諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「反安倍」路線の大源流は「ナチ曽根降ろし成功」へのノスタルジーの産物?

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1930年代におけるナチスの政権奪取。それは結局のところNSDAPと「左翼陣営」が共闘してソ連コミンテルンから「社会ファシズム(独Sozialfaschismus、英social fascism)」のレッテルを貼られたヴァイマル共和制を打倒する事によって達成されたのです。
*ただしこうした展開があくまでヴァイマル共和制のルール占領(1927年)や世界恐慌(1929年)への対処失敗、およびその展開に対する国民の失望と表裏一体の関係にあった事を忘れてはならない。ドイツ近代史の研究家いわく「当時のドイツ国民は、あくまで自ら好き好んで率先して犬肉ソーセージに群がった訳ではない」との事。要するに他に選択肢がないほど、当時のドイツは外交的経済的に追い詰められていたのだった。

歴史のこの時点においては既にヴァイマル共和制も(カール・シュミットが絶賛した)「大統領内閣制」と呼ばれるある種の強権的独裁体制に変貌していた。

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  • 要するに歴史のこの時点に至るまでに既にドイツにおいては議会制民主主義が滅んでいた。既に、手段を選ばぬ党争のみが政治の全てとなっていたのである。

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  • こうした状況に思いを馳せれば、以降の展開は単なるエピローグに過ぎなかった現実が浮かび上がってくる。①「ヴァイマル共和制=社会民主主義支持派」脱落に続いて「神聖ローマ帝国時代の分封状態の回復や労働者自治を指向する)無政府主義勢力」と「(民主集中主義を標榜し、ソ連コミンテルンの指示に忠実に従おうとする)共産主義勢力」に分断された左派が各個撃破され、「伝統的人間中心主義=個人崇拝(Tradisional Humanism)に立脚する指導者原理(Führerprinzip)」を標榜したNSDAPが最終勝者となる。②そうした展開を軍事的に支えてきたドイツ突撃隊(Sturmabteilung:SA)内の左派シンパもまた「長いナイフの夜事件(Nacht der langen Messer、1934年)によって粛清される。
    突撃隊 - Wikipedia
    長いナイフの夜 - Wikipedia

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    *ドイツ突撃隊を見舞った悲劇は、フランス革命勃発前夜よりずっとブルボン家打倒の機会を虎視眈々と狙ってきたオルレアン家がフランス7月革命(1830年)に実動部隊として投入した炭焼党(イタリア語カルボナリ(Carbonari)、フランス語シャルボンヌリー(Charbonnerie))内の急進共和派が、その後六月暴動(1832年)によって一斉粛清された歴史展開と重なる。フランスにおいてはこうした流れが2月/3月革命(1848年〜1849年)に連動した6月蜂起(1948年)、普仏戦争(1870年〜1871年)敗戦に伴う共和制への移行に連動したパリ=コミューン殲滅といった形で繰り返されていく。

ソ連本国と衛星国モンゴルにおける大粛清(露Большой террор、英Great Purge)によって独裁体制を樹立しつつあったスターリンは、こうした「ドイツでNSDAP勝利していく過程=社会民主主義や集団指導型共産主義が敗北していく過程」に大いに励まされたという。

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*その一方で共産主義者はこれ以降、ナチスを絶対悪の象徴としてあらゆる弾劾に利用する様になった。「(身内と思って油断していたら、突如として裏切られ、殲滅され、全資産を押収された)背後の一突き(Dolchstoßlegende)」が与えたトラウマは、それだけ深かったのである。

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*ところで同時期(ヴァイマル共和政を軍事的に支えてきた)フライコール(Freikorps、ドイツ義勇軍)の末裔達、すなわち「ドイツ右翼」は何をしていたのだろうか。千坂恭二によれば「国内亡命」によって生き延びたのだという。

そして「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として。2度目は喜劇として」?

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時代は「(国家間競争が全てだった)総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)」から「(主体を官から民に移しつつ、総力戦体制期の衣鉢を継いで国家総動員を志向した)産業至上期」を経て、いわゆる「(インターネット普及による個人間の直接交流トラフイック増大を背景とする)多様性容認期(1990年代〜)」へ。しかしながら「他人の自由」が何より嫌いな極右や極左はこうした流れについていけず、互いに殴り合いながら「今日なお戦時下」を強調し、世界を一昔前の画一的な時代に戻そうと懸命な努力を続けている様に見受けられるのでした。

 

 そもそも、何故ここまで徹底して「反安倍」なのでしょう? それは、それ以外に彼らを束ねる事が可能な魅力的なスローガンが存在し得ないからとも。どうしてそういう展開になってしまったのでしょう?

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【海外の反応】 パンドラの憂鬱 海外「日本は本当の自由がある国」 大規模な『反安倍』デモに外国人の反応は?

