諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【さよなら1980年代】人間を意識改革する筈だった「ニュータイプ」とは一体何者だったのか?

概念化(Conceptualization)とは、何でも概念的(Conceptual)すなわち代数構造Algebraic Structure=(それ自体が特定の演算の結果たる)集合間の演算によって求められる積(Product)の連関関係)の一環として扱える様にする為の変換(Conversion)を意味する便利な概念(Concept)。考えてみれば「無限遠(Infinity)に対する人類(ひいては生物全体)の態度全般」を原始座標群(Primitive Coordinate Group)から出発した数理(Mathematical Thing)によって再把握しようと考えた私の現座のスタンスもまたこうしたアプローチの一環なんです。

 

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*Ontologies(存在論)、Ontological Commitment(存在論的規定)…え?存在論

 ならばズバリ、概念(Concept)とはそもそも何なのでしょう?

まだ概念的に説明されていなかったり、それを言い表すちょうど良い表現がないような特定の現象やものごとなどについて、新しい概念や用語などを作り出して言い表すこと。概念化する能力のことは、「概念化能力」などとも呼ばれる。

どうやら「特定の具体的事象から抽象的イメージを抽出し、それを表現したり操作する過程全体」とでも言い表せそうです。

そういえば1980年代初頭に流された、とあるガンダムのラジオドラマではこの能力を「洞察力とでもいうのかな」と表現して個人差があるとし、それがとりわけ高いのがニュータイプだと規定していました。どうやら公式設定とはならなかった様です。まぁ訓練によってノーマルタイプだって随分引き上げられるスキルでもありますし、ある意味コンピューターの機能そのもの(それ自体が独立した概念として確固とした内容を備えているので、並列存在たる代数そのものを扱うのは苦手)。最近では、そういうのもサイキック的超常能力の一種として神聖視する態度に1980年代っぽさを感じる様になりました。

富野監督は最初から明確な概念像を持っていたわけではなく、当初はあくまでも「戦闘の素人である筈のアムロが、いきなりモビルスーツを操縦して超人的な活躍ができることの言い訳でしかなかった」と語っている(当時は「我ながら凄いものを思いついた!」と歓喜したらしい)。

このニュータイプという観念を使って『機動戦士ガンダム』の後半2クールで「人間の革新論」について描くことを考えた富野監督であったが、そもそも答えとなるような哲学を用意していなかったがゆえに上手く作劇に活かすことができずに困り果ててしまい、本放送時に43話に短縮しての打ち切りが決まった時は心底助かったと感じたという。

こうして『機動戦士ガンダム』の劇中ではその実体を明らかにせずに断片的で抽象的な描写や言及に留めた結果、却って視聴者に強い印象を残すことに成功したのであった(富野監督曰く「上手く逃げ切ったと思った」とのこと)。

当時むしろこの問題にさらに一歩踏み込んで「Sex,Drugs,and Rock'n'Roll」に逼塞的状況の迷走的解決を求めたヒッピー世代の意識と、コンピューターの利用可能性の追求が始まった新世代意識の橋渡し役を務めたのが ティモシー・リアリー博士だったとも。

Q:「Turn on Tune in Drop out」とはどういう意味ですか?

Aティモシー・リアリー博士当人はこう説明しています。

  • "'Turn on' meant go within to activate your neural and genetic equipment. Become sensitive to the many and various levels of consciousness and the specific triggers that engage them. Drugs were one way to accomplish this end.
    Turn on」というスローガンで主張したいのは(「RAVEせよ(自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく)「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。
    *「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至っている。その意味では「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段としては完全に等価。

  • 'Tune in' meant interact harmoniously with the world around you - externalize, materialize, express your new internal perspectives. Drop out suggested an elective, selective, graceful process of detachment from involuntary or unconscious commitments.
    Tune in」というスローガンで主張したいのは(「内面世界(Inner Space)の完成を目指せ」という話ではなく)「新たに掴んだ自らの内面性を表現せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。
    *「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?

