、この問題は韓国タクシー業界の対Uber決起集会の現場において「(ただでさえ安月給で生活苦に喘いでいる立場に甘んじているのだから)世界平和実現の為、我々は決っして日本人や中国人の女性観光客を強姦して殺して財布を奪う自由を手放さない」なる匿名の証言があって全世界に報道された事実と表裏一体を為している。
素直に見る世の中。:皆藤愛子さんが韓国タクシーで強姦の危険にあったのは、日常茶飯事で、韓国タクシーの運転手の多くは、前科者が殆んどだった。

http://livedoor.blogimg.jp/kuroiamakitune/imgs/5/f/5f6c7678-s.jpg

*まぁ現実レベルでは国民の割九分九厘までがこうした「民族的感情に根ざした扇動」に乗らないくらいまで民度が向上しても「現地で当人が実際に犯罪に邂逅するリスク」は決っしてゼロにはならない。「だから気をつけろ」という話に過ぎない。問題の主題はあくまで自力では「力による均衡」が生み出し得ない様な「弱小民族の悲劇」にどう対処するかなのである。

いわゆる大日本帝國の江戸幕藩体制解体期、森有礼は「これもしかしたら西洋におけるProperty(財産権)の伝統に鑑みてよろしく映らないかもしれない」と指摘しました。
*「大日本帝國の江戸幕藩体制解体期」…「大政奉還(1867年)」「王政復古の大号令(1868年)」「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「廃債処分(1872年)」「廃債処分(1872年)」「秩禄処分(1876年)」の連続コンボ。

ここで森有礼が注目した「西洋におけるProperty(財産権)の伝統」の大源流にあったのまた、ここでいうフォーテスキューの「王的権力」と「政治的権力」、「秩序構成権力」と「正義構成権力」の鋭い対峙(あるいは「幸福な結婚」)だったのです。

  • ちなみに森有礼を筆頭に、当時の海外日本ウオッチャーが特に力を込めて「いくらなんでもそれはやり過ぎ!!」と警鐘を発したのが廃刀令秩禄処分(1876年)」だった。実際、当時の「士族からの(あまりに性急過ぎる)身分特権剥奪」は士族反乱(1874年〜1877年)を併発してしまう。
    *ただし明治政府はこうした展開を最初から織り込み済み。しばらく前から徴募に着手した鎮台兵によって確実に各個撃破を果たしていく。自力近代化に失敗した他のアジア諸国に見当たらず、日本の明治維新にだけ存在した場面。それは「国家が国民から徴募した常備軍が伝統的支配階層の私兵の反乱を打ち破っていく景色」だったとも。

    *実は幕末期の徳川幕府も同様の軍事革命を試みている。いわゆる「慶応3年(1867年)9月末の兵制改革=旗本への半知上納令と維持費の村請を財源としての幕府歩兵隊などの近代軍創出」がそれ。とはいえ極めて中途半端な形でしか実践出来ず(徳川幕府は全旗本知行と直轄領を合わせても全土の1/3を掌握しているに過ぎず、規模的にも不満があった)、かえって「こんな体制じゃ到底欧米列強に対抗できない」という危機感を高めたことが将軍慶喜をして「大政奉還(1867年11月9日)」という大博打に打って出させたとも。

    *ちなみに、かくして当時の日本人を絶望感から明治維新に駆り立てた「知行召し上げと軍維持費の村請」の積極活用にあえて走ったのが現在の北朝鮮だったりするらしい。①公務員の多くが自活不可能なほど給与を減らされ、グレーマーケットで働く家族に養われている。②軍の各部隊は強制収容所は自活(赴任地の地元経済への寄食)を要求され、それぞれ半独立状態。「将軍職」は世襲制だし、何この末期徳川幕府状態?

  • ところで(「革命戦争遂行の為のジャコバン派独裁」に至る)フランス革命(1789年〜1794年)の原動力となったのは、伝統的農村の解体が生んだサン=キュロット(浮浪小作層)だった。彼らの多くがナポレオン戦争の時代までを通じて恩給によって自作農化。二月 / 三月革命(1848年〜1849年)の産物とでもいうべき「四月普通選挙(1948年)」でルイ・ナポレオン候補(後の皇帝ナポレオン三世)を勝たせる展開を生む。
    普通選挙/男性普通選挙

    *そして普仏戦争(1870年〜1871年)敗戦によって皇帝ナポレオン三世が失脚すると、彼とその配下のサン=シモン主義者達が育てた新興産業階層(「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」)がイニチアシブを握る形で共和制が根付いたのである。

