諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

映画「メッセージ」観てきました② そもそも最近の宇宙人観について。

f:id:ochimusha01:20170619044159g:plain

中国系アメリカ人のSF作家テッド・チャン(姜峯楠)の手になる「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」を原作とするドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、1016年)」。どちらも基本形はいわゆるファースト・コンタクト物なのですが、まずは「何と何が出会う物語なのか」が重要となってきます。

有名なフェルミパラドックスってご存知でしょうか。これだけ広大な宇宙には人類の他にも知的生命体が存在するはずなのに、これまで宇宙人と遭遇することがなかったのは矛盾しているという指摘です。いるはずなのに出会えない。このパラドックスに対する仮説はこれまでたくさん存在してきました。そもそも宇宙人は存在しないという説から、存在したけれども時代が異なっていた、またはすでに地球にきているなどさまざまです。そしてまた新たな仮説が論文で発表されました。それは宇宙人休眠説。

Journal of the British Interplanetary Societyで発表された新たな研究によれば、宇宙人は進歩の末デジタル化しており、そのデジタル化した文明を維持するには現在の宇宙の温度では高すぎるため、より寒冷化する未来まで休眠状態に入っているというのです。デジタル化した宇宙人というのは何とも突飛で、宇宙の温度が高すぎるというのもいまいちピンとこない話...。しかしこれは真面目な研究結果なんです。

 まさかの「楽園追放 -Expelled from Paradise-(2014年)」ネタそのもの…

でも最近の未来ビジョンでは「バイナリ化」でなく「量子ビット化」されてる可能性が高そうです。河原礫「ソードアート・オンライン」シリーズにおけるフラクタルライトみたいなもの? ただこの系統の技術「複製」が困難なのが問題となってる様です。

ソードアート・オンライン - Wikipedia

ベンチャー企業「ラース」高度なボトムアップ型のAIを作りだし、それを無人兵器に軍事転用することを最終目的とした、自衛隊主導の極秘計画の偽装。

フラクトライト(Fluct Light)…揺れ動く光、フラクチュエーティング・ライト(Fluctuating Light)の略称。量子脳理論に基づいて提唱され、「ラース」が観測に成功した、人間の脳神経細胞内のマイクロチューブル内に存在する光量子であり、人間の魂とされる。

量子コンピューターが強力なのは、まさにデータ密度の高さゆえだ。従来のコンピューターが読み込み、保持し、操作するのはビット、すなわち1か0だ。これに対して量子コンピューターが利用するのはキュービット。極微の量子物体は、観察者がいない限り同時に2つの状態(1であり0でもある)を保つことができるという性質に基づいている。

この「量子の重ね合わせ」により、粒子を同時に2つの状態に保つことで、タスクを並行して実行できるため、ある種の演算における処理速度が指数関数的に上がるのだ。演算が速いからといって、Netflixの視聴がスムーズになったり、Excelにイライラしなくなるというわけではない。だが、検索アルゴリズムの実行や、有機物やヒトの脳といった複雑系のシミュレーション速度は格段にスピードアップするだろう。

しかし、量子力学の不可思議さには欠点もある。重ね合わせが許される一方で、量子の状態を複製することはできないのだ。「これを『量子複製不可能定理』と呼びます」と、カナダのサイモンフレーザー大学の物理学者ステファニー・シモンズは言う。たとえば、量子コンピューターがある原子に特定の量子的状態をプログラムして、ある一群の数を表したとする。このとき、同じコンピューターが、別の原子をプログラムしてまったく同じ量子的状態にすることは物理的に不可能なのだ。

そこでシモンズは、量子データを保存するための、回りくどいやり方を提案する。まず、量子データをバイナリーデータに変換する。量子の重ね合わせによって記述された数を、単純な1と0に翻訳するのだ。次に、変換したデータを従来の保存フォーマット、つまりハードディスクドライヴに保存する。この装置は超小型でなければならない。49キュービットの量子コンピュータの量子データファイルは、ひとつにつき動画4万本分に相当するデータ容量だからだ。

このような膨大なデータを保存するため、量子コンピューター開発者は新たなデータ保存技術を必要としていると、シモンズは言う。現在のところ、市販の記憶装置は十分にコンパクトとはいえない。量子ファイルひとつに対し、SSDなら切手サイズの面積が必要になってしまう。

そこで、代替記録媒体の候補として注目されているのがDNAだ。従来のハードディスクは2次元の平面にしかデータを保存できないが、DNAは3次元分子であるため、高さの次元が追加され、単位容積あたりに保存できるデータ量が劇的に増加する。研究者たちは『Science』に掲載されたレポートで、1グラムのDNAに215ペタバイト、すなわち2億1,500万ギガバイトの情報を保存する方法を示した。これだけ圧縮できれば、全人類のもてるすべてのデータをトラック数台に積み込むことさえ可能だ。