  • 'Drop Out' meant self-reliance, a discovery of one's singularity, a commitment to mobility, choice, and change. 
    Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。
    *「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱(Turn out)せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティserendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。また「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。

Unhappily my explanations of this sequence of personal development were often misinterpreted to mean 'Get stoned and abandon all constructive activity.'"

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。 

そう「概念化なる概念」について、その内容自体の精査より「それを実践する身体、すなわちその全過程を制御する哲学の変遷過程」に目が向いたのが20世紀的態度の特徴。士郎正宗攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL, 1989年)」にも人形遣い絡みで「観測対象から得られるデータが観測可能範囲を下回ったら、観測対象をその観測を遂行する自分自身に推移させよ」なる概念が登場しています。

GHOST IN THE SHELL』は、アーサー・ケストラー著『The Ghost in the Machine機械の中の幽霊)』に由来とも言われているが、その『Ghost in the Machine』もまた ギルバート・ライル著『心の概念』において心身二元論を批判する反語「機械の中の幽霊というドグマ」からの引用である。士郎正宗も作品内外で、心身二元論への懐疑を繰り返し注釈している。

さらには以前の投稿で「平安時代末期から鎌倉時代にかけて宗教改革を推進した律宗」にも共通する理念が存在した事を指摘しています。

所謂「コンピューター化」によって失われてしまった側面? 何しろコンピューターとはある意味、ティモシー・リアリー博士いうところの「(プログラミング言語による記述が可能な、要するにアルゴリズムとして抽出可能な範囲でのみ稼働する完全に自立した概念駆動系(Concept Drive System)」の純粋な動作環境=身体そのものだったりします。

アルゴリズムAlgorithm)とは「可算(Countable)」で「直積(Direct Product)可能=演算(Operetion)によって積(Product)が求められる(Productable)」な範囲内における形式的formalな)手続き、あるいはそれを形式的に表現したものを指す。英語表現ではcalculation概念より複雑なcomputation概念を含む。

すなわち、そこには原則として(ドラッグへの酩酊やロックンロールのリズムへの没入のみが最高のプログラミングを可能とするといった)人間の精神や身体の主導性が認められないのです。当時「フラクタル幾何学(Fractal Geometry)」「ホログラフィーHolography)」「量子コンピューティング(Quantum Computing)」「クオリア単数形quale, 複数形qualia」といった諸概念が流行したのは、「縁起の原理によって部分と全体、微小と極大が円環関係を構築する」とする華厳経的世界観の導入によってその制約を超越しようとする壮大な構想の一環でしたが、そういった問題意識の持ち方自体は同時代同じ背景からトレンドとなった(人間の精神や身体の構造模倣に終始した)第二次人工知能ブーム同様、21世紀に直接持ち越される事はなかったのでした(個々の数理や技術としての研究自体は存続し、それぞれのポテンシャルなりの成果を挙げている)。

かかる「矍鑠たる混沌」の存続が不可能になるほどコンピューター合理主義が発達したのが21世紀の特徴だとしたら、そろそろ誰かがこの文脈におけるコンピューター合理主義について語り始めなければなりません…

  • 私のここでの投稿もその一環と言えるかもしれないが、そこで直面したのがこれまでのトレンドに逆行するデカルト心身二元論(Substance dualism)=機械的宇宙論(Mechanism)の復活という問題。

    しかも数理的厳密化を測ろうと試みる過程で現れたそれは、従来のイメージとは方向性が真逆だった。すなわちコンピューター動作原理=代数構造を「身体=独自の定理集合によって閉じた世界を形成する身体」と捉えるなら「(カンブリア爆発期以前には遡れない視覚とそれを処理する脊髄の進化に端を発する上下左右前後の認識に由来する)デカルト座標系問題」や「(概ね等速円運動の物理的観測結果に帰着する)角度問題」や「(概ね「素数族の積」概念で説明される)幾何図形の遷移問題」こそが「心=(あたかもスコラ哲学において機械的宇宙を駆動させる原動力と想像されていた「神の意思」の如き)外挿される超越的概念」の問題として浮上してくるのである。