■ 自国の首相を批判するデモを行うことが出来る。
  日本が民主主義国家であることの何よりの証拠じゃないか。
  もし日本人がアベのことが好きじゃないなら、
  こんなに長く首相の座につくことは出来てないはず!ベトナム

■ デモに参加した人たちは、たぶん共産党員じゃないかなぁ。
  どこの国でも彼らは同じようなことをしてるから。
  活動家を装って、若者たちを引きこもうとするの。フィリピン

 ■ あんなデモが出来るんだから、
  日本は本当の自由がある国といえるんだね。ベトナム

■ ドイツ人の俺は、こういうのが大嫌いだ……。
  政治は多くの場面で簡単ではなく、
  厳しい決断が求められるもの。
  一般の人間はそのことを知らないんだよね。
  ほとんどの政治家は無能に見えるかもしれない。
  でも政治とは一体何なのかを本当の意味で知るには、
  政治家になるか、政治に関する書物を沢山読まないと……。ドイツ


■ もしアベさんがヒトラーと同じようなことをしてたなら、
  今頃あのデモに参加した人たちは大変なことになってるね。アメリカ


■ アベさんのことが好きであれ嫌いであれ、
  このデモの結末は素晴らしいものだと思う。
  1万人が現職の首相を批判するために集まったわけでしょう。
  それでも、すべてのデモ参加者が無事に家に帰ることが出来た。
  警察が呼ばれることになるような暴動もなく、
  車がひっくり返されることもなく、
  路上で喧嘩が発生することもない。
  自分とは異なる意見に対する日本人のこういった寛容さは、
  日本という国をよく表していると思うの。アメリカ

①そもそも日本のインテリ=ブルジョワ階層の基礎教養は「大義名分立てを実際の勝利より優先する朱子学に端を発し「大衆を侮蔑し、現実の課題解決より党争における勝利を優先する」講座派社会主義の福本イズムに立脚する。

大日本帝国時代の社会主義運動においてこの路線はロシア革命(1917年)におけるヴォルシェビキの勝利を決して認めなかった「無政府主義の巨魁」大杉栄や「崇高な天皇制打倒理念より現実の経済格差打破を志向した」労農派や「無産政党の糾合に成功した」社会大衆党との激しい対立を経て大日本帝国軍国主義化を礼賛する翼賛運動支持層に「転向」した。平安王朝文学も軍記物も朱子学もその根底にあったのは要するに「士大夫(官僚)の処世術」であり、近世以降はこれに牧民思想が加わり明治時代には内務省が設立された。大日本帝国軍国主義化を主導した昭和軍人も革新官僚も「官僚」という一点においてこの系譜に連なる。彼らの思想的潔癖主義は常に「党争における敗者は死にたくなければ勝者に併合される」官僚主義的現実と常に表裏一体の関係にあったといえよう。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマ。

 ②そして不平士族反乱の失敗から「尊王攘夷志士の末裔達」が自由民権運動に鞍替えしていく過程で産声を上げた日本の「マスコミ」や「野党」の歴史的大源流もまた、確実にこの系譜に位置付けられるとも。
明治六年政変 - Wikipedia
明治十四年の政変 - Wikipedia

③戦後新左翼運動でいうと「少数精鋭の政治的エリートによる民主集中制樹立」を志向した中核派がこの精神を継承。しかし例えば当時その一員だった千坂恭二はこの問題を「19世紀フランスにおける政治的浪漫主義」や「総力戦化した第一次世界大戦のトラウマに端を発する魔術的リアリズム」といった文学運動と結びつけ、むしろそれぞれの時代における政治分野への影響力に制限を加える事によって「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ実現する」ジレンマの超克を試みた。
*こうした思考様式の源流を遡ると「革命家が革命家でいられるのは、革命家として革命の為の革命を遂行している間のみで、この戦いに勝利はない。何故なら革命に成功すればこうした人物は概ね体制側に回り、今度は自らが打倒されるべき標的として狩りの対象と目なるのを免れ得ないからである」と断言したオーギュスト・ブランキの「一揆主義(Putschism)」に辿り着く。皮肉にもこの考え方はこの考え方で「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに対して現在なお通用する重要な処方箋の一つであり続けている。

  • 19世紀フランスにおける政治的浪漫主義運動…後世、アルベール・カミュは「神や王権に反逆する貴族的ダンディズムは、あくまでそれに対峙する自分への関心、すなわちエゴイズムの域を一歩も出ない」とした。
    *一方、マンハイムは「ロマン主義とは認識主体が主観的に経験可能な世界を統括する世界観を想像する事」と総括し、こうした試行錯誤に肯定的意味合いを持たせている。

