諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アートと漫画の違いとは③ 「魔女の宅急便 青春編」はここが駄目?

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色々いわれているタツノコプロ制作「魔女の宅急便 青春編」…

コンセプト的には 「これまで誰も見たことがないパラレルワールド」を目指したとの事ですが「ただのコスプレ演劇」なる辛辣な意見も。

 果たしてどうしてここまで違和感が生じてしまったのでしょう?

 まず日清カップヌードルのCMといったら以下を思い出します。大友克洋「Freedom(2006年〜2008年)」とのタイアップ作品。


良い意味でも悪い意味でも20世紀的作風。そういえば「魔女の宅急便 青春編」でキャラデザを手掛けた窪之内英策「ツルモク独身寮(1988年〜1991年)」も「ストップ!! ひばりくん!(1981年〜1983年、完結2010年)」の江口寿史や「電影少女(Video Girl、1989年〜1992年)」の桂正和と同様に当時から現役の人ですね。

しかしながら窪之内英策当人はそれなりにしっかり「20世紀的世界観」への脱却を果たしてます。問題は製作陣が引っ張る「引き出し」を間違えた事にある?
*連作「年上の誘惑」「その10年後」…これとかちゃんと物凄い勢いでネットで話題になってる。決して「過去の人」なんかではない。

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これぞまさにPicture Power。こうしたパワーが…どうして「魔女の宅急便 青春編」には宿らなかったのでしょう? どうしてこんなにも全ての歯車が噛み合ってないスカスカな感じに? コンセプトワークの段階で明らかに手違いがあったとしか思えません。 

 「舞台を日本に移したのが悪い」という意見もありますが、ただの日本でなく「20世紀の日本」を中途半端に狙ったのが良くなかった様です。

当時は国家間の競争が全てだった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)から、民間こ業が「国民総動員」の概念だけ継承した産業至上主義時代(1960年代〜1990年代)に至る時代。

この頃独特の雰囲気の上澄みをノスタルジックに再現したいなら恥も臆面も一切投げ捨てて21世紀の鑑賞者を「これもはや(揺り籠から墓場まで個人を搾取し抜く)全体主義じゃね?」と不安にさせるくらい徹底して美化し抜かないと、かえって21世紀的感性を突き抜ける結果なんて生み出せないものなのです。
*そう、ちょうど「子供時代の遊び場」と「デートスポット」と「結婚式場」と「墓所(実際に死者が登記されてるホーンテッド・マンション)」を兼ねた「Magic Kingdom」ディズニーランドみたいに。

そういえば凄いのが21世紀的ラブストーリー文法からのこの作品の「再解釈」の広まり。いうなれば「キキは実は決して怒らせてはいけない女だった」バージョン。

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*「 それ吊り橋効果とちゃう。ストックホルム症候群や!!」なるヤマシタトモコドントクライ、ガール(2010年)」の名台詞を思い出しました。

新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

どうして父親は娘から嫌われるのか?

①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

  • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
  • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
  • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

  • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
  • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
  • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
  • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
  • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
  • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

21世紀的ラブストーリー文法においては「トンボさんへの後輩の告白を目撃したキキが気付いたら自分の筆箱を粉々に握り潰してしまってる(魔女だから握力も凄い)→それでやっと自分の本当の気持ち(暗黒面)に気付く」くらいで丁度良さそうなんです。

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*「魔法少女まどか☆マギカ」なら「あたしって本当にバカ」、ハリー・ポッター・シリーズだったら「鎮まれ…鎮まれ、あたしの中のオブスキュラス」くらいのセリフは平気で飛び出してきます。若者自身こそが「爽やかなアオハルなんて嘘っぱち」という現実を知り尽くしてる?

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*ある意味、映画「ブレードランナーBlade Runner、1982年)」におけるハードボイルド探偵の「俺に続いて愛してると言え」なる名台詞の性別逆転バージョン?

*そしてそれって実は黒澤明監督映画「「羅生門(1950年)」における「羅生門(1950年)」の「頼むから好きと言ってくれ。でないと俺はお前を殺してしまう」なる名台詞の性別逆転バージョンでもある?