    ちなみにこうした「身体(代数構造=コンピューター・ハードウェア上で稼働するソフトウェア)に外挿的に与えられる超越概念(物理的観測結果=デバイスからの入力を扱うドライバーとライブラリ)」を全て切り捨てると素数2^n族(特に三角不等式成立前のn=1の段階)がもたらす「半径(Radius)の2倍が直径(Diameter)」「単位元と逆元の存在が群の成立条件」なんて基本概念まで導入不可能になってしまい統計学的アプローチのみが残るっぽいのである…

    ただちょっと待った。正規分布(Normal Distribution)もアレ実は正体は「指数関数の添字に突っ込んだ放物線e^(-x^2)だよねぇ。

    素数2^n族の性質に頼らなくてもモンテカルロ法を用いれば円/球面の面積πr^2/4πr^2のである事自体は確認可能。

    ②そしてそれ自体はz軸あるいは時間軸として対数尺を加えた関数に過ぎない。

    実はガウスはこれを誤差関数として導入すると「(最終的には唯一の結論に到達する筈の)天体軌道の観測結果から測定誤差を覗く為の外れ値の除去が実にうまくいく(対数空間なので収束も急速で、切り捨てた観測結果が綺麗にこのゴミ箱に収まるのである)」事を示しただけでどうやってこの概念に到達したか」ちゃんと明かした訳ではない(ただ当時の物理学者/数学者/天文学者の共通コンセンサスとして「こういう場合に選ばれるべき最も自然な曲線は放物線しか考えられない」といった非自明な認識が存在していた事は十分想定可能だし、現在なお特に状況は変わっていない)。さらにいうとこれに分散(Variance)の概念を追加し、その広がりを線状に扱えるとしたのはまた別の人物で、現在ではその主張自体には多くの疑問符が付けられている(その曲線の内容自体に意味を求めるなら、概念拡張に応じて新たな問題に直面する。かくして以降、因子分析や主成分分析といった有効次元成分を抽出する技法が発展を見た訳である)。

    こうした数々の問題を抱えているにも関わらず現在では正規分布が「事象の地平線性=中心極限定理(CLT=Central Limit Theorem)を表す数式」と認められる決め手となったのは(数々の証明の労苦はさて置くとして)あくまで莫大な量の検証結果。すなわち、それって物理的観測過程そのものなのでは? そもそも、それを言うならモンテカルロ法対数尺放物線だって…

  •  考えてみればある意味当たり前の話。コンピューター(代数構造)側にとって人間における「内観対象としての深層心理の観測結果から得られる唯識論的知識」に該当するのは「バイスから取り込まれる入力データと、かかる観測結果から導出される関数」に他ならないのだから。

  • こうして21世紀に入ると問題意識が逆転する。「(とりあえず密教(仏教的神秘主義)やカバラー(ヘブライ教的神秘主義)やスーフィズム(イスラム神秘主義)が外部デバイスとして想定してきた「仏法の世界」や「神の無謬の知識」が実在するか否かはさて置き)どうして人間は、これまで人間的存在にだけは原則としてこの制約を超越する特徴が備わっていると考えられてきたのか?」。皮肉にもむしろ精神的危機に陥ったのは(最初から外部デバイスへのアクセスの重要性に気付いていた)神秘主義ではなく「あらゆる外部デバイスからの入力を疑い抜く事が真実に到達する唯一の道」と考えてきた無心論者の側だった。彼らは無邪気にも(人間中心主義的立場から俗っぽい表現では「Sex,Drugs,and Rock'n'Roll」によって機能向上が見込める)代数構造の問題解決能力にこそが最終的に全てを解決すると考えていたが、そんな機能など一切備えてないにも関わらず代数構造によって駆動するコンピューター概念の浸透によって容赦無く蹴散らされてしまう様になったのである。