  • 総力戦化した第一次世界大戦のトラウマに端を発する魔術的リアリズム運動ホメロスイリヤッド」「オデュッセイア」の世界に連なる様な伝統的価値観(英雄主義)は「陶酔の果ての誤解(より正確には正解と誤解を峻別する意義自体が存在しない「三昧の世界」)」においてのみ顕現するとしたニヒリズム
    *一見、当時NSDAP支持者を熱狂させていた「人間中心主義(Humanism=英雄崇拝主義)」を肯定している様でいて「その実現不可能性に対する諦観」から出発しているという点において徹底して醒めていた。ゲッベルスニヒリズムに通じる側面も。

④一方、日本の左翼は1970年代以降「旧左翼と新左翼の大道合流」を背景として急速に「(互いの衝突を回避すべく)慎重に選び抜いたスローガンを連呼する事しか出来ない烏合の衆」へと堕していく。
*そして「ブレジネフ大統領時代のソ連」同様、それは以降の日本の左翼陣営にとって「人類が回帰すべき明るい未来」としてイメージされる様になっていく。

  • おそらく現在の「反安倍路線」の大源流は「中曽根(ナチ曽根)総理時代(1982年〜1987年)」まで遡る。

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    中曽根康弘 - Wikipedia

    1982年11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた。

    • 早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党党員という繋がりがあった。田中派の支持も得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。

    • 行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年まで一国の総理の座にあり、日本歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった。

    従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。

    ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官田中派後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。

    中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。

    • なお、1986年の選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言した。1985年8月の日航機墜落事故において「真実は墓場まで持って行く」と発言した。

    • 一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。

    • 教育改革については、文部省と日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後臨教審の答申は受け継がれ、1988年に内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。これが日教組の歴史的分裂の契機となった。

    • 政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎西義之佐藤誠三郎[注釈 9]など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。

    • 1986年に発生した伊豆大島三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。

    • 一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった。

    首相在任中2度あった総選挙(1983年と1986年)では、現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制であり、2位当選している)。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。

    • 中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲石橋湛山海部俊樹の例がある)。

    ハイテク景気やバブル景気といった好景気の演出で支持率も高水準を維持し、任期後半には自民党史上最多の議席を獲得して自民党にとって初の連立政権を組んだ新自由クラブを吸収して自民党単独政権に回帰、上記の通り「闇将軍」と呼ばれた田中の院政も脱した。

    • 好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却[注釈 10]を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。

    • またバブルにおいて横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネを巡る問題が再び取りざたされるようになった。

    この人物の圧倒的存在感ゆえに1980年代左翼は事あるごとに「何はともあれナチ曽根倒せ!!」と連呼し続けるだけでその政治的役割を果たしたと認められ賞賛され、ある種の黄金期を迎える事になった。
    *彼らが時々使う「一刻も早く滅ぼすべき先天的ナチス」なる表現は「(岸信介佐藤栄作に連なる)安倍晋三の家系に加え「ナチ曽根政権」から「安倍政権」に受け継がれたイメージの連続性が込められているとも。

  • この過程で上掲の様な(左翼陣営内における内部不和の原因となる)千坂恭二の様な「実際の過去の生き証人」は「先天的ナチスの眷属」に分類され、政治活動のメインストリームから排除されていったとも。
    *まさしく「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」のマックス・ヴェーバーが警鐘を鳴らした「(最終的にナチス勝利の道筋を準備する事になった)党争最優先主義の蔓延」そのものとも。

    *そのマックス・ヴェーバーの学説ですら、当時の日本においては「この社会そのものが(ナチ曽根政権に典型的に見られる様に)先天的ナチスであり、それから完全脱却しない限り我々は本来の人間の輪郭を取り戻せない」と歪められた形で言い広められていたのである。

    *しかも実際に「人間の解放」が本格的に始まった21世紀に入るとその無軌道性に戦慄し「やはり我々清く正しいエリート階層の善導が不可欠」とか言い出す。そこに加齢によって自らが保守主義化したという意識は全く伴っていない。欧米の様に日本の「子供世代」も「親世代」をもっと激しく「いつ迄自分達だけが人生の主役でいるつもり?」と突き上げないと、何時まで経っても彼らから「(1970年代に醸成された)子供気分」が抜ける日は訪れないかもしれない?

従ってこの系譜には現状の苦境を打破する為の外交政策も経済政策も一切存在せず、それぞれの勢力が勝手に「全国民が党争における我々の勝利を望んでいる」と勝手に叫んで勝手に一体感を演出して盛り上がる事しか出来ない状況が誕生してしまった次第。
*要するに「家内安全>商売繁盛」の世界とも。

ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の中で「実際にアメリカ独立戦争フランス革命で何が起こったかなど、本当に革命が成功するまで意識される事はない。重要なのは19世紀以降「市民革命は可能だ」なる希望論が世界に横溢する様になった事」と述べている。逆をいえば、彼でさえ「市民革命に対する支持者の熱狂」が本当に革命が成功した瞬間に霧散する儚い夢に過ぎない事を認めざるを得なかったともいえる。そしてその瞬間から「革命の現実」が全てを支配する展開を迎えるのである。