黒澤明監督作品「羅生門(1950年)」杣(そま)売り(志村喬)の証言

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多襄丸(三船敏郎)「俺はこれまで悪念に悩まされると、その悪念に命ぜられるままにしてきた男だ。それが一番苦しまない方法だと信じてきた。しかし今日は駄目だ。お前を手に入れたが、俺はますますお前が欲しくなるばかりだ。ますます苦しくなるばかりだ。頼む、俺の妻になってくれ。洛中洛野にその名を知られたこの多襄丸が、分かって両手をついて頼む。俺はお前がそういうのなら、この渡世から足を洗ってもいい。お前一人贅沢に暮らせるくらいの金銀は隠してある。いや、その様な汚れた金銀は好まぬというのなら、汗水垂らして働く。物売りに身を落としても、お前一人には苦労はかけん。お前が俺のものだと決まりさえすれば、俺はどんな苦労も厭わん。な、頼む。俺の妻になってくれ。頼む、もしお前が嫌だと言ったなら、俺はお前を殺すほかない。頼むから俺の妻になるといってくれ!! 泣くな。泣かずに俺の妻になるといってくれ。言わんか!!

女(京マチ子)「(それまで泣き崩れていたのに、突然すくっと身を起こし)無理です。あたしには言えません。女のあたしに何が言えましょう(短刀を手にして縛られた夫に駆け寄り、縛めを断ち切った後で再び泣き崩れる)」

多襄丸「わかった。これを定めるのは男の役目というんだな(剣の塚に手を掛ける)」

夫(森雅之)「待て、こんな女の為に命を賭けるのは御免だ。二人の男に恥を見せて、なぜ自害しようとせぬ!! 呆れ果てた女だ。こんな売女、惜しくはない。欲しいというならくれてやる。今となってはこんな女より、あの葦毛(の馬)を盗られるのが惜しい」

女「(呆れ果てて立ち去ろうとする多襄丸に向かって)待って!!」

多襄丸「来るな!!」

夫「(再び泣き崩れた女に向かって)泣くな!! どんなにしおらしく泣いてみせても、その手に乗る者jはおらぬ!!」

多襄丸「よせ。未練がましく女を虐めるな。女というのは所詮、この様にたよりないものなのだ」

女「(突然笑い出す)頼りないのはお前たちだ。(夫に対して)夫だったら、なぜこの男を殺さない? あたしに死ねという前に、何故この男を殺さないのだ? この男を殺した上で、あたしに死ねと言ってこそ男じゃないか。(多襄丸に対して)お前も男じゃない!!(破裂したかの様な笑い声を炸裂させる)多襄丸と聞いた時、あたしは思わず泣くのを止めた。このグジグジしたお芝居にウンザリしていたからだ。多襄丸なら、この私の救い様もない立場を片付けてくれるかもしれない。そう思ったんだ。このどうにもならないあたしの立場から助け出してくれるなら、どんな無茶な、無法な事だって構わない。そう思ったんだ。(再び破裂する様な笑い声)ところがお前もあたしの夫と同じで小利口なだけだった。覚えておくがいい。女は何もかも忘れて気違いみたいになれる男のものなんだ。女は腰の太刀に賭けて自分のもにするもんなんだ(二人が剣を抜いいて対峙したのを見て再三、破裂する様な笑い声)

ZEN in TECHNICOLOR (From the masterpiece ‘Rashomon’, directed by Akira...)

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*20世紀から21世紀にかけては 女子のスローガンが「I need hero to save me now(今すぐ私を助けて、王子様!!)」が「私の都合の良い時に、都合の良い形で私を助けてくれる王子様なんて実在しない」なる諦観と「自分にとって何が幸せかは自分で決める(実は竹宮ゆゆことらドラ!(原作 2006年〜2009年、アニメ化2008年〜2008年)」の台詞)」なる決意を経て「I'm the Hero of this story. Don't need to be saved(この物語の主人公は私。誰からも救われる必要なんて存在しない)」という結論に至った時代でもあった。まさしく1970年代までの新左翼/ヒッピー運動の家父長的権威主義への反感がウルトラ・フェミニズムを発祥させ、その全体主義的価値観への反感がさらに「多様化」を重視する第三世代フェミニズムを台頭させる時代の流れそのもの。

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*そういえば「帝国の逆襲(Star Wars: Episode V The Empire Strikes Back、1980年)」段階では、カーボン・フリーズされる直前のハン・ソロ船長の「チューバッカ、これからはお前が姫を守れ」が女子の間で名台詞として評価されたもの。これが21世紀に入ると「パパは元気で留守がいい」に変遷したり「主夫」まどかパパが理想視される様になるのです。思えば遠くに来たもんだ?