    かくしてルフレッド・コージブスキー1879年~1950年)の「一般意味論(General Semantics, 1919年~1933年,これまで人間が構築してきた象徴体系(言語)ばかりか、梅干を見て唾液が分泌されるような条件反射までも含む意味反応(Semantic Reactions, 周囲の環境におけるあらゆる事象の意味に対する人体全体の反応)の最適化こそが人類の生存にとって最も有益であるとした科学哲学)」に傾倒したヴァン・ヴォークト(1912年~2000年)が「非Aの世界(The World of Null A, 1948年)」や「非Aの傀儡(The Pawns of Null-A/The Player of Null-A, 1956年)」において展開した「一般意味協会が巨大コンピューター上に駆動させる非A哲学」なるギミックも、その影響を受けてフランク・ハーバート(Frank Herbert)が「デューン(Dune)シリーズ(1965年~1986年)」に導入した(スパイスがもたらす陶酔状態下で)ワープ飛行を制御する宇宙飛行士「ギルド・ナビゲーター」やスパコンを凌駕した知性を発揮する人間コンピューター「メンタート」の様な設定もまた、天動説(Geocentrism)や地球平面説(Flat Earth Theory)同様に「歴史的役割を終えた諸概念の掃き溜め」送りとなってしまう。

    かかるジェットコースターの如き急展開に対しSF小説読者はどう対応してきたのだろうか? 私の読書遍歴と重なるので答えは容易に用意出来る。読み手側はヴァン・ヴォークトの「(青春物としても読める)スラン(SLAN,1946年)」や「宇宙船ビーグル号の冒険(The Voyage of the Space Beagle/Mission:Interplanetary, 1950年)」はワイドスクリーン・バロックとして楽しんだが「非A」シリーズにおいて所謂「ジャングル不等式」が成立する事はなかった。アルフレッド・ベクター虎よ、虎よ!(Tiger! Tiger!, 1956年)」の構成同様、読者の脳をオーバーフローさせるギミックの大量導入が特徴の作品に有りがちな読まれ方といえよう。

    そういう側面はむしろ国際的に(言語論や意味論に傾倒した)米国SF作品より英国人作家アーサー・C・クラークの「幼年期の終り(Childhood's End, 1952年)」「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey, 1969年)」の影響を色濃く受けた共産圏のスタワニム・レムやストロガツキ兄弟の「自分と全く似てないエイリアン=絶対他者との邂逅に打ちのめされる人間を描く文学」を描く文学に継承され、1980年代におけるサイバーパンク文学黄金期に結実するも当時から加速したコンピューター科学の発展についていけず、21世紀まで読み継がれるのは、その観点からも十分再読に耐えるJ.P.ホーガンルディ・ラッカーくらいとなったのだった。ちなみに共産圏の「自分と全く似てないエイリアン=絶対他者との邂逅に打ちのめされる人間を描く文学」から欧米の「サイバーパンク文学」への推移過程そのものは(ティモシー・リアリー博士の示唆でかかるジャンルの創設に着手したウィリアム・ギブスンの短編集「ローム襲撃(Burning Chrome, 1936年)」収録の「辺境(Hinterlands, 1981年)」「 ローム襲撃(Burning Chrome,1982年)」や「赤い星、冬の軌道(Red Star, Winter Orbit, 1983年)」や「ドッグファイト(Dogfight, 1985年)」といった実験作品の連続過程を通じて俯瞰的に振り返る事が出来る。

    実際のサイバーパンク文学なるジャンルはウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー(Neuromancer, 1984)」というよりフィリップ・K・ディックが長文の前書を寄せ絶賛したK.W.ジーター「ドクター・アダー(Dr. Adder, 執筆1974年, 刊行1984年, さらにヒッピー文化の影響が色濃い)」により始まるとされる事が多いが、ここにも「人類と全く意思疎通出来ないエイリアン」自体は登場し、テッド・チャンあなたの人生の物語(Story of Your Life, 1999年)」に登場する異星人ヘプタポッドへと継承され(言語論や意味論に傾倒した)米国SFの伝統への合流を果たした。