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  • 共通の敵」を見失って一体感を失った革命政府内における壮絶な内ゲバ合戦の繰り返し。もちろん現実的な経済政策や外交政策は全てなおざりにされ、国家の経営状態は「革命前」より遥かに悪化する。そして「強権的な独裁政権による恐怖政治の台頭」が救済に満ちた処方箋として大歓迎されたりする。
    フランス革命(1789年〜1794年)においては政敵全てをギロチン送りにしたジャコバン派が、ロシア革命(1917年)においてはレーニン率いるメンシェビキの迷走に付け込んだヴォルシェビキが、ナチス・ドイツにおいては共産主義者と右翼の粛清に成功したNSDAPが最終勝者となって権威主義的独裁体制樹立に成功した。この方面においては中国やベトナム共産党の様に巧みに立ち回り、集団指導体制への移行に成功したケースの方が希であり、しかも革命原理主義者達から「(ヴァイマル共和制の様に)一刻も早く滅ぼすべき絶対悪としての修正主義」のレッテルを貼られやすい。

    *左翼全盛期の1980年代日本においてはこの問題は些事に過ぎないと考えられていた。まぁ良きにつけ悪きにつけ明治維新に際して薩長同盟を成立させた国だけある?

  • 共通の敵に全国民が一丸となって立ち向かうイメージ」を維持する為の対外戦争の開始と国民総動員体制の樹立。しかも動員した兵士達を食べさせていく為、必然的に「侵略に侵略を重ね続ける事で存続を企図する軍国主義化を余儀なくされていく。この意味合いにおいて太平洋戦争敗戦直後に「新聞社の第一の責務は社員全員を食べさせていく事にあり、それに付帯する一切の社会的責任を負う必要はない」と断言した朝日新聞経営陣の声明は全く正しく、実際最近の朝日新聞もこの路線に回帰しつつある。彼らにとって今はまさに「(自分達だけが生き延びる為の)聖なる最終戦」の再戦中なのかもしれない。
    軍国主義化して際限なく日中戦争の泥沼にのめり込んでいった大日本帝国について、当時の中国人有識者は「日本陸軍においては既に胃袋が頭脳に取って代わった」「巨湖を一匹で飲み干そうとする愚狼の振る舞い」と弾劾している。それは確かに(満州事件(1931年)を引き起こした石原莞爾が理想視した)フリードリヒ大王やナポレオンの引き起こした戦争も確実に備えていた側面だったのである。

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    *どうやらこの問題はロシアや中国内陸部における「進めども進めども景色が全く変わらない」ドイツ人やフランス人や日本人の想像を絶する「退屈なまでに広大な平原」のイメージと深く結びついているらしい。完膚なきまでに「大陸的思考様式」のみが支配する世界。そして、ただでさえ人口がまばらな地域だから焦土戦術が実に良く効く。

  • 体制側となったジャコバン派は「全フランス国民の人道的平等」を達成すべく「王党派新興産業階層の牙城」リヨンやトゥールーズにおいて「霞玉一斉射撃による住民の無差別挽肉化」、「王党派とカソリック教徒」ヴァンデにおいて「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」地獄部隊の住民根絶やし政策を遂行。見事に(貧富格差の原因となる)産業革命導入を半世紀以上遅らせてフランスを「英米に絶対追いつけない二流国家」に叩き落とす事に成功した。まさしくポルポト派や現在の北朝鮮における「普遍的正義」の大源流はこれにあるとも。
    ナチス・ドイツユダヤホロコーストも「経済状況の悪化がすぐさまポグロムユダヤ人をスケープゴートとしたガス抜き政策)に結びつく」東欧やロシアの支配地懐柔政策と結びついてからが本番。これを全て「ドイツの悪行」とし、第二次世界大戦ナチス・ドイツが破れると「ドイツ系市民に対するポグロム(全資産を押収した上での国外追放)」を決行したポーランド共産党に対して西ドイツのブラント首相は1970年「ポーランド首都のワルシャワにおいて、ワルシャワ・ゲットー蜂起(1943年4月)の犠牲者についてはカソリック式に跪いて謝意する一方、さらなる大虐殺を伴ってナチスドイツすら当事者の粛清を余儀なくされたワルシャワ蜂起(1944年8月〜10月)には言及すらしなかった。ブラント首相は帰国してからさらに「ユダヤ人に対してなら幾らだって頭を下げる。だが(占領下においては嬉々としてホロコースト遂行を援助し、戦後その罪の全てをドイツ系市民に押し付けた)ポーランド人だけは絶対に許さない」と追加声明を行っている。韓国政府はどうやら日本政府にこの西ドイツ政府の「毅然とした態度」を見習って欲しいらしい。
    ワルシャワ・ゲットー蜂起 - Wikipedia
    ワルシャワ蜂起 - Wikipedia