  • ロシア革命(1917)から自然派生的に生まれたソヴィエト(Совет、労働者・農民・兵士の評議会)は(19世紀ロシア文学が活写した様な)「領主が領土や領民を全人格的に支配する農本主義的伝統」が精算される事なく近代化が始まってしまった歴史的展開が生んだ諸矛盾(新興産業階層の育成阻害、農民や労働者や兵士を拘束し続ける前近代的因習)の落とし子。ドイツ革命(1918年)を主導したレーテ(Räte)もしくは労兵レーテ(Arbeiter- und Soldatenrat)はこれを模倣したものだったが、ロシアのソヴィエト運動がヴォルシェビキの手玉に取られた様に、ドイツのレーテ運動もまた(第一次世界大戦開戦当初はドイツ帝国の戦争遂行を積極的に支持した)社会民主党(後のヴァイマル政権中枢)に主導権を握られてしまう。
    ソヴィエト - Wikipedia

    ソヴィエト主要メンバーはメンシェヴィキと社会革命党であり、ボリシェヴィキはわずかな勢力しか持たなかったが、レーニンは「全ての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げ主流派となっていく。
    *「ソヴィエト」はしばしば「歪(いびつ)な近代化」によって労働運動や小作人闘争の経験を持ち得なかった「後進国」ロシアに生じたその代替物と説明される。そうした出自上無政府主義的性格が強く中央集権創出能力が欠落していた力に欠けた事がボリシェヴィキにイニチアシブを握られた主要因となった。

    レーニンはソビエト権力によって打ち立てられた「ソビエト国家」は、有産者階層や官僚によって築かれた出来合いの既存の国家機構を破壊して、立法と法律の執行が選挙で選ばれた人民代表及び彼らによる新しい官僚組織によって行われてその俸禄は水準化され、廃絶された軍隊や警察に替わって労働者や農民の武装によって守られた新たな国家機関であるとしたが、実際には最初から口先だけであった(レーニン自身もソヴィエトのことを「粗忽者」「ぐうたら」などと罵倒する発言を秘密文書に残している)。

    十月革命、内戦を経て全権を握ったロシア共産党ボリシェヴィキから改名)は独裁政党となり、ソヴィエトを蔑ろにする様になる。これに反抗して蜂起したクロンシュタットの反乱においては「全ての権力をソヴィエトヘ」というかつてのレーニンと同じスローガンが、レーニンに対する蜂起のスローガンとして掲げられた。
    クロンシュタットの反乱 - Wikipedia
    * いわゆる「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」に基づく記述。レーニン率いるボリシェヴィキに大衆(ソビエト)蔑視のインテリ気質があった事をまず問題視するのが特徴で、その背後に(限りなくオカルトスレスレの)根深いロシア的反知性主義の伝統を見る向きもある。

    アレクサンドル・ゲルツェンとロシアの風景

    レーテ - Wikipedia

    第一次世界大戦ドイツ帝国の敗色が濃厚になり始めるとドイツ各地において兵士達によるストライキサボタージュが発生するようになった。そして1918年夏頃からドイツ各地でストライキ委員会としてのレーテが自然発生的に結成されるようになってく。

    同年11月4日、キール軍港では出撃命令を拒み、軍によって拘束された水兵達を救出しようとする水兵達によりレーテが結成された。このレーテは「キールの反乱」成功後、全国に散らばり、その先で新たなレーテ結成を援助。レーテによる蜂起が発生すると、各地の政軍指導者は抵抗せずに彼らの主権を承認。こうしてドイツ帝国構成諸邦の君主は退位に追いこまれ、レーテ共和国と呼ばれる新体制が各地で発生する展開となったのである。

    キール軍港の水兵反乱

    レーテ運動は相互に連絡を取り合い、組織化が進められていく。やがてその波は首都ベルリンにもおしよせ、激しいデモ運動が展開された。そして11月9日、マクシミリアン・フォン・バーデン首相はドイツ社会民主党フリードリヒ・エーベルトに政権を委ねる。フィリップ・シャイデマンが共和政を宣言した11月10日、社会民主党と独立社会民主党、ドイツ民主党は仮政府「人民委員評議会(Rat der Volksbeauftragten)」を結成した。ベルリンの労兵レーテはこの動きを承認したものの、独立社会民主党左派の革命的オプロイテ(revolutionäre Obleute)は半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言。一方、ドイツ帝国海軍内に設置されたレーテ「海軍53人委員会」は海軍省ならびに海軍軍令部を指揮下におき、その副署無しではいかなる命令も合法性を持たないと指令した。