    一方、フランク・ハーバードの「デューン・シリーズ」も(青春物としても読める)最初の三部作くらいはその設定の重厚さに圧倒されつつ熱狂的に読み耽ったものだが「砂漠の神皇帝(God Emperor of Dune, 1981年)」以降帰還不可能領域(Non-Returnable Area)に踏み込んでしまい1990年代初頭には早くも時代遅れになっていた。ウォシャウスキー兄弟(姉妹)の映画「マトリクス三部作(1999年~2003年)」がその価値観復活に精力を傾けたが、その事が話題になるどころかシリーズ失速につながった事は記憶に新しい。かくしてコンピューター科学の発展に取り残された部分が疑似科学の世界に合流する形である種の絶天地通が果たされ今日に至る。その一方でデューン・シリーズ(特に「砂漠の神皇帝」以降)を特徴付ける「本物の欧州中世っぽい陰謀渦巻く不毛な勢力争い(Clan War)」の部分だけを抽出して整理発展させたジョージ・R・R・マーティン原作のネットドラマゲーム・オブ・スローンズ(GOT=Game of Thrones, 2011年~2019年)」は国際的大ヒットとなった。何がエンタメ業界で成功の要因となるかなんて本当に分からない。

    こうした時代変遷過程にガンダムにおけるニュータイプ概念の様に宇宙に飛び出した人類の意識変容を扱った作品群は立花隆宇宙からの帰還(1983年)」の様なドキュメントを踏み台に幸村誠プラネテス(ΠΛΑΝΗΤΕΣ, PLANETES, 1999年~2004年)」の様なリアルな宇宙開拓ジャンルに継承されていく。かかるコペルニクス的展開期を生き延びた別筋の「時代の生き証人」が神林長平戦闘妖精・雪風(1979年~2006年)」で(まさに上掲の要素全てを備えながら、後に時代遅れとなる要素全てを回避した奇跡)であり、その一切の甘えを削ぎ落とした鋭利な世界観が伊藤計劃虐殺器官(2006年)」「ハーモニー(2009年)」や虚淵玄楽園追放 Expelled from Paradise (2014年)」に継承されていく事になる。こういう形で21世紀版サイバーパンク文学はハードボイルド色を強めつつ再構築される展開を迎えたのだった。

    自身のサイトではナイン・インチ・ネイルズの全作品をレビューしたり『機動戦士ガンダム』の設定の甘さへの批判をしばしば行っていた。贔屓の日本の映画監督では黒沢清押井守を挙げている。

    Wikipediaのこの記述を読んで初めて国際的Goth文化の影響に気付く。そういえばトレント・レズナーとは単なる自作品の影響力だけでなく、その引用された範囲の幅広さでも知られている。

    *こうした独特の雰囲気の抽出と伝播はむしろ音楽ジャンル経由で進行したのかもしれない?「当時のサイバーパンク文化の明るい部分を抽出して継承したのがPafume」と良く言われるが「暗い側面」は同時進行でこういう形にも洗練されて行ったのである。もしかしたら、さらなる大源流は米国西海岸音楽を代表するThe Doors(1965年~1972年)のジム・モリソンの歌声とレイ・マンザレクのオルガンの音色の絡み合いが醸し出す妖しい催眠性毒物(Hypnotic poison)っぽい雰囲気で、それがコリー・グローヴァーの歌声とヴァーノン・リードの超絶ギターに継承されたのかも。

    バンド名はオルダス・ハクスリー18世紀英国詩人ウィリアム・ブレイクの詩の一節から取った書のタイトル「知覚の扉The doors of perception)」に由来する。

    もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える事だろう(If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.)」 

    Pearl Jam「Do the Evolution(1998年)」がずっと心に引っ掛かってるのはレッド・ツェッペリン「移民の歌(Immigrant Song, 1970年)」との歌詞内容の対称性に拠る。