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    *こうした「ブラント首相の横暴」に反感を感じるドイツのリベラル層は、反米感情も手伝って「文大統領はきっと北朝鮮に全面屈服して日米に宣戦布告し、朝鮮戦争を清算する歴史的大役を果たしてくれるに違いない」と期待してるらしい。

    *「満州事変(1931年)」の首謀者の一人たる石原莞爾は、二・二六事件(1936年)に際して参謀本部作戦課長として粛軍人事を断行。皇道派と統制派の勢力均衡バランスを崩して大日本帝国軍国主義化を加速した人物でもある。

とどのつまり「(国家間の手段を選ばぬ競争が全てだった)総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)」から「総力戦体制期の衣鉢を継いで民間企業が国民像動員体制の樹立を狙った)産業至上主義時代」への流れが、遂に最終調整の局面に入ったとも。「20世紀的なるもの」が迎えた最後の断末魔?

ここで最も興味深いのはカール・マンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」において「真の進歩主義者=人類の平等は政治や経済といった数値化可能な分野においてしか達成出来ないなる達観に達し他の分野については(他人に迷惑をかけない限り)放置する道を選んだ知的で悲観主義的な人々」と規定している点。しかしながら上掲の様な形で1980年代において黄金期を迎えた日本のリベラル層は、この発想を逆手にとって「人類の平等は全てを政治=経済問題化した党争に勝利する事によってのみ達成される」なる楽観主義的なイデオロギーに到達し、今日なおそれを実践し続けているのです。
カール・マンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」…混迷を極める第一次世界大戦後のドイツ政局において(日本や英国の様に)保守党が躍進可能かもしれないタイミングで執筆されている。ここでもヴァイマル共和政が「社会民主主義の本来あるべき姿から次第に外れつつある」と叩かれているのが、何とも…とにもかくにもルール占領(1927年)への対処を完全にしくじったとドイツ国民に認識された事実は揺るがない。
ルール占領 - Wikipedia

従って彼らは例え「安倍政権打倒」に成功しても外交や経済分野で新機軸を打ち出す事はなく、おそらく最後の一人まで内ゲバで死に絶えるまで「自分達こそ日本国民の代表」なる確信が揺らぐ事もないのでしょう。
*あれ、これって「普仏戦争(1870年〜1871年)敗北によって(皇帝ナポレオン三世の資質に支えられてきた側面の多い聞い)フランス第二帝政(1852年〜1870年)が終焉を迎え(赤旗を奉じる急進共和派が集結した)パリ=コミューンが殲滅されて(三色旗を奉じる穏健なインテリ=ブルジョワ階層が寡占支配する)共和派が最終的勝利を飾っていく過程において(白旗を奉じる)王党派は一体何で手をこまねいていたのか?」と同種の問題? それまで「反皇帝ナポレオン三世」戦略でまとまってきた彼らは、肝心のナポレオン三世プロイセンの捕虜となって廃位に追い込まれると烏合の衆に逆戻り。代表すら満足に選出出来ず、内紛のうちに自滅していったのだった。

「日本人民戦線」派

「安倍だけでなく蓮舫も野田も辞めろ」派

「まず蓮舫や野田の辞任を求める分離派を粛清せよ」派 

 「いつ共産党を選ぶの? 今でしょ?」派

「今こそ山本太郎」「宗教右派のみなさんも駆けつけてくれました」派

 「今こそ自由党、今こそ小沢一郎一択」派

「それでも本命は社民党」派

「女性なら野党共闘を選ぶ」派

*皮肉にも1990年代以降急激に進行した「多様化の波」は、彼らをも大きく変質させてしまった? それんつけても本当に「党争における勝利」のみが発想の全てで政策に関するビジョンなど皆無。実は1930年代ドイツにおける「インテリ中心のスパルタカス団残党」「軍需産業で栄えるベルリン重工業労働組合を中心に組織された革命的オプロイテ」「ソ連コミンテルンの指示に忠実に従おうとするドイツ共産党」も同様に内紛に明け暮れており、その隙をナチスに突かれた形となったのである。

これではまさしく古代ギリシャ神話においてテーバイの創建者カドモスが大地に巻いた「ドラゴンの歯」そのもの。攻撃対象さえ与えれば死んでも死んでも執拗にそれに対する攻撃を続けるが、それを見失うと最後の一人まで互いに殺しあって勝手に全滅するアレそのもの。
*「骸骨戦士」…レイ・ハリーハウゼンが特撮を手掛けた「アルゴ号の冒険(Jason and the Argonauts、1963年)」における映像化が見事過ぎて、今日では「骸骨戦士」としてイメージされる事が多い。ヒッピー運動や黒人公民権運動の「深化」が置き去りにした「自称市民運動家」の迷走を皮肉った「Night of the living dead(1968年)」に起源を有する)ゾンビ同様、ゲーム世界におけるUndead種族のイメージの大源流の一つとされる。

*「2008年韓国蝋燭デモ」に際しても「食の安全を求める穏健な市民運動」が次第に「仕事を終えた後、各々が得物を手にして青瓦台の前に集結して「今度こそ軍事政権を打倒せよ!!」などと連呼しながら機動警察と殴り合う自称市民運動家の成れの果て」に乗っ取られ、韓国内においてすら「韓国でもゾンビが墓場から蘇ってきた」と揶揄されている。最近の日本における「反安倍運動」にも同種の側面が認められる?