しかも、DNAは長持ちする。「1990年代に買ったCDを想像してみてください」。レポートの筆頭著者である、コロンビア大学のコンピューター科学者ヤニフ・エーリックは言う。「多少傷はあるでしょうし、データも正確には読み込めないかもしれません。一方、DNAは情報を非常に長い間保存します。何千年、何万年も昔の骨のDNAでも、極めて正確に読めるのです」

 そういえば物理学者とサイバーパンク文学者の二足草鞋として知られるルディー・ラッカーも「特定の生命体(人口生命体含む)に関する生涯情報の量子ビット」は不可逆的な一方通行の過程で、しかも複製は不可能として描いていました。

ルーディ・ラッカー - Wikipedia

f:id:ochimusha01:20170613061447j:plain

ここで重要となってくるのが「量子ビット化された生涯情報(その人物に与えられた人生の可能性の総和)」なる概念。それは理論上、原則として時間の概念を超越したものでありながら経験(量子力学における「観測」)の繰り返しによって不可逆的変化を遂げていく(そして内的寿命が尽きると死を迎える)性質を備えています。しかしながら、より高次元の「量子ビット」にあっては、こうした「揺らぎ」さえ、あえて決定論的に扱う事が可能かもしれないのです。

  • 非決定論的アプローチ例えば藤子不二雄ドラえもん(1969年〜1996)」においては第一話から「東京から大阪に向かう目的は決定していても、選べる経路は無数に存在する」なる立場が明示的に示されていた。高橋留美子うる星やつら(1978年〜1987年)」を筆頭とする当時のラブコメ作品も「世界の時間軸上の展開は概ね安定しているが、最終的に誰が誰と結婚するかといった個人的問題は揺らいでいる(実際、物語進行によってどんどん変貌していく)」というスタンスをとっていた。

    f:id:ochimusha01:20170619031415j:plainf:id:ochimusha01:20170619031519j:plain
    そもそも「誰が誰と結ばれるか揺らいでる」ラブコメこそ量子ビットの世界そのもの。実際1980年代にはウィリアム・シェイクスピア「お気に召すまま(As You Like It、初演1600年頃)」に登場する「彷徨う男女が出会い、結ばれる森」のエミュレーションを目指した人工知能言語なんてのも存在し、これが日本に紹介された時に「うる星やつら」に置き換えられたりしていた。その「うる星やつら」には「特定のカップルが将来結ばれる可能性が失われる危機を回避する」なんてややこしいエピソードも存在するが「懸命にも」最終回まで「結論」を出さなかったが、逆に「ヒロインは吸血鬼と狼男のどちらを選ぶか?」で興味をつないできたステファニー・メイヤー「トワイライト・サガ(Twilight Saga、原作2003年〜、映画化2008年〜2012年)」みたいに「結論」を出した瞬間に人気を喪失した作品も存在する。その一方で「ロマンス小説の女王」ノーラ・ロバーツは「続編として結ばれなかったカップルの子供達が結ばれるラブストーリーを描き続ける」形で結論を収束させない技法を駆使する事で知られている。

    f:id:ochimusha01:20170619032439j:plainf:id:ochimusha01:20170619033414j:plain


    *そういえば「未来を覗いてしまった」個人の生涯が、その「観測結果」へのフィードバックによってどんどん変貌していくという展開はJ.P.ホーガン「未来からのホットライン(Thrice Upon a Time、1980年)」を皮切りにジェームズ・キャメロン監督映画「ターミネーター1.2(The Terminator1/2、1984年、1991年)は、1984年」ロバート・ゼメキス監督映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作(Back to the Future、1985年〜1990年)」の主要テーマでもあった。ロマン主義(主観至上主義)リバイバル期でもあった産業至上主義(1960年代〜1890年代)にあって「シュレーディンガーの猫(Schrödinger's cat)」は概ねそういう形でイメージされ、そして商業コンテンツとして消費されてきたという次第。

    *だが、実はそれは登場人物の側からしたら「自分の人生にとって何が幸福か自分で決める権利」を奪われた状態に他ならなかったのではあるまいか? そして、そうした「商業的都合による引き伸ばし」は、別の次元で量子ビットの「可能性の内包」を使い果たしコンテンツそのものの寿命を使い果たしてしまう。1990年代に入るとそういう問題も浮上してくるのである。

    *実は「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)と「各企業が国民規模の動員を競い合った」産業至上主義(1960年代〜1990年代)にはこういう「他人の自由が嫌い」という側面で連続性があったとも。

  • 決定論的アプローチ①…実は伝統的にはこうした「可能性の揺らぎ」はノイズに過ぎず、それを完全に除去した向こう側に「人生の心理」が存在するという考え方の方が強かったのである。