    *当時流行していた(それで横山光輝「マーズ(1976年~1977年)」で地球が吹っ飛ばされたりした)所謂「悲観的ガイア仮説」を詠み込んだ例としては「はじめ人間ギャートルズ(1965年~1984年、アニメ化1974年~1975年)」のアニメ版エンディング曲「やつらの足音のバラード」も有名。

    *オープニングはHard RockやProgressive Rockの影響を受けてたりする。時代性…


    *同時期、ヒッピーの間では人類が人間性を失う遠い未来を歌った米国ガレージ・バンドのゼーガーとエバンズ(Zager and Evans)「西暦2525年(In The Year 2525, 1969年)」が流行していた。

    *かかる(0時点まで遡る)過去と(無限時点で終わる)未来の双方向に茫漠と無限に広がる時間感覚…もしかして世界卵(World Egg)の時空間構造そのもの?

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    *一方、実は「ドクター・アダー」から既に主題が「コミユニケーション不能のエイリアン」からカルト宗教教祖に推移する流れは始まっており、同じK.W.ジーター作品としては「The Glass Hammer(1985年)」に結実。要するに日本では「幻魔大戦(1967年~未完)」、角川春樹日渡早紀ぼくの地球を守って(1986年末~1994年)」、CHAGE and ASKAOn Your Mark(1995年)」オウム真理教サリン散布事件(1994年~1995年)と推移して自壊する黒歴史の系譜。(ヒッピー文化の暗部を継承する)謎のカルト宗教団自体は大友克洋AKIRA(1982年~1990年)」やウィリアム・ギブスン「スプロール三部作(1984年~1988年)」にも正義の側として登場する。それにつけてもRob Zombie「Superbeast(1998年)」の麻原彰晃尊師っぽさときたら、もう…歌詞では明らかに「人類を滅ぼすSuperbeast=尊師」という内容なのにMVの映像だけ見てると「尊師だけがSuperbeastを倒せる希望の星」としか捉えられない感じが当時独特の雰囲気を備えている。ある意味、かかる超越的存在から一切のカリスマ性を剥ぎ取った姿が吾峠呼世晴鬼滅の刃(2016年~2020年)」の悪役鬼舞辻無惨とも。

ちなみにこの種のまとめは、綺麗に整理しようとすればするほど「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」の勢いを強めてしまうものです。浅瀬でパシャパシャ遊んでると、最初は波間から愁傷に「なかまに なりたそうに こちらをみている」だけなのに、次第に勢いを増して迫ってくる様になり、遂には「私がお前の父親だ!!」と宣言してダークサイトに引き摺り込もうとする恐ろしい存在…

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最近だと、つくしあきひとメイドインアビス(MADE IN ABYSS, 2012年)」に登場するボンドルド卿を思い浮かべる人が多いかも。

  • この文脈で北欧Musicが気になり出した。背後にどういう音楽哲学や系譜が潜んでいるのか全く想像がつかない辺りが素晴らしい。

  • あと最近目が離せないのが冲方丁マルドゥック・スクランブル・シリーズ(執筆開始1996年~)」漫画版(2009年~2012年)、「聲の形(A Silent Voice, 2011年~2014年, 2016年劇場版アニメ)」を手掛けて来た大今良時が現在連載してる「不滅のあなたへ(2016年~)」。まさか第一部に「前世編」なる題名がついて学園ドラマ編が始まるとは思わなかった(そういえば吾峠呼世晴鬼滅の刃(2016年~2020年)」の最終回もそんな感じだった。最近の物語文法の共通項?)。次第に明らかになりつつあるのが、もしかしたら「マルドゥック・スクランブル漫画版」「聲の形」では惜しくも捕捉しきれず逃してしまった「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」を挟撃に掛ける狩りがこの作品の主旨かもしれないという展開…ガチで生還が約束されてない「ジャングル不等式」への回帰来た!!

こうしたアプローチ、年末までにどれだけまとめられるやら。そんな感じで以下続報…