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平野耕太HELLSING(1998年〜2009年)」における名台詞「戦いに勝ったとて、それが人間同士の戦いの結果でなければ一体何の意味があろうか」を思い出す。「伝統的人間中心主義(Humanism、英雄崇拝主義)」の最終的到達点はかくあるべき?

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一方、状況の煮詰まってるドイツはさらに先をいってます。メルケル首相の出身地たる東独においてはナチス・ドイツ残党と共産主義者の馴れ合いが冷戦終了まで放置され、この人脈が巨大な反体制主義者のネットワークを支えているとも。

上掲の様な反安倍陣営はマスコミを筆頭に「徹底した洗脳プロパガンダのせいで誰も気付いていないが、日本は既に政治的には先天的ナチス強占下。経済政策も目茶苦茶。このままでは日本人が皆殺しにされる!!」などと焚き付けて回ってますが、かかる(Black PantherやNation of Islam残党に食い込まれた)米国Black Lives Matter運動同様に「デモが必ず暴動化して警官隊との殴り合いや近隣商店街の略奪に発展するのに、それでもなおリベラル層が「彼らは彼らなりに自己表現してるだけだ。むしろ贖罪の機会を得たと思って歓喜して痛みを共有せよ!!」などと声を枯らして擁護し続けてその偽善性を暴露し続けている絶望的状況」は、幸いにもまだまだ日本において、さほど根を降ろしてはいない様です。まぁあくまで「現時点においては」という条件付きの話に過ぎない訳ですが。

こうした海外の状況に憧れるしばき隊やSEALDsの残党などが様々な政治活動に浸透して色々暗躍している様ですが、果たして彼らの考えてる様な「(日本全土が絶え間なき暴動に揺さぶられ続ける)理想の暗黒時代」は本当に日本にも訪れるのでしょうか?
【シールズ】解散が決まったSEALDsメンバーの末路が悲惨すぎるwwwww(画像あり) : NEWSまとめもりー|2chまとめブログ

こうした活動家が、海外に一歩踏み出すと一斉に世界中から「貴様の様な存在が自由に闊歩出来てる事そのものが、日本における表現の自由の横溢の証明だろうが!!」とツッコミを入れられるのが興味深い? 当人は「出羽守(世界標準)」を気取ってますが、どう見ても典型的なガラパゴス症候群…

*沖縄独立問題も究極的には、日韓掲示板上で「日本人同士を殺し合わさせてその数を一人でも減らす事こそが人類平等の理念の回復につながる」と豪語した自称「沖縄独立活動家」アカウントの発言に辿り着く。「独立を支持する琉球人が4%しかいないというが、その数字は残り96%を粛清するだけでたちまち100%に達する」「我々は究極の平和主義者なので自らの手は汚さない。民族的分離主義者は親兄弟や配偶者や隣人達が率先して殺せ。それが出来ない様な似非平和主義者や似非人道主義者も同類として全財産を奪い尽くされ、輪姦され、拷問の苦悶の中で全て死に絶えていく。それが我々の目指す健全な日本人社会」「それでもこれは沖縄決戦で多大な流血を強いた大日本帝国や、全琉球人に精神的自殺を強いる安倍先天的ナチス政権に比べれば遥かに人道的かつ国際正義より賞賛される偉大な振る舞いといえる。琉球民族は、歓喜しながこうした我々の全道に従う」。そういえば漫画「新暗行御史(2004年アニメ化)」において阿志泰(アジテ)が唱えていた「(人間が本来の姿に回帰する)楽園」とコンセプトが重なる。オリジナルはこれかも。

新暗行御史 - Wikipedia

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もはやこんな事を語った匿名アカウントが本当に自称通り「沖縄独立活動家」なのかどうかすら関係ない。確かに極北にこうした考え方が存在し得るという事実そのもの、その根底に冷たく蠢く(米国オルタナ右翼運動においても暗躍していた)「何かに熱狂している様に見せかけて人々を扇動しつつ、その実当人は何も信じてない」ゲッベルスニヒリズムの実在そのものが問題なのである。