    レーテ執行評議会はドイツ各地のレーテに指令し、レーテを州ごと、郡県市町村ごとに再編成を行った。また12月16日にベルリンにおいてレーテの全国大会を開催するよう呼びかけた。独立社会民主党はこの大会によってレーテ体制をさらに強固にし、レーテ体制に基づく国家を作ろうと考えていたが、社会民主党は政府に対して協力的なレーテができるだろうともくろんでいたとされる。実際、レーテ執行評議会は内部対立により12月初頭にはほとんど政治的意義を喪失していた。

    12月16日に開催された全国レーテ大会は、全国から489人の代表評議員によって構成されていた。構成割合は労働者レーテの代表者が405人、兵士レーテの代表者が84人。所属政党別では社会民主党系が291名、独立社会民主党系が90名(うち10名はスパルタクス団系)、25名が民主党系、11名が統一革命団であった。同日には25万名が参加した「すべての権力をレーテに!」と叫ぶデモが行われたが、社会民主党系が圧倒的であるレーテ大会の帰趨は既に明らかだったのである。大会では全政治的権力がレーテ大会にあるとされたものの、大会はそれを国民議会の決定が行われるまで臨時政府に委ね、新設された共和国中央評議会がその監督に当たるという決議が採択された。また国民議会選挙については1919年1月19日に行うこととなった。共和国中央評議会は全国のレーテの代表と定義されたものの、既にその監督権限は事実上形骸化しており、独立社会民主党が共和国中央評議会への不参加を決めた結果、27人の中央委員すべてが社会民主党系で占められる展開となった。また海軍53人委員会の縮小も提案され、可決された。これは社会民主党の主張によるものであったが、一部の水兵系レーテによる53人委員会への反発も背景に存在したのである。

    その一方で軍の首脳が兵士レーテの解散を命じていたという事実が暴露され、また兵士レーテの一部が軍における階級制度を廃止するように要求するという事件も発生。このため社会民主党側も彼らの要求に応じざるをえず「軍における階級の廃止、兵による指揮官の選挙、将校の特権的な地位の排除」を求める「ハンブルク条項」の可決に追い込まれたが、これは軍上層部はもちろんエーベルト=グレーナー協定によって軍との協力を合意していた社会民主党にとっても受け入れられないものであった。ヴィルヘルム・グレーナー参謀次長は政府およびレーテ執行評議会に対してハンブルク条項の実施は困難であると主張し、その実現を延期させている。

    エーベルトは共和国中央評議会との事前協議をほとんど拒否したが、その多くは事後承諾に過ぎなかった。週二回行われるとされていた共和国中央評議会と政府の協議も数回しか行われなかった。軍を動かすのに必要とされていた兵士レーテの同意もほとんど顧みられなくなり、無視、あるいは無力化されるようになっていく。

    独立社会民主党は政府の情勢が社会民主党有利に傾きつつあると判断し、12月24日の人民海兵団事件の解決が不服であるという理由から、12月28日に仮政府から離脱した。そして1919年1月5日には独立社会民主党員の警視総監解任をめぐってスパルタクス団蜂起と呼ばれる暴動が発生した。共和国中央評議会には労働者から和解の要請が寄せられたが、結局何の行動も起こせず、スパルタクス団らは独立を志向したレーテ共和国同様、政府の派遣したドイツ義勇軍によって鎮圧された。
    *ドイツ義勇軍には市民生活への復帰に馴染めず、多くが失業者として鬱屈した毎日を送っていた第一次世界大戦復員兵が、軍事組織の中に安定を求めて入隊した。彼らは『突然起きた不可解な敗戦』とその後の社会の混乱に義憤を感じており、ドイツ社会民主党メンバーで国防大臣だったグスタフ・ノスケ(別名「人殺し乃介」)に誘導されるまま「混乱の元凶と目された」共産主義者への報復に生き甲斐を見出したのである。1920年に公式に解散されるたものの、その多くがカップ一揆1920年3月)に参加して「第二の敗戦」を経験。再び鬱屈した毎日を送る様になったこの層こそが後のナチス台頭の母体となる。
    スパルタクス団(Spartakusbund、1915年〜1918年)
    ブレーメン・レーテ共和国(Bremer Räterepublik、1918年11月6日〜1919年2月4日)バイエルン・レーテ共和国(Bayerische Räterepublik、1919年4月6日〜5月3日)
    ドイツ義勇軍 / フライコール(Freikorps)

    政府内には「レーテ経済を中止させねばならない」「以前はレーテが権力保持者であったが、今は我々(政府)がそうである」という認識が高まり、レーテの解体に向けた動きが始まった。一方共和国中央評議会では、社会民主党員を含めてレーテを存続させるべきであるという動きが活発化。2月24日、共和国中央評議会は全権力を国民議会に委ね、政府の監視から身をひくという「ドイツ国民議会への中央評議会声明」を発表し、政治的権力としての中央評議会の活動は終焉した。