    *これはある種の「解像度問題(細部が多少異なっても全体俯瞰像は変わらない)」でもあり、その大源流は欧米におけるスコラ哲学やラテン・アヴェロエス主義の起源となったイブン・ルシュド(1126年〜1198年)の「神の個物知問題(神は「人類の規定」といったカテゴリー創造についてこそ決定論的に関与したが、個別の人格やそれが送るそれぞれの生涯の細部までシナリオを用意した訳ではない)」にまで遡る。ちなみにイブン・ルシュドは「全能のパラドックス」の指摘を通じて非ユークリッド幾何学の登場を予言した人物でもある。
    全能の逆説 - Wikipedia

    *多くのヒッピーがドラッグへの耽溺によって到達しようとした「(インナースペース探索の果てに待つ)桃源郷」もまた類似の発想。ライプニッツの「窓のない単子(モナド)論」における単子(モナド)同様の「個人はそれぞれ自らの内的可能性にのみ従うべき」としたが、当然この思考様式もまた当時が「ロマン主義(主観至上主義)リヴァイヴァル期」であった事と密接に関係してくる。

    *そして密教スンニ派古典思想(及びその影響を色濃く受けた西洋のスコラ哲学)やカバラユダヤ神秘主義)は「その状態を厳密な形で記述可能な言語が存在する」と想定した。そう「量子ビットの揺らぎ」は伝統的には「呼び掛ける声(コンピュータ言語)」「呼び掛けられる主体(CPU)」「呼び掛けに答える世界(コンピューターに接続された様々なデバイス)」に分解されて理解されていたのである。

    *若い頃にサピア=ウォーフ仮説に傾倒したロバート・ハイラインは「完璧なコンピューター言語が完璧な人工知能を生み出す」といった発想に辿り着く。まさしく20世紀版ゴーレム。その一方でポーランドスタニスラフ・レムソ連ストルガツキー兄弟といった共産主義圏のSF作家達はそれを「(既存の言語で記述された不完全な世界観に束縛された)人類の理解が決して及ばない永遠の謎」としてイメージするのを好んだ。

  • 決定論的アプローチ②…1990年代に入るとそれまでニューウェーブSFやサイバーパンク文学を主導してきた作家達が年老いて最新科学についていけなくなり、その志向性が全般的に因果律的決定論とそれがもたらすメランコリックなセンチメタリズムに傾いていく。
    *この問題が「当事者のサバイバル問題」とのみ結びつけられている限り「エゴイズムの煉獄」からの脱却は不可能だった。ウィリアム・ゴールディングの小説「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin: the Two Deaths of Christopher Martin、1956年)」。クリストファー・リーの怪演が印象的な怪奇映画「(Wicker Man、1973年)」。ミッキー・ロークロバート・デニーロが共演したハードボイルド映画「エンジェル・ハートAngel Heart、 1986年)」。そして独特のマゾヒズム美学が作品全体を彩るクライブ・パーカー原作映画「キャンディマン(Candy Man、1992年)」。

    *「日本のラノベ」はこの「壁」を乗り越えた事で「若者向け文学」としての国際的評価を勝ち取っていく。2000年代に入るとその影響はアメリカのジュブナイル小説の世界に飛び火した。

 そしてテッド・チャンの「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」は、ここでいう「決定論的アプローチ②」に新機軸をもたらした画期的作品だったのです。どこが画期的だったかというと…

f:id:ochimusha01:20170620034057j:plain

20世紀末から20世紀初頭にかけて横たわる恐るべき実存不安の暗渠…和製コンテンツの世界でいうと上遠野浩平ブギーポップシリーズ(1998年〜)」や高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE、原作1999年、映画化2000年〜)」から、谷川流涼宮ハルヒシリーズ(原作2003年〜、アニメ化2006年〜)」を経て、かきふらいけいおん!(K-ON!、原作2007年〜、アニメ化2009年)」に至る流れ。

小説「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1999年)」と映画「メッセージ(Arrival、1016年)」の間には、こうした螺旋軌道的意味合いにおけるピッチ1周分以上の「時差」が存在するのです。こうした世界観において「あえて量子ビット的動揺を視野外に置く道を選んだ言語体系」と「あえて量子ビット的動揺を内部に決定論的に取り込んだ言語体系」がファースト・コンタクトを果たすという次第。

f:id:ochimusha01:20170619055456j:plain
量子ビット化された生涯情報(その人物に与えられた人生の可能性の総和)」すら決定論的に眺めるメタ視点が存在する世界。そうした状況下において「個人」はいかなる形で存在しているとイメージされ得るのでしょうか? そもそも個人」の概念自体、存続可能なのでしょうか?