*とはいえ、そもそもどうして皇帝ナポレオンは「(苛烈な独立運動の継続で有名な)コルシカ島出身の下級貴族」で、皇帝ナポレオン三世は「(長い亡命生活のせいで)フランス語よりドイツ語の方が上手な英国資本主義の礼賛者」で、ヒトラーは「(祖国の多民族政策で冷飯を食らわされた怨恨を抱えた)オーストラリア人」だったのか? 彼らが選ばれたのは国民が「単なる国内の愛国者には思いもつかない発想の飛躍」に魅了されたからで、まさにその「(異国人ゆえに国民を死なせる事に罪悪感を持たない)発想の差異」ゆえに容赦なき死体の山が積み上げられたのではなかったか? それを「先天的罪悪感から彼らは自ら率先して死にたがっており、その夢を叶える助けをするのは国際正義の精神にも適合している」と考え、その通り実践して何が悪いのか? それが「少しでも自分の非を認めたら一族郎等抹殺されても文句が言えない」「勢力均衡の維持だけが存続の鍵」と考える大陸的思考様式の究極解の一つでもある。

まぁ実際「ホロコースト問題の真の闇は、その主舞台が独ソ戦(1941年〜1945年)開始以降の東欧やソ連領内だった事(むしろ現地人が「ポグロム」の伝統に従って嬉々としてユダヤ人を炙り出して処刑した)」みたいな重過ぎる話題に比べると確かにねぇ…

石田 冷戦後のアウシュビッツの位置づけが、それ以前と少し変わってきている面があるんです。人権侵害の象徴であると同時に、当時の国際社会がそれを阻止できなかったことへの反省があって、今では「繰り返さないために何が必要か」を考えるきっかけとしてアウシュビッツがあります。

ホロコーストのようなジェノサイド(大量虐殺)は今も世界各地で起きていて、それを予防する必要性についても議論されています。

ここで気になるのは、「アウシュビッツを繰り返さない」ために、紛争地域に人道介入といいながら軍事的介入が行われることがあり得るということです。それが次の惨事につながることもある。そんなことを少し思ったりしました。

荻上 「歴史の教訓」は様々に解釈できる。それゆえに、「悪の暴力が拡大する前に正義の暴力で制裁する」といった行為自体が、実は虐殺と呼べる行動と似たような結果をもたらすこともあり得ると。

石田 ドイツ連邦軍が1999年にコソヴォNATOと一緒に攻撃したとき、ドイツは「アウシュビッツを繰り返さない」ことを大義名分にして軍事介入しましたね。これで問題が解決したのかどうか。多くの難民が生まれました。

*とある統計によれば、ホロコーストの犠牲となったユダヤ人は550万人〜600万人となる。そのうちドイツ本国のユダヤ人は50万人程度。要するにその大半は貴族階層によって「(高利貸しを含む)銀行家」「(徴税官を含む)官僚」「(不在地主に代わって所領を経営する)管財人」と便利使いされてきた(同時に貧富格差拡大といった資本主義的矛盾の鬱積が爆発する都度、スケープゴートとして生贄に捧げられてきた)ユダヤ人に対する「庶民の伝統的報復」が「タピュレーティング・マシンを用いた国税調査技術」といった最新技術を有するナチス・ドイツの介入によって加速したに過ぎなかったとも。

「世界史上最大の悪」ホロコーストはなぜ起きたのか / 石田勇治×荻上チキ | SYNODOS -シノドス-

石田 まずこんな質問から始めます。「ヒトラーが政権を握った1933年、ドイツ国内にどれぐらいのユダヤ人が住んでいたと思いますか?」

ナチに虐殺されたユダヤ人は、だいたい550万人から600万人ぐらいと言われています。それを念頭において考えて下さい。ドイツの全人口に占めるユダヤ人の比率はどれぐらいだったでしょう?

荻上 なるほど。殺害された数が多いので、1%とか、3%とかではないだろうと感じますよね。では、人口の15%とか25%くらいかと思ってしまいますが。

石田 ところが、1%未満なんですよ。

荻上 そんなに少ないんですね。

石田 当時の統計では、0.76%でした。だいたい50万人を少し超える程度です。そうすると、先ほど言った、殺されたユダヤ人が550万人以上という数字とだいぶ違いますね。このことからどういうことが考えられますか。

荻上 ドイツが侵攻していく中で、国内だけではなく国外のユダヤ人の方も犠牲になったということでしょうか。

石田 その通りです。ナチ・ドイツは1939年に第二次世界大戦を開始するんですが、最初にポーランドに侵攻して、40年にフランスなど西欧諸国を、41年にソ連を攻撃します。そのように一気に勢力圏を広げるのですが、このとき制圧した場所、特に東欧に多くのユダヤ人が存在したんです。虐殺の犠牲者の大半は、そのユダヤ人でした。だから戦争がなければ、犠牲者はこんな大きな数にはなっていないんです。

ドイツ国外でこんなにユダヤ人が殺されたということは、ドイツだけがホロコーストの実行国であったわけではないことを示しています。ドイツの占領地においては、現地の人もホロコーストに協力しているんです。

荻上 たとえば、通報したりといった仕方でしょうか。

石田 それもありますが、むしろその実動部隊というか、下手人として、現地住民が直接ホロコーストに関わったケースがたくさんありました。必ずしも強制されて行ったというわけではありません。