    2月25日、ヴァイマル連合の首相シャイデマンが「レーテを憲法の中に入れるという事は考慮されていない」という声明を行うとこれに各地の労働者が猛反発。3月にはいるとゼネラル・ストライキが発生した。中央評議会内の社会民主党のグループはレーテを各地の経営体と労働者による「労働議会」に発展させ、経済問題に関してイニシアチブを取らせるという構想を持っていた。また独立社会民主党系はレーテによって経営を監視し、現在の資本主義経済を社会主義経済へと発展させるべきと唱えていた。政府は高まる圧力に屈し、3月5日にはレーテを何らかの形で憲法に組み込むことを約束せざるをえなくなる。

    4月5日、政府はレーテが経済分野のみに活動できるという憲法修正案を提示。政府の案では経営体・地区・全国の各レベルに「経営労働者レーテ」、「地区労働者レーテ」、「全国労働者ラート」を設置し、企業家と各レーテの代表者が地区と全国において「地区経済レーテ」と「全国経済ラート」を形成するというものであった。全国経済ラートは政府が経済政策を決定する前に審議を行い、また独自の案を国会に提出できると権限を持っていた。また労働者レーテ、経済レーテには一定の監督権と行政権が委譲されることになっていた。政府の構想は社会民主党によって支持され、ヴァイマル憲法165条として法制化されることになる。この法制化と1920年2月4日の経営評議体法および5月の「暫定全国経済協議会政令」の制定により、レーテは「経営レーテ(Betriebsrat)」として存続する事が決定したが、これには1918年11月9日以降、企業体や経営体の中に結成されはじめていた「企業体の中で自律的な労働者組織を作り、企業体の経営自体にも関与しようとする運動」を追認する側面もあり、従来の職域別の労働組合とは異なる流れを活性化させる展開となった。多くの経営レーテは反労働組合者の中から生まれ、独立社会民主党系の人間が多かった。労働組合と経営レーテの対立は激化し、全国各地で紛争を誘発。憲法と経営評議体法の成立により正式なものとなった経営レーテは、ヴァイマル共和政時代を通じて経済民主主義という理念の元に活動を行ったが地区経済レーテ実現までは至らなかった。ナチス・ドイツ時代の1934年1月20日に国家労働組織に関する法律が成立すると経営レーテ活動は禁止されたが戦後になって復活し、現在でもドイツの企業内に存在している。

  • こうした海外の展開と比較すると大日本帝國の場合(その政治的経験の乏しさにもかかわらず、いやむしろその政治的経験の乏しさがもたらした中立性故に)朝廷が果たした選挙管理委員会的役割がもたらした政治的安定性の重要度が際立っている。ロシア革命が勃発し、ボルシェビキが全権を握るとこれに徹底反抗した「日本の無政府主義者」代表格の大杉栄も「大衆に根ざしてない我々左翼には、天皇どころか公家すら打倒し得ない」なる名台詞を残している。悪名高き藩閥政治もまた、その重要な「顔」となった伊藤博文山縣有朋大隈重信に「(豊臣秀吉を連想させる)国民から気軽に愛されたり憎まれたりする成り上がり者」という側面があった為、欧米ほど「最後には結局、インテリ=ブルジョワ階層が勝つのだ」という絶望感を伴う展開にはならなかった。もちろんそれだけで乗り切れるほど当時の世界情勢は甘くなく、日本は「(政党政治家と財界人が国家経営を投げ出した結果としての)軍国主義化」という悪夢を経験する羽目に陥った訳だが、英国政治史における「王的権力」と「政治的権力」、「秩序構成権力」と「正義構成権力」の鋭い対峙(あるいは「幸福な結婚」)を吟味するに当たり、大日本帝國において「政治的権力」ないしは「秩序構成権力」を構成したのが「公家」だったり「(藩閥政治を権威的に後援した)元老」だったりした歴史的事実を今こそ日本人は思い出すべきかもしれないのである。

    *タイやエジプトやトルコや韓国においては、この「政治的安定性をもたらす(政党政治の不安定さを補う)選挙管理委員会的役割」を軍が担ってきた。とはいえw韓国以外の地域ではそろそろ軍の堪忍袋が切れつつある。それがどういう事か実感する上でもこうした認識が不可欠だったりする。この観点からは(自ら江戸幕藩体制解体に着手した)日本の将軍慶喜(自ら軍人大統領時代に終止符を打った)韓国の盧泰愚大統領の凄味を再評価せざるを得なくなるのもまた興味深い。