*そもそも「トム・リドル(ヴォルデモート卿の前身たる少年)は私!!」「(恋心が暴走して闇落ちしてしまう)美樹さやか/暁美ほむらは私!!」「鎌田君(「シン・ゴジラ(2016年)」におけるゴジラの幼生体)は私!!」「オブスキュラス(先天的魔法能力が過剰過ぎる子供の暴走形態)は私!!」などと平然と連呼して来た21世紀女子にとっては「私に続けて好きと言って」とか「お願い好きと言って…でないと私、きっとトンボさんを殺しちゃう!!」と叫んでしまうくらいでないと自己同一視の対象とはなり得ないのかもしれない。X-menシリーズにおいてミュータントである事が必然的にそうした側面を含む様に。ハリー・ポッターシリーズにおいて「魔法使いの血筋」である事がそうした側面を含む様に。

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ここまで踏み込むと宮崎駿監督「魔女の宅急便(1989年)」の原作でもある角野栄子魔女の宅急便シリーズ(1989年〜2009年)」がどういう作品だったかについても触れずにはいられません。実は原作におけるキキはまさしく「駄目男製造女」そのもの。魔女の間には「生まれつき異質な魔女を好きになってくれる男性なんて生涯独自の浪漫を追求し続ける享楽的な変わり者ばかりで、そこは我慢しないといけない部分」と割り切る伝統的諦観が存在し、キキもそれを疑う事なく盲目的に継承しているという21世紀に通用させるにはちょっと厳しい裏設定
*原作には黒猫ジジの「人間の男っていつも格好つけるんだよな」「人間の女ってさ、いつも簡単だよな」なる酷評も登場する。こういうのも20世紀的というか、1980年代的?

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*「伝統的諦観」…アニメ版未登場のキキの母親と父親の関係も似た様な感じで、その構造は別の宮崎駿作品である「崖の上のポニョ(2008年)」におけるグランマンマーレ(海の神秘そのもの)とフジモト(地上の人間界を憎むあまりそれを滅ぼそうと計画しているマッド・サイエンティスト)の関係、「風立ちぬ (2013年)」における堀越二郎と里見菜穂子の関係などでも繰り返されていく。「ピーターパン・シンドローム(1983年)/ウェンディーズ・ジレンマ(1984年)」で覚醒し「誰にも頼らず生きる自律的な女」ティンカー・ベルを理想視する様になったフェミニストなら裏側に「女性としての自尊心が未熟な故に、同様に未成熟な男性と共依存関係を構築しようとする卑屈な態度(まぁ要するにそれが21世紀でいうところの「駄目男製造女」という事)」を見て取る事請け合い。 

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例えばその駄目男製造女」っ振りは以下の様なエピソードに典型的な形で現れます。

キキはまだ赤ん坊のサアさんの面倒を見ながら新聞を売って暮らしているマアさんから「そろって合唱する珍獣ウタウモノを探して消息を絶った夫の発見家ガンタさんを探し出してサアさんの写真を渡す」仕事を受ける。マアさんからは「魔女なら私の夫を石にしてくれないかしら? もう何所へも出掛けられない様に」と愚痴られる一方で、捜索の助言を求めた「飛行倶楽部」のトンボさんは「ガンタさんは浪漫を追い求める男の鑑!!」と勝手に感動して「そんな人に会いに行けるなんていいな。羨ましいな。僕にも魔女の素を分けてくれない?」と言われてすっかりむくれてしまったキキ(私が魔女として継承したのは、飛行能力と普通の人間からの依頼は、それが悪意や虚栄心の満足に由来するものでない限り何も断らないという処世訓だけだっちゅうの!!)。トンボさんの助言に従って星屑群島の指輪状の孤島を探し当て、発見者ガンタさんと無事邂逅を果たすも…

ガンタさん「夜と朝の境目に一瞬だけ聞こえる宇宙の合唱って御存知ですか? それがウタウモノには聞こえるらしいんです。僕はウタウモノが地上の生き物全てを代表して世界の遙か向こうに返事してくれてる気がしてるのです。それをマアやサアにも、そして出来ればもっと大勢の人達に聴かせてあげたい」

キキ「トンボさんも、ガンタさんも、人と同じではまるで生きてる意味がないとか、見知らぬ世界の開拓者になりたいとか、そんな事ばっかりいってる。気になるのは自分の事だけで、私とか奥さんとか子供はみんなおいてけぼり。本当に男の人って気楽ねぇ…」

それでも「だがそれがいい」とも思ってしまうキキ。もはや末期症状? 