実は、東ヨーロッパではユダヤ人に対する偏見や差別意識はドイツ以上に根深いものがありました。特にポーランドでは強かったのです。

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*「タピュレーティング・マシンを用いた国税調査技術」…「移民の国」アメリカにおいて19世紀後半以降急速な発展を見た分野。さらなる源流に「史上初めて軍の兵站運用や都市計画の分野に統計学を応用した」ナイチンゲールの活躍が存在する。近代国家登場以前にはそもそも国家なるもの、自らの総人口や国民の構成を正確に把握する手段すら持ち合わせていなかったのである。

*そういえば、実はマックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」も実は発表直後の農業実態調査が明らかにした「伝統的ドイツ農奴の大半は既に棄農して労働者に転換済み。しかもその穴をポーランドからの出稼ぎ小作人が埋める形で再販農奴制自体は存続」なる現実を十分反映しているとは到底言い難い。この「外国からの移民が旧体制存続を可能とする」社会現象についての十分な説明はロシア出身の経済学者アレクサンダー・ガーシェンクロン(Alexander Gerschenkron、1904年〜1978年)による新たな経済モデル登場を待つしかなかったのである。

ガーシェンクロン・モデル

ガーシェンクロンの研究方法上の関心は、経済史研究に必要な概念が現代経済学の成果からどのように構成されるかということと、それに必要な概念を計量化することである。それとともに工業化の前提条件や工業化過程の類型についても関心がよせられている。

「ヨーロッパの工業史は、イギリスの継承的な反復ではなく、その工業化からの組織的逸脱の過程として現われる」と、ガーシュンクロンはいう。彼の研究の目的は、ヨーロッパの工業化の特性を工業化前夜の各国の相対的後進性と関連させて、イギリスの工業化とは異なるヨーロッパエ業化の型をつかむことであり、イギリス的前提条件がないのに、なぜ工業化が開始されたのかを、モデルとして提示することであった。

ガーシェンクロンによると、後進国の工業化は、先進国とは著しく異なるが、その差異は、工業化の速度や構造、「制度的手段」の採用、工業化の理念などに起因している。後進国の工業化は次のような特質を持っている。

  1. (1)後進国の工業化の速度は先進国よりも急速となり、飛躍的発展が可能となり、工業産出量曲線キソクの初期の屈折が鋭くなる。後進国は先進国との技術的ギャップが大きく、先進技術を借りることから得られる潜在的利益が大きくなり、よりすすんだ経済的地位から工業化がはじまる。

  2. 後進国の工業化過程では、構造上、消費財生産よりも生産財生産の方が相対的に早く大きくなる。後進国の発展は、国際競争の環境で生じるとき、最もすすんだ技術を借り入れて行なわれる。十九世紀中頃には、生産財産業に進歩がおこり、その産業は資本集約的であった。これは、後進国がスパート期に生産財産業を導入する傾向を生み、後進国内部の工業労働力の不足が資本集約型産業に比較優位を与えたのである。

  3. 後進国では、産業企業が早くから巨大経営となる傾向が大きい。後進国の製造コストが先進国より著しく高くつく揚合、最初から先進国企業の規模と同じぐらいの経営規模ではじめないと市場で競争しえないので、工業化開始の最低経営規模が後進国ほど大きくなる。

  4. 後進国では、工業化が自主的でないため、銀行・国家・外国政府などの特殊な制度的手段に誘導されて工業化が推進される。

  5. 後進国の工業化は、工業化推進の主体的条件として、特別な工業化の理念、たとえばナショナリズム社会主義が支えとなった。

  6. 後進国においては、工業製品市揚として、また労働生産性の上昇する部門としての農業の経済成長への貢献度が低下する。

  7. 後進国においては、人口の消費水準に対する圧力が大きくなり、消費水準の増加速度が低下する。

ガーシェンクロンは、以上のようなモデルから、現代の低開発国についても、低開発国の政府が、①飛躍的な工業化を求め、②最新の技術や大型のプラントに強い関心をもっており、③民族主義に支えられた工業化政策をとることによって、ガーシェンクロンのいう制度的手段が有効に機能するようになると、主張している。 

*戦後日本のアカデミズムが(統計学導入によりフランスやドイツや日本やソ連における産業革命の急速導入が可能になった理由の説明に成功した)ガーシェンクロン・モデル(後発優位モデル)を「開発独裁を正当化する非人道的モデル」と一蹴し(本国においては、その登場によって歴史的役割を終えた)マックス・ウェーバー・モデル(しかも科学的マルクス主義の立場から人間解放論に再編された「人道的改良版」)に飛びついた事、国際的には20世紀後半におけるベトナムや中国における急成長を説明する為に改めてガーシェンクロン・モデルが再評価される様になった事などを考え合わせると、さらに興味深い状況が浮かび上がってくる。

さて、私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?