ところで、それまで「栄光ある孤立」の立場を貫いてきた英国ですら参戦を余儀なくされたのが第一次世界単線(1914年〜1918年)でした。

栄光ある孤立(Splendid Isolation)

19世紀後半におけるイギリス帝国の非同盟政策を象徴する言葉である。光栄ある孤立もしくは名誉ある孤立ともいわれる。

ただし、この言葉が実際に用いられたのは、1896年1月16日に開催されたカナダ議会において、イギリスは外交的に孤立していることは光栄であり、カナダ自治領はイギリス本国を断固支持するという趣旨で用いられたものであった。当時、イギリス本国は、ボーア戦争で予想に反した苦戦を強いられており、そこへ追い討ちをかけるように発生したアメリカ大陸におけるカナダ以外の数少ないイギリス領であった英領ギアナベネズエラの国境紛争が勃発という状況下で、カナダ自治領のイギリス本国への強い支援のメッセージの一環であった。同時に、これは南北戦争後の再統一を果たし国際的な影響力をつけてきたアメリカ合衆国に対して、イギリス本国がベネズエラと同様に強硬な姿勢を示すことを隣国のカナダ自治領が期待する意図も含まれていたとされている。

この言葉がイギリス本国に伝わると、ボーア戦争の不振とドイツ帝国による積極的な外交攻勢に悩まされていたイギリス本国では、大いに勇気付けられる言葉として受け取られた。その5日後にはイギリスのジョセフ・チェンバレンがこの発言を引用して自国民を鼓舞する演説を行い、更に翌1月22日付の『タイムズ』が取り上げたことから一種の流行語となり、それがいつしかこの時代のイギリス外交を象徴する言葉となったのである。

クリミア戦争終結後のイギリスは、強大な経済力とイギリス海軍を中心とした軍事力を背景にした等距離外交を展開することによりヨーロッパの勢力均衡を保っていた。しかしアメリカ合衆国ドイツ帝国といった後発国の発展により、1870年代頃からイギリスの圧倒的な軍事的・経済的優位にも翳りが見え始めた。更にドイツを中心とした三国同盟とフランスを中心とする露仏同盟が形成されると、ヨーロッパの主要国のほとんどがそのいずれかに傾斜するようになり、イギリスのヨーロッパ外交における孤立が深刻化してきた。

そしてボーア戦争で予想に反した苦戦と消耗を強いられた事により、非同盟政策の前提であるヘゲモニー保持に不安の見え始めたイギリスは1902年、光栄ある孤立を放棄し、ロシアの南下(南下政策)に対する備えとして、義和団の鎮圧で評価を受け、極東においてロシアと対立の深まりつつあった日本と日英同盟を結ぶことにより孤立は終結することとなる。

第一次世界大戦の開戦 - Wikipedia

イギリスは自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーを独立させ、その中立を保証した。イギリスは、フランスとドイツの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。
*イギリスはフランス革命への関わり合い方もまた独特だった。そして、その事が英国ナショナリズムの独自性につながっていく。
フランス革命期のイギリス(1785年〜1820年)

だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていく。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。

こうした経緯からイギリス政府は(第一次世界大戦開始に伴う)ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定したのである。1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに従い参戦した。同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦。

日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本もまたイギリス政府からの要請を受け、連合国側として1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦し第一次世界大戦に参戦した。内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行った。日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告。

既にGreat Game(19世紀中心に展開したユーラシア大陸の覇権をめぐる英国とロシアの戦い)に巻き込まれ、義和団の乱(1900年)鎮圧出動と日露戦争(1904年〜1905年)も戦ってきた大日本帝国にとって「あと一歩」を踏み出す事への躊躇は皆無だったと言ってよいでしょう。
義和団の乱(1900年) - Wikipedia

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/CaptureTianjin.jpg

日露戦争(1904年〜1905年) - Wikipedia

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/9d/d8d0f3909d27f4c445906ec3a5ded2fc.jpg

かくして大日本帝國は太平洋に面したドイツ領を次々と攻略。サイパン獲得によって(グアム諸島を領有する)アメリカと直接国境を接する様になり(「西洋におけるProperty(財産権)の伝統」に真っ向から喧嘩を売ったロシア革命(1918年)に抗すべく派遣された)シベリア出兵(1918年〜1922年)の主力となりつつ、アメリカ同様に大戦特需を甘受。

シベリア出兵(1918年〜1922年)- Wikipedia

http://www.a-saida.jp/images/img/japon_interventy.jpg

かくして総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)が幕を開る訳ですが、この次元においても日本とイギリスは「腐れ縁」の関係にあるからややこしくて…

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…