*ちなみに20世紀とは21世紀女子より「この作品において男とは好き勝手放浪生活を送り、家に金も入れず子育ても手伝わず「種付け」の為にのみ帰ってくる存在」と酷評されている鳥山明ドラゴンボール1984年〜1995年)」の全盛期でもある。だから国際的人気を獲得したという辺りが何とも…

そしてキキとトンボさんが出会うエピソードがこれまた酷い。アニメ化されなかった所謂「水着回」なのですが、トンボさんは突如海難事件に巻き込まれたキキから商売道具の箒を盗み出して請け負った仕事を危険にさらした上に(危うく人命が失われる所だった)自分で飛ぼうとしてその箒を破壊してしまうのである。そんな状況を「僕も飛びたかったんです!!」の一言で許してしまった時点からキキの「駄目男製造女人生」は始まったとも…

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まぁその一方で「魔女が黒い服しか着ないのは、そこにこの世の全ての色が含まれてるから。昔から人の願いを可能な限り受け容れようとしてきた象徴なの」「昔の魔女には呪い専門の人もいたみたいだけど、呪いだって色々。切ない呪いだってあるかもしれないじゃない。どれがいい心から出たものか、どれが悪い心から出たなんてなかなかわからないと思う。誰にもそれを決める力はない。だから自分で満足出来るものをつくって、人に喜んでもらう事を考える様になった。つくるって不思議。自分がつくっても、自分がつくってないのよ」「魔女が人を思い遣る心を失ったら黒いドレスしか残らないの」なんて断言するシッペ返しとかも含まれてるのが原作版。そしてこうした暗黒面が21世紀に入ると「魔女化/悪魔化する美樹さやか/暁美ほむら」のイメージ形成に繋がっていくのです。
*21世紀に入ると価値観を逆転させて「愛、それは呪いより深くおぞましきもの」なんて観点も出てくるのである。そういえばニール・ゲイマンコララインとボタンの魔女(Coraline、原作2002年、映画化2009年)」も主題はこれで、「パラノーマン ブライス・ホローの謎(ParaNorman、2012年)」に至っては「魔女の呪いの恨解」が物語そのものを推進させる原動力に。

最近ではテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your Life 、1999年)」における「パパは娘の私のおっぱいが膨らみ出した事に勝手に打ちのめされてるのよ」「同世代の男の子達がどんなものか私は知らないですって? 知ってるわよ、それくらい」「どうして有りのままの私を受け入れてくれないの?」といった「娘」の名台詞が高く再評価されています。
*映画版「メッセージ(The Arrival、2016年)」ではあっさり削除されてしまいまったが。まさしく「娘の私は、いつまでパパの成長を待たないといけないの?」の世界?


*そもそも「疾風怒濤期の少女としての魔法少女」のイメージの大源流は1970年代まで遡る…まさかのグループサウンズ全盛期の珠玉の結晶ですよ?

*そういえば当時はタツノコ・プロ自体がこんな感じ。何時の間に牙を抜かれてしまったの?


*そしてこうした一連の流れがルーカス・フイルムのクレームによって黒歴史として葬り去られてしまったこの領域に到達する。何故か松本清張原作映画「霧の旗」と同時上映だった「惑星大戦争(1977年)」。そして深作欣二監督映画「宇宙からのメッセージ(1978年)」…

*まさにスペース・オペラ、まさにアメコミの世界。実際この作風はアメコミにも強い影響を与え、特に「科学忍者隊ガッチャマン(1972年)」の「白鳥のジュン(Jun the Swan)」はスインオフ作品が量産されるほど大量のファンを獲得したという。ちなみにここまで見せ放題なのは多分きっとパンツじゃない?

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こうした状況を踏まえると「魔女の宅急便 青春編」が回顧しようとした「20世紀的青春」の「目黒のさんま的貧弱さ」がどうしても目につくという次第。
落語「目黒のさんま」

お殿様は、親戚のおよばれでお出掛けになりますと「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず秋刀魚を注文した。

親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。このように脂が多いものをさしあげて、もしもお体に触っては一大事と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった秋刀魚を出した。

「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか?」

脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚がおいしいはずがありません。

「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」

日本橋魚河岸にござります」

「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」

 どうやらお後がよろしい様で。

そして企画第二弾「ハイジ編」ではこうした違和感がさらにエスカレート?